窓からは、午前中のコロニーに特有の、入射角の浅い反射太陽光が白々と差し込んでいた。
《メッサー》による襲撃から一夜明けた、午前中の隊長室。
安物のオフィスチェアに座ったナイジェルは、連邦政府の女とデスクを挟んで向かい合っていた。
室内にはこの二人だけ。張り詰めた沈黙が落ちている。
連邦政府の女——ウチフヅ執行員と名乗ったその女は、険しい眼差しを隠すように銀縁の眼鏡を押し上げた。
「ブライト・ノアを実験部隊の裁量に任せるとは、一言も言っていないはずですが」
ナイジェルは椅子に掛けて背を軽く預けたまま、連邦政府の女の顔を悠然と見上げた。
「しかし、インシデントの責任はわれわれ実験部隊にあるって話になったでしょう。巻き込まれた民間人の身柄はそっち持ちで引き渡してもらえないっていうのは道理が通りませんよ」
「しかるべき手続きが為されていないと言っているのです」
しかるべき手続き。どこに対して、どの?
ナイジェルは、そう言いかけた言葉を引っ込めた。詳細な答えが返ってきたところで、それが現実的な内容ではないのは目に見えている。複雑怪奇で全貌を見せない、手続き論のための手続き論。この手の人間の得意な分野にわざわざ踏み込んでやることはないだろう。
代わりに、ナイジェルは真剣な顔で言った。
「今回みたいな襲撃があったらあの施設じゃ対応できない。現場の判断に委ねて頂きたいところですが」
「あの件については追って調査を……」
「そりゃあ心強い、レポートあがったら持って来てくださいよ」
女は眼鏡の奥で、右目だけを狡猾そうにきりきりと眇めた。
「パイロットとブライト・ノアに、直接話を聞かせていただきます。襲撃についての調査を尽くすために」
「それは、もちろん。しかるべき手続きをしてもらえればね」
女にじとりと睨まれる。仕返しだと思われるのは心外だった。ナイジェルはせせら笑って椅子を立ち、スタックから真新しい書類を一枚取り出した。
「そう睨まなくたっていいでしょう。俺が求めてるのは、おたくらと違ってシンプルで具体的なやつです。ほら、この紙ぺら一枚。これくらいはやってもらわないと」
「……ナイジェル少佐」
受け取りに来る気配はなかった。低い、呻くような声で、女はナイジェルを呼ぶ。
ナイジェルのような人間を相手に、この手の威圧が利かないことは分かっているはずだ。ただの浅はかさで虚勢を張っているようにも思えない。ナイジェルは軽く首を傾げ、女へ向かっておざなりに斜め上からの視線を投げた。
「あの少女が……ブライト・ノアが持つ価値を、あなたは分かっていないだけです」
女の異常にぎらぎら輝く瞳が、眼鏡の奥に見える。
気味の悪さより、義侠心のようなものが勝った。それにへらへらと頷くことを、ナイジェルの奥深くの何かが強く拒んだ。
ナイジェルは笑みを消し、静かに言った。
「いろんな人間が、あの人の価値を分かってるって顔をするんだ。確かに、おれもそんなには知らないけどね。勝手に見出されて勝手に語られて、勝手に貶められる。そういう人間っていうのは、たまにいる」
書類をデスクにぺらりと置いて、そのままデスクに手を突き身を乗り出して、ナイジェルは女を真正面から見据えた。
「あんたたちの『勝手』より少しでもマシな『勝手』を、おれたちはここに用意できる」
「……うぬぼれを」
「横暴よりマシだ」
鋭く響きすぎた言葉が部屋に響き渡り、沈黙が室内を閉ざす。女の唇が色を失うほど噛み締められ、ナイジェルの喉元を狙うように視線が走った。飛びかかってくるのではないかと冷や冷やしたが、膨れ上がった殺気はすぐに抑え込まれてなりを潜める。
女は視線をナイジェルから外さないままデスクににじり寄り、書類をひったくるように奪った。
「日付はコロニー内の標準時刻でお願いしますよ。地球の官僚はよく間違えるから」
立ち去る女のダークスーツの背中に、ナイジェルは飄然と声を掛けた。
ブライトはナイジェルと共に、この実験部隊の拠点を見て回っていた。
