旧知のその女性は、変わらずうっすらとやつれていた。
ちんまりとした黒目に底知れない度胸と知性を湛えていた双眸は、優しい皺の乗った瞼に少し隠されて、伏せた視線をなかなか合わせようとしなかった。
カイ・シデンは最後の椅子を店の奥に運び終え、並べられていたテーブルと椅子が隙間なくきっちりと積み上げられたのを満足げに眺めてから、防塵シートをその上にかぶせた。かなりの重労働だが、彼女——ミライ・ノアの力は驚くほど強く、二人がかりでやればなんということもなかった。
薄暗くがらんとした店舗から出て、鍵を厳重に閉める。
「これでめでたく凍結ってわけか、将来の三ツ星レストランも……」
汗を拭って、カイは軽口を叩いた。
ミライはふふ、と控えめな笑い声を返し、バスケットから取り出したタオルとミネラルウォーターのボトルをカイに手渡した。
「ありがとう。手伝わせてしまって悪かったけど、助かったわ」
「あいつが帰ってきたらしっかり言い含めといてくれる? 何をするにつけても、そりゃあもうカイさんが役に立って役に立って仕方なかったって」
「……あの人、そんな言い方したら、きっと変な顔をするわよ」
躊躇わず『彼』に触れたことに、ミライは単純に驚いたようだった。一度瞬きをしてカイを見上げてから、柔和な笑みを滲ませて言う。
カイは汗を拭きながら、何食わぬ顔でコロニーの対面壁に霞みながら広がる住宅街を見上げた。
「ほんと、人騒がせな男だよ、ブライトのやつ。何も言わずにどこに行っちまったんだかね? あんな手紙ひとつだけよこしてさ」
「あの手紙は……」
「本当に、何度見たってよくわからない内容だよな? いたずらじゃないのか?」
ブライト・ノアが失踪して一か月が経つ。
失踪直後に、ミライが手紙を受け取ったと言うが、どうもその内容は納得しがたいものだったようだ——「心配をかけているかもしれない。出先で急病に倒れ、療養している。衛生上の問題から家族との面会はできないようだ。諸事よろしく頼む」と。それはあの生真面目な男からは想像もできないほど言葉少なで、不誠実な内容に思えた。
「でも、あの人の字だわ。何度見たって」
「ふーん……?」
「なんで、そのことを、今?」
ミライの声は翳っていたが、その奥底には揺らがない芯があった。カイは言葉に困って大袈裟に眉を寄せ、頭を掻いた。
「軽い気持ちだったんだけどね」
「……?」
「俺は諦めないって、言っちまったからな……あいつに」
柵に掛けていた純白のジャケットを取り上げて空を叩くように翻し、袖を通す。
人工のそよ風が労働で汗ばんだ体をほどよく冷やして吹き過ぎていく。裾を整え、襟に指を滑らせてびしりと揃えるいつもの仕草をしばらく眺めていたミライが、前触れなく口を開いた。
「カイ、いい?」
「なに? ミライさん」
「ひとつ、気になることがあるのだけど——」
旧知の声。聞きなれた声。聞き馴染んだ声——
あの時と変わらない、芯を含んだ頼もしい声だ。
結局のところ、こんな時の彼女に勝てる男なんてどこにもいないのかもしれない。戦いの中で誰もが彼女に命を預け、そして信じるようになった。それは今でも変わらない。多くの喪失を抱え、過ぎ行く歳月に耐え、戦いの全てが戦争博物館に飾られ、敵国だったはずのサイドで記念式典が開かれるようになった今になってもだ。
「……」
自然と笑ってしまう。妙に明るい心地だった。愉快でさえあった。
カイは口角をわずかに吊り上げて、ゆっくりと振り向いた。
「聞きたいね」
ミライの声が、気象装置の空気対流に乗って穏やかに響く。
「このロンデニオンの遺伝子治療クリニックについて、何か……噂は聞いてない?」
「なるほどぉ……?」
カイは夥しい情報の砕片を繋ぎ合わせて答えを探しながら、店の近くの人工湖に視線を投げかけていた。
湖畔に太陽光がきらめきながら揺らぐ。
