ロンデニオン市街。
カフェのテラス席で、カイ・シデンは一人の青年と向かい合っていた。
パイロット然とした青年だ、と言うと、かつての自分にも跳ね返ってくるのだろうか。冷たい自信に溢れていて、聞く耳を持たなそうな印象の若者だ。
カイは顎をさすって、テラス席の対面に座るそのブラウンの髪の青年が小さなボウルの中で陶器のスプーンを掻き回し、生卵の卵黄をぐしゃくしゃと潰しているのを眺めていた。若者は更に練乳のチューブを握り締めてボウルにどぷどぷと流し込んでまた生卵と掻き混ぜ、ボウルの中でムラだらけのまま波打っているそれをコーヒーカップの中のエスプレッソにたっぷりと流し込む。
デミタスカップではない分、中身に対して余裕はあるわけだ——得体の知れない飲み方ではあった。
コメントに困って、カイはとりあえず苦笑いと共に言った。
「あー、そのォ? なんていうか、甘党なんだな」
「ハノイ式はこんなものらしいよ。コロニーじゃ、新鮮な卵は高いみたいだな」
「地球よりは高いさ」
「だろうな」
卵と練乳の色で不気味に染め上げられた『ハノイ式コーヒー』を口に運びながら、青年は冴え冴えとした眼でカイを見る。
「マフティーに墜とされた戦友に教えてもらった飲み方でね。初めて試すけど」
「お味の方は?」
「要はプリンじゃないかな、これ。プリンとコーヒーで別々に取ったほうがいいな」
「ああ、そう。ちょっと興味が湧いてきたけど」
カイは当り障りなく肩をすくめて笑った。
青年はカップを置き、何かを見透かすような光を瞳に宿している。
何を尋ねようとしているかは、だいたい見抜かれている気がした。案の定、カイに先んじて青年の方が先に口を開いた。
「おれにマフティーの話を聞きたいって奴は珍しくなかったよ。でも、ロンデニオンまで追いかけてきたのは初めてだし、コソコソせずにこんな開けたところでっていうのも気に入った。ヒキョウは嫌いでね」
「努力賞ってことで、なんか話してもらえるかい? レーン・エイム大尉」
「聞きたいことによっては」
一言答えて、レーンは下唇についた卵の黄身を親指の腹でくいと拭い、舌先を見せずにそれを舐め取った。
ロンデニオンの市街は賑やかだった。街路樹は青々とした葉を揺らしているが、ショーウィンドウや店先にの装飾には紅葉をモチーフにしたガーランドがちらほらと見える。気温も湿度も完全に管理されているコロニーでも、季節と商業活動は分かち難い関係にあるようだ。
キンジィが運転するエレカはあっさり所定のカフェがある街路の近くに着いてしまった。後部座席に座ったブライトは上着の前を掻き合わせて肩をきゅっと縮め、風の冷たさに耐えた。
すぐ隣に座ったニチテが、心配そうに視線をくれる。
「ブライト、寒いの?」
「すぐに慣れる……」
コロニー内の気温は正常に保たれている。代謝の低さのせいで体温が上がり切っていないだけだ。キンジィは路肩にエレカを寄せて停めるが、物言いたげな様子で車からなかなか降りようとはしない。
「ブライトちゃん、早く着きすぎちまったみたいだぜ」
「あれだけ出発をせっついておいて、時間が余ったのか?」
「不安だったんだよ、市街で迷っちまって室長と会えなかったら大失敗だろ?」
キンジィは平然と言い放つ。ロンデニオンの土地勘がある3人で市街に外出するだけの話で、そこまでの事態が発生することを想定しているとは思えなかった。ばればれの言い訳であることを隠す気もないらしい。
「余った時間は有効に使いたいよな、やっぱり」
「白々しいな……行きたい場所があるのか?」
「きみの隣にいたいだけだ」
にっこりと笑って後部座席に身を乗り出してくるキンジィの顔面にニチテの手が容赦なく押し当てられ、運転席にぐいと押し戻した。
