少女の名は、ブライト・ノア   作:6451hole

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18.ランデヴー・イン・コロニー

朝の隊舎ロビーに、豊かな女声のソプラノが響いている。

ロビーにいるのは彼一人。安物のソファに座って、モニターに映る古ぼけた映像を眺めている。

往年の歌手のステージを収めた映像ライブラリにあったものだ。UC70年代、フォン・ブラウン市を起点に全宙域に流行したスペース・パブでよく流されていた、人気曲のひとつ。

曲のタイトルは、「I have loved the stars」。

 

 There are certain calculations I should like to make with you,

 To be sure that your deductions will be logical and true...

 

「logical and true...」

 

少年は小さく唇を開いて、その歌をなぞるように小声でワンフレーズを歌った。

 

 And remember, “Patience, Patience,” is the watchword of a sage,

 Not to-day nor yet to-morrow can complete a perfect age...

 

忍耐と忍耐こそが賢き者の道しるべ。

完全な時代は、今日来ないように明日もやってこない……。

 

完全な時代パーフェクト・エイジ……」

 

少年がどこか遠いものを振り仰ぐような心地で呟いたその時、ぱちんと画面が消えた。

彼は振り向いた。

モニターのリモコンを手にしたナイジェル・ギャレット隊長が、ロビーの入り口に立っていた。

 

「音、デカいって。キンジィ」

「……はっ、すみません。自分一人しかいないと思っていたので」

 

キンジィはすぐさま立ち上がり、姿勢を正して平然とした顔で言った。

 

■■■

 

『室長』からの通信はいつも唐突だ。ナイジェルは通信機の前に座り、無造作に襟を整えながら通信状態が安定するのを待った。明るい青空が覗く広々とした窓、観葉植物の緑。地球の邸宅の一室が映像に映り込んでいる。

映像の中心に、いつも通りのつかみどころのない表情を浮かべた『室長』が座っている——

ナイジェルは先んじて話を切り出した。

 

「ブライト・ノアと面談を?」

 

『室長』は片眉を上げる。

『室長』——組織系統図上はナイジェルの直属の上司に当たるが、部下の不躾な言葉にいらだったという様子ではない。もっと手前のところで引っかかっているようで、至って率直な問いが返された。

 

『"艦長"ってつけないのか?』

「もう民間人だって、本人がさ」

『ふうん』

「目上への礼儀なんて、おまえに言われる筋合いはないだろ?」

 

ナイジェルが図太く言い放つと、『室長』は喉を鳴らして笑った。

 

『そりゃ言えてる』

「ロンデニオンに来るのか?」

 

ブライトと『室長』を会わせる手はずを整えるのは吝かではない。さっさと話を進めてしまおうと畳みかけると、『室長』は首を軽く捻って考え込むそぶりを見せた。その仕草はどこか芝居掛かっているようにも見える。

 

『地球で保護したっていいと思うんだがな』

「バカ言え。地球のほうが危ない」

 

ナイジェルが鋭く抗議すると、『室長』は真剣な顔で反問してくる。

 

『文化セクトは反地球連邦の有象無象を抱き込むつもりなんだろ? ブライト艦長が……マフティーの血縁が旗印になるって話ならさ。それなら、地球にいたほうが守りやすいんじゃないの?」

 

旗印。

不気味な言葉だとナイジェルは思った。

ニュータイプのみが動かせるマシンによって引き起こされ、オールドタイプにすら起き得る、不可逆的で強制的な変容の証明——

それが起きたのが、『マフティー』の首魁の父親だったというのは、どう扱っても重い意味を持ちすぎる。

 

「だからって連邦軍の手が届くところなんかに送り込んじまったら、下手に生かしといて『厄介なこと』になる前に消しちまおうって結論になる可能性の方が高いし……あいつらがどこに向けて何を売り込むかなんて外からじゃわからないだろ?」

 

アナハイムの社内閥、『文化セクト』がブライトを狙っている。現時点で確信を持って言えるのはそれだけだ。

その目的を推測するのは難しくないように思えるが、いくつか仮説は立てられるし、どれもそれらしいばかりで確証がない。

とにかく、状況が見えている自分たちが、起きる事態に即時対応するしかない——『室長』もそれについては同意しているはずだが、落ちる沈黙はやや長かった。

 

