コロニー内で《メッサー》を隠せる場所などたかが知れている。
襲撃に失敗した傭兵がそれを隠しおおせると信じられるほど、連中は呑気ではなかったということだ。
ロンデニオン中腹の廃棄された工業用補助ポートのハッチをこじ開け、自動操縦で宙域に放り出した《メッサー》を『文化セクト』所有の艦に拾わせる——
一連の過程を終えて、男はようやく一息ついていた。
ロンデニオンの歓楽街。様々な建物の屋根や看板で入り組んだ道は、上空からもほとんど補足できない。どこのコロニーでも、こういった場所には、明るい光を嫌う者が寄り集まってくるものだ。
所定のバーに入ってカウンターに腰かけ、ミネラルウォーターを注文する。革靴の先で床をこつ、こつ、と叩いて苛立ちと不安を紛らわしながら、男は澱んだ隻眼で周囲を見ていた。
波打つ銀色の髪で右目とそれを覆う黒い眼帯を隠した、目立って白い肌の、聖性すら漂わせる美貌の男だ。露になった左目に輝く紫の虹彩はひどく奥深く、店内の乏しい灯りを深々と引き込んで複雑に煌めいているようだった。
顔立ちや手の形からは成熟した骨格が感じられる。20代後半の青年だった。若々しい甘さこそないが、夜闇に開いた大輪の薔薇の、円熟の香気を纏うような美が、その姿にはあった。
コートの襟を立てて軽く顎をうずめた彼の隣に、スーツ姿の男——『文化セクト』の連絡員が腰かけた。
「しくじったな」
連絡員の冷酷な第一声に、男はグラスに視線を落としたまま吐き捨てた。
「ビームサーベルで制御回路がやられてた。連邦にあの《メッサー》を回収される事態はきさまらも避けたかったはずだ」
「元『袖付き』だとかいう傭兵のMS技術に過剰な期待をしてたというだけだ。言い訳をさせるために来たわけじゃない」
「次の指示か」
「ああ」
連絡員は、淡々と頷く。
「敵に回すのがロンデニオン実験部隊だけで済むうちに、目標実体を入手する必要がある。今度こそやり遂げてもらうぞ、アンジェロ・ザウパー」
「……女一人に随分な執心だ」
男——アンジェロは呟いて、ミネラルウォーターをぐっと飲みほした。
連絡員は手短に次の襲撃の指示と、『文化セクト』側で用意した潜伏先の住所を告げる。メモを残さずひとつひとつを記憶に刻みつけながら、アンジェロは連絡員と目を合わせることなく短く言葉を交わした。
「……以上だ」
連絡員は告げて、腰を上げる気配を見せる。アンジェロはグラスの中の氷を眺めたまま、その気配が遠ざかるのを待っていた。
だが、連絡員はすぐには立ち去ることはなく、もの言いたげな沈黙を落としている。
「何だ」
目を上げることはせず、冷たく声を掛ける。
「実験部隊のパイロットの動きが異常に速かった。《メッサー》を基地に進入させて医療施設に到達するまで15分も掛かっていなかったのに、最終的には襲撃を阻止した。その原因は推測できるか?」
「……おそらく、あれはコロニー内にいなかったからだ」
アンジェロは、ぽつりと言った。
「連邦軍がコロニー内でのスクランブルでMSを出すときは、上意下達の意思決定プロセスに加えて確認シークエンスも煩雑になり、初動が遅れがちだ。近辺の宙域にいたMSを……それも、軍事ブロック近くの補助ポートに取りつくだけの操縦能力を持つパイロットを、事態発生と同時に向かわせた」
「それは、たまたまか?」
「そこまでは、わたしの知ったことじゃない」
にべもなくアンジェロは言い切った。連絡員は大人しく耳を傾けた後、妙に唐突な問いを切り出してくる。
「なぜ、傭兵に?」
「……きさまが引き続きこの店で飲むつもりなら、わたしは出る」
アンジェロは冷ややかに言って見よがしに硬貨をカウンターに置き、横目に連絡員を睨んだ。その態度に閉口したらしい男は、そのままスツールを立って、バーを出ていく。
コロニーを満たす夥しい数の雑音が、一つだけ止んだということだ。
氷の下にわずかに溜まったミネラルウォーターで唇を湿らせる程度にグラスを傾けながら、アンジェロは束の間の追憶に耽っていた。
破断したコックピットに残されたパイロットは、あらゆる地獄を見ながら死ぬことになる。
UC0096、ネオ・ジオンの『袖付き』の壊滅に繋がった大規模な作戦——後に言うラプラス事変。デブリの屑鉄と共に奇跡的に回収されたアンジェロは幸いにも死ぬことはなかったが、宇宙にある地獄も、コロニーにある地獄も、どちらも見ることになった。
凍てつく星の影で、屍を抱き締めたまま失神していたらしい。戦闘の最中に発生した暴力的な精神感応が記憶を曖昧にしていて、その屍の顏すら思い出せない。かつて自分があんなにも崇拝した人物の、ついに自分以外に誰も見ることのなかった、最後の顏すら。