「キンジィの馬鹿はともかく……あったかい所に行きたくない? ブライト」
「外気温は正常だ……天気予定表通り。心配するほどじゃない」
「そうかもしれないけど、わざわざ外で震えてなくたっていいだろ?」
ニチテの言葉に、上着の前を掻き合わせながら考え込む。
若者たちが市街に出て時間を潰すのは好きにすればいいが、自分がそこに必ず同行しなければならないというのは今のブライトには負担に思えた。潰れるのが時間だけでは済まないという気もしていた。
だが、護衛である彼ら二人とはぐれるわけにもいかないのは当然の話だ。
「キンジィ、エレカをちゃんとパーキングに停めるんだ……こんな時に人目を惹くことをわざわざやる必要はない」
「お、遊ぶ気になった?」
キンジィがハンドルに手を掛けて嬉しげに聞き返す。ブライトは特に抗議することはなく小さくうなずいて、小型のエレカ用の路肩パーキングを視線で示した。
商業地区の歩道には色をそろえたタイルが敷き詰められ、整然と立ち並ぶ店舗の前を人々が行き来する。目当ての店でもあるのか、先導するニチテの足取りに迷いはなかった。
いまのところ、キンジィの行動に不自然な点は見えない——やたらブライトの肩を抱きたがったり髪を触ったりするのを『自然』にカウントするならの話だが。
(おれだからまだいいにしても)
自然とブライトに歩調を合わせているらしく、キンジィにもニチテにも取り残されることはなかった。周囲に注意を配りながら、ブライトは思う。
(例えば娘がこの手の男に付き纏われてこうも気安く触られていたら、本気で殺しかねないな……)
男親として、ここまで過激になりうる感情を自分が持っているとは、今まで意識したこともなかったが——非力な肉体が却って自分を攻撃的にしているのかもしれなかった。
視線に気づいたように、キンジィが首を傾げて前髪をさらりと揺らした。
「ブライトちゃん、おれの顔になんかついてる?」
「君はいつもそうなのか?」
「いい男なのかって話?」
「……こいつはいつもこうなのか、ニチテ?」
本人に聞くのを早々に諦めて、先行しているニチテに尋ねる。ニチテは肩越しに振り向いて、困ったように眉を少し下げた。
「こうっていうか……モテるって自慢はいっぱい聞かされるよ。女の子と歩いてるのもよく見るし」
「誰にも見向きもされない男より、引く手あまたの男の方が好きだろ? ブライトちゃんも」
悪びれもせずに言うキンジィに何も答えず、ブライトは静かに思案を巡らせる。
(外部の人間との接触が多い。それを自然に見せてもいる……)
普段からその振る舞いをしていることが、隠れ蓑になっているのは間違いないはずだ。これだけではキンジィの意図を判断できない。
ブライトはニチテの背中へ声を掛けた。
「どこに向かってるんだ?」
「靴屋さん」
「靴?」
ブライトは自分の足元を見下ろした。今履いている靴は、服と一緒にナイジェルが持って来たものだ。青ざめたような、真っ白で小さな足を戒めるベージュのパンプス。低いとはいえヒールがある。決して履きやすいものではなく、エレカから降りて少し歩いただけで、非力極まりない足指が靴の中で押しつぶされて痛んでいた。
ニチテは困ったように頬を軽く掻き、言った。
「その靴、走れないだろ?」
「それは、そうだな……」
思っていたよりずっとまともな理由で動いているらしいことに面食らう。
ナイジェルとのミーティングの光景を思い起こすと、どうやらこのことには避難経路を洗い直した時から引っかかっていたようだった。ニチテは少し先の商業施設へ視線をやり、真剣な横顔で続ける。
「走りにくい靴を履いてたってだけで、ブライトが怪我をするのは嫌だから」
「正しいな」