まだここにはない、湖の見えるレストラン。きっといい店だ、とカイは思った。
左前腕の擦過射創。骨に届くような傷ではなかったが、弾丸との接触が引き起こしたキャビテーションが骨膜を傷つけたということだった。
ギプスに固められた手首を首から吊って、隊舎の廊下をスリッパで歩く。すっかり肌になじんでしまった支給の病衣はしっかりと洗濯されていてまた乾燥機の熱を含んだように温かく、柔軟剤の芳香がかすかに感じられた。
「ブライトちゃん!」
はしゃいだ声が後ろから掛けられて、ブライトは足を止めた。
キンジィではない。この隊舎でよく顔を見る、この隊の少年兵だ。痩せ型で、鼻の頭にはちょんちょんとそばかすが散っている。
この呼び名が浸透しているらしいのは不本意だが、呼び名に拘るのもなんとなく気後れする。ブライトは特に咎めることはせず、少年に向き直った。
「どうしたんだよ、その怪我」
「隊長に聞け」
「ナイジェル隊長に? 教えてくれたっていいのに」
細かく説明するわけにもいかず、軽く眉を寄せる。
少年はそれ以上問い詰めることはなく、長い手足を持て余すようなぎこちない仕草でポケットをあさった。
「ブライトちゃんに会ったら渡したいものがあったから、朝から探してたんだよ」
「おれに?」
「ほら、おととい——手伝ってくれたろ?」
ああ、と、ブライトは二日前の出来事を思い出す。
彼の役職は、
実務ではよく見られるような、単純な入力ミスが複数あったようだ。チェック体制の不備からおおまかな箇所を推測できたので、訂正は簡単に済んだ。
雑談交じりの数分で終わるもので、労働というようなものでもなかったが——
「手伝ってもらったらお礼をするもんだって、ママが言ってたから。心で思ってたって伝わらないんだって」
「それは良いお母さんだな」
「これ!」
ピンクの包装紙に赤いリボンのシール——手のひら大の包みだった。
受け取ってみるが重たいものではない。中でじゃらじゃらと鳴っているような手触り。糖衣でコーティングされたチョコレートかラムネ菓子のたぐいだと見当がついた。
「どこでも売ってる、ただのお菓子だけど。頭使うと疲れるし、甘いもの嫌いじゃないだろ?」
「ああ、ありがたいな」
微笑ましい気持ちだった。自分でも感情豊かな方ではないと思っていたが、こうも真っ直ぐに子供の等身大の好意を示されると、さすがに声が優しくなるのを止められない。温かに目を細めて少年を見る。
少年は照れたように歯を見せて笑った。
「そんなのを包装紙で包むなんて、大げさかな? 相手を思う気持ちがあるなら見た目はちゃんと飾ったほうがいいって、こっちはおばあちゃんが言ってたから」
「……良いおばあ様だ。おれも覚えておこう」
含蓄深くも思える言葉に、少し遅れて相槌を打つ。少年は用を済ませたとばかりに満足げに頷くと、とっ、と後ろに大きく一歩下がって手を振った。
「ぼく、行くから。怪我、早く治るといいね、ブライトちゃん!」
「すぐに治るさ」
穏やかに告げて、歩き出したブライトの数歩先。廊下の曲がり角から、ぬっと長身の影が出てくる——
これまでの光景を見ていたらしいナイジェルが、うっすらとにやけて顎をさすっていた。
「色々と話をしなきゃならないとこだったんですけどね。ごていねいに、お茶菓子持参ですか」
「気にしなくていい。話を聞こう。おれからも話すことがいくつかある」
室長との面談。ロンデニオン市街での襲撃。ブライトから上がる情報をナイジェルが心待ちにしているのは、言われるまでもなく分かっていた。
ブライトは菓子の包みをポケットに突っ込んで、隊長室へ向かった。
ストラップを引っ張って隊長室の窓にブラインドをきりきりと落としながら、ナイジェルはブライトを振り向きもせずに言った。
「暴走ですね」
薄暗い室内に佇んで、ブライトは無表情に聞き返した。
