「だったら、庭を散歩するくらい問題ないはずでしょう!」
「わ、わたしの一存では……」
ニチテと医療スタッフの口論は遠い車内で流れている古い音楽のようだった。それが何なのかは分かっても、耳を澄ますほどの興味は湧かない。医療施設の廊下を歩き続けるブライトの背中に、ニチテの焦ったような声が掛かった。
「ブライト! 諦めるのは早いったら」
「さっきから何の交渉をしてるんだ?」
「だから、ブライトが庭に出られるようにって……」
「……」
ブライトは無機質な廊下を見回した。
病室に戻れば、窓から外は見える。半面に芝生、もう半面にアスファルトが敷かれている。背の高い堅牢なフェンスが視界を遮るように聳え、外はよく見えない。ここが円筒形のオニール型コロニーであるロンデニオンなら、窓から身を乗り出せば反対側内壁の風景が見えるはずだ。しかし今のところ窓は開く気配がなく、内壁を確かめることはできなかった。
庭に一歩出るだけで、部屋に籠り切っていたこれまでとは段違いの量の情報が得られる。
ニチテがそれを理解しているかどうかはともかくとして。
ブライトは医療スタッフに向き直り、軽く目礼した。
「ドクター、私からもお願いしたいところだ。ニチテ君は勢いがありすぎて驚かせたかもしれないが、彼は私の現状に向き合い、私のためを思ってこう提案してくれているようだ。貴官の裁量が許す範囲でその提案を聞く価値はあるとは思うんだが、どうだろう?」
(現状に向き合い……か)
自分の言葉に苦笑しそうになる。
ブライトは何度も自分がニチテの考えているような民間人の少女ではないことを説明しているのだが、今のところこの思い込みが激しい少年は全く聞く耳を持たない。
サイコフレームによる肉体の変容という異常な事態を受け入れられないほどの現実主義なのか、恋した少女の姿の中に中年の男の魂が存在していることを理解したくないからなのか。それはブライトにはあずかり知らぬことだった。
どっちでもいいから話は聞いてほしい、というのが正直なところだ。
医療スタッフは、困惑気味にブライトを見下ろしている。
「ええと、庭といっても、芝生が少しあるくらいで……リハビリ用のスペースもないんですが」
「それで構わない。ニチテ君が介助をしてくれるはずだ。そうだな?」
明らかに心が動いている。ブライトはすかさずニチテに視線をやった。ニチテは嬉々として敬礼し、声を弾ませた。
「責任を持ってサポートします!」
医療スタッフはまだたじろいでいるが、返ってくる答えはおよそ見えているようだった。
しぶしぶ切り出された予定時間と行動が許可された範囲について、ブライトとニチテは真剣な表情で耳を傾けた。
ニチテが話し終えると、キンジィは呆れ顔で頭を掻いた。
「それで、あの医療施設の狭苦しい庭を歩き回っただけのことを、おまえはさっきから『ブライトとデートした』って言って憚らないわけかよ」
「なんだよ、デートだろ! 一緒に並んで歩いて、話もしたんだぞ」
ノーマルスーツのベントバルブのボタンを押下しながら、ニチテは唇を尖らせた。
ぶしゅっ、と音を立てて余分な空気が押し出され、ノーマルスーツの多層複合素材が手足にぴたりと吸い付く。
キンジィがニチテのヘルメットを放り投げる。
それはコリオリによる軌道の偏向も疑似重力による放物線軌道も見せず、勢いをつけて胸元にすっ飛んでくる。
ニチテは胸元に引き寄せた右掌でそれを危なげなく受け取り、首周りを封鎖する気密リングを押しのけるように頭を突っ込んだ。
ロンデニオン近辺の宙域。
「実験部隊」の旗艦に、二人はいた。
ハンガーに召集された二人は、整備人員と短く声を掛け合って、それぞれの機体を拘束する固定具が外れるのを待つ。
