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吾輩はヒトである。名前はあるが、ごくありふれていて、どこにでも埋もれてしまう様な安い名前である為に、ここでは敢えて名乗らぬ事を選ぼうと思う。
無礼を働いてしまっている事は重々承知しているのだけれど、しかし私としては、これといった特徴があるわけでもない名前を公開するのは、それこそ時間の無駄であるのだと考えている。
誰が聞いても、「よくある名前だね」と言われて終わってしまう様な、そんな名前だ。それは今も変わっていないのだが、しかし不思議な事に、私がこう言うと、彼女はやたらと不機嫌になってしまう。
たかだか名前一つに、と思う事がないでもないが、彼女に自分の名前が多少大切にされているのだと思うと、例え自惚れであったとしても嬉しさが胸に染み付くばかりだ。
とは言え。私の名前は誰かに聞かせる様なものではないのも事実。
だから、それをわざわざ人に聞かせるくらいならば、その他の事……言うなれば、私の、より広く言うならば私達の身の上話とやらに花を咲かせた方が、多少は有意義になるのではと思った次第である。
普通、こういった話というものは、面白おかしくするというのが定説なのだろうけれど、しかし残念な事に、私はどうもそういったものには向いていないらしい。
彼女と過ごしてきた日々は、私からしても確かに面白くもあり、苦しくもあり、楽しくもあり、辛くもあり、喜ばしくもある彩りばかりのものであった。
しかしだからこそ、それを面白おかしく綴るというのは、どうにも難しい。そんなものだから、私はあくまでも、それを面白おかしく綴るのではなく、時系列に沿って綴る事に終始してみようと思うのだ。
まずは……私と彼女の出会いから、話していこう。
◇
まず、私は名無しだった。
誤解を招かない様に言っておくが、この名無しというのは先程も言った様な、語るべき名前ではないという意味の方ではない。あくまでも、何も結果を残していないという意味……つまりは、単なる比喩だ。
当時は、学生の終わり頃だったろうか。高校生の最後を迎えつつある日の中で、私にはこれといった特徴というものが無かった。
強いて言うならば、観察眼と洞察力が人よりもある程度高いというだけ。だが、こんなものが社会で如何様に役立つのかなど、想像するまでもない。
国家公務員といった職業ならば、これらは大変な長所になり得るのだろうけれど、しかし当時の私には―――今の私にも―――そんな職業に就きたいという願望は欠片程も無かった。
これだ、という目標も無いまま、流される様に生きていく日々を過ごしてきたのだ。夢も目標も抱く訳もなく……自嘲する様に言うならば、腑抜けながらに生きていた。
私の様な人間は、決して珍しくはないのだろう。寧ろこの世界においては、私の様な人間こそがありふれていて、夢や希望を胸に抱いて走り切る事が出来る人間とは、極少数にしかならない。
極論、人生とは斯様なものである。と、厭世的になってしまっていたのが当時の私だった。今思い返してみれば、子供らしく何とも早計な思考回路になってしまっていたものだと、若干の気恥しさがふつふつと湧き上がってしまう。
まぁ、ともかく。私はそんな人間であった。
腑抜けた様に生きる無銘―――それが、他ならな私自身。
かと言って、当時の私はそんな己にさして嫌悪感を抱いていたという訳でもなかったのだ。他人と比較した事は多々あるけれど、自分は自分だと、そう納得させていた。
いや、納得させていた、という言い方はあまり正しいものではないな。どちらかと言えば、諦めていたと表現した方が正しい。
自分を変える事を。自分で変わる事を。それら全てを、私は諦めてしまっていた。
何故なのか、と問われると、些か答えに迷う。何故ならば、当時の私はそれに対して、具体的にこうだ、と言える様な確かな理由があったという訳でもなかったからだ。
正確性なんて微塵も無い、本当にただただ感覚的、或いは本能的なものだったのだと思う。生まれながらの気質とでも言えば良いのだろうか、そんなものに振り回されたのだと。
弁明という程の弁明でもないが、おそらく私以外にも、この様な経験を持った人間は居るだろう。
特にこれといった理由がある訳でもなく、けれど確信的に、何処か心の奥底から『こうだ』と思って疑わない、疑おうともしない『何か』。
私は、それによって諦観ばかりだった。何をするにしても、そればかりが続いていた。
勉強にせよ、運動にせよ。何にしても、私は自分の活躍とか役割とか、そういうものに対して無感動だったのだ。
無気力ではなかったが、最高を目指さなかった。怠惰になっていたのかもしれない。或いは、一種の驕りであったのかもしれない。
まぁ、どちらにしたって、当時の私は誰かに好ましく思われる様な人間ではなかったことには何ら変わりない訳で、そして、自分でそれを分かっていながら目を逸らしていた。
それなりに才能がある自負はあった。だが、それもあっという間に消え失せていったのが現実。周りには自分なんかよりも優れた人間が多く存在し、私はそれに埋め尽くされた―――そんな、よくある話だと一蹴されてしまいかねない様な、そんな他愛もない過去だ。
だが……そうだな。これは、なんと形容すべきなのだろうか。
そんな過去だったから? 中途半端な人間だったから? 無名な人間でしかなかったから? 或いは、決定的に常人とは異なる何かがあったから?