「『文化セクト』の?」
「そこが問題でした」
薄暗い室内でナイジェルが振り向く。眉骨の影に沈んだ瞳が淡く光を映している。
そのまま大股に安物のオフィスチェアに腰かけ、ナイジェルは散らかったデスクの上で頬杖を突いた。
「面談の日取りが出る前から、ロンデニオン市内のめぼしい物資の動きを監視してたんです。弾薬、銃器……こっちじゃ成果らしい成果はなかった。この手の企みじゃ、表沙汰になるほど大量に要るわけじゃないし——期待はしてませんでしたがね」
ブライトは背筋を伸ばして立ったまま、ナイジェルの言葉に黙して耳を傾けた。
面談の情報を出す前からロンデニオン内の不穏な動きを監視し、十分な時間を取ってからしかるがのちにキンジィに護衛を命じる。そこからの出方を比較することで、「文化セクト」とキンジィや、更に他の関係者との繋がりも見えてくるかもしれない。
そのことについては説明は受けていた——もちろん、この情報を受け取った側としてもその目論見は容易に推測できるかもしれない。尻尾を掴ませないほど慎重な相手なら、下手には動かないだろう。
「コロニー外からの、予定外の不審な物資の流入について……こっちに動きがありました。遺伝子治療用の最新機器と、産婦人科で使用される医療機器……それと一緒に入ってきた、旧式のガソリン車」
「それによく気づいたな。偽装されていなかったのか?」
「車本体のほうはね……ガソリンを入れた車両を物資輸送用のマスドライバーで宇宙に投げ出すわけにもいかなかったんでしょう」
ガソリン車を手に入れるには、地球で調達する以外の手段がほぼないのが現状だ。燃料を抜いた車両を医療機器や機械部品の名目で輸送したとして、燃料はロンデニオン内で手に入れることになる。
ロンデニオン内でガソリン燃料を調達できる手段は限られているのだろう。使途不明の機械部品と燃料が同じ場所に集まる。ナイジェルは後々になってそこに意図を見出したということだろうが、もちろんそれが襲撃と前もって結び付けられるわけもない——後手に回ったのは否めなかった。
「それを仕入れていたのはどこなんだ?」
「サイド内の1バンチを根城にしている密輸カルテルと、ロンデニオン内のダミーカンパニー名義での取引……アナハイムの息がかかってるのを偽装してるにしては回りくどすぎるし、身元の隠蔽もやってはいたけどどうにも荒っぽい」
「『文化セクト』の可能性は低い、と判断したわけか」
はっきりと確認する。ナイジェルはかすかな笑みを目に滲ませ、ブライトを見返す。
「どう思います? ブライト艦長」
「……目標が建物の中にいる時を狙い、強襲して突破口を作り、戦闘員を送り込む。狙撃のプレッシャーで脱出経路におれたちを追い込み、待ち伏せしていた本命に数で圧倒させ、損害を抑えて目標を確保する……残忍かもしれないが、セオリーに沿ったやり方だ」
「ブライト艦長ならどうします? 建物の中にいる小さな女の子をさらわなきゃいけないって作戦で……」
「26年間、その手の仕事をやらずに生きて行けたのは、幸運だったんだろうな」
その手の想像に心を遊ばせるつもりはなかった。言下にナイジェルの軽口をきっぱりと跳ねのけてそれ以上は取り合わず、ブライトは続けた。
「敵の練度が低いとは思わない。狡猾で、市街での行動に長けた敵だ。だが、これまでほとんど君に尻尾を掴ませてこなかった『文化セクト』の慎重さにはそぐわない……」
面談時のリディとの会話で、すでにそのことには触れていたのだ。
そう——「《メッサー》を用いた襲撃者と、ブライトの身柄を独占しようとしていたウチフヅの派閥は別に考えるべきだ」と。
今、盤面に向かっている差し手は三人。
この実験部隊。
『文化セクト』。
そして、ウチフヅの所属する何か——彼女の口ぶりだと、おそらくはニュータイプ関連の思想団体のようなものだろうか?