『それも考えたんだけど』

「文化セクトの取引相手についてか?」

『いや。消しちまおうって話の方だ。ブライト・ノアを……文化セクトの目標実体そのものを』

 

聞き捨てならない言葉だった。

ナイジェルは鋭く画面を見つめた。

自分よりずいぶん若い画面の向こうの『室長』は、ナイジェルを真っ直ぐに見つめ返して見定めるように微かに目を細めた。

 

『でも、しないほうがいいんだ。そんなことは。たとえ、誰がやれって言ってもな』

「……」

『おれたちは、一足飛びに先に進もうとして、色々なものを取り零し過ぎた。今度は取り零さない』

「大した御主義だ。所信演説か?」

 

ナイジェルは軽く笑って、その湿っぽい言葉を笑い飛ばした。

取り零し過ぎた——そうだ。戦わなければ今はなかった。だが、戦ったことで失ったものもあった。自分と彼が今立っている場所を、否定も肯定もできない。

それでも、失うべきでないものを守ることに、意味はあるはずだ。

『室長』は軽くかぶりを振って穏やかに微笑んだ。それ以上の言葉を付け足す気はないようで、代わりに端的な指示が続いた。

 

『おれも、一度ブライト艦長に会いたい。久しぶりだし。また怒鳴られるかもしれないけどな。調整を頼むよ。改まった形では会えない。市街のどこかで都合をつけてくれ』

「分かった」

 

唐突に通信が切られる。これもいつも通りのことだった。ナイジェルは椅子に背を預けてため息をつき、コロニーの白々とした反射太陽光が照らす天井を見上げた。

 

「変わったな、あいつも……」

 

知己との会話が持つ安らぎも郷愁も、その会話にはなかった。ただ事態を前に進めるための、立ち込める靄を晴らすための、策謀と決断だけがある。自分たちはまだ、思い出話に浸れる場所にはたどり着いていないということなのだろう。

 

■■■

 

このティーンの少女の肉体は、ブライトの精神にとっては檻であり、それ以上に重石だった。

病室に縛られる生活から抜け出したことが、それを余計に強く意識させた。

幼いとか小さいとかいう問題ですらない。この肉体には、生活するうえで最低限の筋肉量すら備わっていないように思えた。脂肪の層も極度に薄く、外の風に当たるだけで歯の根が合わないほど震えてしまう。

 

(欠陥品……!)

 

そう思わざるを得ないほど——

幼少から体格にも健康にもそれなりに恵まれてきたブライトにとって、この不自由さは耐えられないものがあった。

たんぱく質の摂取と継続的な運動。それが、とにかくこの枷から抜け出すための大前提だ。そのはずだったが……

この肉体の虚弱さは、消化器官にまで及んでいるようだった。一人前の食事すら完食できない時もあるし、急いで摂取すれば消化器官の不快感に苦しむことになる。

それでも、今の肉体が許す範囲での運動を続けるしかない。

幸い、この隊舎の中を出歩くことは誰も妨げない。これは、あのまま医療施設に閉じ込められていたままでは望めなかった待遇だろう。

 

この隊のQMクォーターマスターに要求した、運動に適したシャツとジャージ生地のズボンに着替える。まだ複数の注射痕が並ぶ、痛々しいほど痩せた生白い腕が半袖のシャツから剥き出しになっている。

肩につくほどの長さの髪を後ろに引き寄せ、ヘアゴムを不器用に掛けていたところに、ノックの音が割り込んできた。

 

「ブライト艦長、ちょっと」

「ナイジェル」

 

その名を呼び終えるより早く、ばちんと音を立ててヘアゴムが指から外れ、部屋の隅へ飛んでいった。

ブライトは苦々しい心地でそれを追いかけて拾い上げ、廊下にいるナイジェルに声を掛けた。

 

「入ってくれ」

 

ヘアゴムを拾い上げ、もう一度髪を掴んで後ろに引っ張り上げたところで、ドアを開けて顔を覗かせたナイジェルと視線が合う。

ナイジェルは眉骨の影が落ちる厚いまぶたをゆっくり上下させ、ブライトをしばらく見下ろしていた。

 

「あー……」

「何かあったのか」

「そうですね、お願いが」

「おれにか?」

 

