カグラバチの二次創作です。氷の肌の女の救済ルート? のようなものになっています。『ショーシャンクの空に』を好きな希望人間のハクリ君が、氷の肌の女にどうにか希望を持たせるという話です。一話完結です。挿絵がちょっとあります。

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原作のIF的な物語になります。所々独自設定があります。
また挿絵があります。ない方がいい方は右上の閲覧設定から、もしくはメニュー項目から、挿絵表示を「なし」にすると表示されなくなります。


ハクリ君が『ショーシャンクの空に』を見ていた世界線。

『”──再開できるといいが”』

 

 何年前か忘れたけど、とにかく子どもの頃、金曜ロードショーでやってた映画を、薄型じゃなかった頃のテレビで見た。洋画だなと思いながら見ていた。

 

 タイトルは、ショーシャンク。

 

『”太平洋が青く美しいといいが”』

 

 その時俺は不思議な気分になったのを、今でもよく覚えてる。あまり映画に込められた思いとか意味とかを深く理解できなかったけど……初見は子どもだったし。あの時は確か『この映画は多分、人間のあーだこだーだ……とにかく素晴らしいもの、を語ってるんだ』くらいで済ました。でも、そう、その中の一つの台詞。あれが非常に印象的だったことだけは、ちゃんと覚えてる。

 

『”俺の希望だ”』

 

 いいものはけっして滅びない。

 

 なんだかいい台詞だ。ふと思い出しては、心に刻んで、また記憶から思い起こせるようにしてる。何度も見返した今でも、この言葉を思い返す時は、すごく新鮮な気分になる。

 

 いいものは、決して滅びない。ここでの”いいもの”は”希望”を指している。

 そうだといいなと思っている。実際そんなことあり得ないだろうとは思ったりもするけど、それでも”希望”はいいもの”だ。だから”絶望”に亡くなることなく、生きて欲しいと思う訳だ。

 

 まあ何にせよいい映画だ。このショーシャンクは。

 

『“アレン・グリーンを偲んで”』

 

 再開した親友同士が抱き合って、海沿いに新たな歩みを始め……エンドロールが、流れ出す。

 

 そこで、映像を停止させた。眼が熱くなってしぱしぱと瞬きを繰り返した。

 2,3メートル離したテレビの電源を消し、ソファーで大きく伸びをする。欠伸だ。頬を伝うほどの涙じゃないが、目の奥の方がいつも以上に潤っている。ティッシュを取り目に当てた。

 

 そうしてできたゴミを、部屋の隅に置いたゴミ箱へ投げ入れようと計画する。距離はそこそこある。丸めて形を作り、固定化させないと空中でティッシュが広がって、大きな抵抗を呼んでしまう。

 

 しっかりと丸めた。後は手首をうまく使って投げればいい。ゴミ箱は四角。背後には壁あり。最悪壁に当たればいいやと、思い切り投げる。

 

 そして、放物線を描いたかどうか暗くてわからないゴミは、ゴミ箱手前で失速した。俺は慌てて呟く。手をきょうだい達のようにかざして、力を込めて。

 

「──”威葬(いそう)”」

 

 ゴミは地に堕ちた。

 

 俺は俺の手を見た。手には「て」と、馬鹿みたいな文字が浮かんでいる。何の変哲もない手だ。何の期待もできない手だ。はっと笑って、ソファーにいっそう深く腰を沈め、天井を見上げた。

 

「……自由、か」

 

 俺とは、てんでほど遠いな──。

 

 そう。後、自由。『ショーシャンクの空に』はそれについての映画でもあった。希望と自由は密接に絡み合っている。少なくともあの映画では。アンディーは、きっと不自由を絶望と感じて、自由を希望と感じていた。

 

 ただ一ついうと、アンディーが自由を希望と感じることができたのは、彼が不自由になったからだ。刑務所入りしなければ、自由を当たり前に思って死んでいっただろう。どん底に落ちたからこそ、彼にとって自由が、希望が眩いものになった。

 

 じゃあ、今不自由な俺は、妖術を使えない不自由なできそこないは、いつか、自由に──

 

「伯理。入るぞ」

 

「……! はい、父さん……! 何か……?」

 

 ノックに気づかなかった。がちゃりと開いたドアから、一人の男が入って来る。鋭い目つき。髪は俺と同じ白。型はオールバック。雲のような髭をたくわえていた。

 

 父親だ。

 

「薄暗いな。明りをつけろ」

 

「はい……ごめんなさい、父さん」

 

 これは注意だったのか、命令だったのか。どちらか判然としないまま、俺は電気をつけに立ち上がった。

 

 ぱっと部屋が明るくなる。部屋の全貌が明らかになる。この洋室にある家具は非常につまらないものだ。机に、タンスに、テレビに、ベッド兼ソファーに、ゴミ箱。床には絨毯もない。ただ置物はある。転がったティッシュとか。

 

 父さんの方を見る。普通の顔だ。いつも通りの顔だ。何も期待していない、何の感情も向けていないと伝わってくる顔だ。

 

「さて、明日からお前に倉庫の商品の面倒を見てもらおうと思ってな。仕事は任せているが、『楽座市』まで時間もある。まだ暇な時期だろう」

 

「はい。大丈夫です……」

 

 まだ成人していないが、やらせてくださいと頼んだら任せてもらえた仕事はいくつかある。当然、戦闘系ではない。最近はもっぱら各所への連絡を任せられている。妖術師に依頼するとか、商品運搬を裏の連中に頼んだりとか……まあ雑用だ。

 

「任せるのは“蔵”ではなく“倉庫”の商品だ」

 

 そう言って父さんは何枚かの写真を懐から取った。そして俺に渡す。十数枚はあった。俺はぱらぱらと確認する。

 

「……?」

「ああ、それか」

 

 一枚。目についた写真があって手を止めた。

 その写真に映っていたのは、白い肌で、髪に所々白いメッシュが入っていて、目をずっと下に向けている女だった。写真に映るのは上半身だけだが、顔や肩に薄氷が張ったような模様が……いや、実際に薄氷があるようだ。

 

「この商品は特殊だ。体から常に冷気を発している。制御もままならんから、別の商品と同じ場所に置くわけにもいかん。だから倉庫の別部屋で隔離することになった」

 

「その面倒も含めて、役目を俺に……?」

 

 この確認は何のためのものだっただろう。少なくとも不安から口をついて出たものじゃない。できるできないで言えばできる。戦闘は一切関わらない仕事だ。でも、普段の雑用よりはずっと重たい責任がある。商品は楽座市の要だ。

 

「ああ。妖術は関係のない仕事だ。ただ商品たちへ定時に餌を運ぶ。それと自死させないように注意する。たったこれだけの仕事だ」

 

 それは、なるほどただの人間でも容易にこなせる。妖術師か否かは関係ない。

 

「やってくれるな」

 

「はい……もちろん。喜んで……」

 

 そう返すと父さんはにこりと微笑んで、「詳細はこの紙に書いてある」とだけ告げて、部屋から出て行った。扉は閉めて行った。

 

「……」

 

 俺は、とても疲れてソファーへ倒れ込んだ。どさりと揺れる。天井を見上げた。

 父さんと向き合ったのはいつぶりか。父さんにどこか恐怖してから何年か。あんな目を向けられるようになったのは、何歳のときからか。

 

 反抗期は、そういえば一度も来なかったな。

 

「やらなきゃな……」

 

 俺は手渡された紙と、商品の写真を机に置きながら、明日からの予定を確認し始めた。

 

 

 

 漣家は『楽座市』というオークションを二百年ほど続けている大きな家だ。

 

 ただ普通のオークションじゃない。闇のものだ。だから人間とか、やばいものも普通に出品される。そんなことやってる家に生まれた子はまあ普通には育てられず、幼少期から妖術の訓練とか、家訓は”何よりも楽座市を重んじる”だとかを教え込まれる。

 

 俺はそこに生まれた漣伯理(できそこない)。やることといったらもっぱら雑用だ。掃除とか、方々への連絡係、発注、輸送、その他もろもろ。まあ誰でもできるものをやらされている。映画見て、触発されて「何かさせてください」と頼んだら、こうなった。最初のころは「何かレッドみたいだ」なんて思ったりもしたが……。まあ期待通りにはいかない。

 

 だから俺は何だか、不思議と心がそわそわしていた。今日の仕事はいつもと違う。勿論きょうだい達と比べたら、何て責任が軽くて、意味の薄い役目だろうとは思うけれど、それでも父さんが俺を信頼して、頼んでくれた仕事だ。だからそれが嬉しくて、精一杯役目を果たそうと意気込んでいて……何だかそわそわしてる。

 

 早朝、俺は倉庫へ向かっていた。

 

 漣家の邸宅から数百メートル離れた倉庫は高床式だ。“蔵”に入る前の商品はこの倉庫で一時保管される。何でかは知らないが、たぶん一人ずつやるより、一気に蔵へ登録した方が楽なんだろう。

 

 歩きながら汗を流す。しかし八月は暑い。気温が“あつい”は暑いと表現されるのが一般的だろうが、今日(こんにち)ばかりは熱いと表現したくなった。だって焼かれてる、日光に。こんな日には冷えた瓶ビールでも飲めたら良いのかもしれない。

 

 蝉も五月蠅い。五月の蠅(セミ)だが(うるさい)だ。風情があって良いとか言う人もいるが、山中にある邸宅で、周りが森に囲まれたここでは風情も糞もない。思うに、合唱は統一されているから美しい。蝉のように適当にかき鳴らす音は美しいと感じない。「ジィ──! ジィ──!」みたく文字に起こすと非常に騒がしいものとなる。

 

 汗をかきながら歩き続けると、倉庫に到着する。トラックは先に着いていた。中には料理が乗せられたキッチンワゴンが何台かある。これを倉庫にいる商品たち全員に行き渡らせればいい。

 

 高床式の倉庫へワゴンを運ぶためスロープを組み立ててもらっていた。それを確認するといよいよ仕事開始だ。俺は作業してくれた人たちに感謝の言葉だけ告げて、腕まくりしてワゴンを運び始めた。

 

 夜間に商品の監視をしていた人と入れ替わる。俺は朝から日が沈むまで監視する、飯を運ぶという仕事だ。

 

 ワゴンを次々と運んで、檻の中の商品たちの元にトレーを置いていく。空調はさすがに効いていて、広い部屋にいくつもの檻が並んでいる。商品の反応は様々だ。ぼうっと宙を見つめて動こうとしない商品、置かれた瞬間に手づかみで食べ始める商品、丁寧にお礼を言って俺と話しをしようとする商品などなどだ。最後のは多分俺を篭絡しようとしてるんだと思うが、無視する。

 

 さて、問題の奴以外は運び終えた。残るはただ一人独房を与えられた、ロット番号24の女。氷の肌の女と呼ぶことにする。

 

 基本的に和風の造りになっている倉庫だが、その独房のドアは非常に現代的だった。それを開けようと金属光沢を放つドアノブを掴む。異様な冷たさを感じた。

 

 ノブを回し、開くと冷気が顔を刺した。思わず眉をひそめる。エアコン要らずだったか。

 

 その部屋は二つのスペースに分かれていた。半分が何もないスペースで、半分が牢屋。区切るのは鉄の円柱でできた柵。檻だった。経年劣化しているのか、錆の赤みがよく目立つ。

 

 部屋に入った。俺は、独房の中にいた女へ目を向けた。

 

 服は和服だ。白装束に近い印象を受けた。商品はみんな同じ服を着る。髪は黒い部分と白い部分が入り混じっている。メッシュという奴だろうか。年齢は二十代前半に見える。写真でみるよりも肌は白かった。

 

 女の顔を見る。

 

「……」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 その女──氷の肌の女は、凍死体のような冷えた目つきで、俺を睨んでいた。

 

 

 

「ふう……」

 

 仕事を任されてから二日経った。今のところ、ただ一つの傷もの(・・)商品を除けば順調だった。

 

「お前、また残してるじゃないか……」

 

 正午を過ぎて、食べただろうかと確認するため、その寒い部屋に入る。問題商品、氷の肌の女は黙って座っている。朝に置いたトレーは何一つ変わっていない。

 

 鉄格子を隔てて話しかけた。ぼやけてみえる鉄棒は所々が酸化し、赤い錆が稲妻のように走っている。

 トレーを見るに、どうやら手すらつけていないようだ。朝に置いた朝食がそのまま、時間が止まっているかのように皿の上に取り残されている。朝に置いた食事は、昼になったが変色も見られない。冷気が冷蔵庫の役目を果たしているからだろうなと思った。

 

「おい……ちゃんと食べないと死ぬぞ。マジで。ここに来て二日、お前何も食べてないじゃないか」

 

「……」

 

 そう忠告しても氷の肌の女はただこちらを見るだけだ。その顔には白い肌も相まって生気を感じない。それを見て、まさかと思って、憶測が言葉となって口を飛び出した。

 

「死んだ方がましか? 悪趣味なオヤジに買われるくらいなら」

 

 氷の肌の女は、黒と白が入り混じった髪をさらさらと揺らして、独り言のように言った。

 

「そう」

 

 そうだったようだ。ある種の抵抗……なんだろう。実際死ねば商品にはなれない。そしてそうすれば苦しむこともない。実際俺だって商品にされたら絶望するだろう。だから同情はする。だが。

 

「まあ同情するけど、死なせない。俺は俺の役目をはたさないといけないから」

 

 この商品が”蔵”に移されるまでの期間、面倒を見ること。三週間の後だ。詳しくいうとご飯を食べさせて、かつ自殺とかで死なせない。それが現在の俺の役目。これまでやってた清掃やら連絡係とかの雑用に比べたら、少しは責任が重い。

 

「そういう訳で、食え。このままいくとアレだ、鼻に管通して無理やり食道に流し込むとかになるぞ」

 

 最後の手段だが実際それくらいはやる。この女に点滴するのは体質的にまあ無理だろうし。昔テレビでやってたドキュメンタリーで、そうやって食事を拒否する奴に食わせていた。どういうシチュエーションだったかは忘れたが。

 

「ひどいね」

 

 氷の肌の女はどちらとも取れない表情で言った。本当にひどいと思って悲しんでいるようでもあったし、まるで対岸の火事のようにどうでもいいなと思っているようにも取れた。

 

 どちらかはわからない。だからとりあえず現実的なことを言うことにした。

 

「しょうがないだろ」

 

「そうだね……しょうがない」

 

 そう──しょうがないだ。誰も彼も自分の役目を抱えてる。俺はこの女の面倒を見る。この女は”楽座市”開幕まで死なない。開幕したら売られる。買ってもらう。そんな役目。

 きょうだい達も、父さんも、全人類みんな役目を持って生きている。それに反するっていうのは許されないことだ。だから、しょうがない。魔法の言葉だ。ケースバイケース──場合による。で、大体の説明がなんか完了した気分になるように、しょうがないはつくづく都合の良い言葉だ。

 

 すると女は、ぼうっとして傷や薄汚れがついた壁を見つめた。そのあとに、仲良くなりかけの知り合いに誘いかけるような声色で言った。

 

「じゃ、一緒に食べよ?」

 

「はあ?」

 

「独りで食べる食事ほど、つまらないものってないんだよ」

 

 唐突な誘いだった。唐突過ぎて間抜けな声を出した。

 

 孤独な食事はつまらない。そうだろうか? 思わず反論の言葉が頭から次々に浮かぶ。決めつけられると反論したくなる性質だった。だが今は、孤独な食事も別に悪くはないと思うがという言葉は飲み込み、テレビドラマで孤独に飯を食うやつやってるだろという言葉も抑える。どっちも実感がない言葉だ。何より本心が籠っていない。