軍事ブロック内に複数ある、ありふれた隊舎の一つ。それが実験部隊の拠点だった。上空からは他の連邦軍のものと区別がつかないだろう。入り口に面してごく狭苦しいロビーがあり、合皮のソファとローテーブル、壁面にはモニターが掛けられている。
モニターには子供向けの、色鮮やかなクレイアニメが映し出されている。賢いイタチが優しいウサギを騙そうとしているシーンの軽妙なやりとりが、見るもののないロビーに響いていた。
「いつも子供向け番組を?」
「子供が多いですからね」
あっけらかんと言うナイジェルをブライトは横目に見上げる。ニチテが十六歳でキンジィは十七歳。明らかにこの番組の対象年齢からは外れているように思えた。
「子供と言っても……」
「面白いですよ、これ、けっこう。人気なんです」
「知ってる……娘が観ていた」
その娘にしたところで、今年で二十三歳だ。放送がよほど長く続いているのか、単に放送時期が十年単位でずれているだけか、古い映像を繰り返し流しているのかは、画面を見ただけでは判断できない。
「映像ひとつでそんなにひっかかりますかね?」
ナイジェルが苦笑して壁のホルダーに差されたままのリモコンを弄る。その横には張り紙が貼られ、乱雑に『使ったら戻す!』『隠すなバカ』と殴り書きされていた。
映像が切り替わり、森の中の木漏れ日を映す環境映像になる。ピアノの演奏が音量を抑えて流れているようだ。
別に変えろと言ったわけでは——
言いかけたそのとき、ロビーに繋がる対面の通路からニチテが現れた。
「……あ」
短い声を漏らして、ニチテはロビーの入り口に立ち尽くしている。その視線は痛いほどブライトに注がれている。ナイジェルがブライトの肩を太い指先でつんつんと子供がふざけるようにつついた。
ブライトの反応を待たず、低い囁きが耳元に吹き込まれる。
「やりすぎだとは思ってないですよ、おれは」
「あれの甘えをああやって叩きのめした以上は、おれもその言葉に甘えるわけにはいかない」
「そう思うならまあ、頭のひとつでも撫でてやったら……娘さんにだってやってたでしょ」
ここで「息子に」とは言わない辺りの不自然な気遣いに、ブライトは少し眉を寄せた。今のブライトを相手に、ハサウェイに触れるような言葉は口にしづらいのだろう。腫れ物に触るような扱いは居心地が悪いが、わざわざ反駁する必要もない。
ブライトはニチテに視線を戻し、立ち尽くしたまま進むことも退くこともできないらしい少年にすたすたと歩み寄った。
「おれに言いたいことがあるなら付き合うが」
「う、……ブライト……」
ニチテがたじろいだようにぐらりと揺らぎ、踵が少しだけ後ろに引いた。
「おれのこと、気持ち悪いって」
「君のやり方に問題があると言っただけだ。思いを否定したことは一度もないはずだ」
「そんなこと、いちいち考えてられないよ……!」
「——はは!」
割り込むように、ナイジェルが笑い声を立てた。ニチテが弾かれたように赤らんだ目を見開き、ブライトの肩越しにナイジェルを見る。
「今考えないで、いつ考えるんだよ? ニチテ」
「……!」
「これから忙しくなるぞ。何のわだかまりもないって顔には見えない。話があるなら済ませておいた方がいい」
ナイジェルは気楽な調子で言い、ロビーに背を向けて歩き去っていく。ブライトはニチテと二人、ピアノ演奏と木漏れ日の映像が流れるロビーに取り残された。
ニチテはしばらくそこに棒立ちしているようだった。ブライトは立ち並ぶ建造物の関係で差し込む陽光だけではやや薄暗い室内を見回して電灯のスイッチを探し、ぱちんと点けた。薄暗く狭いロビーを白々とした光が満たす。
画面の中で、アップになった瑞々しい木の葉の先から、膨れ上がった水滴がぽつりと落ちた。
「話っていったって……」
「座らないのか」
ブライトは先んじて腰を下ろし、煮え切らない言葉を遮った。
息を呑む音が聞こえる。ブライトはニチテを見上げることもなく、モニターに映される陽射しが差し込む森の光景へ見るも無しに視線を投げかけていた。
少し待って、ニチテがその映像を遮るように真正面に現れる。ソファに腰を下ろして、ブライトの顔をじっと見ている。ブライトは少年に向き直って背筋を伸ばし、膝の上に軽く固めた拳を置いた。