ナイジェルは頷いたあと、そんなことよりと言わんばかりに室内を見回した。

 

「どうした?」

「髪、やりましょうか、おれが」

「……用件を先に話してくれ」

 

よほど見苦しく見えたのだろうか——

髪を掴んだ手を離してばらりと黒髪を肩の上に開き、ブライトは力なく言った。ナイジェルはそうですかと言わんばかりに軽く肩を上げ、それ以上は食い下がる様子を見せなかった。

 

「ブライト艦長に市街に出てほしいんです。会ってほしい人物がいまして」

「この基地では駄目なのか」

「色々兼ね合いがありましてね」

 

一度襲撃を経験した以上、不用意な行動は取れない。基地の外に出ることにも慎重になったほうがいい。そう思っていたが、ナイジェルは思っていたよりあっけらかんとしているようだ。

 

「危険では?」

「そりゃもちろん」

「おとりの必要が?」

「おとり慣れしすぎですよ、ブライト艦長」

 

ナイジェルはからりと笑い声をあげた。ますますわけがわからず、ブライトは怪訝な想いで30cmは上にあるナイジェルの顏を見上げる。ナイジェルは片眉を上げ、穏やかな視線を投げてきた。

 

「危険とは言っても、文化セクトが街中でブライト艦長の拉致を敢行するって可能性は低いと思いますけどね、実際——腕利きの護衛を付けて、遠距離からの監視を十分に行います。MSやら戦車やらを持ち出された時のために、各所の避難経路も点検済み」

「周到だな」

 

そこまでして誰と会わせるつもりなのだろう——と、当然の疑問が出てくる。それに簡単に感付いたらしいナイジェルが、笑いを含んだ声であっさりと言った。

 

「会ってほしいのは、この実験部隊の直属の上司です」

「連邦軍の?」

「連邦政府の一部署ですよ、人事局登用推進室の『室長』。系統図上はそこがおれたちの司令部って扱いに」

「ねじれた構造だな……」

 

政府直属の部隊に、隊長として連邦軍の軍人を付け、その内部に複数の勢力が入り込んでいる。

どうにも引っかかっていた緩んだ気風もそこに起因するものなのかもしれない。こんな場所で軍人然とした振る舞いをすれば却って浮くのだろう。

 

「気軽に身動きできないのはどこも一緒でね……市街で顔を合わせるってのが一番手っ取り早いんです」

「必要なことがあるなら、通信で話せないのか」

「直接会うことに意味があるんですよ」

「……」

 

含みがあるようにもないようにも思える。黙り込むブライトをよそにナイジェルはブライトの手からヘアゴムを奪い取り、指先でびん、と伸ばした。

 

「これ、どこから?」

「運動をするにも髪を留めるものが要る、とQMに言っていたら……」

「QMが?」

「いや、通りすがりの隊員がくれた」

 

ここには気のいい少年が多いようだ。閉鎖環境と危機感に磨り潰されて荒れ狂うような様子もない。それに越したことはないが、どうにも複雑な心地だった。

ナイジェルがヘアゴムを返し、次はベッドの端に引っ掛かるように置かれたままのランニングブラ——伸展性のある、乳房保護用のバンドを摘まみ上げる。

それは、子供がつけるようなものではあるが、明らかに女性の肉体のためのものだ。

 

「着けないんです? これ」

「どうにも抵抗が……QMが勝手に渡してきたんだ」

「着けたほうがいいですよ」

「……」

「なきゃないで見苦しいですから」

 

さらりと付け足して、ナイジェルはそれをベッドにまた置いた。ブライトは憤懣をため息に乗せて長く吐き出し、ベッドの上からそれをひったくってシャツを脱ごうと裾に手を掛ける。

即座に、ナイジェルが鋭く声を掛けてきた。

 

「ああ、それじゃあ話は運動の後にでも」

「話がまだあるなら、今……」

「そりゃあありますけどね。服着てる艦長と話したいんですよ、こっちは」

「それは……すまなかった」

 

着替えながら話をするのはナイジェルの方に抵抗があるようだ。脱ぎかけた服から手を離す。ナイジェルは若干バツの悪そうな様子で視線を外した。

 