 俺も正直、孤独な食事はつまらないと思っているタイプだからだ。

 

 何故かというとショーシャンクでよく食事シーンがあったから。受刑者にとって唯一の楽しみが食事だ。そう語られていたように食事するアンディーたちはひどく楽しそうだった。それに憧れている。俺にはそういう食事を摂ることができないから。

 

 俺が黙っていると女は「誰かと一緒ならご飯が喉を通るかも」と付け加えた。

 

「……」

 

 この女と食べる食事が、アンディーたちのような楽しいものになるとは思えない。しかし今の付け加え。それがあるならば。

 

「……まあ、独房からは移せないし、そのくらいならやってやる」

 

「やった」

 

 女は小さく万歳した。そこで初めて、俺は彼女の笑顔を見た気がした。眼を細めて、口角が少し上がる。

 

 意外と、優しい目ができるのだなと、思った。

 

 

「ねえ」

 

 あくる日、彼女と共に飯を口に運ぶ。最後の温情のようなもので、飯は悪くないものだ。テレビでやってた刑務所の囚人が食べるものと似たような感じだった。

 彼女は食べかけの膳を床に置いて、食事の休憩がしたいのか話しかけて来た。箸を口にくわえて、唇をとんがらせて、懐かしの漫画キャラのように顔の前に立てている。彼女はスプーンを持つ俺の手を見ているようだった。

 

「なんで指怪我してるの?」

 

 やっぱりか。俺は包帯を巻いた指をぴくりと動かした。

 正直余り触れられたくないことだが、まあ、ここで黙秘するのも変な勘違いをされそうだし、言えばいいかと思った。どうせ大して変わらない。俺も膳を置いて、包帯が巻かれた分厚い指を見た。

 

「……兄さんにやられた。愛情表現、らしい」

 

 漣宗也という。二十三になる兄だ。俺とは六つ離れているからか、特別可愛がられている。

 これはペンチで負った傷だ。爪はぎやら指折りやら。昔は縄跳びとかピーラーとかを使われた。ただ兄さんはモノを失くしやすいタイプなので、何度か使ったら素手になる。ただ毎度毎度失くされて変わるというのは考え物だ。しょっちゅう変わるから痛みに慣れない。

 

「ふーん……変な家族」

「端から見ればそうかも」

 

 彼女はたぶん、暴力を愛情表現といった俺に対しても、暴力を振るう兄に対しても、変な家族だと言った。確かに外部の人間が見ると、兄が弟に暴力を振るのはおかしいだろう。

 が、これは正直おかしなことではない。漣家という中では、俺が背負うべきだった役目を思えば、このくらいの罰は受けて然るべきだとすら思っている。俺は何もできない役立たずだ。

 

「ちゃんと冷やしたの?」

 

「いや……って触るなよなんだ」

 

 だから受け入れている──そう思った隙をついて、彼女は冷気を纏った手を絡めてきた。見返す。目と目があう。黒々とした目だ。逸らす。冷気を出す手に目をやる。氷のように、いや、意外にも雪のような冷たさだった。痛いほど冷たい訳じゃなくて、どこか暖かみがある冷たさだった。

 だからだろうか、ひんやりした手が、熱を帯びた手に触れた時、そこまで痛みを感じなかった。むしろ心地よさを感じていた。

 

「ねえ、君ってのけ者にされてたりする? こんな雑務みたいなのやってるしさ」

 

「……何だよ藪から棒に」

 

 何だか恥ずかしくなって、顔を背けて話す。いけないことをしている気分になった。

 しかしやはり”わかる”らしい。

 

「いいから」

 

「……まあ、そうだよ」

 

 彼女は急かすようにいった。俺は特に否定することもないので肯定した。

 

「妖術。周りは使えるのに、俺だけ全く使えないからな」

 

 ──妖術。まあ一言でいうと超常の力だ。誰でも使える訳ではない。ぶっちゃけ血筋や才能が全てだ。人間が誰しも当たり前に持っている──歩くとかしゃべるとか小便するとか……そういう”当然”に色々付け加えたもの。例えば瞬間移動する妖術とか、衝撃波を出す妖術とか、対象の相手の位置を探る妖術とか、がある。それを使える奴を妖術師という。

 

 そんな一握りの超常を扱える妖術師で構成されているのが、漣家だ。といっても妖術が使える奴を家族にしている……ヤクザの一家とかじゃない。血のつながった家族がみんな妖術使いだ。家族達はみんな”威送”という衝撃波を操る妖術を使える。総勢五十名だったか。

 

 ただ、父さんは一人”蔵”という妖術だ。何て言うか、異空間にアクセスできてそこから物を出し入れできる力……一言でいうとそんな感じ。ぶっちゃけ俺もよくわからない。この蔵に移すまでの期間この女や他の商品の面倒を見なくちゃいけないというのが俺の仕事だ。

 初代漣家当主がこの二つを持っていたから、子孫の俺たちに”蔵”か”威送”のどちらかが発現するらしい。

 

 で、みんな威葬は使えるけど、俺だけ妖術の類は一切使えないから、こうなってるという訳だ。雑用を役目にしているのはそのせいだ。ただ悪いことだけじゃない。外部に連絡を取って指定されたものを調達したり、妖術師とか裏稼業の連中に仕事を依頼するのは悪くない。レッドみたいだから。

 

「まあ、周りにとっての当たり前が、自分にとっての“当たり前”じゃないと……こうなる」

 

 包帯を巻いた指をぷらぷら揺らし、見せながら言った。

 集団というのは、たぶん異物を排除するようにできている。排除とまでは行かずとも、排斥。認めない。十人十色とか、みんな違ってみんな良いとかいうのは、たぶんメルヘン世界の言語なんだろう。

 

 じゃあ、異物だとしても抵抗すればいいと思うかもしれないが……抵抗の手段もない。というか下手に抵抗なんてしたらもっと酷くなる。誰かに助けを求めれば? しようと思わない。俺は抵抗する気も、助けを求める気も、どちらもなかった。

 

「だからいじめられるの?」

 

「……そうだな。でも別に、俺が悪いから……いいんだ」

 

 そう。いじめる側といじめられる側、どちらが悪いか論争みたいなやつの例外が俺だ。俺が普通に悪い側。漣家に生まれて、父さんからも厚く期待をかけられて、俺はそれに応えなきゃいけなかった。なのに俺は妖術の”よ”の字もできない出来損ない。

 

 いじめられて当然だ。こんな奴は。

 

「……納得、してるの?」

 

「ああ。納得してる」

 

 諦めともいう納得だ。俺は諦めている。もう自分に期待していない。だからどういう目にあっても……しょうがないで済まして、納得できるようになった。

 

「そっか。じゃあ……一緒に逃げ出そうっていうのは乗らないか」

 

 そうだな──という言葉が出る前に、呆れてしまって口が思わず固まった。

 

「……それ、お前が逃げたいだけだろ」

 

「そうでもないよ? 君に同情してる。いつか二人で逃げ出せたらいいなって思ってるよ」

 

 それを聞いて、少し安心する。ただの冗談だったようだ。自分を品物扱いする男と一緒に逃げ出したい女などいない。だから俺も冗談めかして、

 

「はは、悪いけどそれには乗れない。”お前の面倒を見る”その役目が俺にはあるんだ」と言った。

 

「そっか」

 

 彼女はぽつり、呟いた。

 俺の口調は冗談のときのそれだったけれど、この役目だけは絶対に譲れないものだ。たとえ家族から、身勝手に代われとかやめろとか言われてもやめない。とても大事な役目だ。

 もう、期待は裏切りたくないんだ。”こんなこともできないのか”その言葉は、妖術の訓練してた頃に十分味わった。はっきりいって食傷気味だ。辟易してる。もういいよ、マジで。

 

 だから絶対に役目を果たす。心に誓っている。

 しかし俺はこの氷の肌の商品を、少し見直した。死にたいから食わないと言っていた癖に、ちゃっかり逃げようとしている。これは、生に絶望するという不毛の大地から、生に希望するという新芽が芽生えたという事なのだ。

 

 素晴らしいことだ。だから思わずその感想を口に出してしまう。

 

「まあでも……逃げる希望があるのは、いいことだと思う」

 

「……君そんなこといっていいの?」

 

 今度は彼女が呆れている。そう言われても、そう思ってしまったのだからしょうがない。だから悪びれる気もなく返答した。

 

「別に。”いいこと”に立場なんて関係ない」

 

 ショーシャンクではこんなことは語ってなかったと思うが、でも暗に伝えているメッセージだとは思う。だってショーシャンクは、囚人という罰を受けて罪を償っている人(まあ色々な人がいるから何とも言えないけど)が、希望を持つ物語だ。これは誰しもが希望を持っていいというメッセージのようにも思える。

 

「それに、希望は誰にも奪えない。音楽と同じだ。頭の中で流す音を、いったいどこの誰が奪える?」

 

 アンディーも言っていた。好きなシーンだ。所長が来たとき、音量を上げて挑発するのが格好いい。そして懲罰房に入れられて、出て来た時けろりとしていたアンディーが、言った。音楽は誰にも奪えない。人の心は石で出来ていない。希望は奪えない。

 

「だから尊いんだ。自分がそれを手放したり、見失ったりしない限りは……決して消えない」

 

 だから、たとえ商品という絶望しかない立場であっても、そうなのだ。希望は万人にとってすばらしいもの。

 

「ふーん……君は、眩しいね」

 

「?」

 

「なんでもないよ。食べよう」

 

 氷の肌の女はそれから何も話さなくなった。黙々と食事を口に運んでいる。

 何を思っているのか知らないが、箸と皿がぶつかって立てる味気ない音が、許されざる禁忌を犯した時のような、異様な不快感を生じていた。彼女が発する冷気もその不快感の一端を担っていた。幽霊が出て来るのは生暖かい風だったと思うが、どうも昨今は寒気を恐れとも思うから、冷気も得体の知れないものが出て来るときのような気分にさせて来る。

 

 つまるところ居心地が悪い。だから俺も急いで飯をかき込んで、彼女が食べ終わったらすぐこの部屋を出られるようにした。

 

 

 また、あくる日。

 

 彼女のトレーの中の食事は半分ほど減っている。俺は既に食べ終えていた。

 

 俺の方が先に食べ終えているのは、彼女に生傷を癒してもらったからだ。彼女の手は冷たいから打撲などによく効く。頬に青あざができたから、俺が食べている間彼女の手が触れていた。咀嚼で口が動くので、彼女の指先と俺の頬がこすれてくすぐったそうにしていた。

 

「外に出してくれる気にはなった?」

 

「なる訳あるか」

 

 氷の肌の女は体育座りをして、顔を腕に預けるように斜めに向けて、こちらを馬鹿にするような態度で、また冗談を言った。俺はにべもなく、呆れたように返事した。

 しかし、一つ疑問ができた。思いつくままに聞いてみる。

 

「だいたい、外に出て、自由になって何がしたい?」

 

「……そう、だなあ」

 

 そう言うと彼女はうーんと悩み出した。

 これは純粋な疑問だ。実際何をモチベーションに、不自由な人は自由になろうとするのだろう。もちろん千差万別ではあるだろうけれど、一例として気になった。それにある程度会話を重ねてきて、俺は彼女の人柄に少し興味を持ったのかもしれない。

 

 十分に悩んだ彼女は、黒い目を細めて、無機質な声で語り出した。

 

「まず、お酒とつまみを大量に買って、二日酔いで頭割れるまで飲んで……」

 

 なんだそれ、と少し引きながら突っ込もうとして、踏みとどまった。

 彼女の顔を見ながら、黙って聞く。彼女の顔は退屈な知り合いと二人きりの時に気まずさを紛らわすため、無理に会話を作ったような、不自然な笑いを浮かべていた。

 

「……永眠したかと勘違いされるくらい寝た後、海でも、見に行きたいな。大きなものを見ると全てどうでもよくなるから」

 

 俺は、何を言えばいいのかわからなかった。だからとりあえず、話を逸らすように無理に話題を変えようと試みる。

 海。それは俺の好きな映画の主人公のことを連想させた。もしかしたら見たことあるだろうかと思って、その名前を口にしてみることにした。

 

「海か……アンディーみたいだな。ひっそり壁でも掘ってたりするか?」

 

「……? 誰?」

 

 通じなかった。さすがに海だけで連想するのは無理があったかもしれないし、そもそも見たことがないのかもしれない。名作だが、過去のものだ。エンタメよりの映画でもない。映画好きなら大半の人が見るだろうが、好きにならなければ、たぶん見ない。俺も偶然見なければ一生知ることはなかっただろう。

 

「ああ、ごめん。好きな映画のキャラだよ」

 

 とりあえず気恥ずかしさから軽く苦笑いして、それが誰かを端的に言う。

 

「……なんていう映画?」

 

 おお、と思う。少しはあるらしい興味が。俺は何だか嬉しくなって、いつもより上ずった気がする声で、そのタイトルを口にした。

 

「ショーシャンク。ショーシャンクの空に」

 

 

 タイトルを告げると、彼女は興味津々に内容を尋ねて来た。どうやら興味があるらしい。こんな牢屋暮らしでは、こういう娯楽の話は砂漠のオアシスのように魅力的に見えるのかもしれない。

 

 俺は簡単なあらすじを説明する。妻殺しの罪を着せられた主人公が裁判にかけられ、無期懲役の判決を受ける。冤罪だった。主人公はショーシャンク刑務所に入ることになり、そこで色々な人間たちと出会い、別れ……最後には脱獄を果たす。

 

「今みたいなあらすじの説明だと、脱獄がメインの話かと思うかもしれないけど……それは、正直おまけだと思ってる。その間に出会う人々がメインで、魅力的なんだ」

 

 どうにもあらすじを述べるというのは苦手だ。経験不足かもしれない。そういえば他者におすすめの映画を語る経験というのは初めてだった。家族にも話したことはない。

 

「その中でもおすすめは……ブルックスかな」

「どんな人なの?」

 

 鉄格子を挟んで隣同士の彼女が、牢屋の壁に背を付け、頬を膝にくっつけて問う。体育座りだ。

 

「五十年刑務所に入ってるおじいさんだ。烏を飼ってたり、長年入ってるから務所の人々から一目置かれてたりする」

 

 五十年。途方もない数字のように思える。人間五十年なんていうが、刑務所での五十年と、天界の一日は同じ長さじゃないだろう。何故ならば退屈だ。多分天界というんだから楽しいものだと思うが、楽しいなら時間は早く過ぎていく。だが刑務所はつまらない、苦痛だ。……まあそれでも、慣れてしまえば、早く感じるのかもしれないが。

 

 そんな五十年を、ブルックスは刑務所で過ごしたのだ。でも俺が彼を印象深く感じているのは、それが理由じゃない。

 

「彼は小説版ではあっさり最期が描かれる。でも映画でちゃんと最期が詳細に描かれるんだ」

 

 ちなみに小説版とは、『ゴールデンボーイ 恐怖の四季 春夏編』に収録されている『リタ・ヘイワースの刑務所』だ。ショーシャンクの小説版のようなもの。原作小説というのが正式な立場だが、俺は小説版と言っている。所々内容が違って、ブルックスの最後とかは結構雑な感じになっている。まあ重要度は変わりないと思うが。基本的に映画は小説版に色々な要素を追加したものだ。

 

「最後……どうなったの?」

 

「ここからは完全ネタバレだぞ」

「いいから」

 

 彼女はネタバレを許容するタイプなのかもしれない。はっきり言って理解不能だ。

 だが、実際におすすめして、彼女当人の目で映画を見てもらうことができない以上、口頭でネタバレするしか方法がない。まあ物語というのは、「ものがたる」とあるように原始は口と口の会話だったと聞く。これも一つの物語なんだろうと思って、どう語るか考えることにした。

