市街地の対面壁には緑地ブロックが広がっている。ロンデニオン市街の空は、緑色だ。
街路を定期的にそよそよと抜けていく穏やかな空気対流を浴びながら、ニチテは隣を歩くブライトの顔を横目に伺っていた。
ジャーナリストのカイ・シデン。キンジィがそう呼んでいた、中年の小柄な男。彼と顔を合わせた直後から、ブライトは極端に言葉少なになってしまった。キンジィの傍から離れてニチテの隣に並んでくれたが、路上を見つめながらニチテに足並みを合わせるばかりで目さえ合わせない。
「ブライト、さっきの人と何かあったの?」
「見ての通りだ……何も隠していないし、何も偽ってない」
「それはそうだけど……」
ブライトの声音は頑なだった。何かを警戒しているかのように。
ニチテは肩越しに少し後ろを歩いているキンジィを見た。キンジィはずっとニチテの隣のブライトを注視していたようで、すぐに目が真正面から合う。
面食らったように瞬きしてから、キンジィはにやりと笑った。
「おれが気になる? ニチテ」
「ブライトにやたら触るから嫌われるんだぞ」
じろっ、と睨んで釘を刺しておく。キンジィはせせら笑って、それ以上答える気はなさそうだった。
ニチテはふと歩みを緩め、看板を見上げた。
「ここだ」
実験部隊の組織図上の司令官——『室長』とブライトとの対談。
その場所としてナイジェル隊長に指定されたのは——
「古書店……?」
今回の目的とあらかじめ伝えられた「Plowonida」という店名だけで、勝手にカフェかレストランのような施設だと思っていたニチテは少し拍子抜けする。
こじんまりとした目立たないながらも高級感のある店構えは、骨董品店や美術商のようだ。置かれている本も多くはないようで、飾り窓からは応接セットの置かれた店内が見える。
「ニチテよぉ、いつまでもそこに突っ立ってる気か?」
足を止めたニチテを追い越して、悠々とキンジィがドアノブに手を掛けた。指紋やカードではない、物理鍵の真鍮のドアノブだ。年季が入ってざらついたそれをぐっと回して開けると、ひんやりした店内のかすかな芳香が漂った。
店主らしきエプロン姿の初老の男が、穏やかに声を掛ける。
「いらっしゃいましたな」
「ああ……おれが待たされるとは思ってなかったなあ」
こじんまりとした店内に書棚は多くなく、店の中央には革張りのソファと応接テーブルが置かれている。
そのソファにくつろいだ様子で座った金髪の男が、呑気な調子で店主に答えて、脚を悠然と組み替えていた。
その男は、当然——ニチテ達も良く知る人物だ。
「室長……お待たせしました」
ニチテとキンジィは反射的に横並びに立ち、びしりと背筋を正して敬礼をする。
その中央に挟まれて、しばらくブライトは沈黙し、呆然としているようだった。
室長はソファに掛けたまま、青い瞳を楽しむようにゆっくりと細めて、どこか気安くさばけたような笑みを口元に浮かべていた。
「お久し振りです、ブライト艦長。ずっとお会いしたかった」
「リディ・マーセナス少尉——……!」
鋭く、どこか愕然とした呟きに、リディ室長はひらりと掌を見せる。
「軍をやめて10年近く経ちます。もうその呼び方は……リディって呼んでくれたら」
「なぜ、君がここに?」
「連邦政府人事局登用推進室……要は『実験部隊』の指揮権限を持ってるのがおれだからです。目下の重要人物であるあなたに一度会っておく必要があった」
軽やかな調子で告げて、リディは困惑しているニチテの表情に視線をちらりと走らせた。
「座らないんですか、ブライト艦長?」
「……何から話したらいいものか」
苦々しく呟いて、ブライトはようやくソファに近づいた。
(連邦議会の議員……こういった役職にも付けられるというのは、いかにもありそうなことか)
ブライトはソファに腰を下ろし、真正面に腰かけたリディを見つめた。リディ・マーセナスがラプラス事変の後ほどなく連邦軍を退官し、ローナンの衣鉢を継ぐ形で政治家に転身したことはブライトも知っていた。その退官直前にあった騒動についても、決して噂の域を出ないものの聞き及んでいた部分もあった——
(《メガラニカ》との接触……バナージ・リンクスの捜索。それが、この男にどんな影響を及ぼしたというのか)
直接の部下だった事実はあるが、その期間も短い。
そして、ラプラス事変において、リディ・マーセナスと《バンシィ》は《ネェル・アーガマ》と一度は敵対すらしたのだ。