「日時の調整は明日の正午までに確定します。護衛はすぐに選出するつもりですが……一人か二人で対応できるくらい戦闘訓練を積んでて、市街の行動に慣れてる奴ってなると限られてるのが困るところで」

「誰なんだ?」

「キンジィですよ」

 

明確な意図の見える人選だ。

ブライトは静かにナイジェルの表情を伺った。

ナイジェルはその視線にも気づいているようで、軽く瞑目してふふん、と笑いを漏らす。

 

「どう思います?」

「キンジィはおれが動けばすぐに気付くだろう。ああやって四六時中見張っているのをカモフラージュするためにそれらしいことを言ってはいるようだが……意図は見えてる。どうにも稚拙だ」

「なら、やめておいた方が?」

「逆だ……他の護衛を付けたところで、あいつはおれが市街に向かうことには必ず気付くんだ。即時に……余裕をもって。その時、君が言うようにおれの監視や退避ルートの確保に人員を割いているなら……独自に行動に移るには十分すぎるかもしれない」

 

ブライトはヘアゴムを手に思案した。

ナイジェルの警戒にキンジィが気付いている可能性は十分にある——だが、キンジィを遠ざけた隙にブライトだけが市街地に行くような真似をすれば、どちらにせよ決定的だろう。

左手で髪を後ろにまとめ、ゆっくりとゴムを掛ける。

 

「おれから声を掛けたほうがいいだろう。市街地での行動中、おれの護衛に着くようにと」

「じゃあ、それで。もちろん、室長と会う件については話しちまって大丈夫です。その他の件は内密に」

 

他の件——文化セクトについて、アナハイム社について、それとキンジィとの関わりについて。とにかく、こちらが余計なことに感付いていると思わせるのは悪手なのだろう。

ブライトは頷いて、束ねた髪にもうひと巡りゴムを掛けた。

 

「……ブライト艦長」

「なんだ?」

「キンジィに、なんて声かけるつもりなんです?」

「?」

 

 

【挿絵表示】

 

 

ゴムを掛け終えた髪から手を離すと、ゆるく掛け過ぎたヘアゴムは髪に押しのけられるようにするするする、と滑って髪束からぽとんと落ちた。

ため息をついてまたヘアゴムを拾うブライトを、ナイジェルは困惑気味に見下ろしているようだった。

 

「さっき言っただろ。市街地に出るからついてきてくれと」

「……あいつ、勘違いしそうだなあ」

「当然、油断していると思うだろう。させておけばいい」

「そうじゃなくて……」

 

棚の端に置かれたままだった櫛をブライトに押し付けるように渡しながら、ナイジェルは困ったように笑った。

 

「デートの誘いだとしか思いませんよ、多分」

 

■■■

 

ニチテはシャワーを止め、シャワーブースの薄い壁をべちんと平手で叩いた。

シャワールームにずっと響いていたキンジィの鼻歌がようやく止まる。

 

「キンジィ、うるさいぞ!」

「おれの美声が聴けるんだぜ。チケット代をもらいたいくらいだ」

「どこが……」

 

声を荒げたその時、シャワールームの重いドアががろがろと音を立てて開いた。音でしかわからないが、そのペースはひどく遅い。非力な誰かがドアの重さに苦戦しているのが伺えた。

はあっ、とため息が続き、防水タイル用のスリッパに履き替えた足がぺたぺたと歩いているのが聞き取れる。

ニチテは弾かれたように顔を上げ、シャワースペースと脱衣スペースを区切る二重のカーテンを掻き分けて通路にぬっと顔を出した。

 

「ブライト!」

 

運動着代わりのシャツ姿で、いつも以上にぼさぼさに乱れた髪を後ろで乱雑にくくったブライトと視線が合う。顔は上気し、細い首は汗にうっすらと湿っているようだった。

疲労に少し淀んで見える黒い瞳と視線が合い、ニチテは胸を弾ませた。

 

「軽い運動?」

「ヘビーだった」

「……? そうかもね」

 

疲れた様子のブライトによくわからないまま笑顔を向ける。シャワーを止めたキンジィは、しばらく隣のブースで耳を澄ませていたようだが、やがて呆れた声を響かせた。

 

「ニチテ、お前……足音だけで分かったのかよ?」

「足音聞こえる前から分かってたよ」

「ウソつけ!」

 