 

「……彼は長年図書室の管理を任されていた。そんな中急に仮釈放を赦されて、外に出れた」

 

 覚えている。よぼよぼのおじいさんが、ポーランド仕立てのスーツを身に纏い、フランス製の靴を踏みしめ、外の世界へ出るその瞬間。出た瞬間刑務官たちはブルックスから目を離し、画面から去っていく。背景になっていく。

 

「出る前に、烏を”自由”にして。そして、彼も自由の身になる」

 

 そう。飼っていた烏を自由に。薄暗い部屋の小窓から、烏が飛び立つ様をブルックスが呆然と眺めるシーン。

 

「でも入ってた五十年。浦島太郎に近いし……何より、務所生まれの老人なんて、南極に置いてけぼりにされた犬よりずっと孤独で弱者だ」

 

 ブルックスは務所では司書の仕事があったり重要人物だが、外ではただの仮釈放中の老人。普通の独居老人よりもたちが悪いし、世界にとって重要じゃない。だから、俺には想像もできないような孤独を抱えていたんだろう。

 

「ブルックスも気づいていた。生きていけないことに。だから務所を出る前に、同じ囚人を殺そうとして仮釈放を帳消しにしようとしたりもした」

 

 何回か見返して、あそこは物凄く悲しいシーンだとわかった。あの時のブルックスの心情なんて、俺のような若輩には想像もできないが、とてつもない恐怖を“外”に感じていた。そして母の胸に抱かれるような安心を“内”に感じていたのだろう。

 

 だが願いは叶わず、ブルックスは塀の外へと追い出された。

 彼は感じた。その目で、その耳で、その肌で……体中全てが、昔と変わってしまったことを、実感させた。それに加えて老いていた。街並みの異様さに、職場での疎外感に、余りにも変わり過ぎた環境に、彼は振り落とされてしまった。追いつくには若さが足りなかった。だから。

 

「だから、首を吊ったんだ。薄暗いアパートの一室で」

 

 スーツを着て、椅子を踏み台にして、ロープを首にかけて、彼は宙に浮いた。でもその前に。

 

BLOOKS WAS HERE (ブルックス ここにありき)とだけ書き残して」

 

 それだけ残して、彼は死んだのだ。

 

「……そうなんだね。そう、なんだ……」

 

 氷の肌の女は、さらりと納得した様子を見せた後、すぐに咀嚼しきれていない様子を見せた。まあ説明だけでは伝わりきらないものだ。彼女自身がある程度頭の中でイメージする必要がある。

 

 少し時間を空けて、尋ねてみる。

 

「……君はこの結果をどう捉える? そうだな、希望的だったか、絶望的だったか」

 

 また間が空く。その間、冷気で檻が凍る音、ぱきりっ、とした甲高い音が一つ鳴った。

 

「……どっちでもない、かな」

 

 どういう意味だろう。彼女の方へ目を向けた。

 

「ブルックスにとっては、何も感じなくなって良かった。でも希望じゃない。”何も感じない”って、希望も、絶望もなくなることでしょ」

 

「そうか……」

 

 ブルックスは生きていることに苦しみを感じていた。そして、死ぬことに安らぎ──安寧? のようなものを求めていた。これは生を絶望、死を希望、と形容できる可能性がある。結果だけ見れば、ブルックスは死ぬことで安寧、希望を手に入れた。だが、それをブルックスは認識できない。何も感じない。死んでいるがために。

 だから、希望でも、絶望でもない。どちらでもないもの──無だ。

 

 どうやら彼女は三者の視点ではなく、ブルックスの視点から答えたようだ。つまりは一人称。客観ではなく主観。そういう風に見る人もいるのだなと、何だか面白く感じた。

 

 もしかしたら彼女は、共感したのかもしれない。もちろんブルックスに。

 

 なるほど確かに、彼女の立場は、見方を変えれば囚人に近い。檻のなかに入れられて、自由などない。でも彼女は罪など犯してはいない。ならブルックスではなく、アンディーじゃないかと思った。リタ・ヘイワースを頂戴と言い出したら警戒しよう。

 

 だがそれは……何だか、喉に小骨が引っかかった時のような、もどかしさと、えずきを感じることだった。

 

 

 また、あくる日。また傷が出来た俺は、とりあえず癒してもらった。

 

 その後、彼女はショーシャンクに興味を持ったようで、もっと話を聞きたいと俺に言った。じゃあ今度は明るい話でもするかと、屈指の名シーンを挙げることにした。

 

「そういう訳で、アンディーたちは屋上で冷えたビールを飲んだ」

 

 屋上掃除を終えたアンディーと、レッドその他の囚人たち。アンディーの行動で仕事終わりにビールが提供されて、彼らがそれを飲む姿。看守たちは遠目でそれを見守っている。その顔は逆光で明るみになっていないが……果たしてどんな顔だっただろう。

 囚人たちは笑顔だ。そうでなくとも楽し気だ。それは見えている。だが見えないもの。明かされないものに興味を惹かれる。答えがはっきりしないものは魅力的に思えた。

 看守たちはどんな顔だっただろう。嘲笑か、それとも子どもを見守る親のような顔か。もしくはビール瓶で喧嘩をおっぱじめないかと心配しているかもしれない。

 

「ビールか……いいね」

 

「ああ、美味しそうだったよ。俺酒強いかわからないけど……あんな風に飲めたら、いいなと思うんだ」

 

 でも俺は多分酒弱い気がする。兄さんとかは明らかに強そうだから少し羨ましい。

 ただあれは、酒の強さは余り関係ないのかもしれない。ビール、酒そのものの美味しさだけではなくて、場や空気の美味しさであったのだと思う。

 屋上、風がたぶんよく吹いている。仕事終わりで、夕日に当たりながら。レッドも言っていたが、自由の身になった気分、だったわけだ。あと一緒に飲む人も大事だろう。そんな奴とこの先出会えたらいいと思う。

 

「……ビール飲みたくなっちゃったな」

「は?」

 

 脈絡もなく、空から隕石が落ちて来た時のように唐突に、彼女は言った。ビールという俗っぽい言葉が彼女の口から出たのが何だか意外に思えた。何故かはわからない。

 

「安い発泡酒でいいからさ、明日持ってきてくんない?」

 

 彼女は上目遣いで頼んでくる。

 俺は、どうするか悩んで、結局その日は答えずに終わった。商品に酒をあげたことが父さんや兄さんにばれると色々と厄介なのだ。

 

 まあ、どうするか悩んだ時点で……結果は俺自身で予想できた。

 

「……これ超高いやつじゃない?」

 

「知らない。そもそも未成年に酒持って来させるなよ……」

 

 翌日、グラスと酒瓶を柵ごしに置いた。持ってきたのは温情と、傷の礼だ。結構氷の手は助かっているし、酒くらいのお礼はしたいと思った。

 

 彼女はすぐに瓶を手に取り牢屋へと引き込んだ。まるで女を十年ぶりに見た囚人のようだ。

 

 彼女はこのビールだか発泡酒だかを見て、高いやつじゃないかと感じたようだが、わからない。酒の知識は全くないのだ。ビールと発泡酒の区別ができない程度には。そもそも同じものなのだろうか?

 なので適当に酒っぽい瓶を持ってきたが、たくさんあったしそんなに高くはないと思う。

 

「まあ、いいや…………」

 

 氷の肌の女は、全力で長時間走った後に水を飲んだ時のようにごくごくと、グラスにもつがず瓶から直接酒を飲んだ。これは正しい飲み方なのだろうか。

 だがうまそうに飲んでいた。眼を閉じて、シャワーを浴びるように気持ちよさそうに飲んでいた。その姿に、どこかショーシャンク刑務所の屋上の囚人たちを連想した。

 

「酒……好きなのか」

 

 彼女が瓶から口を離した所で、尋ねてみた。まあ聞くまでもない事かと思うが、念のため。

 

「そうだね……お酒は、好きだよ。正確には酔うことが好きかな」

 

「なぜ?」

 

「忘れられるから。嫌なことの大体を」

 

 遠い目をして言った。

 その黒い目には、俺には見えない、決して想像できない何かを映してきたんだろうと、勝手に思う。酸いも甘いも……俺なんかとは比べ物にならないものを。

 それを忘れさせる。それが酒だと彼女は言った。もし本当にそうならば、酒は希望だなと思う。嫌なことを忘れられるなんて、都合が良い。

 “良い経験も、嫌な経験全て含めて、あなたを形作ってる”なんて綺麗事を昔聞いて、感動した自分がいた。だが彼女を見ていると、この言葉が何だか、浅いプールで泳ぐ子どもみたく未熟なものに感じてしまった。

 

「でも、やっぱり嫌いだな」

 

「……どっちだよ。なんで?」

 

 思わず突っ込む。すぐに聞き返す。

 

「忘れても、思い出してしまうものだから。一時的なものだから」

 

 ……ある種、麻薬的なものなのだろう。麻薬は一時的に自分を楽にしてくれるらしいが……切れたら今よりも苦しくなる。酒もきっと同じだ。誰かが言っていた。酒を居酒屋で飲んで、だらだらと歩く帰り道はひどく虚しいと。酔いが歩きながら抜けていく感覚が寂しくさせると。

 

「……まあ、そうだな。じゃあずっと飲み続けたら?」

 

「……あはは。死んじゃうよ」

 

 笑われた。だが冷静になって今の発言を思い返すと、確かに馬鹿だ。かーっと血が顔に集まる感覚がした。酒を一気飲みしたみたいに、赤くなっている気がする。

 

「ま、それもきっと……ひとつの選択肢なんだろうけど。“忘れる”ための、ね」

 

「そうだな。死ねば永遠に忘却できる」

 

 死後の世界があるかわからないが、もしもなかったら、死ぬと自分は完全に消えることになる。そうすれば当然、何かを思い出すこともできない。

 だがそれを選択肢に入れて良いのか? と、彼女に聞こうと思い、彼女を見た。

 

 彼女は酒瓶の口をこちらへ向けて、手を檻から出していた。俺に差し出していると判断するまでに数秒かかった。

 

「飲む?」

 

 どきりと心臓がはねた。そういう彼女の(まなこ)が真剣だったからだ。こちらを馬鹿にするような目線ではなかった。

 だが、お前が口つけた奴じゃないか、と言ったらさすがに馬鹿にされそうで、言わない。なのでとりあえず法律ガードを使うことにした。

 

「酒か……俺はまだ十七だ」

 

「じゃあ未成年飲酒になっちゃうか。まあ意外と皆飲んでるからだいじょーぶだよ」

 

 確かに。割と酒を飲む手段は未成年でもあるし、大学生がやるらしい飲み会とかは、店員も一々年齢の確認なんてしないらしい。まあ、十八以上なら大人だし、個人の判断に任せるということなのかもしれない。

 

「……いや、やめとくよ。苦いらしいし。苦いものを美味そうに飲めるとは思えない」

 

「ふふふ」

 

 何が面白いんだろうと、少しむっとした。彼女の顔を横目ではなくて、首を動かして見る。頬が赤い。どうやら酔っているようだ。雪のように白い肌だからだろう、赤みはよく目立った。

 

「ちょっと、安心。君は真面目で、優しくて……いいやつ、だね」

 

 微笑みながら彼女はいった。俺は顔を逸らした。軽口を返す気が起きなかった。

 

「いつか一緒に……飲もうね……」

 

「……そうだ、な」

 

 氷の肌の女は呂律の回らない声色でそう言った。

 俺は思わず流れで同意しかけて、言い切った後すぐに、

 

「……って、お前は、しょうひ……寝てるし」

 

 彼女は眠りに落ちていた。なるほどこれも忘却の一つだ。眠れば何も感じない。眠っている間は、まあ悪夢とかでトラウマが思い起こされることはあるかもしれないが、基本は嫌な事から解放される時間だ。

 

 壁に背を預けて、顔を地面に向けて彼女は寝ている。首ががくんと揺れている。

 

「……」

 

 寝顔が確認できた。子どものように無邪気だ。誰だってきっと、眠っている間は無害だ。

 

 それを見て、思った。蔵に入ればこの時間もなくなる。

 

「……ばかか」

 

 すぐに否定する。まさかとは思うが、商品に情を持ったのか。それとも彼女との時間が、この家で暮らす中の、癒しになっているとでも言うのか。馬鹿だ。俺は役立たずで無能だが、そこにバカも追加する気か。

 だが、これがなくなると思うと、不思議と虚しくなる自分がいた。

 

「……くそ」

 

 そんな自分をこつりと殴り飛ばして、ため息を吐き、その場から逃げるように立ち上がった。

 

 

 またまたあくる日。

 

 前回に引き続き、希望的なシーンを挙げることにした。

 

「ラストも魅力的なんだ。ショーシャンクは」

 

「……ラストなんて、大体の物語で良くなるものでしょ」

 

 口をもごもごと動かしながら彼女は言った。咀嚼中だった。

 まあ言わんとすることはわかる。長く追って来た物語の終わりは、自然と感動を呼ぶものだ。まあ余りにもひどい終わりだと……残念な結果になるが。

 

「それでもピンキリだろう。ショーシャンクは別格なんだよ」

 

 あのラストは、何度見ても魂が震える。冷静に考えると、中年の脱獄者と仮釈放違反者──二人の犯罪者が浜辺で抱き合うだけだが、これまで追って来たストーリーがそんな血の通わない指摘を久遠の彼方へと置き去りにする。

 

「この前話したから覚えてるな? アンディーとレッドは親友だ」

 

 だが正直、二人の関係性を親友という言葉で表していいものかと思ったりする。あの関係性を親友という一般的な表現に起こしていいだろうか。あの二人のためだけに全く新しい美辞麗句的な造語を作ってもいいと思うほどだ。

 

「物語の最後、小説版では二人がどうなったか明かされない。それもいい。でも映画だと明かされるんだ」

 

 『リタ・ヘイワースの刑務所』だ。小説版ではレッドの感動的な語りで終わる。二人がどうなったかは読者の想像に委ねられる。

 しかし映画では、アンディーとレッドの二人は、なんと再開できたと判明するのだ。

 

「二人はジワタネホで出会って、抱き合った……」

 

 アンディーとレッド。ジワタネホの砂浜で、ペンキをヨットに塗るアンディーが、足音か人影でレッドに気づき、駆け寄ってきっと何の言葉も交わさずまずはハグをした。荷物は置いて。レッドの帽子は風が盗んでいった。十分に抱き合った後、ようやく会話をし出す──笑いながら。そんな光景が頭に浮かぶ。

 

「それが……とてもきれいな結末だ」

 

 一点の曇りもない。強いていうなら二人が客観的に見て犯罪者であることくらいだ。

 

 しかし、そんな人がいるか知らないが、原作小説→映画、の流れで物語を追った人が羨ましくなる。基本的に映画→原作小説が普通の流れだと思うが、それだと小説のラストで少しもやもやする。だが前者の場合、小説で感じた少しのもやもやを、映画のラストで吹き飛ばせる。それが羨ましいと思うのだ。

 まあ人によると思う。ただ俺は完全無欠のハッピーエンド至上主義者だった。物語の終わりくらいは、一点の曇りもない青空があって欲しいのだ。ちなみにバッドエンドは基本くそ喰らえだ。せめてバッドエンドで終わるときは、その前兆が読者にわかるようにしないと無理だ。生理的に受け付けない。そうでなくとも、最低条件読者を納得させなければ駄目だ。

 

 彼女は、俺の言葉を聞いてほんのり嬉しそうな顔をして、言った。

 

「ジワタネホ、か……君がそんなに楽しそうに語るから、ちょっと映画も見たくなってきたな」

 

「見ればいいよ。キモイおっさんに買われても、そのくらいは許してもらえるかもしれない」

 

 彼女が楽座市に出され、買われた後でも、そのくらいの自由があるといいなと希望する。

 

「生きているんだ。客観的に見て絶望な人生でも、主観的に見たら希望な人生にだってなる」

 

 笑いながら彼女を見つめて言った。

 俺はそうであることを信じる。願っている。俺は彼女を売る側だが、それくらいの自由があることを希望したい。

 あのラストが余りに希望的であるから、いつもよりもずっと熱く希望を語る。彼女にも俺の気持ちが伝わるなら、それはいいことだと思った。希望はやはり“いいもの“だ。

 

 彼女は言った。

 

「そんな甘い訳ないでしょ」

 

 ──氷柱(つらら)で心臓を貫かれた。

 

 彼女が冷たい事を語るとき、いつも目を黒々と染めて、一つの光りも宿らせずに、淡々となる。体感的なものだが、発する冷気も増幅しているように感じる。しかし感情はなかった。感じなかった。いつだって無機質だったのだ。

 

 そんな彼女が初めて、明確な怒気を孕んだ言葉を口にした。その余りの衝撃を、まるでアイシング・ダガーで心の臓をぶち抜かれたように感じたのだ。

 

 彼女が言った“そんな甘い訳ないでしょ”には、余りに多くの意味が込められている。俺程度の人間が語る、オブラート一枚より薄っぺらい希望などとは比べ物にならない、紙を四十二折り曲げたときのような分厚い絶望を、その言葉には感じた。

 

 衝撃で脳が停止している。言葉を発することができない。ようやく意識がこの場に戻ったのは、彼女が次の言葉を落とした後だった。

 

「君は私に変な”希望”を持たしてくる、“いいやつ”だね」

 

 彼女はそこで会話を止めて、再び飯を口に運び始めた。

 

 心臓が重く、高鳴っている。苦しい。下手に殴られるよりもずっと、重く心臓を圧迫されている。

 

 少し深呼吸して、彼女が立てる金属音に耳を傾けて、落ち着いた後、考える。髪をかき上げた。汗が額から少しにじんでいた。

 

 なぜ……怒ったのだろう?