だが、彼がいなければ、決して食い止められなかった大規模破壊。それもまた記憶に鮮やかに焼き付いている。
ブライトからしても、複雑な思いがある人物だったが——
(思い出話だ。少なくとも、睨みつけるほど嫌っているというわけでもない……向こうがどう思うかはわからんが)
慣れない軽口は心の中に留めておくことにした。
ソファの後ろに油断なく控えるニチテとキンジィを意識の端に置きながら、ブライトは口を開く。
「退官してここで暮らすつもりだった。妙な事故に巻き込まれてこうなった。細かい事情はおれより君の方が詳しいはずだ」
「そう思うでしょうけど。細かい情報が上がってくるのに時間が掛かったんですよ、医療施設から……ウチフヅ執行員が横槍を入れてくるもんですから」
ウチフヅ執行員……メイ・ウチフヅ。
あの狂信的な蛍光緑の瞳を思い浮かべ、ブライトは怪訝を声にわずかににじませた。
「彼女は連邦政府のエージェントのはずだ。君の部下じゃないのか?」
「彼女に関してはね……別の派閥から、顧問として置くようにって送り込まれたんです。仮称《ガンダム》運用の受け入れも彼女の肝煎りです。あの実験部隊に関しては、俺の立場からコントロールできる範囲ってのが意外なほど少ないんですよ」
「驚いたな……そんな実情じゃ、戦術単位として成立しないんじゃないのか」
「なんとかやってますよ」
飄々と言い切って、リディは運ばれてきたティーカップにミルクポットを傾ける。白い渦と共に薄れていく輝くような紅茶の色を、ブライトはしばらく眺めた。
自分が室長に引き合わされたところで話すべきことがあるのだろうかと思っていたが、室長であるリディ自身がウチフヅのコントロールを失っている状態なら話は別だ。
「メイ・ウチフヅはおれに執着している」
「ブライト艦長に?」
リディが穏やかに聞き返す。ブライトは頷いて続けた。
「おれにやらせたいことがあると」
「それは何です?」
「聞かずに跳ねのけた」
「聞くだけ聞いてくれたらよかったのに。頑固オヤジが出ちゃいましたか」
流れるように罵倒された気がして、ブライトはあからさまに眉間にしわを寄せた。リディはけろりとした様子で肩をすくめて小さく笑う。
「何にしても実験部隊が確保してる人間に、俺に話を通さずに持ち掛けるようなことじゃないのは確かですね。そもそも仮称《ガンダム》を持ちこんだのがウチフヅ執行員で……テスト運用を提案してきたのはアナハイム側。ニュータイプのパイロットってことでニチテ・サウザン君が選ばれた。そしてこのインシデントが起きた」
「メイ・ウチフヅとアナハイムが共謀してこの事態を引き起こした?」
至って短絡的な結論を、まずは経由することにする。リディは思案するように視線を伏せるが、その手軽な推測には満足していないようだった。
「どうでしょうね……いくらなんでも、よりによってあのブライト・ノアが事故の現場に居合わせて女の子になっちゃうなんて事態まで仕組めるはずがないと思うんですが」
さらりと言い切って、リディはカップをソーサーに置く。
それに関しては、ブライトからは何とも言いようがないが、少なくともあの時のブライトに何かの強制力が働いてあの人工湖に行ったわけではないのは事実だ。何より——
ブライトは肩越しにニチテを振り向いた。
「ニチテ」
「あ、はい!」
姿勢を正したニチテが、リディを真っ直ぐに見てすらすらと語る。
「おれがあの時人工湖に墜落したのは、機体の異常過熱に対応するためで……郊外の人工湖への墜落を選んだのは、おれの独断だったんです」
仮称《ガンダム》のテスト自体は全て軍事ブロック内で行われるはずだった。ニチテは異常事態に対応するために、最寄りの水源から住宅街から少し距離のある人工湖をピックアップし、そこに急行して墜落したということだった。
「ブライト艦長の行動もニチテ君の行動も、こうやって聞いた限りじゃ仕組みようがないですね」
リディはブライトの後ろに立つ二人の少年に視線をやってから、ブライトににっこりと取って付けたように朗らかに笑いかけた。
「ああ、言い忘れてましたけど……ブライト艦長」
「何だ」
「噂には聞いてたけど、可愛くなりすぎてびっくりしちまいましたよ。これから俺が間抜け面で黙ってたら、うっかり見惚れちゃってるんだと思ってください」
「……」