ニチテとキンジィが騒いでいるうちに、ブライトはさっさと進んで隣のシャワーブースに入ってしまう。

 

「……」

「……」

 

脱衣スペースから聞こえる、衣擦れの音が聞こえるほどの——

不自然に張り詰めた沈黙が、落ちていた。

 

見えるはずのないキンジィの喉が唾をじっくりと飲み下す、その喉仏の動きまで見えた気がした。

 

ニチテは慌ててカーテンの内側に首を引っ込めて肌に残る泡をせわしなく洗い流し、壁にべこべこと肘や腿をぶつけながら大忙しで体を拭った。

とにかくパンツを穿いてズボンだけは前をしっかり締め、シャツのボタンは留め終えないままカーテンをじゃっ、と押しのけて通路に飛び出す。

 

「ニチテ、何をバタバタしてる」

「見張り!」

 

カーテンの向こうから冷たく尋ねるブライトにはっきりと答え、ニチテはブライトが入ったブースの前に拳を固めて立ちはだかった。

ニチテの明確な敵意を感じ取ったのか、キンジィが抗議の声を上げる。

 

「別に押し入って襲ったりしねえって」

「いや、おまえはする!」

「人聞きの悪い……そんなことよりブライトちゃん、最近鍛えてんの?」

 

シャワーの湯がカーテンや床を叩くぱたぱたという音が響き、ニチテとキンジィは一瞬で黙り込んだ。あの白すぎるほど白い肌に弾かれた湯が珠となって滴る光景を生々しく思い浮かべ、ニチテはシャワーカーテンの前で顔を真っ赤に染める。

今まさに自分以上にはしたない妄想をたっぷり巡らせているのだろうキンジィは、なかなかシャワーを再開しないようだった。攻めあぐねるような間を開けて、取って付けたように軽薄に声を掛ける。

 

「水臭いな。トレーニングくらい、言えば付き合ったんだぜ」

「キンジィ。ちょうど良かった」

 

シャワーを浴びながらも、その音にかき消されないくらいにはっきりしたブライトの声が響き渡った。

ニチテは驚いて肩越しに振り向く。決して明るくはないシャワールーム。二重の厚いカーテンの向こうのブライトの姿は影も見えない。

 

(キンジィに、用が……?)

 

唐突にも思えた。ブライトは一体何を考えているのだろう?

ニチテが困惑と共に問い質し、キンジィが軽薄な笑いと共に先を促すより一歩早く、ブライトははっきりと続けた。

 

「市街地に行く。同行してほしい」

 

今度こそ静まり返ったシャワールームに、ブライトのブースから響く水音だけが響き続けた。

 

「……ブライト?」

 

消え入るような声で、ニチテはブライトの名を呼んだ。

 

「……え? つまり?」

 

不愉快な喜色を滲ませただらしない声を、キンジィが上げた。

 

「デートのお誘いってこと? ブライトちゃん」

「そんなわけあるか、バカ!」

 

浮かれるキンジィを制するようにニチテはぴしゃりと言う。二人の険悪な空気をよそに、ブライトは平然とシャワーを続けているようだった。

 

「室長がおれに会いたいと言ってる。護衛が必要だ」

「ああー、そういう……?」

 

きゅ、とカランを捻じる音がして、キンジィがシャワーを再開する。

 

「この隊じゃおれが一番強いからね。そうなるだろってのは分かるよ。でも、それでおれを選んでくれるってことは、やっぱりおれにそういう気持ちはちょっとはあるってことじゃない?」

「面倒だな……護衛を頼むと言っただろう」

 

キンジィの理屈にもなっていない理屈に振り回されることに疲れたのか、ブライトはあからさまにうんざりとした様子だった。

ニチテは慌てて勢い込み、声を上げた。

 

「危ないよ、ブライト!」

「分かってる。だから護衛が必要なんだ」

「違うって。キンジィと一緒に行くのが危ないって言ってるんだ!」

 

その言葉に。

なぜか、ブライトはとても真面目に思案し始めたようだった。キンジィと一緒に動くことのリスク——それを今の今まで気にしなかったわけではないだろうが、どこかで踏みとどまって考え直したとでもいうような。