 

 そう自問するが、答えは出ているようなものだった。

 

 彼女に、希望を語ったからだ。

 

 俺は、彼女に希望を与えることを、良いことだと思っている。

 

 俺は希望を“よいもの”としか認識していないからだ。そして普遍的なものだと信じていた。だが、認識は立場によって変動するものだ。北側から見たら丸形に見えたものが、南側から見たら四角形だったなんて、よくある話だ。

 

 彼女にとっての希望は、“いいもの”であると確定していない。つまり”わるいもの”という可能性がある。

 

 これは考察でしかないけれど、彼女にとっての希望は、絶望と大差ないんじゃないのか。

 

 だって彼女はこれから商品になる。檻の中でどれだけの希望があっても意味はない。そこから出たその瞬間に商品は、誰かの所有物……つまり奴隷になる。絶望へと変わる希望なのだ。絶望を孕んだ希望なのだ。

 

 ならば俺があげたと思ったその希望は──絶望よりも残酷だった。

 

 だってそうだろう。一目、遠くから見て”希望”のそれは、一瞬俺たちを勘違いさせる。でも、冷静になってもう一度近づいて見てみると、希望というオブラート一枚の薄さが張り付いた絶望でしかなかった。そんなのただの絶望よりもずっと絶望的だ。

 

 一度期待させて、上げて、落とすんだ。

 

 それに第一、俺は彼女の何を知っているというのだろう。彼女がどんな経験をして来たのか、何も知らないじゃないか。

 売る側が、商品に勝手な同情をして、その先のことに口出しして、希望があるだなんて口にする……余りに傲慢だ。彼女より立場が上だから、神にでもなったつもりか。地獄に落ちた咎人に、救いの糸でも垂らしたつもりか。

 

「……ごめん。少し、頭を冷やしてくるよ」

 

 そう言って、その場を後にした。彼女は何も返さなかった。気まずいと感じたが、何か言葉をかけられるより楽だと思った。

 

 倉庫を出ると、日差しが顔を焼いた。もわりとした空気が肺に汗をかかせた。

 しかしその暑さがどこか心地いい。かなり涼し気な空間にいて、寒さを感じていたのだなと思う。彼女がいればエアコン要らずだ。地球にも優しい。

 

 しかし歩きながら考えていると、夏の暑さももちろんそうだが、自分の思慮の浅さが猛烈に恥ずかしく思えて来た。汗がだらだらと出て来る。

 

 俺はこれまで彼女に、直に希望を語ったり、暗に希望を語ったりしていた。希望のすばらしさを説いたりもしただろう。まあほとんど映画の受け売りでしかないけど。

 

 しかしそれら全ては、彼女にとって何の意味も為さないものだった。彼女は売られる立場の人間だ。絶望へとこれから叩き落されることが確定している人間に、希望はあると熱弁することの無謀さと無遠慮さに、彼女はたぶん(いか)った。

 

 自分の愚かさに、無性にいらいらして、大き目の石に自分の顔を映して蹴っ飛ばした。石はあらぬ方向に飛んで行って、茂みにがさりと入っていった。

 

 ただ、一つ疑念がある。彼女が希望を排すのならば、なぜ彼女は“あんな嘘”を言ったのだろう?

 

 それによって俺は、彼女が希望を持っている人間だと錯覚してしまったのだ。

 

 だがそれは今いい。それよりも、俺は目覚めてしまった。気づかされた。たたき起こされた。“商品”──いや、一人の人間と話し合い、向き合ったことで気づいてしまった。

 

 彼女を、商品にしたくない。

 

 俺は自分の──いや、自分たちの“おかしさ“に気づいた。漣家という家に充満するおかしさだ。彼女へ傲慢に希望を語り、ふざけるなと心臓を貫かれて、ようやく自分を客観的に見たのだ。

 

 人間が人間に値段をつけて売り飛ばすなどおかしい。そんなの、他人の希望を殺す行為じゃないか。なんで今まで気づかなかった?

 

 彼女との対話のせいだろうか。いいものは決して滅びないという言葉を信じているためだろうか。ちっぽけな正義感を守り通したいからか。理由なんてどうでもいい。

 

 とにかく、今更──だが気づいた時が一番早いときだ。自分に正直になって、行動してみよう。

 

 そう、思った。

 

 だから──

 

「おお、どうした伯理? また鍛えてやろうか?」

 

 漣家邸宅。縁側か廊下のどちらかだ。庭が左手に見える。前には、一人の巨漢がいる。向き合っている。髪型は似ている。髪色も同じだ。髪の結い紐も同じ色だが、向こうは結った髪が二本ある。

 

 漣宗也。兄だ。指の骨の怪我とかいろいろこの兄にやられている。愛情表現であると言い張るし、当人は本気でそう思っている。

 

 兄と話したいことは一つだ。

 

「なあ兄さん……俺たち、って、おかしいんじゃないか」

 

 楽座市の廃止に、協力してもらうためだ。

 

 どうしようもない兄だが、一応家族の情があることに期待した。せめて話くらいは聞いてくれると信じたい。弟の真剣な頼み事だ。耳を傾けて、自分たちのやっている行いに、少しでも疑念を抱いてくれればそれでいい。

 「なぜ」という疑問が浮かべば、それが気づきへの初めの一歩だ。

 

「?」

 

 兄は、さも頭にはてなマークを浮かべたような顔をしている。当然だ。もっと言葉を尽くさねばならない。

 

「勝手に人間を商品にして、その人のことを何も考えず売って、それを繰り返す。俺たちのやっていることは──」

 

 視界が明滅した。

 

「はっ?」

 

 激痛が走った。視界が揺れた。気づけば鼻血がだらだらと流れて、白い襟を紅に染めている様子が視界の端に映り込んで来た。

 

「え、な、なん……」

 

「いや、すまん。なんか、よくわからないから殴った。何をいっているんだお前は?」

 

 宗也は首を傾げながらまた殴った。腹だ。嘔吐した。兄にかけると“ひどく”なるという記憶が体に刻まれているから首を瞬時に横にそらした。

 ぼたぼたと、垂れる吐しゃ物が邸宅の庭を汚した。胃酸とさっき食べたミートソースの味が混ざって最悪のマリアージュだ。

 

「どうした?」

 

 きょうだいの一人がやってきた。宗也に話しかけている。俺のことをゴミのような目で見て、邸宅ですれ違うと殴ってくる男だ。

 

「いや、なんか伯理が……」

 

 そこからは……いつもよりひどい。

 

「……ぐそ」

 

 ひいひい言いながら自室に戻り、救急箱を開いてすり傷を消毒する。痣には湿布を貼る。全身がずきずきと痛んでいる。

 保冷剤で患部を冷やしてみるが、駄目だ。あまり楽にならない。

 

 彼女との時間が恋しくなるだけだった。

 

 なんとか治療を終えると、ベッドに倒れ込んだ。傷がずきりと、叫ぶように痛んだ。

 

「……」

 

 なんとなくわかっていたけど、家族には、話が通じない。そりゃそうだ。だって俺たちは支配されているんだ。脈々と続く歴史に、育ててくれた環境に。そこに疑問を抱くのは、神に中指を立てることと同じくらい背徳的な行為なんだろう。

 

 そういや家訓は”何よりも楽座市を重んじる”だった。

 このおかしさに気づいた俺が、たぶんこの家では“おかしい”のだ。彼女と会わなければ気づくことはなかっただろう。それくらいこの家を支配する“もの”は巨大だ。

 

 この時点で、話し合って楽座市を止めさせるのは無理だと悟った。兄に言っただけでああなるのだ。父さんや双子の弟に言ったら、追放とか殺処分とかだったかもしれない。

 

 となると、手段は一つしかないのだろう。

 

「……よし」

 

 良いだろう。まるでシッド・ニドーと比肩されるくらい堂々とした脱獄を、彼女にさせてやろうじゃないか。

 

 

 ”蔵”搬入の前日。

 

 ちょっとした連絡業務を終え、彼女の元へ。気づけば三週間だ。彼女とのやり取りは。人生単位で見れば、たかがほんの一瞬かもしれない。でも、その一瞬こそが大事なものなんだろう。

 

「明日搬入な。ほら最後の晩餐ってやつ」

 

 いつものようにごとりと食事を彼女の前に置いた。彼女はうとうとしていた。しかし食事の匂いが鼻腔を刺激したのか、覚醒してこちらを見て、綺麗な二度見をした。

 

「! ……どうしたの、その傷」

 

「……ちょっと長かった。それだけ。理由は、ないよ」

 

 ないと言ったらない。追及は許さないと軽く睨んだ。いつもよりひどいが、手はいらないと言って、彼女の隣に腰を下ろした。

 檻を挟んで、彼女の隣。背もたれは冷たい壁だ。夏には心地いい。彼女のおかげで冷たくなった壁だ。

 

 それよりも、俺は考えて考えて考えた。

 今、その答えを出そうという風に思って、ここに来た。ここにいる。ここで彼女と檻の鉄棒を挟んで、座っている。

 しかし、俺にはまだ、それを言い出す覚悟が足りない。神に逆らう行為だからだ。聖書を燃やすような禁忌だからだ。あまりに重たい。

 

 計画も立てた。今日ここに来ている。明日蔵に搬入だ。色々考えたが、チャンスは明日しかない。蔵に入れば俺に手出しはできない。蔵に入れるのは父さんと一部の子どもだけだ。彼女のための準備もできることはやっている。時間はない。だが、後一押し何かが足りない。まるで「好きだ」の一言を互いに言い出せない、中学生の帰り道のようだ。

 

 そう。忘れていたが、俺はヘタレなのだ。だから結局、最後の一押しは──

 

「なんで我慢なんてするの? 君がそんな風になるなんて、おかしい」

 

 彼女に。

 そう思ったとき、言葉が耳に入り込んだ。慌てて頭を思考ではなくて会話に向ける。

 

 切り替えて、彼女の方を見た。首を動かす。曇りのない眼だった。純粋な心配だった。

 思う。なんで、こうなるか。家族に殴られて笑いものにされるのか。なんで父さんに失望されているのか。そんなの決まっている。

 

「前にいった……しょうがない、だよ。俺が出来損ないの無能のごみだから、しょうがないんだ」

 

 しょうがない、だ。背負うべき役目があったのに、背負う資格がなかった。だからこうなってしまうのは仕方ないのだ。

 しかし、そうやって自己否定の言葉を連ねていくと、不思議とこみあげて来るものがあった。

 

「漣家に生まれて、特別にならなきゃいけなかった……でも成れなかった……だから、仕方ないんだよ」

 

 気づけば、泣きそうだ。

 不思議だった。俺は諦めている、納得しているはずだ。だが泣いている。期待なんてしていないから傷つくはずがないのに、泣いている。なんでだ?

 

 顔を隠そうとして膝を抱えて、できる限り縮こまって座る。たぶんひどい面をしている。彼女に見せたくない面だ。

 

 彼女は、独り()つように、言った。

 

「……君も、檻に囚われてるんだね」

 

 そうだ、な。そうだよ。檻は目に見えるものだけじゃない。

 

「……みんな、そうだろ。父さんも、兄さんも、誰も彼もみんな……そうなんだ」

 

 そうなのだ。俺たちは檻に囚われている。冷静に考えたら、誰かの幸せを、希望を奪って生計を立てるなんてカスの所業だ。でも皆それに気づかない。気づけない。

 檻の中しか知らない。俺は映画とか彼女と関わったおかげで、おかしいことに気づけた。でも家族はたぶん、死ぬその瞬間、今際の際(いまわのきわ)だっておかしさに気づくことはないだろう。檻の中で生まれ、檻の中で死ぬのだ。

 

 そんな狭い世界で、俺はどうしようもない、出来損ないだ。その現実が余りに重たい。

 

「ねえ……少なくとも君は、私にとって出来損ないでも、無能でも、ごみでもなかったよ」

 

「じゃあ……何だよ」

 

 できれば言って欲しくない。俺はもう納得している。諦めているから、やめて欲しい。俺に希望を持たせるようなことを言わないで欲し──彼女も、そうだったのか。

 

「私と話してくれる人。あと、純粋な人。それと、ひどく優しい人……かな」

 

 彼女は、眼を細めて笑う。気恥ずかしさを誤魔化すようだった。

 

「……」

 

 そこで……やっとわかった。

 

 俺は、納得なんてしていなかったんだ。

 

 だってそうだろう。俺は別に、この家だから役立たずなだけだ。

 

 この檻の外にはたぶん、俺を必要とする場所があるはずなんだ。俺は妖術を使えないから出来損ないで役立たず。でも、妖術を使えないのが普通の世界なら、俺だって普通になれるはずだ。

 

 その証拠? 彼女は、俺は“そうじゃない“と言ってくれた。それで、十分だろう。

 

 そこで決めた。決めてしまった。もう一度「こんなこともできないのか」と言われる覚悟。後思いっきりぶん殴られる覚悟。

 

 涙をぬぐった。鼻の先にたまった涙は袖に滲んだ。

 

 目を閉じ、自分に問いかける。

 

 覚悟はできたか?

