湖のほとりに、改装中の店舗はある。
ニューハンプシャーシー。ロンデニオンにある、治安の良好な住宅地だ。ダウンタウンにほど近く、交通の便も良い。
こんな景色の中でレストランをやる。絵にかいたような悠々自適の『老後』……あるいは、それのよくできた真似事だ。
巻き上げられるワイヤーの音と、無数の採光ミラーの軋みと共に、コロニーの夜が訪れる。大気の温度が急速に変わることで対流が発生し、木々を渦巻く風が打ちつける。
ブライトは上着を羽織り、街灯の光の下で歩みを進めていた。
今の状態のブライトが一人で出歩くことを、妻はあまり喜ばないようだ。
二人の息子——ハサウェイの顛末。妻自身も深く傷ついているというのに、何もできなかった夫の突発的な愚行を心配するだけの余裕がある、その強さが眩しくもあり、居心地悪くもあった。
コロニーの人工湖。防火の面でも、湖が近くにあるのは心強い。
湖にさざ波が立っている。コートのポケットに手を突っ込んで、しばらくそれを眺めていた。
暗い湖面は星すら映してはいない。
——自分は、そこに何かが映ると期待していたのか?
滑稽な心地がした。友とも、妻とも向き合うのを諦めていながら、まだ語りかける誰かを探している。
失われていった人間は、世界に広く溶けていく。
このロンデニオンに充填された大気の中にも、かつて共に戦った彼らの魂はあるのだろうか。あるとしたら、そこに、ハサウェイは——……
そのとき。
空が、眩く光った。
「……!?」
ブライトは思索を打ち切って空を仰いだ。
空から何かが落ちてくる。
眩しすぎてそこにあるものが見えない。
ただ唸るような重い駆動音と共に熱風が吹き渡り、その風に乗るようにブライトは大きく飛び退って地面の上に伏せた。
風に乗って届く。焦げ付く金属と弾薬のにおい、高熱で泡立ちながら溶け落ちていく有機バインダーのにおい。焦燥を掻き立てるきな臭さ。
ドオォォォン——
遠鳴りのような轟音で、聴覚が一時的に麻痺する。
人工湖から太い水柱が天を突くほどに上り、熱水が変じた水蒸気が、視界を奪うほどの勢いで立ち込めた。ブライトは上着を掻き寄せて鼻と口をぴったりと覆い、吸い込めば肺を焼けただれさせる灼熱の霧が強風で吹き散らされるまでの数秒を耐えた。
光と霧が収まる。
溢れた人工湖の水が地面を濡らし、ブライトのズボンの膝から下は泥まみれになっていた。
ブライトは立ち上がり、眩んだ目を瞬かせて、ひとまず耳の横に持って行った指をぱちんと鳴らした。音は正常に聞こえる。鼓膜に異常はないようだ。
「何が起きてる——砲撃……ではないようだが」
夜の静寂を取り戻した湖の中に、それは半ば突き刺さるようにして現れていた。
高熱でガラス化した塗膜を汗のように流しながらゆっくりと頭を上げる、鋼鉄の巨人。うずくまるような姿勢から動けないせいで、胸辺りまで水につかっているようだ。暗くて造作は判然としないが、複雑な金属の軋みが、その壊れた機体内部の機構の精緻さを思わせた。
「不明な……モビルスーツ……いや」
いつまでも打ち解けられない古い友に話しかけるような心地で、ブライトは呟いた。
「ガンダム……?」
冷たいものがぱたぱたとブライトの顔を打った。激しい飛沫と共に、その人型の機体の巨大な腕が持ち上がろうとしている。
きっ、きっ、と軋むような音が聞こえた。カバーが外れたメインカメラが、丸い輪郭を見せて震えながら巡っている。機体は壊れかけているが、地上にただ一人立っているブライトを追いかけている、意味のある動きだ。
つまり、パイロットは死亡していない。
ブライトは踏み出し、叫んだ。
「ハッチをまだ開くな、溺れるぞ!」
宇宙勤務のパイロットの多くは水中や水上での行動に慣れていない。近年の複雑化した体制の中ではなおさらだ。負傷して判断力を失ったパイロットがこの状態で溺れたら、ブライトにも助けられないかもしれない。
ハッチが開く様子はない。
代わりに機体の腕が更にのろのろと上がり、湖の岸を半ば掴むように鋼鉄の掌を置いた。熱いマニピュレーターに触れた下草がちりちりとよじれて乾いていく。
湖からもう片方の腕が持ち上がり、人間で言えば機体の腹部に当たる箇所を指さしてから掌を湖面に水平に出してふらふらと回した。
その動きに、ブライトは見覚えがあった。