ありがとうともすまないとも言えず、ブライトは至って真剣にそれだけを答えた。
ニチテははにかんだように笑い、足を早めもせずに歩き続けた。
レーン・エイムを相手に、機密に相当することを尋ねる無謀は冒せなかった。取材にこれだけ開けた場所を選んだのも、カイにとっては予防線のようなものだったが——
(このお坊ちゃんにどこまで通じてるか、疑問かもな)
レーンは思案の稲妻を澄んだ瞳の奥に閃かせ、カイを見つめている。
カイが投げかけた問いは、たったの一言だった——
『あんたはどこまで知ってて、どこまでなら話せるんだ?』
自分らしからぬ弱腰で、つたなくも響く問い。だが、この若者の気位の高さを測る観測気球としてはちょうど良いように思えた。
やがて、唐突にレーンが口を開く。
「おれが語れるのはおれの主観だけだ、そうだろ?」
「それを聞きたいのさ」
カイの飄然とした言葉に、レーンは頷きもせず即座に続けた。
「見下げ果てた男だと思ってる」
「マフティーがか?」
「ブライト・ノアがだ」
かつん……と突然音がして、カイは弾かれたように手元を見下ろした。
何気なく手にしていたティースプーンを強すぎるほど強く握り込み、その先がカップソーサーに無造作にぶつかった音だ。ゆっくりと指を解いてスプーンを置き、カイはレーンの表情を伺いながら薄笑いを浮かべた。
「唐突だな。なんでその名前が?」
「なんでって、おれに聞くのか?」
率直すぎる声。突き刺さるように返ってくる。この若者との会話には、遊びがない——
(やりにくいな……)
ただ聞くだけでは済まないようだ。こっちの腹も割れということなのだろう。
「そりゃあ、もちろん……ブライト・ノア大佐が、マフティーの父親だって話は知ってるよ。でも、親と子が同じ人間なわけじゃないだろ?」
「同じ人間なんて誰が言った?」
カイが言い終わるのを待たず、レーンは鋭く切り込んでくる。
「おれが見下げ果ててると言ったのは、ブライト・ノアだよ。マフティーじゃない。単に人を殺して街を壊したテロリストなんかより、よっぽど」
「地球で、関わりが?」
冷静に——。
自分の頭を押さえつけて耳元でささやくような心地で言い聞かせ、カイは眉間に皺ひとつ寄せず、ただ興味深そうに尋ねた。レーンは軽くかぶりを振って、それに無言で答える。
「おれはマフティーと、ハサウェイ・ノアを知ってるんだ」
その二つは、同じ人物を、違う意味で示している。
カイは余計な口を挟まず、先を促すようにレーンの眼を見た。
レーンは間を持たせる気さえないらしい。視線をしっかり合わせて逸らしもしないまま、すらすらと言葉を吐き出してくる。
「どっちにしたって大して深く知ってるわけじゃないんだけど。ただ、想像できないんだ。だから、あいつは嘘をついてる」
「あァ……? 何が想像できなくて、誰が嘘をついてるって?」
「やめろよ、子供に話すみたいに!」
先走り過ぎるレーンを制そうと問いかけて、逆に睨まれてしまう。カイは片眉を上げて少し驚いた表情を作り、浮かしかけていた腰をすとんと椅子に落ち着けた。
その若者の頭蓋の中で弾けている思惟の一部すら、カイにはそのままの形では理解できない。なんとか言葉にさせて引きずり出すしかないのだ。
ニュータイプ。たしか、この若者はそうだったはずだと——彼についての情報を脳内で洗い直しているうちに、レーンが口を開いた。
「マフティーは——」
カイは息を呑むことも、眼差しを鋭くすることもなく、ただ心を平静に保って耳を傾けた。
「マフティーは、死に際し、血を分けた家族にも死を望まれ、父親に直接諫められ、非道の行いを恥じ、銃殺刑を受け入れたって。ブライト・ノアは、そう言ったんだ」
「……それは……」
言いかけて、口を閉じる。