 

「なあ、もう一度聞くよ」

 

 彼女はこちらを見たのか否か、聞いているのか否か、わからないが、体が揺れた。反応はした。そう信じて続ける。

 

「君は自由になったら何がしたい?」

 

「……いったじゃん」

 

 ああ、そうだな。発泡酒だつまみだ海だなんだとほざいていた。でも、聞きたいのはそんなのじゃない。そんな口からの出まかせじゃない。腹から出た本当の気持ちを知りたいのだ。

 

「嘘じゃない本音の方だ。いえよ」

 

 正面を向いた。ドアのある方。彼女の方は見ない。見る必要はない。

 彼女が、ついた嘘。自由になった後、何がしたいか。彼女は適当に言葉を並べていた。俺も何か変だと思って聞いていた。

 

 なぜか? そんなのは決まっている。

 

「……別に、嘘なんて──」

 

「未来を語る人の眼は、もっと希望に満ちるものなんだ」

 

 そう思う理由? アンディーがそうだった。それ以上でも以下でもない。

 彼女が語った、未来の展望からは、何の熱意も感じなかった。聞かれたから適当に思ったことを並べて返事したことが丸わかりだった。

 そんなのは希望じゃない。懲罰房から出たアンディーがレッドへ語った、自由への希望、ジワタネホへの希望を語るシーン、その時の表情はもっと希望的だったのだ。

 

「……いいたくない」

 

 彼女は、答えない選択をした。それが答えのようなものだった。

 

 俯いて、膝を抱えた。先の俺のようだった。会話が止まる。彼女の箸は俺が置いた時から一向に動く気配がない。食は進まないだろう。こんな空気じゃ、そりゃそうだ。

 

 俺は、もう一つ聞く、と前置きした。

 

「いいものは、希望は、死んでると思うか」

 

 彼女は、答えなかった。代わりにぱきりと、牢の鉄格子が凍り付く音が鳴った。

 

 それでいいと、俺は立ちあがった。

 

 どうなるかわからないが、俺は希望に賭けている。これ以上の言葉のやり取りは不要だと思った。

 

 何にせよ、俺がやるべきことは決まっている。

 

 扉を開けた。倉庫を出る。日差しは相変わらず。俺の気持ちなど全く気にせずただそこにあるばかりだ。

 

 大地を踏みしめるように歩き出す。

 

 彼女に与えた希望を、嘘にしないために。

 

 

 蔵、搬入当日──。

 

「飯、食いに行こう。外にね」

 

 前置きなど何もなく、部屋に入ってすぐ、単刀直入に告げた。鍵を指にぶら下げて、軽くファミレスでも行こうと誘うように言った。

 

「……ほんとに?」

 

「嘘や冗談でこんなことするもんか」

 

 彼女は驚いた様子だった。彼女の方は冗談で言っていたのかもしれない。

 

「言い訳するとしたら……役目。君の面倒を見る役目がある。俺にはね」

 

 商品の面倒を見る役目。それを死ぬまで実行する。役目は果たしているさ。違反じゃない。

 

「ただ、ちょっと一緒に逃げるのはできないんだ。まあ後で詳しく話すけど……」

 

「……? わかった」

 

 彼女は特に文句を言わない。脱出のやり方にこだわりはないのかもしれない。

 

 とりあえず牢の鍵を開けた。ちょっと待っててといって、一度部屋から出る。

 

 さて、一応彼女も乗り気のようだし、どうやって脱出させてやるか考えて、まあ準備と作戦は綿密に立てているけど、確認がてら外の偵察をして……彼女の元に戻ったら。

 

「おい……何やってんの?」

 

 不思議なことが目の前で起こっていた。

 

「……自殺、かな」

 

 彼女は、ナイフを首筋に当てている。見たところ商品だ。そういえばここは倉庫だった。探せば見つかるか、そのくらいは。

 

「……薄々、気づいてたけど」

 

「そうだったの?」

 

 彼女はあっけらかんな様子で言った。昨日の質問や、これまでの会話から何となく、彼女は生きたいと思っていないのだなと気づいていた。でも死を明確に望むほどじゃないと思っていたが……。

 

「とりあえず、なんで?」

 

「……そうだね。ブルックス、だから、かな」

 

 口から出た疑問をぶつけると、彼女は明後日の方向を見ながら、思い出すように言った。

 言葉を咀嚼してみる。外に希望を見出せず、内に希望を見出すから……ブルックスなのだろうか? だが彼女は罪など犯していない。そもそも商品の状態に、どうやって希望を見る。なんで逃げようと言い出した?

 

「私ね、ここに来る前も、ずっと檻の中にいたの」

 

 ナイフを持つ手に力が籠った気がした。慌てて会話を引き延ばそうと試みる。

 

「落ち着いて……話そう。どんな檻?」

 

「他とは違う、から普通になっちゃだめ……普通と一緒になっちゃだめ、っていう檻……かな? こんな肌だから、ね」

 

 腕を見せながら言った。霜のような白い膜が肌色を部分的に隠している。

 氷の肌。冷気を出し続ける肌だ。制御もできない冷気だ。今だって他の商品に悪影響があるといけないから、一人独房に入れられている。

 日常生活を送ることは至難の業だろう。だから普通の日常に行かせないための檻があると思うのは、仕方がないかもしれない。親の教育もあったのかもしれない。

 

「でも時々抜け出したりもして……その度に絶望して……疲れた。わかってるのにね。檻の中にいた方が……安全だって。外に飛び出したら傷つくなんて知ってた」

 

 ああ、そうなのだな。彼女も、かつては外に希望を抱いていたのだ。たぶんブルックスもショーシャンクに入ったばかりの頃はそうだったろう。だが、外を恐れ、内に安心を抱き始めたのだ。そうなったら、どうしようもないのだろう。

 だが、彼女は本当にブルックスか?

 

「檻の中には絶望しかない。かといって、外が希望に溢れてる。そんなこともない」

 

 それを聞いて確信する。彼女は、ブルックスじゃない。

 

「だから……死ぬの。もうちょっとましな……”何も感じない”に行くまで」

 

 彼女はナイフを握り直す。その表情からは、何の恐怖も読み取れなかった。自分の運命に心から納得して、笑みすら浮かべ始めそうな表情だった。

 

「昨日の質問に答えたげる。希望は、とっくに死んでる。心から思ってる」

 

 俺は、大きく息を吸った。

 

「じゃあね……」

 

 そしてナイフは彼女の首を、頸動脈を深く──

 

「──そんなことない!」

 

 彼女の肩がびくりと弾け、眼が揺れながらこちらを捉えた。

 氷のように冷たくとがった刃物は、彼女の首を薄皮一枚切った所で止められた。皮膚の内側から流れるほどの出血ではないが、内側に赤黒い血が溜まって細い線を作っている。

 

 その叫びは思っていた以上に反響して、俺と彼女の鼓膜を大いに揺らした。だからだろうか、止めてくれたのは。

 

 おかげで……言葉を送れる。少なくとも話はできる。

 

「いいものは──希望は、決して死なない。腐らず、滅びない」

 

「……死んだよ。死んでるよ」

 

「違う! もしそうだとしても何度でも蘇るんだ!」

 

 俺は、そうであることを信じている。彼女はそうじゃない。それだけの話だが、ここからは説得だ。彼女にも信じさせる必要がある。

 

「君は自分をブルックスに例えた。じゃあ、何で、ブルックスは死んだかわかる?」

 

「……外との差についていけなかったから」

 

 ナイフを首筋に当てたまま、いつでも斬れる体勢で彼女は答えた。

 

「そう、それも正しい。でも……違うんだ、ほんとは」

 

 結局、人生で大事なこと。全てなんじゃないかって思うこと。それを、今から告げる。

 

「一緒に生きる人がいなかったから、死んだんだ」

 

 彼女は目を広々と開けて、ほんの少し嘲るように口をゆがめて、苦々しく眉をひそめた後、優しく口を開いた。

 

「……その人に、君がなるって、いいたいの? 笑わせないで、君は……まだ、檻の中にいるでしょ」

 

 そう。冷めた反応になって当然だ。俺が尽くせるのはせいぜい言葉だけ。行動が伴っていない。檻の中にいるという言葉も、その通りだ。漣家という檻に、俺はまだ入ったまんまだ。

 

 でも。今から、抜け出すんだ。

 

「……もう一つ話の続きがあるんだ。あの烏のこと。ブルックスが仮釈放される前に放した烏のこと」

 

 覚えているだろうか。ブルックスが飼っていた烏の雛だ。内ポケットに入れて、食事に混入されていたワームを食べさせていた。仮釈放される前に、小さな窓から出したあの烏だ。

 

「これは俺の解釈だけどさ……あの烏はたぶん、死んだんだ」

 

 そう告げると、彼女はどこか悲し気な表情を浮かべた。

 

「これまでブルックスに餌を与えられて生きてきて、自分で食糧を獲得したことのない動物が、野生で生きていけると思えない」

 

 実際どうだろう。本能で何とかなるだろうか? だが狩りのやり方を全く身につけず、ただ与えられたばかりで育ち切った獣は、果たして獣と言えるのか? 家畜だったんじゃないのか。野生で生き抜く力などないのではないのか。そう思う。

 

「でも、ブルックスと一緒だったら、きっと生きていけたんだ」

 

 ブルックスと一緒にショーシャンクを出られたなら、烏にとって状況は大して変わらないからだ。

 

「そしてそれは、ブルックスも同じなんだ。あの烏と一緒なら、彼だって死ぬことはなかった」

 

「なんで……?」

 

 彼女は黙って聞いていたが、ナイフを当てたまま、口を開いた。

 

「人は、支え合うものだからだ。烏はブルックスに、ブルックスは烏に支えてもらうんだ。一人で生きるのがつらくても、二人なら、そのつらさを分け合える」

 

 互いが互いを支え合う。相互補完の関係。どちらかが欠けたら終わってしまう関係かもしれない。でも、そんなものが、永遠でないものが、結局俺たちには必要なのだ。

 それによくいうだろう、人という字はなんたらと。

 

「俺も俺の”檻”を抜け出そうと思う」

 

 漣家という、役目という檻。

 

「俺だっておかしいって思っていた。人間が人間に値段をつけて、当人の意志と無関係に買いたたくなんて、間違ってる。役目なんかじゃない。俺が、俺のため、君のために、この家という”鳥かご”から抜け出すんだ」

 

 力強く言った。漣家であることをやめて、この家から抜け出して、あなたと生きたいという決意表明だ。なよなよした態度は見せられない。

 

「どんな荒れ狂う空が世界があっても……君となら、きっと羽ばたいていけると、思うから」

 

 たとえハリケーンだろうが、ブリザードだろうが関係ない。二人ならどんな障害があっても乗り越えていけると、本気で思っている。

 彼女が俺に、色々なことを気づかせてくれたからだろう。信頼していた。

 

「……ありがとね」

 

 彼女は、眼を下に落として笑った。

 だがナイフは首にあてたままだ。

 

 そして純粋な疑問をぶつけるように、平然とした顔で問うた。

 

「でも、わかんない。なんで君が私のために、そんな危険なことするの?」

 

「……それは」

 

 少し返答に困る。言い難い──訳だが、いや言わなければならないと、気持ちを強く保ち言葉を紡いだ。

 

「君との時間が、癒しになってくれたから……体だけじゃなくて、心も……」

 

 顔に血が集まって来る感覚を覚えた。

 単純な言葉で表せなかった。慌てて何か言葉を挟まれる前に口を動かす。そんなことしないと思うが、茶化されたくなかった。

 

「で、でも、それだけじゃないよ。君は自分をブルックスにたとえたけれど、本当は違うんだ」

 

 話を逸らす。そう、彼女はブルックスじゃない。罪は犯していないし、ブルックスのように檻の中に自分の居場所があるとも思っていない。

 

「君は、アンディーなんだよ。罪など一つも犯していない。雪のように真っ白なんだ。そんな人が檻の中にいるなんて、おかしいんだよ」

 

 この家にいるとわからないが、でもほんとは当然のことなんだ。俺たちがおかしい。特に罪も犯していない人を勝手に誘拐して売り飛ばすなんて間違っているのだ。

 

「そしてさらにいうよ。レッドが、何で希望を持ってジワタネホに向かったからわかる?」

 

 問いだが、答える前に話を続ける。

 

「アンディーと、友達と一緒にいたかったからだ」

 

 そこが、ブルックスとの違いなんだろう。ブルックスは孤独だったが、レッドには約束があって、だから同じ結末を辿ることはなかった。

 

「誰かと一緒にいたい、誰かと生きていたい……それが、それこそが、人生の希望なんだ!」

 

 だからこそ、俺はそれこそが希望だと信じている。

 そもそも人間は一人じゃ生きれない。昔からずっとそうだ。狩猟採集の時代から農耕になって、現代に至るまで、ずっと集団で生きて来た。独りじゃ生きれないようにできているんだ。

 

 独りだと絶望してしまうようにできていて、誰かと一緒なら希望するようになっている。それが、人間なんだ。

 

 だからこそ、一緒にいたいと思っている。俺もこの家じゃ独りだ。

 

「俺は……君と生きたい」

 

 ナイフを持つ手が、明らかに緩んだ。

 

「君と海を見に行きたい」

 

 ジワタネホのように美しく、勇大な海だ。貝殻でも拾いながら、足だけ海に浸かる。二人で行けたらいいと思う。

 

「君と酒を飲んでみたい」

 

 酒はたぶん弱いだろうけど、頑張って飲むだろう。一緒に飲もうと言ってくれた。たぶん俺は見栄を張って飲む。そんな俺を見て「ばかだね」と笑ってくれたらいいと思う。

 

「君とまたご飯を食べたい」

 

 けらけらと笑う君と、何でもない食事を共にしたいと思う。俺が早く食べ終わって、洗い物をしている時に、ちょっかいでもかけてくれたらいいと思う。

 

「それって、希望に……ならないかな」

 

 そんな希望を、口に出した。俺も恥ずかしくなった。思わず口がもにょもにょとして回らなくなる。彼女の方を恐る恐る見た。

 

 彼女は、白い肌をほんのり赤く染めて、眼を伏せて、ぽつりと降り出した雨のように言葉を紡ぎ出した。

 

「……みんな、私のこと、みんな──最初は、そんなこという。でも最後には私を嫌になって、私は……絶望するの」

 

 俺の知らない話だ。そういえば彼女との会話は、ほとんど映画とか、くだらない世間話だ。彼女の自身のことは全然知らない。

 

「この肌のせい。みんな、私を嫌になって、売り飛ばす」

 

 それでも、それでも、だ。

 でも単純な言葉じゃダメだろう。俺はそんな奴とは違うと証明しなければならない。

 

 彼女が持つナイフに力が加わる。焦る。思考をフルで回してどうにか言葉を捻り出さねばならないが何を言う?

 

 今になって後悔がみぞおちを貫いた。もっと彼女自身のことを知ればよかった。切り出せるカードがない。俺にできるのはショーシャンク関連の会話か、勢いで押すばかりの詭弁だけだ。

 

「だから、ごめんね。私はもう、希望が絶望に変わるのが、耐えられない」

 

 ──それならば、それなら!