ノーマルスーツを着け終えたキンジィが、せせら笑ってニチテよりずいぶん高い位置にある肩をすくめた。
「いいんじゃないの、平和で。いい思い出になっただろ?」
「おれだって、バカにされてることくらい分かるんだぞ!」
唇を尖らせてニチテは抗議した。
キンジィはそれ以上答えず、ワイヤーガンをMSに向かって打ち出し、飛び出していく。
ニチテは憤懣に荒い鼻息を吹いてから、自分もそれに倣って配備された機体へ向かうことにした。
仮称《ガンダム》ではない——宇宙戦標準配備の《グスタフ・カール》。それが2機だ。
「しかし、なんだっていきなり宇宙戦の訓練なんか? いよいよコロニー周辺の警備まで事業拡大しろってことか?」
ニチテが腰を落ち着けたばかりのコックピットに、キンジィのぼやきが通信を介して響く。
無駄話だ。こんな時に話すことじゃない。
ニチテはきっと眉を立てて、ただ一言鋭く告げた。
「通信テスト完了!」
「へいへい」
キンジィは機嫌を損ねた様子もなく、クリアーな音声に透かした吐息を拾わせて笑っていた。
ニチテは管制室の音声に耳を傾け、機体の電磁加速が始まるのを待った。カタパルトの起動にともなうオゾン臭は、すでにヘルメットの中にちりちりと漂っている。無機質なカウントダウンが始まり、ヘルメットの後頭部をヘッドレストに押し付けて射出を待つ。
空気ではなく構造物を通して伝わる重い衝撃音。
ハンガー内の喧騒が一瞬で遠ざかり、無音の宇宙に放り投げられる。
「機動テストと模擬戦闘……あれ、それだけ?」
サブモニターに表示された指示へ視線を走らせ、顔をしかめる。
指示がこうも曖昧な時は、だいたいとんでもない隠し玉があるときだ。少なくともこの隊では、いつもそうだった。
——何であれ、目の前にある任務を一つずつこなすしかない。
ヘルメット内部のマイクを繋いで報告に入ろうとしたその時、管制室からの通信が入った。モニターに、端正な伊達男の薄笑いが映る。
ナイジェル・ギャレット隊長からの映像音声通信。今は隊長は、旗艦にいるはずだ。
「ニチテ、聞こえるか」
「通信クリアーです、ナイジェル隊長!」
「よしよし」
隊長は軽く顎をさすって視線をさまよわせ、視線をあさってに向けた。少し間を持たせて、カメラに近づくように身を乗り出してくる。
内緒話ということらしい。通信では意味がない気がするが、ニチテも思わず耳をそばだてる。
「キンジィは傍にいるのか?」
「おれの15秒前に射出されてます。艦から見て北天、座標B軸寄りを航行してるのが視認できます。呼び戻しますか?」
「いや、呼ばなくていい」
途中からまともに聞いてすらいない様子だ。これ以上の発言は求められていないようだった。ニチテはただ唇を引き結んで、隊長の言葉の続きを待つことにした。
「ちょうど良かった。そのままキンジィを振り切ってUターンしてこい」
「……え?」
予想もしていなかった指示だった。
ナイジェル隊長は乗り出した姿勢を引っ込め、真剣なまなざしでニチテを見据えている。
「行先はロンデニオン、コロニー軍事ブロック外壁の補助ポートだ。到達を確認したらロックを外すから、コロニー内に突入しろ。キンジィはすぐ気づくと思うが、まあ……できるだけ俊敏に動いて距離を稼ぐんだ」
「ちょ、ちょっと待ってください、ナイジェル隊長!」
告げられた指示は即座に記憶に刻み付けてはいるものの、それは納得したということにはならない。ニチテは焦った声を上げた。
「どういうことです? 訓練は……」
「いい練習になるって」
「何の練習なんです!?」
「追って説明する。時間がないぞ。キンジィがお前にわざわざ通信を入れてノロマだって罵り始める前に動いた方がいい」