勿論、あの場にたまたま全く無関係の何かが乱入したというだけの可能性はある。だが、一度足を止めて検証すべきタイミングのようだ。
「ガソリン車と一緒に入ってきた医療機器が気になる。そこからメイ・ウチフヅとの関係が洗い出せないか?」
「メイ・ウチフヅ……ブライト艦長は、彼女が関わっていると?」
ナイジェルは驚いた様子もなかった。ただ穏やかに凪いだ声で、確認するように尋ねてくる。ブライトは頷いて、ギプスの上から軽く左手首を撫でた。
「先入観を持つのは危険だが、有力な候補ではあるはずだ」
「だとしたら、……ちょっとややこしいのは、キンジィの動きですね」
キンジィに護衛の情報を伝えてから、ウチフヅがガソリン車を用いた襲撃の準備をしていたとする。
その場合、キンジィとウチフヅは繋がっていなければならないはずだが——
「キンジィがあれだけ奮闘していなければ、あの襲撃は成功していた可能性が高い。ウチフヅと結託していたとはとても思えないな」
「つまり、シロってことだと?」
「いや……早計だ」
「とはいえ、ウチフヅが面談のことを知る機会は幾らでもあったと思いますよ。キンジィからじゃなくてもね。室長の動きにしたって、完全に秘匿ってわけにはいかないんですから。どんなに急いだって地球からサイド1まで4日はかかるわけで……あれだけ偉くなっちゃうとね」
ナイジェルの言葉は、至って筋が通っていた。
検討できる可能性は早々に出尽くしたようだ。つまり、キンジィの疑惑についてはどうにも煮え切らない結果になったということになる。
だが、ひとまず情報を共有し、目星をつけた——更にナイジェル側で調査が進むはずだ。
「おれとしちゃ、ちょっとクサいなと思ってるのがね……」
ナイジェルは精悍な微笑をじわりと滲ませて、狭まった瞼の間で瞳の光を研ぎ澄ました。
「ウチフヅ執行員が、近々この隊舎に来ると。昨日の今日で……ブライト艦長とニチテに聞きたい話があるってことらしいですが」
「それは聞きたいことは幾らでもあるだろうが……」
「嫌そうな顔しすぎですよ、ブライト艦長……ハタチにもならない女の子にこれだけ熱烈に愛されて、舞い上がりもしないんです?」
「その手の冗談は二度と聞きたくない」
険悪な顔で鋭く告げたブライトを前に、ナイジェルは参ったように肩をすくめた。
「じゃあ、冗談じゃない方の話もしときましょうか」
「ニチテか?」
「ご名答。今は説教部屋送りです。明日の朝食の時間には出てきていいってことにしたんで……一緒に朝食に行ってやっては。ヘコんじまってるかも」
ブライトには、冗談が続いているとしか思えなかった。
持ち場を離れて独断で行動し、襲撃現場での対応を滞らせた。本来はニチテがリディと自分を護衛しなければならなかったはずだ。規律の面でも実務の面でも明確に処罰は必要であり、同じ行動を二度と許すわけにはいかない。厳重に反省を促す以外に指揮官が下すべき判断などない。
(だが……)
意識して頑なになっていることを、自覚しないわけにはいかなかった。
ブライト自身が、その現場で起きたことを、全て見ていた以上は。
(襲撃が起きる前に走り出し、ホバー・バイクを徴発して、本来の白兵戦では勝ち目がなかっただろう本命のプロフェッショナルを制圧した……ニチテが現場を離れずセオリー通りに動いていたら、初手でリディかニチテが昏倒させられ、数的不利で制圧されていた可能性が高い)
規格外のニュータイプが引き起こす目覚ましい戦果。それに伴う現場の混乱。
またこの手の葛藤に突き落とされるのか、と、若いころの苦闘を思い出してうんざりしないでもなかった。
「……」
ホバー・バイクを駆って容赦なく戦闘員をなぎ倒したニチテの、逆光を背負って表情もうかがえなかった顔を思い出す。
何もかも自分の過去と重ね合わせるわけにもいかない。ニチテに厳しい処罰がなかったのは、この実験部隊の性質によるものも大きいのだろう。規律や秩序は、場所によって変わるものだ。
何より、ニチテが今回の行動にどのような意図があり、どこまでを見越していたのかについては、ブライトにも興味があった。