おそらく、そのどれかのお陰なのだろう。何をやりたかったのかも忘れてしまった私は、しかしその形容するのも難しいかつての自分があってこそ、彼女と出会う事が出来たのだ。
―――彼女との出会いは、月も隠れた深い夜から始まった。
これまで散々と諦観しているだの何だの言っておいて、恥ずかしい話ではあるのだけれど、私はえも言えぬ衝動に駆られて夜の世界に飛び出したのだ。
何も残せない自分に嫌気が差したのかもしれないし、本当に単純に外に出たいと思っただけなのかもしれない。だが、当時の私も、今の私も、その瞬間の心情を言い表す事がどうにも出来ないでいる。
その
夜中にふと目を覚まして、私はすぐに着替えを済ませてこっそりと家を抜け出した。目覚めたばかりだとは思えぬ程に熱い身体は、何処か高揚を憶えている様だった気がする。
とにかく、走っていた。
此処に行きたいとか、何処かを目指そうとか、そういう本来あるべき筈の理由もなく、私は静寂の中をひたすらに走り続けていた。
今にして思い返すと……アレは必然の様で、実際はただの偶然に過ぎなかったのだと思う。あまりにも出来すぎた、それこそ『運命』なんて大袈裟な言い方をしたって構わないくらいには、本来起こりようもない出会いだった筈だが。
しかし、きっと偶然だったのだ。運命という必然で片付けるには、どうにも。
本来起こりようもない出会いが、私達の対を縁という切っ掛けにしたというだけ。それだけだと私は信じている。
体力が尽きかけて、肩で息をしながら足を止めた場所は、私の地元にある広い公園だった。
小学校のグラウンド程度の広さを持ったその公園は、子供や老人の憩いの場だ。学校の帰りに、よく子供達が遊んでいたり、老人達が話し合っていたり、散歩していたりする姿を見掛けるくらいには、誰もが通っている公園である。
私も、まだ小学生の頃に両親と何度も来た憶えがある。走り回ったり、寝転がったり、色んな事をして遊んでいたのが今でも懐かしく思える。
そんな公園で―――私は、『天才』と呼ぶべき存在と出会った。
「はっ、はっ…!」
夜の公園を、一人の少女が駆けていた。
本来人間には無い筈の耳と尻尾を持った、まだ幼い女の子。名を残せない私でも、世間一般的な知識は流石に持ち合わせていた。その少女がヒトでない事は、すぐに分かった。
―――『ウマ娘』。
限りなく
その全てが生物学的性別において雌で固定されていて、『ウマ』という存在の魂を引き継いで、この世に生まれ落ちる少女達―――それが、ウマ娘。
世間でもかなりの人気を―――というよりは、もはや世界共通の大ブームか。
いつの時代も、ウマ娘達がレース場で競い合い、白熱した接戦を繰り広げる様は多くの人々の心を掴んできたというのは、当時の私も歴史の授業で習っていた。
私が出会った彼女も、そのウマ娘。まだアスリートとしもアイドルとしても目覚め切っていない、無垢なウマ娘だった。
あんなにも小さな子供が、こんな真夜中に公園で一人走っている姿を見た時、私は何故だとかそんな事も気にせずに、ただその走り姿に夢中になっていた。
少女に夢中になっていた、なんて言い方は、些か誤解を招きかねないという事は重々承知の上ではあるのだけれども、しかし、当時の私はそれ以外には形容しようがない程に、彼女に夢中になっていたのだ。
彼女は速かった。人間のそれとは、比較のしようもない程に速かった。見た目からして小学生低学年の少女の走りには、当時の私が通っていた高校の陸上部の人間を容易に超える、圧倒的な何かがあったのだ。
だが、私はその何かとやらに見惚れていた訳ではない。とは言えそれは、今の私だからこそ言えるものであって、当時の私は少し違ったのかもしれないが。
とにかく、私はその子の走りに夢中だった。その時間はきっと数分にも満たないものであったのだろうが、当時の私はそれがまるで何十時間も続いているかの様な感覚に陥っていた。
それから暫くして、彼女が走りを止めた時、私達の目と目が合った。
「あ……」
「えっ……」
お互いに、腑抜けた声が漏れた。
不思議な事に、少女には驚いた様な感情が見えなかった。どちらかと言えば、人に見付かってしまった、という焦りの方が大きかった様に思う。
私は驚きながらも、何とか言葉を紡ごうと口を開いた。