ぐ、と呻いてニチテはレバーに手を伸ばした。
「やりますよ、すぐ!」
重心をずらしながら点火された推進剤をぱっ、と薄く散らし、一瞬で向きを鋭く変える。キンジィがこちらを注視していない限りすぐには気づかないはずだ。位置情報の発信を切り、ロンデニオンの外壁に向かって急発進を掛ける。
中型のオニール型コロニー。
回転による疑似重力を発生させるためには、この巨大な円筒が2分間に1回転することになる。
遠くから見ていると回転していることすらわからないが、MS単体で外壁に取りついて保守用のハンドレールを掴むとなると目まぐるしさに怯むほどの速度だ。一秒に満たない逆噴射で慣性を打ち消し、白銀に輝きながらぎゅるぎゅると回る外壁に掌で触れるほどの距離で静止する。
すぐさま、ナイジェル隊長から通信が入った。
「到達を確認した。補助ポートを解放する。5分以内に進入を完了させるように」
「わかりました」
スラスターを噴かし、ロンデニオンの回転に相対速度を合わせ、周囲を飛行する。
最初は目まぐるしく回転するただ白く光る壁にしか見えなかったコロニー外殻部が、速度を合わせて飛ぶことでその外壁に並ぶ無数の厳ついボルトや継ぎ目まで視認できるようになる。
開放された補助ポートの、黒々とした暗い入り口はすぐに見つかった。
速度を上げてポートに飛びつき、滑らかに慣性を殺しながら保守作業用のハンドレールを掴んでその中に機体を送り込む。
ポート内のハンドレールに取りつく。外へと振り飛ばされるような感覚に、鋼の手足が耐えている——この感覚は、重力とは似て非なるものだ。だが、コロニーの地面に立てば、これが重力としか感じられなくなる。
ハンドレールを握り締め、外殻部を貫く通路を進む。背後でポートの外部エアロックが閉じ、誘導灯と反射鏡の光が入ってこなくなる。灯したフラッシュライトの光条を辿るように進み、内部エアロックのレバーを軽く叩いて、ニチテの《グスタフ・カール》はついに通路を抜けた。
まだ太陽光は入ってこない。ここはロンデニオン軍事ブロックの地下セクションだ。
「止まれ」
モニター越しの隊長が鋭く告げる。
「ノードがロンデニオン外部にあるから今は通信出来てるが、地上に出たら通信が乱れる可能性が高い。まとめて言うからしっかり頭に叩き込めよ」
「通信が乱れるって……ミノフスキー粒子を!?」
驚いて聞き返す。コロニー内でミノフスキー粒子による通信阻害が行われる——それは明確に、戦闘が行われているということだ。
隊長は頷き、データを確認しているらしく束の間視線をカメラから外した。
「敵はMSが1体。すぐに例の医療施設に到達するはずだ。どんなに物々しくても病院だからな。配備されてる設備じゃ心もとない。周辺の地図をサブに出しとけ」
航空映像の静止画切り抜きがサブモニターに表示される。
「フェンスを潰し、警備のMS隊を破壊して漸近するまで、異常に手際が良かった。高性能機でパイロットの練度も高い……ファランクス内蔵のシールド、バルカン、ビームサーベル」
「そんなものが、なぜ医療施設を……」
「お目当てはブライト・ノアじゃないかな」
軽く言い放たれた言葉に、ニチテは目を見開いた。
なぜ、と、更に問いを重ねたくなる。だが状況がそれを許さないことを、ニチテは肌で悟っていた。
すでに隊長から伝えるべき内容は全て伝えられている。施設周辺に通信阻害が起きている以上、そこで何が起きているのかは隊長本人、ナイジェル・ギャレットその人でさえ正確に把握しているはずがないのだ。
「不明機による施設への破壊と強奪を止める。ブライト・ノアの安全を確保する。できるな?」
「……はい!」
ニチテは力強く返答し、地下セクションの出口に向かって走り出した。