ただの冗談ではなさそうだ。これまでのような立て板に水では言いづらいような話題にこれから踏み込もうとしているのか。冷ややかな沈黙を意にも介さず、リディは自然な様子で続ける。
「この前の強襲と、ウチフヅの陰謀は別々に考えるべきでしょう。ブライト艦長の人生とか尊厳とかをめちゃくちゃにしようとしてるのはどっちも同じに見えますが、根っこが違う。そうじゃなきゃ、MSまで駆り出して医療施設に襲撃を掛ける意味がありません」
「めちゃくちゃにされるのは困るんだが……これ以上か?」
「それは、まあ……」
思わず漏れた本音に、リディも反応に困った様子で真顔を見せた。
「正直ね……出来過ぎてるって思ってたんです。だから、直接会って話したかった」
「出来過ぎてる?」
ええ、と頷いて、リディはかすかに遠くを見るような暈けた光を瞳に宿した。
ブライトを見つめる視線には、どこかに置き忘れたものを思うような痛みがあった。
リディの唇が静かに開き、滑らかに言葉を紡ぐ。
「サイコフレームによる肉体の変容、ポストヒューマンへの一足飛びの進化……その可能性は常に囁かれてきた。『ラプラス事変』において、それが実際に起きたという噂もある」
噂、と口にしたとき、リディの眉根が痛みをこらえるように翳った。だが、それ以上の言葉を、リディはその『噂』について費やすつもりはなさそうだった。
「それが実在するなら……それは神の御業です。人類に革新をもたらす祝福以外の何物でもない。だから、その奇蹟が本当にあったという証明を、色々な立場の人間が探してる。そんな中で……」
ブライトは息が詰まる思いで、リディの真正面からの視線を受け止めた。
神の御業。祝福。奇蹟。そうだ、それこそを地球連邦の上層部は恐れていたのではないのか。ニュータイプが、その精神によって操られるサイコマシンが、信仰の対象へと踏み込んでしまうことを。UC93年の、あの暖かで眩い奇跡の光が夜空を飾った日から、ずっと。
リディの冷静な言葉が、酷薄なほどクリアーに響く。
「数多のニュータイプを率いて戦ったオールドタイプであり、地球の重力に縛られる旧勢力へのテロリズムを標榜したニュータイプの父親でもある人物に、その変容が……奇蹟が起きた」
リディの唇が、どこか皮肉な笑みに歪んだ。
「偶然そんなことが起きる? そんなこと、誰が信じるんです。出来過ぎてる。だから……」
「……」
「だから、これは祝福なんです。誰かにとっては、間違いなく——厄介なことにね」
祝福。
ブライトはその言葉を噛み締める。
この出来過ぎた偶然を、自らの思想や目的のために祝福や神の御業だと解釈し、利用しようとする厄介な勢力。それは間違いなく存在し、間違いなく火種になる。その火種が一度撒かれてしまえば、一度広がれば消しようのない、宗教闘争の泥沼に繋がるだろう。
(だとしたら……)
避けては通れない道。今ここで口にしないわけにはいかなかった。
ブライトは、リディの笑みを前に、静かに切り出した。
「もっと合理的な判断については?」
リディはしばらく黙り込み、謎めいた微笑を滲ませて答えた。
「言いたいことは分かりますよ」
「人道的な判断を期待できる立場じゃない」
「今は民間人でしょ?」
「だとしても、おれは多くの死に関わってきた。今更……」
「今更?」
「今更、誰かを責めることはできない」
「つまり、受け入れるって?」
決してその核心を示さない示唆的な言葉のやりとりに、後ろに立つ少年たちがわずかに動揺しているのが伝わる。
まるでその二人に言い聞かせるように、リディは朗らかな声でことさらはっきりと——あえてブライトが直裁には口にしなかったその選択肢について、過たず明確に口にした。
「戦争を引き起こさないために、ブライト・ノアを殺して全てを闇に葬る——そんな判断を」
「——室長ッ!」
ソファの背もたれを引きちぎりそうなほど掴んで身を乗り出したニチテが、鼓膜をつんざくほど鋭く吠えた。
反対側の背もたれがさらに大きく軋み、キンジィが上体をソファの背もたれにしっかりと乗せて身を乗り出すのが見えた。
「そんなのは判断なんて言わねえよ、室長。おれたちの上司なら、もっとまともな頭を期待したいところだな」
身を起こして姿勢を正したキンジィの声は冷笑に満ちて、冷静な口調の割に恐ろしいほど明瞭に力強く響き渡る。
「従う意味もない頭なら、すげ替えちまう。それも『判断』ってことになるんじゃねえか?」