だが、それですら、大したことではなかったのだ——
(あれは、巡礼だった)
アンジェロは、思い出していた。
戦いが終わり、追っ手を警戒してクレジットを使うこともできず、貧窮のままにコロニーを転々としていた時期のこと。
ネオ・ジオンはすでに、アンジェロが戻る場所ではなくなっていた。自分が戻る場所など最初からなかったのだと、それはすぐに呑み込めた。それに納得すれば、自分がするべきことも、すぐに見つかった。
フル・フロンタルが何者だったのかを、知ること。
あの最も偉大で神聖な存在の辿った道を、同じように辿ること。
それこそが、清浄になる最後の機会を逃し、汚濁の中に沈んでいく一途の宇宙を生きることになったアンジェロにできる、唯一の聖務だった。
宇宙線後遺症の治療を途中で打ち切られたことは、アンジェロの神経系に強い負荷を齎していた。知覚の劣化はMSパイロットにとって致命的だ。
じりじりと失われて行く自身の機能に怯えながら、アンジェロはフル・フロンタルが辿った軌跡を身命を賭して追い続けた。
UC0093。シャアの反乱の直後。それを最後に、フル・フロンタルの足跡は辿れなくなった。
かれがシャア・アズナブルの再来であるなら、それも当然のはずだ——と、自分を偽ることは、すでにできなくなっていた。
その時すでに、アンジェロは確信していた。
フル・フロンタルとシャア・アズナブルは、別人だ。卓越した操縦技術と整形手術で作り出した容姿、声の他には、似ているところなど一つもないように見えた。戦場ではそれこそが、信じる全てであったとしてもだ——
フル・フロンタルがネオ・ジオンの作戦に参加した経緯から、NT研究に携わる人物の名を洗い出した。
その人物の背後には、強化人間に関わる巨大なプロジェクトが横たわっていた。
その事実は、簡単にアンジェロの正気と自制心を削った。戦争の道具に過ぎない薬物漬けの廃人を作り出すプロジェクトと、敬愛する人物を結び付ける細い糸。それを眩みつつある自分の眼が確かめることを、理性が拒んでいた。
そして。
「違う」と、言わせたかっただけなのに、真実を求めてしまった。
研究者たちは厳重に身元を隠して逃亡していたが、そのうち二人の行方が掴めた。
一人は殺害した——独身だったからだ。
もう一人の研究者の自宅を訪れ、家族を人質に全てを吐かせた。すでにかつての仲間が惨殺されたことを知っていたその女は、知ることを全て口にし、残していた数少ない資料を提供した。その資料は、結局はかれらの死体と家屋と共に燃やすことになってしまったが——
再来計画。
旧ジオン系の政治家、モナハン・バハロの肝入りで始められた極秘プロジェクト。
虐殺を『成功させかけた』人物にならぞえた強化人間を作り出して活用する——それは、どこまでも俗悪で、臆病で、見下げ果てた、矮小な計画だった。
汚れた政治家が盤上に置いた、数ある中の一つの駒。
それが、アンジェロが敬愛してやまなかった男の全てだった。
(ああ、ああ、ああ——)
自分の慟哭が、今でも頭の中で響いている。
いや、あの時から今までずっと、自分は泣き止んでなどいないのだろう。
(全部、偽物だったんだ)
(全部、全部、全部……)
巡礼の果てに、全てを知ってしまった。
自分はもはや、祈ることさえ取り上げられてしまったのだと——
コロニーの空を焦がす炎を見上げたまま、アンジェロは全ての終わりと死に、ただ涙を流した。
(何にでも終わりはある。家族にも、平和にも、信仰にさえ)
いつか、どこか割り切ったような心地で、アンジェロはその絶望を振り返るようになった。
知ってしまったことを、知らなかったことにはできない。失ったものを、さもそこにあるかのように振る舞い続けることはできない。それは狂気だ。実を結ぶことなく虚無に呑まれるだけの狂躁だ。
狂えば楽になれたし、狂うチャンスは幾らだってあったはずなのに。
そんな自嘲も、ときたまアンジェロの耳元に囁くようになった。
カラン——
束の間の追憶は、グラスの中で崩れる氷の音で遮られた。
アンジェロは浮かせていたグラスをこつりと置き、手の中で弄んでぬるい体温が移った硬貨をカウンターに置いて腰を上げた。
(『文化セクト』の目標実体……)
店内と大差ない濁った風が吹く路上へと踏み出しながら、アンジェロは緩慢に思索を巡らせていた。
(ニュータイプ研究における貴重な実験材料。強化人間ではないようだが、そいつも所詮は廃人か、これから廃人になるだけの女……それを確保するだけの)
決して容易い仕事ではない。
だが、卑しい仕事だと、アンジェロは思った。