「その、ごめん」
今思えば、何に謝っていたのだろうなと。私がいきなり謝罪を口にするものだから、彼女も困惑した様な顔を浮かべてしまっていた。申し訳ない限りだ。
特に何かを考えていた訳でもなく、とにかく何か喋らなければと感じていた。少なくとも、あの時の図は傍から見れば、不審者に話しかけられる子供のそれと変わりなかった。
「えっと、その……こんな時間に、どうしたの? 一人じゃ、危ないよ」
「……それは、おにいさんも、だよね」
「う…」
私は呆気なく黙らされた。小学生相手に、だ。
この時から、彼女はかなり頭の良い
一応、あんなでも高校生の高学年だった。もう大人になる一歩手前と言える年頃だった筈なのだが、目の前の少女はそんな私よりも何処か達観した様な雰囲気を醸し出していた。
「っ、けほ、けほ」
唐突に、彼女は咳き込んだ。
最初は軽いものだったそれは、徐々に大きく、ぜーぜーと荒い呼吸の音が聞こえてしまう程のものへと変わっていって、彼女は地面に倒れ込んだ。
私は慌てふためきながら、少女の下に駆け寄った。どうすればいい、何をしてやればいい、そんな事で頭がいっぱいになってしまって、結局大した事は出来なかった。
優しく背中をさする。それが正しいのかどうかなんて判断出来ず、私は焦りながら、彼女の咳が収まるまでそれを続けた。
体感なんて狂ってしまっていて、もはやそれすらも数時間にまで及んでいた様に感じていたが、きっと数分にも満たないものだったのだろう。
「はぁ、はぁ……ありがとう、ございます……」
暫くして、彼女の咳が落ち着いた。たらりと額から汗を流した少女は、浅く呼吸をしながら私に感謝を述べてくれた。
私はそれを勿体なく感じたし、申し訳なく思った。褒められる様な対処も出来なかった私には、彼女からの感謝を、心底からありがたく受け取る事が出来なかった。
何とか立ち上がろうとする彼女の足は、どうにも覚束なかった。とにかく彼女を何処か休ませなければと、私は真っ暗な辺りを見渡して、外灯に照らされた箇所にあるベンチを見付けた。
「あそこで休もう。歩ける?」
「すこし、むずかしい……かも、です」
「そう、か……分かった。じゃあ、少し失礼するね」
「あわっ」
私は有無を言わせず、彼女を抱えて早歩きでベンチまで向かった。
私自身、その行為に何の抵抗も無かった訳ではない。勝手にこんな事をして大丈夫だろうか、気持ち悪く思われてしまうだろうか、と色々な事を考えて、躊躇もしていた。
だが、それはほんの一瞬の事に過ぎなかったのだ。私にとっては、私自身の事よりも彼女の身を案じる事こそが何よりも大事であったのだから。
私は自分に特筆すべき様な才能など無いという自負があったが、今にして思えば、私は当時から『トレーナー』という職業の才能があったのかもしれない。
トレーニングがどうとか、そういうのではなく……ウマ娘を第一に考え、そしてウマ娘と共に歩むという、トレーナーとしての基礎の部分においては。
とは言うものの、こんな事はトレーナーでなくとも、善良な人間であれば誰しもがやる様な、とても簡単な事であるとも思わなくはないが。
「ふぅ……よし、此処なら休める」
「……」
「あ、その……ごめん。いや、その、すぐに君を休ませないとって思って。だから、こうした方が、早いかな、て…」
「いえ……ありがとうございます。たすかりました」
「う、うん…どういたしまして」
彼女をベンチに下ろし、その隣に腰掛ける。きゅっとした肩を見れば、落ち着きが無いと理解するのは決して遅くはなかった。
それも当然か。初対面の男性に、いきなり抱えられたのだ。恐怖してしまうのは当たり前だろう。
気まずい沈黙が続いた。
どちらかが口を開こうとして、それを引っ込めてしまう時間が続いてしまっていた事を思い返すと、彼女も彼女でお喋りが得意な方ではなかった筈だが……今では、多くの友達が居るのを見ると、成長を感じずにはいられない。
まぁ、それは後で話すとして。
暫くの沈黙の後、口を開いたのは私だった。
「その……君は、体が弱いの?」
「っ…」
私がそう言うと、彼女の体がぴくりと震えた。
私はまたもや焦った。何か不快な思いをさせてしまったか、と。