それは確かに、マフティー処刑直後のブライト・ノア大佐の談話として報道されたものだ。レーンは全く構わず、畳みかけるように続ける。
「あれはそんな男じゃない。戦ったやつにしか分からないものがある。あれは透徹で、極致だ。常人なら人間を保てないほどに徹底したものをあいつは抱えてたんだ。そんなものを親子の情なんかに汚して語られてなるものか」
カイはゆっくりと掌を口元に当て、下を向いた。こんなことで動揺するわけにはいかないのに、感情が波を立て、眩暈に似た激動が込み上げようとしている。
「テロリズムは唾棄すべき行いだが、おれと戦った男を偽りで貶めるのはそれ以上に許せない」
「レーン大尉……」
カイの声は少なからず制止の意図が込められていた。だが、最初に案じたとおりだ——この青年にどこまで通じているかといえば、甚だ心もとない。
レーンはまっすぐにカイを見て、ゆっくりと、鮮やかなほど美しい発音で言い切った。
「旧世代の老人が、自分の立場を守るために、全てを懸けて戦った男を貶めて死なせた」
カイは、言葉を失っていた。
レーンもまた、込み上げるものを吐き出し終えたとばかりに、ぴたりと口をつぐんだ。
秋の市街の喧騒だけが、二人の間を埋めている。
(特ダネってやつなのかもしれないな——)
ただ、皮肉めいた心地で、カイは思っていた。マフティーを撃墜したパイロットの口から聞いた生の声。興味を持つ読者は宇宙じゅうにいるかもしれない。売れる記事の材料としては申し分ない——
そんなことを考えて頭を冷やさなければ、自分のあまりに生々しい激情に手綱をつけられなかった。
「商売道具を汚されちゃたまらないか?」
レーンが、冷たく尋ねてくる。
カイはため息をつく代わりにまだ湯気を立てる紅茶で喉を潤し、穏やかに聞き返した。
「商売道具って?」
「ホワイトベースのクルーって肩書だ」
「ご心配どうも。それがなくてもそこそこ食えてるよ」
今ここで、ブライトを擁護することに意味はない。
湧きだしそうになる余計な言葉を、カイは慎重に押し込める。
「非人道的なテロリズムに走った息子に対面し、因果を含めて説き伏せ、深い反省を確認したうえで銃殺刑に処した」というブライト・ノアの談話——妻と娘への思想汚染疑いを防ぐためだろう、「妻も娘もその処置には納得していた」と付け加えて。そして、それに付記された連邦軍からの見解は「マフティーの早日の銃殺刑実施は、ブライト・ノア大佐による強硬な希望によるものだった」というもの。
確かにそれらはすべて、実際に報道されたものだ。
もちろん、そこにブライトの本心などあるはずがない——本心でなくとも、語らされることはある。この腐った地球の風土では、人間の魂が抱える真実など大した価値もないのだ。
連邦軍の英雄でもある家族に正当な死を望まれ、親子の情に改悛し、最後には涙ながらに愚行を悔いて死んだ、一人の矮小な青年——マフティーの神格化を防ぐために、連邦は打てる手を打ったということになるのかもしれない。
(上手くいってるとは思えないけどな)
内心で、冷たく付け加えておく。
レーンはカイの顔から視線を外さないようだった。迷いなく叩きつけられる言葉に腰が引けそうにすらなる。
「何か言いたくてたまらないなら言えばいい。おれを恐れてるならこんな形で話なんかしないはずだろ」
「怖いよ、そりゃ。怖いさ」
「ナメるな」
低い声で凄まれて答えに窮する。本当に扱いづらい若者だ。
そこまで察して、なんで——と、思わなくもなかった。
不毛だと自分に言い聞かせても、ゆっくりと心が冷え、敵意が尖っていきそうになる。
(なんで、あんたが憎み断罪してるその『嘘』が、どれだけの涙と血と闇を含んで吐かれた言葉なのかってことさえ、感じ取ることもできないんだ?)