 

「なら──なら! 賭けを、しよう」

 

 希望が絶望に変わることを恐れるならば、ならば、何とかして見せる。永遠の希望の作り方だ。

 

「……賭け?」

 

「そうだ。俺と君が、再開できるか否かの、賭け」

 

 計画は練ってある。準備も万端だ。博打が多いことを除けば完璧な計画だ。賭ける価値は十分にある。

 

「俺は君を何がなんでも敷地内から出す。逃がす。騒ぎを起こすんだ。家の人全員俺から目を離せなくなるような騒ぎだ」

 

 どうやって騒ぎを起こすかは、また後で言う。だがそんなに奇想天外なものじゃない。単純明快だ。つまらないやり方だろう。だが可能性はある。一人のファクターがいるおかげだ。

 

「その間に君は正門から、白昼堂々外に出るんだ。そしてちょっとした作戦に従って、遠くの土地に行ったら……そこからは君の自由だ。何をしたっていい」

 

 酒をしこたま浴びるのも良いだろう。海を飲み干すように見るのも良いだろう。

 

「でも……もしも俺が君の元にたどり着けたら、その時は約束してくれ──一緒に、生きる」

 

 彼女の目に、光が戻る。

 ナイフを下ろした。握っているが、緩い握りだ。首筋を流れる血は既に止まっている。凍っているのかもしれない。

 

 当然の話だが、“死なない“は前提だ。この期に及んで彼女が死ぬことなどは一切考えていない。彼女が自殺するとしたら今だし、目的地に着いたらさすがに生きるだろうと思う。

 

「……どこで待てとか、いわないの」

 

「いわないさ。自由なんだ。でも完全な自由は君を殺してしまうだろう。だから、たった一つの約束(そくばく)をした」

 

「いつまで待てるかわかんないよ? そもそも、この約束じゃ……また、絶望する……」

 

「違うさ。君は絶望なんかしない」

 

 言い切る。不確定、不安、不都合な要素は多々ある。それは俺も知っている。だというのに俺は言い切っている。

 

「なんで、何でそういい切れるのっ」

 

 彼女は、俺が余りに強く言い切るからか、根拠のない自信に対して憤るように語勢を強くした。

 

 当たり前のことさ、俺は平然と呟く。何一つ間違ったことは言わないと、胸を張るように。

 

「待ってる間は……来るか来ないか判然としない──"わからない"間は、希望は、消えないだろ」

 

 

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 彼女はナイフを床に落とした。

 

 蓋を開けるまで、箱の中に何が入っているかはわからない。袋の中を覗くまでは、欲しいゲームが入っているかもしれないし、欲しくもない勉強道具が入っているかもしれない。思い人がもう待ち合わせに来ないと確信するまでは、待つ人は信じてラブレターを汗ばんだ手で持ち続ける。

 

 どうなるかわからないこと。それは希望にだってなるし、絶望にだってなり得るということだ。俺だって彼女の元にたどり着けるかわからない。時間がかかるかもしれない。五体満足ではたどり着けないかもしれない。

 でも、希望している。たどり着けることを。彼女も俺がたどり着くことを希望して欲しいと思う。

 

 結果がわからない内は、希望絶望の可能性は半々だろう。

 

 彼女の相貌が大きく見開かれた。そこにはかつて絶望を映してきた、黒々とした瞳はない。そう信じることにする。

 

「……じゃあ、作戦をいうよ──」

 

 さあ、ここからは漣伯理、一世一代の大芝居だ。もう一度気合を入れ直そうと、俺は自身の頬をぱちんと両手で叩いた。

 

 

 まず選択肢から排除したのは、二人で遠くへ逃げ出す、というものだった。

 

 今の彼女を独りにしていいのか。一人でどうやって彼女が逃げるのか。そこら辺は考えたが、二人で逃げ出すよりも成功率が高いと判断している。

 

 理由は単純だ。俺が不安要素だからだ。

 

 家族はみんな妖術師で、俺だけ妖術師じゃない。兄さんがかつて言っていた。妖術師になると、自分に仕掛けられた妖術をある程度は探知できる。

 

 だが俺は妖術師じゃない。俺は自分にどういった術が仕掛けられているかわからないのだ。父さんも兄さんも信用できない。父さんの“蔵”に俺も登録されていたら? 俺がどう逃げても探し出せるように妖術的な跡を付けていたら?

 

 俺だけ不安要素が多すぎる。俺が足かせになる可能性は高い。だから二人で逃げることはできない。

 

 で、そうなって来ると、とにかくこの漣家の敷地から彼女を出すということに専念する必要がある。一度出れば捜索範囲は広がる。漣家の敷地内を探すと、敷地外を探すなら、後者の方がかなり面倒くさいだろう。

 

 ちなみに、今日を逃せばチャンスはない。今日が蔵に搬入する日だし、父さんが外出しているのも今しかない。父さんがいたら一瞬で俺の作戦は終わるのだ。くだらないことをやるから。

 

 で、彼女を敷地内から逃がす。だがどうやって、という話になる。敷地内は妖術師も普通の人間も常時目を光らせている。

 

 他にも、漣家邸宅は山中にある。移動手段が徒歩では追いつかれるだろう。また門番もいる。下手な動きは疑心を生む。

 だがとりあえず移動手段はトラックで確定している。運送用のトラックが一台倉庫に置いてある。最初の段階は、それを使ってとにかく敷地外へ脱出してもらう。

 

 とりあえず色々な問題が山積みの中、思いついた解決策が、騒ぎを起こしている間に敷地外へ抜けてもらうという手段だった。

 

 だがとんでもなく大きな騒ぎじゃなきゃダメだ。家じゅうの人間をくぎ付けにしてしまうような、雷のように鮮烈な音を伴って現れる光の如く、衝撃的なものでなければならない。

 

 では何をするか? 売り者が逃げた? それじゃ警備を厳重にするだけだ。暴れてみるか? いやたぶん、殺される。というか俺なんかじゃ親類の子ども妖術師にすら敵わない。父さんに頼む? 無理に決まってる。

 

 じゃあ、どうすればいいのか。彼女を、生きてここから脱出させるにはどうすればいい。

 

 そう思ったとき、気がついた。

 

 人の命を一つ、救おうとしているのだ。ならば、自分の命を一つ賭けるくらいしなければ、割に合わない。

 

 だから──

 

「全員、俺を見ろぉおおおお!!」

 

 冷静に考えると馬鹿なことをやることにした。

 

 漣家邸宅。弐階建ての一番高い場所。その瓦の上に両足を突き立て、腕を後ろに組み、腹から思い切り声を出した。がなり声だ。人生で最も大きな声を出したかもしれない。

 

「伯理……?」

 

 最初に俺に気づいたのは、双子の弟、天理だった。

 

「俺は今から、自殺を決行するぞぉ! この爆弾で爆散してやるぞ!」

 

「はあ?」

 

 腰に巻き付けているのは、数個の手榴弾だ。右手に一つ手にとって掲げた。

 

「知るか。勝手にやって──」

 

「ナイフで首を切って鮮血をまき散らしてやるぞ! やるぞ!」

 

 左手にナイフを掲げた。だが大事なのは声だ。大声をとにかく張り上げる。なんだなんだと家にいるきょうだい達が集まって来た。

 

 高所に立つと、地面に立っている時よりも視界が広くなったように感じる。それぞれの顔がどんな表情かわかる。

 広い庭に、数名の知った顔がいる。嘲るように笑う顔や、騒ぎを起こすなと咎めるような顔をするものがいる。だがまだ目的の人物はいない。

 

 いや、来た。うるさい足音がする。じゃりじゃりと庭に敷き詰められた石をまき散らす音が聞こえる。あいつだ。

 

「いったい、何のさわ──!!」

 

 漣宗也。ファクターだ。

 

「ああ来た。ほら、兄さんがいじめすぎたから、ついにあいつ錯乱しちゃったよ」

 

 天理がため息交じりに言った。

 

「おお……伯理ィ……! なんて、なんていう……」

 

 兄は震えている。顔が見えない。どっちだ。あいつが乗ってくれないと、とりあえず計画は破綻する。

 頼むぞと祈るように見つめた。こればかりは宗也の機嫌と、その時の気分次第だ。出会っても殴られない日とか偶にあるし。だから頼む。当たりの日であって──

 

「──なんてかわいい奴なんだ! そして、この、この夢にまでみた、兄が弟を説得する感動のシチュエーション!」

 

 くれた。最高だ。その調子だ。騒ぎをさらに大きくしてくれ。

 

「最高だ! 伯理ィ! 今からお前を説得するぞ!」

 

 涙をまき散らしながら宗也は大きく手を広げて叫んだ。とてもじゃないが説得する体勢じゃない。ゴリラがドラミングをする予備動作に見える。

 

「そんなもの捨てて兄ちゃんの胸に飛び込んで来い!」

 

 うるさい黙れイかれ野郎。だがありがとなくそ野郎。お前なら無駄に騒ぎを大きくしてくれると信じていた。

 

「うわー……」

 

 天理がドン引きしているが、知った事じゃない。俺はふざけた作戦を大真面目にやっている。誰に何を言われようがシリアスだ。

 だから、俺もそのウザい兄弟のノリに付き合ってやる。騒ぎを無駄にデカくしてやる。

 

「来るなァ! 俺は爆弾を持っている。ナイフも持っている!」

 

 手榴弾を体に巻いている。父さんが仕入れていたものだ。置き場所を雑務の時に知ったのだ。ナイフは倉庫に多々あった。

 

「少しでも近づいたら、斬る。爆発する。死ぬぞ!」

 

 彼女のようにナイフを首筋に当てた。痛みが走る。切れている。生温かい血が汗のように垂れ、タートルネックに滲んだ。

 赤色を見て多少は観衆たちも衝撃を受けたのかどよめいた。しかし緊張感は皆無だ。一人だけ宗也が叫んでいるのもシュールさを際立たせている。

 

「……どうする? 別にあいつ死んでもどうでもいいけど……」

 

「止めると“あれ”が何か怒りそうだよね」

 

「駄目に決まってるだろ伯理ィ! やめるんだァ!」

 

 ああくそっ! 自分の弱さ、存在価値の低さが恨めしい。

 

 きょうだい達は少し冷静になりつつあるのか、ひそひそと叫ぶ宗也をしり目に話し合っている。

 

「まあ、とりあえず父さんに連絡して、どうするか決めよっか」

 

「伯理が錯乱した自殺しそう。放っておくか殺すか……みたいな感じで。外出中だもんね」

 

「そうか伯理ィ! この前おかしなこといい出したのも、兄ちゃんに助けを求めてたんだな! 気づかなくて悪かったよ伯理ァ!」

 

 だが、計画通りだ。ぞくぞくと人が集まっている。宗也が無駄に騒いでいるおかげだ。使用人など漣家外部の人間もこの騒ぎが何だと知りたいのか集まってきている。

 

 後は門番までこの騒ぎが届けば──

 

 

 ひざしが燦々(さんさん)と照り付けている。冷たい汗が暑さと緊張で背中を伝った。

 

「……」

 

 私は、物陰から門番たちを見ていた。数は二名だ。門を挟むように両脇に立っている。

 

 脱出するため彼が用意してくれたトラックは、エンジンを切って門番から見えない位置に置いている。彼らが守る門は開いていた。開ける手間が省けるのはいいが、門が開いているのは誰かが入ってくるからじゃないかと、不安に思った。その人に見つかれば大変だ。

 

 騒ぎはここまで薄っすらと届いている。野太い知らない声と、聞きなれた彼の声だ。前者の方が圧倒的にうるさい。

 

「おい、なんか通信来たぞ……は? なんだそりゃ」

 

「いやなんか、妖術使えない坊ちゃんが自殺するぞって暴れて、それを止めようと次期当主の坊ちゃんが泣き叫んでるらしい」

 

 門番の元まで騒ぎが届いたようだ。

 話を聞くと、カオスな光景が想像できた。あんまり見たくない光景がそこには広がっているだろう。

 

「つっても、別に取り押さえればいいだろ」

 

「それがなんか爆弾体に巻いてるんだってよ」

 

 今思ったが、わざわざそんなものを見に行こうとするだろうか? 急に不安になって来た。彼の作戦が何だか冗談みたいで、さっきまでの緊張感がどこか薄れているように感じた。

 

「ちょっと見に行かないか?」

 

「行きたきゃ行けよ。持ち場はなれるのは怖い。当主様は外出中だが、そろそろ時間だ。もうすぐ戻られるだろう」

 

 意外だが見に行こうという流れになっている。

 真面目な門番と、少し野次馬根性がある門番のようだ。一人はなんとかなりそうだが……もう一人はどうだろう。

 

「ちっ、じゃあ一人で行くか。門番任せたぞー」

 

「ああ」

 

 門の両脇に立っていた、その内の一人が邸宅の方へ駆けていく。もう一人はそれを見送るだけだった。

 やっぱり、か。それはそうだ。希望なんて、持つから絶望する。やっぱり、彼のいうことは──

 

「……」

 

「……やっぱ俺もいこ。どんな状況だよ」

 

 そう言って、もう一人の門番は駆け足でさっきの男を追いかけていった。

 

「……はあ」

 

 職務放棄だ。誰も彼もみんな、役目を果たさない不良ばっかりだ。

 

 辺りを見渡す。人影はない。みんな騒ぎの場所に集中しているようだ。

 

「……」

 

 もう一度、ため息をついた。

 

 用意してもらったトラックに乗り込む。よくよく見ると、私をこの倉庫まで運んできたトラックだ。まさか脱出する時もこれに乗ることになるとは思わなかった。

 

 助手席にはいろいろ置いてある。服や帽子などだ。まあこれは後で見ればいい。とにかく今は、この家の敷地内から抜け出そう。

 

 エンジンをかけた。

 

 エアコンの風が吹きつける。私には必要がないから消した。サイドミラーを開いて、シートベルトを締める。座席も動かした。久しぶりの運転だから順番はぐちゃぐちゃだ。まあいいだろうと、レバーをドライブに。

 

 そしてアクセルを踏み込んだ。当然だが普通の乗用車より重く感じる。

 

 門は既に開いていた。景色がぐんぐん迫って来て、ちょっと怖くなってブレーキを緩く踏んでスピードを落とす。

 

 何だか現実味がないまま、開いた門に向かっていって。

 

「……」

 

 門を通り抜けた。

 

「……ほんとに、抜けれちゃうとは……」

 

 その時、自分の中になにか熱いものがこみあげて来るのを感じた。これは何だろうか。わからない。

 

 でも、不思議と嫌なものじゃなかった。

 

「……もう少しだけ、頑張るか」

 

 門を抜けたら、死のうと思っていたが、やっぱりやめた。

 

 彼の説得を受けても、私はそこまで変わっていない。相変わらず希望は死んでいると思うし、希望を語る彼の目は私には眩しすぎると思う。

 

 そもそも彼にうまく乗せられたようにしか思わない。何か文句を言う前に押し切られてしまった。それが無性に気に食わないなと思ったりもしている。

 

 だがまあ、もう少しだけ彼の指示に従ってみよう。せっかく彼も頑張ってくれているし。

 

 そう思って、山道へ向けてハンドルを切った。

 

 

 窓枠に映る景色が動く車の中。白髪でオールバックの男が、電話をしている。

 

「……ああ。万事、滞りはない」

 

 漣京羅。漣家当主だ。彼は今、とある取引先と電話をしていた。

 長電話だった。ビジネスパートーナだ。当然仲良しだからではない。いろいろと確認すべきことが多々ある。こちらからとしても、向こうからとしても。

 

「楽座市も例年通り開幕する。妖刀は目玉の商品だよ。食いつかないはずもない」

 

 彼には一つ気づけなかったことがあった。

 

 彼が今向かっている漣家邸宅では、一つ騒ぎが起こっていて、それをどう対応するか聞くため、携帯電話に着信が一件届いているが、長電話によって遮られている。

 

 そして、後部座席に座る彼には、電話に熱中している彼には、気づけないことがもう一つあった。

 

 トラックが一台対向車として向かってくる。すれ違う。一瞬のことだった。

 

「『真打』は必ず……計画通り“奴ら”へ売り渡せるよう仕向けるとも」

 

 彼は──流れる景色の中。すれ違った一台のトラックに乗る運転手の容貌に、目を向けることができなかった。

 

 