「連邦式の手信号……『ここに来い』と?」
湖岸に置かれた腕を思わず見る。要はこの腕を渡ってコックピットに来いということらしい。
確かに、機体がこれ以上動けず、救助が必要な状態なら、ハッチを開けて浸水前にパイロットを引っ張り出すしかないのだろう。
危険な作業だが、迷っている時間はないようだ。パイロットがどれほど負傷しているかわからない。時間が過ぎるごとに状況が悪くなるのは疑いようもない。ブライトは水気の多い泥にふやけつつある革靴と濡れそぼった靴下を次々に脱いで放り出し、上着も脱いでこれは肩に掛けた。コックピットまでたどり着けばロープ代わりに使えるだろう。
機体の腕をぐっ、ぐっ、と踏み、声を掛ける。
「手信号をやめて、もう腕を動かすな。どっちの腕もだ。簡単に振り落とされる!」
水音を立てて手信号を出していた方の腕が湖面に落とされる。駆動音が静まり、がちんと金属音が聞こえた。関節部分をロックしたのだろう。
ブライトは機体の手の甲にぐっと足の裏を置き、そのまま思い切って体重を預け、その登りにくい金属塊を駆けのぼった。
機体の腕の上を駆け抜けて肩に取りつき、ぶら下がりながらコックピットに手を伸ばすということだ——当たり前だが、こんなムチャをやったことなどあるはずがない。足を滑らせたところで湖に落ちるだけとはいえ、冷や汗が滲む。
肩へ近づいて部品の膨らみらしい箇所に手を掛けようとしたところで、奇妙な音が耳に届いた。
ごぅん、ごぅん、ごぅん……
関節の駆動音ではない。
感覚としては、重い隔壁が開くような音。それがいくつも。
「今動かすなと……!」
声を上げようとしたが、機体に密着しているので何が起きているのかよくわからない。ブライトは首を捩じって、何が起きているのか確認しようとした。
機体の胸に暗い窪みがあるようだ。複雑な形をしている。これが今開いたのだろうか?
目を凝らした瞬間、眩むような光が溢れた。
「——……!」
視界が焼けて何も見えなくなる。感覚が狂って機体に取りつく手すら放してしまうのを危惧し、指に力を込めた。固く閉じた瞼を透かした赤い光。脳に焼き付くような光量だ。
限界まで光を飽和させた視界が——
不意に、ふつりと穏やかに、暗くなった。
暗闇ではない。
無辺の広い宇宙。星が瞬く。
それは、とても朧な内面世界——薄膜を通して見ているようなもどかしさ。
未知の感覚だった。そして、この景色は自分が本来『見るべきでない』ものであるというのも直観的に分かる。
端子を間違えて差し込んでいるような決定的な食い違い。
存在しないチャンネルに受け取れるはずがない情報を捻じ込まれている……
情報は粗悪に劣化し、ただ五感に負担だけが残る。
(幻覚……? いや、これは……)
声が聴こえる。
誰かが呼びかけてくる。
宇宙の果てから手が伸ばされてくる。
それが何を語り、何をしようとしているのかすら、ブライトには感じ取れない——
(それは……)
意識が焼けている。身体感覚がズタズタにされている。自分の手が機体を掴んでいるのかさえもうわからない。もはや体勢を保てるはずがない。自分はこの機体から落ちるのだ。
冷静にそれを受け入れつつ、ブライトは朧すぎる宇宙の中で、届かない言葉を呟いた。
(それはとても悲しい事だったのだろう、きっと……)
脳裏に過る幾つもの懐かしい顔。
強く悲しい少年たちの揺らぐ眼差し。
彼らが見ていたものを、自分はついに見られないままだった。人類の進化の可能性。通じ合い分かりあう心の止むことのない残響音。そんなものに踏み込むこともできず、ただ泥臭く、地道に、目の前にある戦いを続けるしかなかった。
それが自分なのだと受け入れていた。彼らにできることと自分ができることは違う。正当な結論のはずだった。
だが、それすらただの怯懦だったのかもしれない。
(分かろうとすらしなかった……それを積み重ねた先に、今があるのだろうから)
激しい水音が聞こえた。
人工湖に、沈んでいく。コロニーの疑似重力に引かれ、水底に向かって振り落とされていくのだ。
ブライトは手を伸ばした。
黒い水面に向かって立ち上っていく泡が、未だ脳裏に焼き付く朧な星と重なって見える。
(まずい……どうにかして、パイロットの救助を……)
虚しい呟きを最後に、ブライトの意識は途切れた。