カイはテーブルの上に置いた手にぐっと力を籠め、拳を作った。その一瞬の筋肉の緊張に激情を全て預けて、次の瞬間には密かに脱力し完全に平常な状態に戻っている。
カイが顔を上げ、目を合わせたその時——
レーンはかすかに、笑ったようにすら見えた。
広々としたシューズショップは確かに風がなく、外より心持ち温かかった。
パステルブルーの女性用のコンフォートシューズを、ブライトは選んだ。厚手の弾力のある靴底に、足を圧迫しない構造。試しに履いて重心の移動を確かめたが、違和感はなさそうだった。
「おれあんまり好きじゃないな、その靴。もっと……」
「おれも好きで選んでるわけじゃない」
横から口を挟んでくるキンジィに冷たく言い返す。ニチテがブライトの選んだ靴を受け取りながら唇を尖らせているのが見えた。
「余計なことばっかり。女の子の靴のことなんか、キンジィに何が分かるっていうんだよ」
「もっと可愛い靴履いてほしいって思わないのかよ?」
「オシャレぶっちゃって。この靴だって十分……」
「早々に履き替えたい。会計を済ませよう」
口を挟みようがないくだらない口論をどうにもできず、横やりを入れて黙らせる。
会計を済ませてすぐに新しい靴に履き替え、ナイジェルに渡された靴を代わりにショッパーに投げ込んだ。服と同じくその靴もほぼ新品のようで、自分が靴底を減らすのは忍びなくもあったのだ。
歩くたびに鈍痛を蓄えていた足が嘘のように痛みを訴えなくなる。少し先で自分を待っていたキンジィとニチテに小走りで追いつき、ブライトは促すようにニチテに視線をやった。
その視線を受けて即座に意図を察したニチテが頷き、腕時計へ視線をやる。
「あと二十分だ」
「早すぎたな」
所定の場所まで五分も掛からないのだ。これだけ時間を余らせた原因であるところのキンジィが、すかさず口を挟む。
「じゃあ、その辺の店に入る時間くらいはあるんじゃない?」
「ない」
すげなく言い切ったところで、ブライトはニチテが出した腕に制されて足を止めた。
次の瞬間、路上に面したカフェのテラス席デッキの簡易な手すりを、一人の若い男が敏捷にひらりと飛び越えて目の前に軽快に降り立った。
ブラウンの髪のすらりとした青年だ——ブライトたち通行人には全く注意をくれる様子もなく、デッキの上に立つ男に視線をやって鋭い語気に笑みを交える。
「おれは帰るよ。コーヒーの料金ぶんの証言はくれてやったはずさ」
「……ああ。協力ありがとう」
デッキの上から返されたその声を聞いた瞬間、ブライトは全身をどっ、と冷や汗が濡らすのを感じた。鼓動が跳ね上がり、思考が完全に焼きついて動かなくなるのを自覚する。
立ち去る見知らぬ青年の背中に食い入るように視線を投げかけたまま、少し上に逆光を背負って立つ男の顔を見ないようにと自制心を働かせる。
(カイ——……!)