 ……結局、俺の錯乱は小一時間ほど続き、観衆が飽き始めた所で、宗也が無理やり殴り飛ばして結末を得た。

 

 で、あっという間にロット番号24がいないことがばれ、一瞬で俺が逃がしたことがばれて、俺が無言を貫くので、現在拷問を受けている最中である。

 だが拷問を受けるに至るまでに、できる限り時間を稼げたので、拷問が始まったのは彼女が脱出してから一日後だった。

 

「……ふう」

 

 ため息をついて、ぼうっと部屋を見た。見渡す限り拷問器具だらけの部屋だ。ペンチとか、鞭とか。見たこともないものもある。

 今はちょっと休憩が入ったので、一息つけている。拷問は外部の人間がやるのか、初めて見た顔の男が、今さっき暗い部屋から出ていった。

 

 普通に拷問を受けていると言ったが、漣家はこれくらいやる。だが拷問中は少なくとも死ぬことはないし、内容はスタンダードなものだ。ブラックジャックで殴られるとか、爪に針をぶち込まれるとか。

 

 兄さんのおかげか、痛みには慣れている。しかし、終わりがあるのとないのとでは苦しみ方が違う。兄さんの愛情表現は耐えていれば終わるが、これは俺が彼女の居場所を漏らさないと終わらない。

 

 とりあえず今のところ、爪は全部剥がれたが、まあ問題ない。また生えて来るものだ。次から歯辺りが狙われそうなのが嫌だが、まあしょうがないという奴だ。魔法の言葉だな。自分を納得させる上で。

 

 そんなことを考えていると、扉が開いた。

 

「父、さん……」

 

 反射的に腕に力が入り、拘束がぎしりと軋んだ。

 暗い部屋に急に光が差した。休憩終わりかと思ったが違う。拷問官ではない。父親である漣京羅だ。

 

「全く、お前には失望した」

 

 怒気を孕んだ声で、父さんは言った。顔は見えない。

 暗い部屋だからだろう。光は扉から漏れ出たものだけだ。加えて逆光で、顔の全貌は見えない。だが想像はできる。きっと最高にきれている。

 

「商品の面倒を見る……こんなこともできないばかりか、お前自身が商品を逃がしただと? 馬鹿らしい」

 

 “こんなこともできない“。その通りだ。俺にはどうやら荷が重かった。だがこういう時、俺に責任が行くだろうか? 任せた奴が悪いという考え方もあるだろう。つまり俺を信じて任せた父さんが悪い。……自分で言って、最低の思考だ。

 

「お前がどれだけ沈黙を貫こうと無駄だ。既に妖術師を呼んでいる。時間が経てば商品の居場所は割れる」

 

 父さんは俺を絶望させようと、強い言葉を使っている。

 

「早く楽になれ。言えば今回の件は不問にしてやるから」

 

 父さんは俺に近づいて、かがんだ。俺の顔を覗き込むようにして、優しく、父が子に諭すように言った。

 

「父さんのいうことを──」

 

「……妖術師を呼んでも、無駄だよ」

 

 拘束されているが、ぎしりと体を動かしながら答えた。

 父さんを睨みつけるのは初めてだ。父さんは少し驚いたのか、姿勢を正し、俺を見下すように見ている。相変わらず逆光で見えないが……多分憤怒の表情だ。蟻に噛まれたらいらっとするだろう。それと変わらない。

 

「……何?」

 

「足取りは掴めない。絶対にね」

 

 自信満々に言い放った。

 今の俺の顔を鏡で映し、定型文を尋ねたら、鏡はきっとこう言うだろう。『あなたが一番どや顔してる』。

 

「彼女の痕跡は消してある。丁寧に掃除したから。産毛すら落ちてないよ」

 

 徹底的に掃除したのだ。三週間ほど人がいれば、当然抜け毛はたまるものだ。床をはがす勢いで綺麗にした。彼女にも手伝ってもらっている。

 だが、たぶん一本だけ見つかるだろう。少し短めの白い髪の毛だ。

 

「妖術師は、全く理解の及ばないものじゃない。因果関係に基づいた力だ……ったと思う」

 

 父さんが言っていた。繋がり。家族が威葬という妖術を使えるのは、遺伝のおかげだ。つまり血の繋がり。これが妖術にはとても大事なのだと、思う。

 

「写真じゃそれにならないさ。写真は“繋がり”と認識できない。血とか、髪の毛とか……そういうのじゃないと駄目なんだ」

 

 彼女の髪や血を保管してる? 目で問う。してないだろう。

 

 あんたは、自分くらいしか本気で信用してないかもしれないけど、俺たち漣家の子どもが“役目の信奉者”だっていうことだけは、信じてる。

 絶対に役目に逆らわない。たとえ死んだって逆らうことはない。それだけは信じてる。

 

 だからこそ、俺が彼女を逃がしたっていうのは、超絶大誤算だろう。あんたも含めて、誰も彼もが役目の信奉者だ。殉教だってできるくらいの。俺が役目に逆らう姿も全く想像できないはずだ。

 商品が逃げ出したという前例も聞いたことはない。蔵に入れば脱出の方法はない。

 

 父さんは冷たい声で問う。

 

「なぜそんなことを知っている」

 

 繋がりの話だろう。知っているさ。俺だって漣家だし、役目を、何も果たしていなかった訳じゃない。できる限りのことは、やっていたんだ。

 

「……知っているさ。俺は雑用……連絡係だ」

 

 真似て、憧れていたんだ。レッドを。調達屋を。ちょっと似ていて、これだけは辞めたくない仕事だから、全力で勤め上げたんだ。その過程で知ったことなんだ。辞めないために努力することだって、できるんだ。

 

 父さんは、もはや家族を見る目をしていないだろう。逆光で見えないが、身に纏う雰囲気から容易に想像できた。

 

「貴様は、漣家として不適格だ。使命も、役目も、何一つ果たさぬどころか、我々の邪魔をするだと?」

 

「……」

 

「恥を知れ。出来損ないが」

 

 そう言われて、眼を下へ向けた。だがすぐに上げて、睨み返した。俺は意外と冷静だった。動悸が激しくなって、胸の奥が締め付けられることもない。

 それよりも、父親に睨み返すのは新鮮な気分だなと、思う。口答えしようと思ったのも初めてだった。だというのに冷静だった。

 

「役目……だよ。父さん」

 

 父さんは眉をぴくりと動かす。

 

「……何?」

 

「彼女の希望を、二度と殺させない。それこそが俺の役目だって、気づいたんだ。気づいてしまったんだ」

 

 役目だ。父さんにも、俺にも、誰にだってある。人生で果たすべきものだ。

 彼女の希望が死ぬっていうことは、俺の唯一絶対の信条に反することだ。何より、大事な人間だ。商品などにはさせたくない人間だ。この役目ばかりは失敗する訳にはいかない。何が何でも、是が非で。

 

「だからね父さん。何をいわれたって、何もいうことができないよ」

 

 そう。死んでも、言わない。絶対に彼女を生かして見せる。

 

「それが、俺の役目だから」

 

 ──ここで思った。俺もやっぱ、漣家だ。

 

 役目の信奉者だよ。役目を果たすため、彼女のためなら殉教できる。

 

 そう。死なない希望の作り方だ。彼女が俺を信じている内は、希望は消えない。

 

 つまりだ。もしもここで俺が死んだって──絶対死ぬつもりはないけれど──彼女の希望は滅びないんだ。彼女が死ぬ、その瞬間まで俺を待ち続けることができたなら、死んでないだろう、希望は。

 

 ぎらりと父さんを睨みながら、俺は言った。父さんの顔はわからないが、きっと過去最大級に怒っているだろう。怒られた記憶はあまりないが、確信できる。そんな雰囲気があった。

 

「……勘当だ」

 

「……へ?」

 

 間抜けな声が出た。

 

「二度と漣家の敷居を跨ぐな」

 

 そう言い残して、父さんは拷問部屋から出ていった。

 

「……」

 

 そこからは、あっという間に拘束を解かれ、簡単な治療を施され、あれやこれやをいう間もなく追い出された。荷物は一週間くらい生活できそうな金と、服が二着くらいだ。

 

 思いのほか十分な荷物だった。それに殺される以外なら何でもいい。邸宅に向かって一礼して、俺は歩き出す。

 

 彼女が逃げ出してからおそらく二日は経っている。様子的にはまだ見つかっていないだろうし、とりあえず安心だ。

 

 山道を歩く。コンクリートで舗装された山道には葉っぱや枝が転がっている。俺以外の人の気配は感じない。

足音が一つ。落ちているものを踏んだ時に鳴る自然な音がちらほらと。あと虫の音が響いている。

 

 でも蝉の音は聞こえない。もう。夏も終わりだ。

 

 下り坂を徒歩で。放っておくと勝手に勢いがついてしまう。すねの筋肉で毎歩毎歩ブレーキをかけるように歩く。

 

 ふと、空を見上げた。夜だ。月が俺の番だと言わんばかりに夜空を照らしている。街灯もない山道だが、月明りが眩しいから、十分だった。

 

「……父さん」

 

 誰に向かってか、呟いた。

 

 ──知ってるよ、父さん。あなたは俺を許さないってこと。根拠は何もないけれど、追手は既についてるんだろう? わかるよ。

 

 軽く振り返る。相変わらず気配とかまるでわからない。ただ上り坂の山道が、闇に包まれてそこにあった。でもわかるよ。いるんだ、絶対に。父さんが役目に逆らった者を、何の策もなく逃がすなんてあり得ないんだ。

 まあ逃がしてくれたのは、多分、俺が役目に殉ずる覚悟がある側の人間だと気づいたからだろうけど、それなら逃がす必要はない。明確な目的があって逃がしたに決まっている。

 

 でも、俺を追ったって意味はないよ。彼女とは当分、会わない。会えない。

 

 父さん。あんたは二つ、間違ってる。まず一つ、俺を甘くみてるんだ。いつまでも子どものままだと思ってる。俺だって、すぐ落ち合うなんて馬鹿をやったら終わるって知ってる。

 

 少しネタバラシをしようか。これから父さんたちがすることだ。

 

 父さんたちはこれから、とりあえず妖術師を呼んで、彼女のいた部屋からを採取しようと躍起になるだろう。捜索に特化した占い師みたいな妖術師がいて、妖術の発動条件が対象の髪の毛や血液があること、なのだ。だから髪の毛、体毛一本でも見つけられれば、それで勝ちだと思ってる。その次いでに、周辺の聞き込みとかで捜索をするだろう。

 

 で、熱心に体毛を探し続けていると、牢屋の隅の隅に一本の髪の毛があることに気づく。白い髪だ。おそらく彼女の髪の毛だと思うだろう。大喜びして、妖術師の元へ持っていく。

 ただ、髪の毛一本程度の繋がりだと、かなりの時間がかかる。二日三日……下手すれば一週間はかかるかもしれない。繋がりとして弱すぎるからだ。

 

 そしてその妖術師は、いきなり”わかった”と、示すだろう。

 

 “この髪の毛の主は、もうこの世にいないよ“

 

 何故こうなるのか? ものすんごく単純明快で、最低最悪な理由だ。

 

 俺の祖父の部屋から、持ってきたものだからだ。

 

 祖父が生前使ってた寝室を嗅ぎまわり採取した。あの部屋は長い間空き部屋だった。亡くなった後に誰かが日常的に使用していた訳でもなかった。

 我ながら最低だが、使えるものは何でも使わなければ、逃げられないと思ったのだ。そう、是が非でもって奴だ。

 

 で、そうなってくると足取りが途切れる。地道に聞き込みや監視カメラから映像をみつけるしかない。移動のトラックをどこに捨てたかくらいには、すぐたどり着くかもしれないが……正直余り関係ない。

 

 まあ、漣家は優秀だ。時間をかければ多分、彼女がどこに向かったかならわかるだろう。

 

 そういう訳で、ここからは最後の博打だ。

 

 漣家が地道な情報収集で足取りを掴めるか。

 

 彼女が先にそこへたどり着くか。

 

 どっちに賭けるか考えて、後者に持ち金全賭けだ。

 この博打を突破できれば、どこへ向かったかばれても、そうそう打つ手はないだろう。彼女の市場価値がどのくらいかわからないが、そこまでする必要があるかは不明だ。まあ面子の問題で追っかけ回すかもしれないけど……時間は絶対にかかる。

 

 ただ、父さんたちには致命的な見落としがある。もっとずっとわかりやすいヒントはあったんだよ。

 

 俺が、あの映画を愛してることを知ってたら……きっと気づいたはずだよ。

 色々憶測して、想像できるはずなんだ。彼女の足取りの情報が全く掴めないとして、俺が彼女と落ち合うこともないとしたら、もう一つしかないだろう。まあ選択肢はあるけど、その中でも最有力を決められるはずだ。

 

 尤も、彼女が最終的にそこへたどり着くとは限らない。でも結構な高確率で、そこへ行くと思うんだ。あれだけその場所の名を、彼女に告げていたから。希望の場所だといっていたから。

 

 まあ、どうなるかは結局わからない。神のみぞ知る。俺に今できることは、祈るくらいだ。

 

「……」

 

 それはさておき、これからどうするか。

 

 手当はされているが、けっこう俺の体はぼろぼろで、歩くたびに爪とか殴られた箇所に衝撃が伝わって、ずきずきと痛みが走る。傷も早く治さないといけないし、あと明日からどうやって生きるかも不明だ。

 

 漣家で過ごす日々は最悪だったが、一応衣食住はあって、国とやらがいう、“健康で文化的な最低限度の生活”はあった訳だ。仕事に対する給料も一応あった。

 だがしかし、俺の持ち金は彼女に全ベットしたし、おそらく監視がついているし、明日の寝床に困るような人間だ。根無し草である。

 

 彼女に会いにいく以前に、そもそも明日から生きていけるかわからない。まあバイトなら何とかできるか……?

 

 だがまあ、わかってるさ。それらは小さな事だ。

 彼女に再び会うには、しがらみを断ち切らなきゃいけない。見張りがついているなら、彼女の元へ行くのは駄目だろう。それに、彼女だけ特別扱いして、他の商品を無視して二人で逃げ出すのも違う。

 

「……できる限り、やってみるか」

 

 とりあえず、目標はできた。

 

 俺程度の存在がどこまで戦えるかといったら、RPG序盤の雑魚敵以下の戦闘力しかないだろうが……それでも、やらなくちゃいけない。

 次回の開幕まで、三か月を切っている。それまでにとりあえず金か協力者を集めるなりして、自分の手が届く範囲で、できることはやってやろう。

 

 楽座市を、ぶっ潰す。

 

 そう思うと、抑えきれない、溢れるばかりの覚悟が漏れ出たように、駆け出したくなる。

 

 そういえば何か目玉商品で妖刀……真打? とかいうのが出品されるらしいな。あれを盗めたら楽座市終わったりしないだろうか。

 

 まあとにかくやってやろう、そう呟いて、坂道を転がり落ちるように夜を走った。

 

 

 

 昔から、疑問に思っていた。

 

 どうして蚯蚓(みみず)は、外の世界へ行くのだろう?

 

 あの蚯蚓だ。ピンク色で、にょろりとしていて、ぬめっている。土の中にいる細長い、いまいち虫なのか何なのか判然としない、あの生物だ。それがよく、路上で干からびているのを見かける。

 

 なんで君たちは外に出るの?

 

 外に出た蚯蚓の末路なんて決まっている。干からびて死ぬだ。うまく外の世界が恐ろしく危険だと気づいた蚯蚓は、地中世界に戻れるかもしれないが、それでも危険を冒すなんて信じられない。実際に干からびた蚯蚓を何度も見ている。

 

 なんで死ぬのに、外へ出る?