「現状についてある程度は把握したんだが……襲撃はあれ一回では終わらない可能性のほうが高い」
「分かってる……」
ニチテは沈んだ声で言った。
「だから、君のために戦えるなら、戦い続けられるなら、なんて誇らしいんだろうって……そう思ってたんだ」
戦いについてのあまりに純粋な認識。
だが、過去形だ。
ブライトは複雑な思いを抱えたまま、ニチテの俯きがちの顔を見た。
ニチテの喉がひくりと跳ねて、唾を飲み下す音まで聞こえた。
「それで……なんでそう思うようになったのか、考えてたんだ」
「うん……?」
思っていたより冷静だったのか、思っていたよりはるかに傷ついていたのか。意外にも思える反応だった。見定めるような心地でニチテの様子を注視しながら、ブライトは抑えた相槌を打つ。
「きみは信じてくれないかもしれないけど、おれは病室できみを見る前から、きみのことをちゃんと知ってて、きみのことを守りたいって思ってた。心から信じて、そこにいるだけで強くなれるって思ったんだ」
もちろん、信じられるはずもない。
全く冷め切った気持ちで、ブライトは内心断言していた。
あり得ないことだった。ニチテがブライトに対してそう思ったこと自体ではなく——事故の時点でブライトのことをすでに認識していたのなら、病室で引き合わされた時の反応は明らかにおかしい。あの時点であの機体のカメラと集音が拾っていたのは、まぎれもなく本来のブライトの姿のはずなのだから。
記憶を無意識に修正しているのか、少年の小さなプライドを守るための嘘なのか。
そこまで思案して、ブライトはニチテの言葉を思い返す。
初めてウチフヅとニチテと対面したときの、あの息が詰まるような沈黙に支配された病室の空気。その中で、ニチテは何と言っていたか。
(確か、『カメラと集音が壊れていた』と言っていた——そのせいで『立派な男の人だと思った』と)
つまり、仮称《ガンダム》のセンサー類は特に壊れていなかったというわけだ。
ニチテが事故の時点で問題なくブライトの姿と声を認識していた可能性自体はやはり高いのかもしれない。
そうだとしたら、ブライトの姿と声を確認していたにもかかわらず病室で見た姿に全て上書きされ、その間に発生している異常事態を疑いもしないのだから、更にどうしようもないが。
(そもそも、自分の機体のセンサーが壊れていなかったことくらい、あとあと分からないのか……? 整備状況の共有さえされていない……?)
疑わしい気持ちでニチテを見る。
ニチテは俯いたまましばらく黙り込んでいたが、話を終わらせる気はないようだ。
「おれの言葉、信じてない。それくらいは分かるよ」
「……ニチテ」
「分かってる。おれみたいな子供は、どこにだっているんだろ?」
その一言に、痛いところを突かれて、ブライトはかすかに顔をしかめた。
重すぎる自負。歪んだ認知。関係への執着。正直すぎる時もあれば、不誠実すぎることもある。ニチテのような能力のある子供にはままあるものだと、どこかで思っていた。
だが、そういった扱いを、この少年は当然良しとしない。
「……きみのことを信じさせてほしい。ちゃんと言ってる言葉ならちゃんと聞けって、冗談かどうかくらい見分けろって、きみが言ったんじゃないか」
ニチテの手がズボンの腿を握り締め、ゆっくりと顔を上げた。
いつもブライトに向けていた甘ったるく酔い痴れたようなものとは違う、霞の晴れたような澄んだ瞳がブライトの沈んだ顔を映していた。
見ている。今ここに座っている自分を、ただ真っ直ぐに。
辛辣な猜疑心を一度押し込めて、ブライトはニチテと向き合った。
「あの《ガンダム》……コックピットの中で、おれは完全に呑まれてた。記憶とか、知覚とか、情報とか……乱雑に折り重なる情報がおれの中に押し寄せてきて、自分がどこにいるのかさえ曖昧にするんだ。それは確かにおれのものなのに、おれのものじゃなかった」
「……」
「押し流されそうになるのを踏みとどまってた。その状態のパイロットが自制心を失ったら、もっと重大なインシデントに繋がるって、そう言われてたし……」
(それは、誰に?)