ブライトの旧友。
今のロンデニオンにいる、数少ない頼れる人物。
そうだ、彼との接触について一度も考えなかったわけじゃない——だが、踏み切れるはずがなかった。
(今のおれの姿を……? 冗談じゃない……)
そのカイに、ここで偶然出会ってしまった。
自分は何かを決断するべきなのか? 踏み切らなければならないのだろうか。
冷え切った指を丸め込んで拳をぐっと固めたその時、カイは手すりに手を置いて軽く身を乗り出し、立ち止まっている3人を気づかわしそうに見下ろして声を掛けてきた。
「まあ、行儀の悪い大人ってのは、どこにでもいるもんさ。びっくりさせちまったのは悪かったけど」
「食い逃げなら捕まえなきゃって思ってました。違うんですね」
「食い逃げぇ? ハハッ……」
ニチテが生真面目に答えている。返された聞き馴染んだ軽薄な笑い声に、俯いたブライトには見えていないはずのカイの笑顔の、その笑い皺すら見えた気がした。
鼓動が耳の近くで激しく鳴っている。感情と論理の迷路に迷い込んで、先が見えない。今の自分の沈黙と硬直がただ臆病な戸惑いから来るものであることを、苦々しく認めざるを得なかった。
(そうだ、決断するべきだ——何も知らせないし、何も伝えないということを)
今のブライトに取って、誰かに助けを求めるという選択肢は、あまりに致命的に思えた。
医療施設への収容直後、連邦政府側はブライトに厳重な情報統制を強いた。
外部との連絡は許されなかった。唯一認められた、妻に送るためにしたためた手紙も何度か直接の「指導」が入り、肝心な事情は全て暈したものになった。
実験部隊の隊舎に移されてから、その手の「指導」のために政府側のエージェントが来ることもなくなっている。監視下の危険分子という扱いを襲撃にかこつけた力技で脱した形になっているということだ。
そこからは連絡を取るチャンスや手段はいくらでもあったが、ブライトは自分の意思で沈黙を守ることにした。
(隠されているものには、隠されているだけの理由がある)
たとえ連邦政府がブライトの収容を諦めていたとしても、機密の流出に無関心だとは思えない。
(何もわからないうちに、声を上げて触れ回るのが得策だとは思えない。おれに何が起きているのか、おれ自身でさえ正確には把握していないのに。こんなことで、ミライを危険に晒すようなことになったら……)
妻は自分よりよほどうまく立ち回れるかもしれない。
そう思うのを打ち消した。身内びいきの希望的観測にすぎない。政府に睨まれるような事態にまで持ち込んでしまったら、もはや立ち回りのうまさは問題ではない。
もちろんカイにしても、それは同じだった。
(巻き込むにしても理由が要る……今は理由がない。ただおれが、ブライト・ノアという弱い個人が、不安に負けて無関係の知己に縋ろうとしているだけだ……)
「どうしたの、ブライトちゃん?」
横合いから掛けられた声に、弾かれたように顔を上げる。
キンジィが一瞬だけ、見定めるように冷たく目を細め、すぐに常通りの軽薄な笑みに戻ったのが見えた。
「ファンならしてもらったら? サインとか」
「は……?」
「知ってるだろ。カイ・シデンさん……ジャーナリストの」
少し首を動かしただけで、全身が強張っているせいか、首の骨が軋む音がやかましく聞こえた。
ブライトはぎこちなく顔を上げ、逆光を背負っている旧友の顔を見上げた。きょとんとした表情で、カイが自分を見下ろしている。
カイはアナハイムを取材対象にかなり長い間追いかけていたこともある。キンジィがその名前と顔を知っていることは不自然ではないかもしれない。だが、このタイミングは——
カイが手すりに軽く肘を置き、身を乗り出してくる。
「彼女、大丈夫なの。体調悪そうだけど?」
カイの声が耳に届いたとたん、ごく自然に、いつもの自分のまま言葉が出てきた。
「……気にするほどの事じゃない」
不思議なほど動悸は収まり、心が凪いでいた。この旧友の声で落ち着いたのだとしたら、少し気恥ずかしいような気さえした。
ブライトは肘でキンジィの脇腹を軽く小突き、カイを見上げた。