「説教部屋とやらはどこだ? おれから言っておこう……明日の八時には間違いなく起きて用意をしておくようにと」
「今から?」
すかさず尋ねてくるナイジェルの意図が読めず、ブライトは聞き返した。
「不都合が?」
「いやあ……あいつ、テンション上がりすぎて今夜一晩寝れなくなりそうだなと思ってね」
「……ナイジェル」
ブライトは嘆息し、乾いた同情と共感とともに言った。
「そうやって子供の感情の動きの、ひとつひとつに深入りしすぎると……」
「しすぎると?」
「疲れるぞ」
ナイジェルは少し目を見開いてから、どこか力を抜いたように穏やかな眼でブラインドに閉ざされた窓を見た。
この実験部隊の風土が、どうしても彼をそうしてしまうのかもしれない。ブライトはそれ以上言い募ることはなく、ナイジェルが『説教部屋』の場所を伝えてくるのを待った。
薄暗い室内。
「馬鹿じゃないかな、あの女?」
通信機の前に頬杖を突いて、キンジィは吐き捨てるように呟いた。
古書店「Plowonida」の前の通りをニチテと共に見張っていた時の、通行人を装ってやってきた連絡員がハンドジェスチャーで送ってきた合図を思い出す。『突入をバックアップしろ』……
もちろん、そんなものに従えるはずがなかった。
キンジィに出来たのは、襲撃犯を残らず射殺し、余計なことを吐かせないように備えることだけだった。
今回の件は、メイ・ウチフヅの暴走だ。
『ママ』からは彼女との協力体制を指示されていたが、それも限界に来ているようだ。
市街地に出たブライトを確保する動きについては、キンジィ自身前々から釘を刺していた。ナイジェル隊長の警戒が厳重なのは見えていたし、襲撃についてを『文化セクト』になすりつけるにしても場当たりの作戦では簡単にほころびてしまう。
キンジィはどこかあどけないような甘い眼差しで、通信機の液晶を見つめた。
「ああ、分かってる。分かってるよ、『ママ』。おれはあの女みたいにバカじゃない……メイ・ウチフヅを切り捨てて、口を封じる……それをやれってことでしょ?」
イヤホンに音声が流れ込む。それにしばらく耳を傾けて、キンジィはまた呟くように語り掛ける。
「でも、ねえ、ママ……室長が言ってたんだ……ブライト・ノアは、戦争の引き金になるって……引き渡さないように頑張れって……。おれがそうしたとして、それって悪い事じゃないかな、ママ……」
「それに、ブライトちゃんは……。分からないんだ。ブライトちゃんが、あの薄暗い研究室に連れていかれて、二度と出られなくなるって……。それがブライトちゃんと、そのほかの全ての人のためだって……。ブライトちゃんと話してると、どうしても……そう思えなくなって」
「そうだ、そうだよね……ブライト・ノアが、おれを騙してるんだ……子供を何人も使い潰して死なせて、自分の息子だって切り捨てたような人間だから……おれのことも騙すんだ。そうに決まってる……」
「うん、分かってる……おれは役立たずじゃないから、言われたことはなんだって出来るよ」
「はい。……はい。……はい。……はい。……ごめんなさい。……ごめんなさい。……ごめんなさい……」
「おれは役に立つよ。いつだって……ママの役に立つように……そうすることが、おれの意味だって、何度も教えてくれたよね」
「宇宙には、何も信じられず、よるべなく生きてる人間ばっかりなのに、おれにはママがいる……それがどんなに幸せで、得難いことなのか、おれはちゃんと知ってるから」
「ありがとう、ママ。心配してくれて嬉しいよ……大好きなママ」
通信機から光が消える。キンジィは音量を抑えていたスピーカーに手を伸ばし、通信の間じゅうも再生していた歌の音量を上げた。
いつかロビーで聴いていたのとおなじ、UC70年代の歌謡曲——「I have loved the stars」。
Well then, kiss me,—since my mother left her blessing on my brow,
There has been a something wanting in my nature until now...