聞こうとして、ニチテの強い眼差しに制される。
(黙って聞け、ということか……一丁前に)
苦笑の一つも出てきそうな気分だが、決して不快ではなかった。ブライトは口を引き結んだまま、先を促すように視線をやった。
「一秒でも早くここから出してほしくて、何も考えずにハッチを開けようとしたときに、きみが俺に呼びかけてくれた」
ニチテの声が熱を帯びる。
「きみの声で空気が振動して、コンデンサの電位が変動して、音響信号の処理と増幅が終わり、過熱したコックピットに可聴音波が響くまでの、何百分の一秒で……きみのことが、それより先に分かったんだ」
「……そういうこともあるんだろう、君たちなら」
感覚の拡張、情報の過集積、それに伴う精神的な負荷。ニュータイプやそれに関連する機器がたびたび引き起こす事象で、否定する材料はない。ブライトは慎重に頷いた。
問題はニチテが何を知り、どう受け取ったかだ。物理的な制約を全て超えて一足飛びに理解に至ることすらある、あの不可解で不安定な感応をブライトに向けたことで。
ブライトはどこか落ち着かない気持ちを押し殺して、ニチテとの対峙を続けた。
「あの時きみは、暗闇から、星空を見上げてたんだ……ブライト、おれはそれがわかったんだよ」
ロンデニオンの人工湖に、星は映らない。
コロニーの空に、星はないからだ——
ニチテのせつせつと響く声に、なぜかそんなことを思った。
星が映るはずのない湖を、自分はなぜ眺めていたのか。失われたものをそこに見出せると思っていたのか、あるいは虚無と直面し続ければいつかは諦めがつくと思っていたのか。
「あのとき、ブライトは、きみは、とても暗いところにいたのに……信じられるものを、すべて失ったのに……そのまま落ちていこうとしていたのに、それでも手を伸ばそうとしてた」
無意識に、息を押し詰めていた。
非力な手を、膝の上で握り締めていた。
ニチテの瞳が輝いている。今目の前にいるブライトを、その奥底にある魂を見つめている。瞳の奥底の、ニチテ自身すら「恋」という欺瞞で押し隠していた、心のきらめきを、今こそ偽りなく伝えようとしている。
「顔も知らないおれのために……」
感極まったように、ニチテの声が上ずり、熱を含んだ。
熱情はまるで陽射しのように、ブライトの肌にまで届いている気がした。
「一度は世界に裏切られた心が、その世界の一部であるおれを、助けようとした。それが、わかったんだ……!」
たとえ感応で断片的な理解を得ていたとしても、ニチテのそれはあまりに一元的で、近視眼的な考え方だ。優れた感覚を持つが故の独りよがり。その視野の狭さは危険でさえある、と——
そう言うことも、できたはずだった。
言えるはずもなかった。
「……!」
ブライトはただ目を見開いて、映像の中の木漏れ日を背負う少年を見つめていた。
「伝わってたんだ。おれには。きみの抱える深い絶望も、どうしようもない諦めも、忘れられない悲しみも。そこに何があったかなんて分からない……誰がきみにそんなに酷いことをしたのか、きみがどんな風に戦ってきたのかなんて、分かるはずもない。でも……でも!」
ニチテの明るい瞳が、眩しいほどにブライトを見つめた。
「そんなきみが、当たり前みたいにおれのことを助けようとしてくれた」
きっと、今この時まで、ニチテ自身も忘れていたはずの、迸るような、原始的で真っ直ぐな感情の昂ぶり。
少年の不慣れな恋心が眩ませていた、あまりにも率直な心の裡が、今吐き出されている。