「こいつはいつもこうなんだ。こういうことを人前で言うものじゃない……言われた方は大抵きまって、『別にファンじゃない』と言うか、苦笑いを浮かべてありあわせのメモ帳にサインを貰うかだ。サインをする側も気まずいだろう」
「はあ……結構アグレッシブな娘さんなのね」
面食らったようにカイはぱちりと瞬きをして、手持ち無沙汰な指を手すりの上で遊ばせる。
アグレッシブ。普段の自分が口にしても『説教臭い』と笑われる程度のことも、小柄な少女が口にするとそう受け取られてしまうのだろう。
ブライトは今のところ何一つ嘘はついていないし演技もしていないが、それでも自分の振る舞いはどうしても不自然なようだ。カイはブライトから視線を外そうとしない。
「名前、珍しいって言われない? 女の子で、『ブライトちゃん』は」
「どうだろうな。珍しい名前の人間と話すたびにそれを聞いてるのか?」
「話すきっかけになりそうなら言うさ」
カイの視線は妙に鋭い。自分が向けられたことのない表情だと、ブライトは思った。
カイがかつての自分を見る時は、もっと——どこか落ち着いて、愉しげで、時には二人が置いてきた過去を見るように遠かった。
だが、カイの今の視線は、覆い隠されたものを暴き出す鋭い知性を隠しもしていなかった。
「お嬢ちゃんたち、ブライト・ノアって名前に聞き覚えは?」
ブライトは答える前に、キンジィの視線を横顔に感じた。出方を伺われている。監視されている——この全く偶然の邂逅について、キンジィは冷たくとげとげしい興味を向けている。
ブライトはしばらく沈黙し、ただカイの眼をじっと見ていた。しびれを切らしたようにカイが口を開こうとしたその瞬間、機先を制する様にはっきりと言う。
「……毎日のように聞く。そう呼ばれるから」
「へえ?」
「ブライト・ノアは、おれの名前だ」
はっきりと、言った。
何も隠さず、偽らない。
カイを遠ざけると、何も知らせず伝えないと決めたにも関わらず、ブライトはそれを選んだ。
それは決して矛盾しない。今のブライトに限っては——ありのままを伝えれば伝えるほど、伝えようとしていることは届かないはずだ。
それは悲しむべき事実だったかもしれないが、それに満足もしていた——
(あの時、どうしようもない嘘をついた)
「へえ……そう。君の」
呟くカイの静かな視線を受け止めたまま、ブライトは束の間、その暗い追憶に囚われていた。
(通信社の人間の薄ら笑いと、焚かれるフラッシュに囲まれて、自分は想像を絶する形で息子を失ったのだと突き付けられて……そこになかった涙と、言葉と、情を、さもあったかのように語った。その醜い偽りが妻と、娘と、……おれが守るべき秩序を守ったのだと……自分すら、偽ってきた)
あの連邦政府の女が内情を打ち明けたことで、それがただの欺瞞に過ぎなかったことを突き付けられた。
自分が魂を削って吐いた嘘はただ、自分を、ハサウェイを、連邦の派閥間の争いに与する都合の良い存在に貶めるものでしかなかったのだ。
(それに比べれば、随分マシだ——ただ届かないだけの言葉なんて、どこにだってごまんとある)
キンジィがかすかに鼻を鳴らし、興味を失ったように笑ったのが聞こえた。
カイはしばらく黙り込み、やがて手すりから少し離れて乗り出した姿勢を引っ込めた。その表情には波立ちはなく、落ち着き払っていた——こいつは昔から図太かったんだと、ブライトは状況にそぐわないところで懐かしさを感じていた。
「君たち、ジャーナリストって知ってるかい?」
軽い笑みを、カイの声は含んでいた。
「言葉を届けるだけが仕事じゃない。言葉を受け取るのも、大事な仕事なんだ」
「……? それは——」
その言葉が何を意味しているのか、ブライトにはすぐに理解できなかった。そして、それ以上の言葉をカイが求めていないことを、背けられた横顔に悟った。
カイは何かを理解し、何かを考えている。
伝わるはずのない言葉を、カイは確かに受け取っているのだ。
「君たちみたいな面白い子と話せて、楽しかったよ」
カイはひらりと手を振って、カフェの店内へと引っ込んでいった。
黙り込んでいたブライトの傍らで、ニチテが時計を見る。室長との待ち合わせの時間は、もう間近に迫っているはずだった。