「そ、そうです! そんなこと、許されるわけがありませんよ! 実験部隊がそんな方針なら、おれは従わない!」
さすがにうるさかった。両脇から元気よく騒がれて、ブライトはさすがに辟易し軽く両耳を塞いだ。リディは楽しむように目を細めて、二人の少年を従えてソファに座っているブライトを眺めながらミルクティーをゆっくりと飲み下している。
リディの提示した選択肢が全く本気ではなさそうなのは、その表情を見ても分かろうというものだが……
ブライトはソファを握り締めるニチテの手の甲に掌をぽん、と重ねてその顔を見上げた。
「家具を壊すな、ニチテ」
「っ……ぶ、ブライト……!」
感極まったように上ずる声を聞き流してすぐ手を離し、改めてリディに向き直る。
「どうなんだ?」
「おれが聞きたいですね」
「……?」
リディは笑みを崩さず、穏やかにカップを置いた。
「どうなんですか、ブライト艦長。自分が死んだら丸く収まるなんて……そんなつまらない選択肢に、本当に意味があるって思ってますか?」
「だが、リスクが——」
「リスクって話なら……おれまで殺されちゃいますよ、後ろの忠犬二人に」
冗談めかして言われるが、とてもそんな言葉で誤魔化せるような話ではない。悠々と少年たちに目配せするリディを前にブライトは目つきを険しくして、鞭打つようにぴしゃりと言った。
「守るべきものを見失ってはならん」
即座に、リディは言い返してくる。
「見失ってないから、あなたを死なせるべきじゃないって思ってるんですよ」
ブライトは注意深く彼の表情を見た。いつの間にかその唇の笑みは消え、その眼差しを遠く感じるほどに瞳の色は深く澄み切っていた。
「あいつが受け継いだ光に、おれも触れたんです」
「バナージ・リンクスか」
呟くようにその名を口にする。リディは頷きもせず、ただ青い瞳の奥に温かなものを宿した。
「その光がずっとおれに言ってる。世界の冷酷さにたやすく折れる道を選ぶなって——その先にある光を目指して歩き続けろって」
「君の信念か?」
「いいや……意地ですよ」
その声は、どこか軽やかに響いた。
「次に会うときに、あいつの瞳の前で俯かなくて済むように」
「……」
思い出す。《ユニコーン》のパイロットだった少年の眼を。どこか深く、戸惑うような揺らぎと、進むべき道を探す直向きさを持つ、熱い光を湛えた金色の瞳。過酷な状況に立ち向かい続け、秘され続けた『箱』を開け、そして姿を消した少年——
彼が齎したのものこそ、祝福だったのだろう。
世界を変え、そこにあった光に人々の目を向けさせたのは確かなはずだ。そして、彼に関わった人間たちの心にもまた、強く輝くものを残していったようだ。
無意識に追憶に沈んでいたのか、リディはまた興味深げな笑みでブライトを見つめていた。
「殺し文句——だったかな。卑怯だったかもしれませんが。あいつの名前を出されちゃうと、死ぬって気も起きないでしょ?」
「……おれは別に、死にたがってるわけじゃないんだが」
だが、死を受け入れる気も大分薄れてしまった。
ため息と共に言って、ブライトは左右で未だに殺気立っている少年たちへ一瞥を送った。宥めるというほどでもないが、二人に伝わっていないらしい意図を明確に口にしておく。
「ニチテ、キンジィ。リディ室長は、おれを引き渡さないために力を振るえと言ってるんだ」
「命を懸けて、っていうのも付け加えてくださいよ。もちろんブライト艦長の命じゃなくて、君たちの命をだ」
リディは平然とした口調に、軽やかに弾む笑いを含んで付け足してくる。
ブライトからすれば過剰な煽りに思えるそれは、二人の心に激しい火を入れることになったようだった——何もかも、この男の思うとおりに。
「もちろんです!」
「最初からそのつもりだよ」
情熱と自信に満ちた若い声を左右から聞いて、居心地の悪さに何も言えなくなる。
リディはブライトの様子を見守って、満足げな様子を見せた。
「あまりにも出来過ぎてる——だから、嘘だと思ってたんです。少女を洗脳して偽の記憶と仮初の人格を植え付け、『英雄に起きた変容』をでっちあげる……報告してきたのがウチフヅ執行員だったというのもあってね。疑いはどうしても晴れなかった」
「……それで、今は?」
自然な推測に思えた。万難を排して直接会いたいと要求してきた理由もそこにあったようだ。ブライトの問いに、リディは屈託のない笑みを見せた。
「おれがこうやって『ブライト艦長』って自然に呼んでるのが、答えですよ」