 

 地中世界は暗いかもしれない。でも外より安全のはずだ。少なくとも地中世界ならば、干からびて死ぬことはないはずだ。

 

 そんな、死出の旅路へ向かう彼らが、ずっと疑問だった。

 

 でも、今ならば蚯蚓たちの気持ちもわかる。

 

 檻の外には、希望を見いだせる何か(・・)が、確かにあったよ。

 

 

 船を、降りた。

 

 夜。港、ではない。港ではなくて普通に整備はされていない、土の地面だ。

 周りを見ても、一隻の船以外に船影はない。おそらくイリーガルな船なんだろうと思うが、まあいいやと、伸びをした。

 異国の生暖かい風が髪を揺さぶった。入っていた場所との温度差もあってか、思わずくしゃみをした。

 

 船から降りたのは私だけではない。他にも初老の男性や、若い男女、母と子など……いろいろな人はあの船に乗っていた。

 

「……ふう」

 

 ハクリ君の作戦は、言っちゃ悪いが、単純だった。

 

「……」

 

 外国へ送るというものだ。

 

 漣家から抜け出して、すぐにトラックで山の麓まで下りた。そこでとりあえず一息ついた。

 移動時に肌を隠すための服は、助手席に一般的な冬服が置いてあった。肌に対する配慮だろう。分厚く、多少の冷気は通さない。

 あと帽子だ。できる限り帽子の内に髪を入れる。特徴的な髪色を隠すためのものだ。

 またお金も置いてあった。もらうのに気が引けるくらいの金額があったが、四の五の言うタイミングは逃していたので、とりあえず必要経費は惜しみなく使うことにした。

 

 着替えてすぐにまた運転を再開し、指定の場所へ向かった。市街地近くの貯水池だ。乗り捨てをするためだった。道端に置くとどこで降りたかばれるから池へ隠す必要があるのだろう。人影が少ない場所だった。おそらく見られていないはずだ。

 

 そこからはタクシーだ。一、二時間かけて港へ。厚着であることを訝しまれたが、冷房が苦手と返す。乗る直前だけ厚着をやめて、乗った瞬間にまた厚着にしたから、そこまでおかしくはないはずだ。

 

 港に着くと時間は夜だった。港には貨物船らしき船が泊まっていた。

 

 その近くにいた黒い服の男に、暗号を伝える。すると船内に通された。船長に会う。船長には事前に話が通されていて、金を手渡せばスムーズに許可が下りた。

 彼がこんな手段を知っていたのは、漣家の雑用の一環らしい。人を隠して運ぶ方法は結構知っているとのことだ。冗談交じりで彼はいっていたが、結構怖い話だ。

 

 私が乗ったのは、冷凍された魚を運ぶ貨物船だ。常人なら冷凍室に入ると凍死するだろうが、私は特異体質だ。冷気には大きく耐性がある。散々最悪な目に遭わされてきた体が、初めて役に立った。

 私の他にもいろいろな人が同じコンテナの中にいた。彼らは相当着こんでいた。

 

 ああ、行先は、なんと自由の国だ。彼がそれを意識したかはわからない。

 

 日数は不明だが、大体二週間ほどかかった。船旅は初めての経験だが、船酔いはしなかった。それよりも退屈が厄介だった。彼との檻の中の日々は、割と面白かったのだなと、その時になって気がついた。

 

 そして結構緩い感じで他国に侵入に成功した私は、とりあえず港近くの安ホテルに泊まることにした。金はありがたいことに船長が円からドルに換金してくれた。そういうサービス付きだったみたいだ。

 

「そういう訳で……」

 

 これで、やっと自由だ。

 

 私はベッドに寝転がり、天井を見つめた。氷の肌が相変わらず触れるものを冷たくする。時間が経てばベッドシーツも凍るだろう。

 

「……どうしよっかなあ」

 

 ここから、どうするか。

 

 結局やることは決まっている。生きることに取りかかるか、死ぬことに取りかかるか……二つに一つだ。

 

 自殺は、ベッドに寝転がったとき、すぐに頭に浮かんだ選択肢だった。

 

 アメリカは銃社会だ。日本とは違う。簡単に銃が手に入る。ナイフよりも簡単に死ねるだろう。弾を込めて、引き金を引くだけ。苦しみも頸動脈を切り裂くより、ずっと少ないはずだ。

 

 死は、意外と身近にある。死ぬ手段とか、可能性はそこら中に転がっているし、そもそも毎日何万もの人が死ぬのだ。だから別に私の死だって、ただの日本人がなぜかホテルで死にましたくらいの報道で、終わりだろう。

 

「……」

 

 しかし、死ぬよりも、今は疲れて眠たかった。なるほど、三大欲求は強い。睡眠欲は三つの中で最も強いと耳にしたことがある。確かに”死にたい”なんて贅沢で、生命の基本原理に逆らう欲望だ。

 

 じゃあ抗うのも無謀だなと思い、少しだけ私は寝ることにした。とりあえず昼まで待つことにする。

 

 

「……」

 

 目覚めてすぐ、ホテルを出た。チェックアウトの時間ではない。ちょっとした、買い出しだ。

 

 ホテルの外は別世界だった。

 初めて見る異種人に、道路が右側通行で、あと自販機がない。日本はやっぱり治安がいい方なのだなと思う。まあ楽座市とかある時点で嫌な国というイメージは抜けないが。

 

 とりあえず歩いてみる。すれ違う程度なら冷気は問題ない。

 

 ぼうっと服屋や町のパン屋を眺めたりしながら歩く。すれ違う人はじろじろと見て来る。日本人は珍しいのだろう。

 

 ふと、足が止まった。

 

 町のショーケースには、小型の拳銃が置いてあった。銃を販売する店のようだ。専門店だろう。余りにも自然に置いてあるから、頭がおかしくなったのかと思った。

 

 それは普通で溢れた雑貨商品の中、絢爛な宝石が用いられた装飾品のように、場違いにぽつんと置かれているように見えた。

 

「……」

 

 私は、店を通り過ぎた。

 

 そこからは、とりあえずスーパーマーケットで安い発泡酒とつまみを結構な量買った。お金は気にせず使えと言われていたが、気が引けたから飲みきれる量だけ。一応自由になってやりたいことに挙げたのだから、やっておくことにした。

 

 そしてホテルに帰る。

 

「──!」

 

 そこで、浴びるように酒を飲んだ。いや実際浴びた。思い切り缶を振り回して、全身をびちゃびちゃにして、清掃のひとが何ヤってたんだって思うくらいシーツを汚してやった。

 

 奇声、も発してしまったかもしれない。金切り声というか、喉奥から絞り出したうめき声というか、気恥ずかしさを紛らわすための声というか、色んな声を出してしまった。壁が薄かったら隣に泊まる人が驚くだろう。

 

 ああ、でも最初の二杯だけは丁寧に。この二杯は、自由と、彼に捧げるものだから。

 

 そんな感じでだらだら飲んで食べてをやっていたら、いつの間にか寝ていた。

 目が覚めたら頭痛がひどかった。これで死ねるのかなってくらいのヘディックだ。でも不思議と嫌いじゃない痛みだ。

 

 ただ起きたらシーツが凍ってた。清掃のひとはさらにどんなことヤったんだと驚くことだろう。

 

 私は顔を温い湯で洗う。人より体が冷たいから、普通の人にとって温いくらいが熱い湯だった。

 私はシャワーを浴びる。またぬるま湯だ。

 

 そして忘れ物がないか確認して、ホテルをチェックアウトする。

 

 外に出ると、びっくりするほど晴れの日だった。

 

 適当に町を歩く。見る人はどれも見慣れない。町の雰囲気も日本とまるで違う。なんだか混沌としていた。これがブルックスの気分なのかもしれない。

 

 そして偶然、立ち寄った古服屋さんで二着くらいの服を見つけた。試着室で似合うかどうか確認する。肌は出せない。帽子と長い袖のワンピースに、砂浜も歩けるようなサンダル。あと帽子と分厚めの服。冷気がちょっと漏れ出るくらいの服だ。

 

 迷いなく、全て買った。キャップを頭に嵌めた。問題なく入る。冷気が心配だが、厚手の服があるからすれ違う程度ならたぶん大丈夫だろう。

 

 これから、シワタネホ──ジワタネホか。そこへ、向かう。

 

 ジワタネホじゃなくてもいいとは思わない。自由になって初めて見る海は、とびきり青いものがいい。記憶が溶けるくらい美しい海がいい。でも大事な記憶だけ溶け残るような美しさだといい。

 

 そして何よりも、彼に会いたいからだ。

 

 そこで待っていれば、いつかきっと会えると信じている。

 

 バス・ターミナルに着き、つたない英語と身振り手振りで何とか切符を買う。結構乗り換えが必要なようだ。日本人は珍しいのか受付の人が目を丸くしていた。

 

 期日になって、バスに乗り込んで……いよいよ、ジワタネホに。金は結構ある。ハクリ君は普通にお金持ちだった。半年は持つくらいの金がある。そういえば漣家って一応名家なのか。

 でも、向こうに着いたら、私みたいな奴でも働ける所を探してみよう。人と極力関わらない仕事があるといいが。郵便配達とかだろうか。

 

 そんなことを考えていると、バスにエンジンがかかり、がくんがくんと揺れながら、動き出した。日本のバスはけっこう丁寧なのだなと思った。

 

 大きな道路に出て、市街地を抜けて、日本で言うところの高速道路のような道へ入り、窓を開けた。

 このバスに乗る人は少なかった。冷気の影響はそこまでないはずだ。

 

 風が髪を大いに揺らす。バスだからそこまでスピードが出ている訳じゃないが、眼を細くするくらいの風だった。遠くの景色がゆるりと動いて、近くの木々や標識がぎゅんぎゅんと通り過ぎていく。

 

 そしてぼうっと、遠くの雲を見つめて、ふと思った。(まなこ)を風が乾かしたのか、瞼をしぱしぱさせて。

 

「……」

 

 彼が再開の場所を決めなかったのは、約束の期限を定めなかったのは、当分……会えなくなるからだろう。

 商品の逃亡なんて許されない。彼だってわかるはずだ。

 

 もしかしたら追手はすぐ近くにいるかもしれない。あの後彼がどうなったかわからないけど、死んでいる可能性だって、ゼロじゃない。日常的に暴力を与えられるような家だ。商品を意図的に逃がしたなんでことがばれたら、ただじゃ済まないだろう。

 

 もう、会えないかもしれない。

 

 そんな絶望を思う。以前はこういうことを考えると、死にたくなった。

 でも、今は違う。不思議な感覚が自分の中に芽生えていた。

 

「……」

 

 私は、信じている。希望している。彼が生きていることを。

 

 そして、先日までの自分が見たらびっくり仰天するくらいに、生きてやろうと思っている。

 

 生き抜いてやろうと思っているのだ。これまでの自分という皮を丸ごと入れ替えて、全く新しい自分になったかのような──羽が生えてどこでも自由に飛んでいけるような、そんな希望を、私はこの胸に宿していた。

 

「っ……」

 

 だがやっぱり、彼が死んでいたら、死にたくなるとは思う。

 

 バスに揺られながらそんなことを考えていると、自然に涙があふれた。涙を隠すように目を閉じた。

 もちろん悲し涙でも、悔し涙でもない。

 

 どうかいつの日か彼と会えますように。

 

 かっこつけて再開の場所を決めなかったことを後悔しませんように。

 

 彼と会って、苦い酒を共に飲めますように。

 

 彼と抱き合えますように。

 

 ──そう考えて、目を開けて、窓に映る自分の顔を、眩しい眼を見て気づいた。

 

 きっと、これが希望だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三か月後──ジワタネホ。

 

 その日は、快晴だった。地平線の向こうには、静止画のように止まって見える雲が山のようにたたずんでいる。

 海は一段と綺麗で、淡いエメラルドグリーンの海水が、寄せては返し、波の優し気な音を奏でている。

 

 とても雄大な場所だった。記憶のない海だった。

 

 そんな場所を、靴ひもを手持ち替わりにして、肩に靴をひっさげた白髪の男が、ざくざくと歩いている。来ているのは白いワイシャツだった。下が黒いズボンだった。帽子は被っていなかった。

 

 髪は、白髪(はくはつ)だった。日の光りに照らされて白が際立っていた。

 彼はまっすぐ前を見ていた。視線の先にいたのは、黒と白が入り混ざった髪色の、女性だった。肌を隠すように、長袖のワンピースを着ていた。

 

 ぼうっと座って、海を眺めていた彼女は、彼に気づくと、立ち上がった。

 

 表情はわからない。どんな表情か見えない。

 

 両者はゆっくりと近づいていく。焦る様子はない。走ることもしない。まっすぐに互いが互いを目指して進んでいく。

 

 二人は立ち止まる。

 

 彼が、一歩近づく。彼女は、両の手を広げた。

 

 そのまま、彼らは自然と体を支え合った。男の荷物は砂浜に落ちた。

 

「ん」

 

 どちらかわからないが、声が漏れた。

 

 そのまま、抱き合ったまま、時間が流れる。数秒、数十秒だろう。分までは流れていない。

 

 彼女は、震える声を絞り出すように、言った。

 

「……私さ」

 

「うん」

 

「変な体だよ。冷たいよ」

 

「俺、君といると体熱くなるから。たぶん四十度ある。ちょうどいいと思う」

 

「手とかつなぎすぎると凍傷になっちゃうよ」

 

「大丈夫。手が冷たい人は心が暖かいものなんだ。その分でおつりが来るよ」

 

「こんな肌だから高く売れちゃうかもよ。うまく隠すつもりだけどさ、いつ悪い人がよってくるか」

 

「命がけで守るよ。楽座市だって……仲間と一緒にぶっ潰したしさ」

 

「……」

 

 彼女は、抱き合うのをやめて、少し離れて、彼を見つめながら問うた。

 

「信じてもいい?」

 

「約束、するよ。この希望だけは……絶対に死なせない」

 

 そういって彼は、もう一度彼女を抱きしめようとして、

 

「でもごめん。たった一つだけ後悔させて」

 

 彼女は手を伸ばし、俯いて止めた。彼は急速に汗を流した。彼女はくすりと笑って、顔を上げて、彼を見つめた。

 

「死ぬつもりだったから、ネタバレ、聞いたのにな……」

 

 そう言って彼女は、もう一度彼の胸に顔をうずめた。

 

 

【挿絵表示】

 




氷の肌の女を生かそうと思ったら、やっぱりハクリ君独力では難しいかなと思い、こういう形の物語になりました。結局のところ、彼女が生きることに希望を見出さない限り、彼がどれだけ頑張っても無駄でしょうし。

実際、原作でも彼女が自殺せずに一緒に逃げ出していれば、多分生存できたと思います。

流れとしては、
ハクリ君と氷の肌の女が逃げ出す→漣家すぐに気づき蔵の妖術でハクリ君を呼び戻す→なんやかんやで氷の肌の女捕まる→ハクリ君勘当→ここから原作通りだが当主の蔵の中に氷の肌の女いる→ハクリ君チヒロ君頑張って全員助け出す→生存
……みたいな感じになるんじゃないかなと。
でもそうなるには、やっぱり彼女が本気で生きようと思わないといけない。ハクリ君も言ってましたが「檻の外にも希望はあると証明できていたら 君が死を選ぶことはなかったのかな」が、最も重要なことだったんだと思います。

で、この本質的な部分が「ショーシャンクの空に」と類似しているなと思ったので、ハクリ君が映画大好きになり、希望バカになって、どうにか氷の肌の女に希望を持たせるというのが、この物語です。

四万字超も読んでいただきありがとうございました。

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