それは、どうにもニチテが考えているような意味ではないようだったが——

 

「危険だと考えているのか? キンジィを?」

 

ブライトが慎重に尋ねる。奇妙な圧を伴うニュアンス。ニチテはやや気押されながらも即答した。

 

「だって、そうだろ!」

「だからやめろって、人聞きの悪い!」

 

シャワーを終えたらしいキンジィが、牽制する様にぴしゃりと言う。カーテンの向こうの脱衣スペースで、もそもそと服を着ている様子がうかがえた。

 

「ブライトちゃん、気にすることないんだぜ。見ての通り、紳士で通ってるし、おれって……」

 

カーテンを開けて顔を出したキンジィをニチテは睨みつけた。それ以上こっちに近寄るなと怒りの形相で無言のうちに訴えかけるが、キンジィはそれを真正面から受け取った上で全く無視してぬけぬけと歩み寄ってくる。

キンジィがニチテの目の前に立ったその時、ブライトはカーテンの向こうから平然と言った。

 

「いや、ニチテの意見も一考の価値はありそうだ」

「ブライト!」

 

ニチテの歓喜の声に、キンジィがしかめっ面をする。

やっぱり、通じ合った心は無駄ではなかったのだ。ブライトはニチテの心配をちゃんと受け止めてくれた。その陰にある思惑までは読み切れなかったが。

彼女の声は、少年たちの小競り合いなどないもののように優雅にも響いた。

 

「ニチテ、キンジィ。当日は二人で同行してほしい」

 

少しの沈黙の後……

 

「ええー……?」

 

がっくりと脱力したような情けないキンジィの声が、シャワールームに響き渡った。

 

■■■

 

「不健康に痩せた体格に、目立つ注射痕に、着飾った服、身分証明書と性別・年齢が一致しない、陰気な10代の少女」

 

ブライトはしかめっ面で、客観的な自分の外見の定義を列挙した。

 

「薬物中毒の売春婦だと思われて職務質問を受ける可能性があるぞ」

「今どき、不健康なくらい痩せてる娘さんなんてどこにだっているし……別にウリやってる女の服装じゃないですよ、それ」

 

朝のロビーには、ブライトを含めて3人の人間がいた。

ブライトと向き合って座っているナイジェル、ブライトの傍らに立ってブライトの髪をセットしている少年兵。その妙になよやかで器用な指が髪を一房一房掬い上げる感触が、どうにもくすぐったかった。ヘアアイロンの熱を残したままの黒い巻き毛が、うなじの上でじんわりと熱い。

先日ヘアゴムをくれた、この部隊の少年兵だ——体格のいい少年だが口調も物腰も世知長けた女性のように柔らかく、ふところにあっさり入ってきて世話を焼く所作はどこか妻を思い起こさせた。

どうにも、気まずい。

 

「売春婦ねえ。時代じゃないな。娘さんがおしゃれするたびにそんなこと言ってたんですか、ブライト艦長?」

「言ってるわけがないだろう、話を逸らすな」

「何をためらってるんだか。着ちゃったもんを脱ぐわけにもいかないでしょうに」

 

支給の病衣を脱いだブライトは、今、全く異なる服装になっていた。

白地に薄い小花柄があしらわれたブラウスと、ハイウェストの青いスカート。ナイジェルの姪の私物だと説明されていたが、それにしては品物が新しすぎるように思えた。

悪いチョイスではないはずだ。10代の少女としては決して派手ではないが、人目につくほどみすぼらしくもない。更に髪も整えれば、確かに多少振る舞いが少女らしくなくても浮きはしないだろう。

そう、拒む理由はどこにもないはずなのだが——

 

「もう少し落ち着く服装がいい」

「市街で買えばいいんじゃないですか? それも。ショッピングですよ」

「あの子供二人を引率してか?」

「喜ぶと思うけどなあ」

 

ナイジェルはさらりと言った。

大して本気でもないのだろう。

ブライトの言葉が、心理的な抵抗を乗り越えられない言い訳のための難癖に過ぎないことはブライト自身にも分かっている——もちろん、ナイジェルにわかっていないはずもないのだ。

 