「あ、ご、ごめん! その、さっきの咳も酷かったし…いや、デリカシーが無かった、よね。ごめん…」
「…いいですよ。じっさい、そうですから」
「そう……でも、凄いね」
「え?」
「だって、体が弱くて、あの走りなんだよね? あんなに綺麗で、速い走りを見た事はなかったよ」
実際、彼女の走りは凄まじいものだった。
まだ幼い子供であるというのに、現役のアスリートにすら圧勝してしまう様を想像させる程の速さと、見蕩れてしまう程のフォーム。
およそ虚弱な体の持ち主とは思えない程に、彼女の走りというのは既に練度が十分過ぎるものだった。無論、今の彼女と比べれば、まだまだ芽が出たばかりの可愛らしいものではあるけれど。
しかし、当時の私にとってはそれが初めてだった。両親はよく、ウマ娘のレースの話で盛り上がっていたりしたが、当時の私は大した興味なんて持っていなかった訳で、そうなると当然、ウマ娘の走りになんて目を向ける事もなかった。
だからこそ、私が初めて目にしたその走りに―――私はどうしようもなく、惹かれてしまったのだ。
「……すごい? わたしの、はしりが?」
「うん。ウマ娘のレースに詳しい訳じゃないけど……きっと良い結果が残せると思うよ」
「…はじめて」
「え?」
「はじめて…はしりをほめてくれたひと、おにいさんが、はじめて」
馬鹿な、と心底から思った。
レースに関しては完全に素人な当時の私ですらも、彼女の走りは凄いと思えたのだ。それなのに、それまで彼女は自分の走りを褒めてもらえた事がない、だなんて。
「な、なんで? だって、あんなに凄いのに……」
「からたがよわいから……はしろうとしても、みんなにとめられて。あたまがいいから、べんきょうですごくなろうねって……」
「……」
当時の私は、それが正しいのか分からなかった。
親、或いは責任者の視点で考えてみれば、その判断は正しいものなのかもしれない。もしも無理をしてしまって、体が壊れてしまえば、なんて最悪の未来だって有り得るのだ。
だが……こんなにも、走りを褒めてもらって嬉しそうな顔をした彼女を見ても、その判断を続ける事が出来るのだろうか、とも思った。
彼女の本心は、走りにあった。誰かと走りたいのか、ただ走りたいのかは定かではなかったけれど、しかし当時から、彼女には『走り』というものに強い想いを抱いてた。
私はそれを、見て見ぬ振りが出来なかった。
「……なら、走ろう!」
「え? いや、でも……」
「皆に見せてあげよう! 君の走りは凄いんだって! 誰にも負けないくらい速いんだって!」
「わたし、からだが……」
「俺がサポートするよ! 確か、ウマ娘にはトレーナーっていうのが付くんだ。その人がウマ娘を支えるんだ! だから、俺が君のトレーナーになる!」
我ながら、強引だったと思う。気味悪がられても仕方ないとすら思う。
しかし、私は止まらなかった。止まれなかった。
だって私は―――彼女が、心から嬉しそうにした顔を見てしまったのだから。彼女が走れなくて辛そうにしている所を見てしまったのだから。
トレーナーになるというそれが、どれだけ難しい事なのか。そんな事も露知らず、私はそう断言したのだ。
「とれーなーに、なってくれるの? わたしを、はしらせてくれるの?」
「勿論!……君の走りを、ずっと近くで見たいんだ」
「…てんのうしょう、あき」
「え?」
「わたしのゆめ! あきのてんのうしょうにでたいの! それで―――
天皇賞・秋。
それがレースの名前であると私が知るのは、それからかなり後の事だったが、当時の私はただ頷いた。
それが君の夢なら、その夢の為に頑張ろう―――と。
「わたし、がんばるから! ちゅうおうにはいるから! だからまっててね!」
「分かった。その、ちゅうおう? で……君を待ってるよ!」
「うん!」
これが、私と彼女の出会いだった。
名前を残す事が出来なかった私と、名前を残し続けた彼女との……初めての出会いだった。
「そうだ。君の名前は?」
「ひとになまえをきくときは、まずじぶんから!」
「あ、はい。よく知ってるね」
「わたし、てんさいだもん!」
「ははは…そっか、天才か。そうだね。うん…きっとそうだ。あ、俺は――――――だよ」
「うん! えっと、わたしのなまえはね―――
イクイノックス、だよ!」