「信じられるものが、もしもこの宇宙に一つでもあるとしたら、それはこの美しい魂の持ち主なんだって——あのとき、おれは、どんなことよりもはっきり、確信したんだ!」
この宇宙で信じられるもの。
それは、すでにニチテ自身の口から聞いた言葉のはずだった。
ニチテがブライトを初対面から信頼していたことについては、確かに疑いもしなかった。だが、言葉の重みを見間違えていたのかもしれない——恋の熱に浮かされた少年の輝く瞳と、熱心すぎる声音が、ブライトの眼さえ眩ませていたのだ。
そこにある真摯な想いを、そのままの姿で見ることができなかった。ニチテも、ブライトも。
だが、ニチテの気持ちを知った今、目を逸らし続けることはできない。
(認めなければならない——)
静かな室内に流れる柔らかな旋律。
感情を吐き出し終えた少年の決意の瞳。
若く、眩く、愚かしいほどの、嘘のない感情。
こういったものと向き合うことから、自分は逃げていたのではないだろうか?
逃げていたとしたら、それはいつから——
(おれ自身ですら手放そうとしていたおれを、この子供が掬い上げようとしていたんだ)
胸の奥が熱いのは、そこに張っていた氷が溶けたからだ。
それは誤魔化しようのない、身体的な実感だった。
「ニチテ——」
呟くように、ブライトは少年の名を呼んだ。
「君がおれを信じているという、あの言葉が、おれのことも救っていた。思いや命を背負うことに、あまりに慣れすぎた人生だったから……馴染み深い感覚だった」
固めた拳を胸に当て、ブライトは俯いた。
鼓動は高鳴り、熱さを取り戻した血が虚弱な肉体を巡っていた。
「それにもかかわらず……君の言葉にあった真実から、目を逸らしていた。君がただ愚かしく、扱いやすい子供であればいいと——どこかでそう思っていたのかもしれない。そうだとしたら、醜いし、傲慢だ」
「ブライト……」
ニチテの消え入るような声と共に、その血色の良い頬へ涙がぽろりと転がり落ちた。
「醜くなんてない。おれも、忘れてたんだ」
ニチテがかぶりを振ると、また涙が押し出されたように頬へ流れる。
「病室できみを見て、なんて綺麗な子なんだろうって思った瞬間に、全部、全部——見えたはずの、知っていたはずの気持ちにまで、ベールを被せて、飾り立てて……こんなに綺麗なきみのことを心から好きになったおれなら、どんな敵とだって戦えるって思った。自分がきみと出会ったときに何を感じて、何を思ったか、本当はすごく大事なはずなのに……奥の奥にまで押し込んで、蓋をしちゃったんだ」
(それはそれで本当に厄介な精神構造だな……)
と思いはするが、今は言わないことにした。
ブライトはポケットに手を突っ込んで中を探したが、ハンカチの持ち合わせはなかった。仕方なく病衣の袖に手を引っ込めて袖口を内側から指で軽く押し上げ、ニチテの涙を軽く拭う。
視線が通う。ニチテの丸っこい瞳。怯えたような、縋るような、それでも真っ直ぐに澄んだ信頼の光。
ブライトはしばらくその目を見つめ、そして——
強張る唇を僅かに緩め、本当に僅かだけ、不格好に、それでも微笑んだ。
「君がおれを信じるように、おれも君を信じる。それが、我々の第一歩だ、ニチテ」
すん、とひときわ音高く鼻をすすって、ニチテはまだ湿った睫毛を拭うように目を擦る。
そしてまじまじとブライトを注視し、薄く開いた唇からただ一言、
「わ、笑った顔、初めて見た……!」
少し心配になるほどの熱っぽさを込めて、そう言った。