「どうしても注射痕が気になるなら、上着を一枚引っかけるのが無難でしょうね。陰気なのはまあ……笑ったらいいんじゃないですか、職質されないために」

「きさまが面白がってるのくらいはおれにも分かるぞ、ナイジェル」

「脅かさないでくださいよ」

 

全くたじろいでいないナイジェルをしばらく睨み、ブライトは徒労感に肩を落とした。

今ナイジェルに噛みついたところで、正しく虚勢でしかない。市街に出て、不用意に敵対者の目を引かないために、必要な装備を整えただけだ——感情になんとか理解を追い付かせる。

そうするうちにも少年兵の器用な指に取られた冷たいヘアピンが髪の中にクッ、クッ、と差し込まれ、編み込まれたばかりの髪の房をしっかりと固定する。

 

「できたわよ」

「ああ、ありがとう。とにかく、上着を……」

「見ないのぉ? 鏡……会心の出来なのに」

「それには及ばん」

 

唇を尖らせる少年兵におざなりに答え、ブライトはソファを立ち上がって——

ロビーの入り口に並んで立つ二人の少年と、真正面から視線がぶつかった。

私服姿のニチテとキンジィが、呆然とした顔でそこに立ち尽くしていたのだ。

 

「……お、おはよう、ブライト……」

「ブライトちゃん、ヘアセットまでして楽しみにしてくれてたの……?」

 

うっすら顔を赤らめて並ぶ二人。

そこにあるのは、ブライト自身にとっても決して馴染みのない感情ではないと、認めざるを得なかった。

今の妻との初めてのデートの時の胸の高鳴りや、それよりさらに昔、学生時代の恋とも言えない淡い関係に抱いた期待。そういったものを同じような男が、それも年端もいかない若者が抱えていることに、いちいち苛立つわけにもいかない。

 

(もちろん、相手がおれじゃなければ、背中でも叩いて送り出してやるんだが)

 

割り切れない思いを抱えるブライトの背中を、ナイジェルの大きな手がぼん、と叩いた。

 

「時間になったら避難経路の再確認と通信チェックを。まだ少しありますから、朝食を摂ってから出かけては」

「了解した」

 

朝の反射太陽光は、まだコロニー内の大気を温め始めたばかりだった。

『室長』のシャトルはまだポートに着いてもいないだろう。

この一日が、予測もつかないような波乱含みになることを——

自分を見る少年たちの瞳の揺らぎの中に、ブライトはどうしようもなく確信していた。




10月16日18時ごろに次回更新予定です。


【挿絵表示】




作中で「UC70年代の歌謡曲『I have loved the stars』の歌詞」として引用されているのは、Sarah Williamsの「The Old Astronomer to His Pupil/Twilight Hours (1868)」(パブリックドメイン)です。

この詩が使われているキンジィが聞いていた曲(曲名はこの詩のタイトルではなく、この詩のもっとも有名な一節を取って「I have loved the stars」となっています)はUC70年代にヒットした歌です。もちろん、UC88年生まれのキンジィから見ると完全にレトロ曲です。
UC70年代のスペースパブ全盛期、音楽シーンの一部にはのちのジオニズム美術に繋がるような芸術表現への傾倒・伝統の模索がありました。その流れを汲んで、西暦時代の古典詩やラウンジ・ミュージック等の、レトロというよりはヒストリカル・アカデミックな作風を取り入れた歌謡曲が流行したという(このSSの勝手な)設定です。これらは夜の営業が主であるスペース・パブに馴染むのもあって多く流され、多くの人の耳に触れています。この傾向の音楽について特に正式な呼び名が決まっているわけではないですが、スペースノイドの耳に馴染んでいる「なんとなくあの頃のそういう音楽」を指して「スペースパブ音楽」「スペース・トラッド」と呼ばれることがあります。
スペース・パブは月のフォン・ブラウン市を起点にスペースノイドに普及した文化であり、これらの音楽も地球にはあまり入っていません。そのため地球育ちのブライトさんはあまり知りません。「コロニーのバーってこの手の曲たまに流れてるよな」くらいの認識です。UC60年生まれの人から見ても曲調がレトロな感じになるのもあり、多分もっと古い曲だと思ってます。

という、今のところ全く展開に関係ないSS内の独自設定を作中に垂れ流すわけにはいかなかったので、出典の明記ついでにここに書いています。
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