さあ、キスをしておくれ。
母が私の額に祝福を残して以来、 どこかで私の性分には、何かが欠けていたのだろう。
「祝福……」
舌の上で飴玉を転がすように、キンジィはその言葉を呟いた。
「誰だって、祝福されて生まれてきたんだ。愛されるために……でも、愛されながら生きていけるのはほんの一握り」
自分に言い聞かせるように、キンジィは呟く。
「愛されるためには、戦うしかない。ずっとそうだし、これからもそうだ」
終わることのない愛の檻。宇宙全体を捕えるかのような。
その中に自分はいる。どこまでいっても、檻の外に出たことはならないのだ。自分が自分であることから、逃げることはできないのだから——
そんな儚い幻視が、一瞬だけキンジィの脳裏をよぎった。
整備ハンガー全体に削り出された金属と機械油の臭いが重く留まり、先ほどまで使っていた高電圧機器のオゾン臭がその中にピリピリと棘を立てていた。
MS用クレーンのチェーンが揺すられて軋む音が、薄暗い遥か高い天井から響いてくる。
コーヒーの入ったポットと伏せて重ねられた樹脂のコップ、やたら重たい合成シロップの瓶を載せたワゴンを作業机の傍らに停め、片手で苦労してそれらを机の上に並べてからメガホンを取り、ブライトは作業員たちに呼びかけた。
「手を止めずに聞け。入り口近くの作業机にコーヒーを置いておく」
「えっ」
間の抜けた声があちこちから響き、飛び散っていた溶接の火花や機械の駆動音がまちまちに止められていく。振り向いた一人の整備兵が、あどけない眼を瞬きさせてブライトをまじまじと見た。
「ブライトちゃん? なんで?」
「ついでがあったから、おれが持っていくと……」
一度ハンガーの様子を見ておきたいとナイジェルに告げたところ、厨房に寄ってコーヒーを持って行ってやってくれと頼まれたのだ。人使いの荒い男だと呆れもしたが、手が空いている人間がやればいい類の雑務ならと納得もしていた。
コーヒーを置いて、動かせるMSの状況だけでも見ておいたら、作業を妨げずに部屋に戻ればいい。その程度のつもりだったが——
「おーいお前ら、ブライトちゃんがコーヒー淹れてくれたぞ!」
「えっなんで? ブライトちゃんが来てるの?」
「おい、いつもみたいにバカみたいにがぱがぱ飲むなよ!」
切迫した状況でもないからか、口々に言い合いながら、少年たちが次々に手を止めて集まってくる。
おれが淹れたわけじゃない——と言う暇もない。学生の休み時間のような雰囲気が一気に漂い始める。ブライトは呼びかけたのを早くも後悔して、メガホンを丁寧に元の場所に戻した。
「手を止めるなと言ったはずだ」
「美味しいうちに飲んだ方がいいって」
「合成シロップある? うわあ、こんな重たいの持って来たの?」
聞く気はないようだ。眉間に軽く皺を寄せると、無遠慮に伸びてきた指がすかさず眉間を押しつぶした。
「おれたち、怒られるの嫌いなんだよ、ブライトちゃん」
「叱られもせずに身につくものなんかない」
作業用手袋に眉間を柔く押されたまま、真剣に言い返す。
「古いよ、それって」
「古いかもしれんが、変わらない事実だ」
「でも、怒られるのは誰だっていやだよ!」
眉間から指が離れるが、すぐにコーヒーにシロップを入れ終えた少年が隣から唇を尖らせて口を挟んでくる。ブライトは人垣の向こうからカップを取ろうと必死に手を伸ばしている小柄な整備兵に、コーヒーを入れたカップを無造作に渡した。
「もちろん、叱られるのが好きな奴もいないだろうが——」
「ああ、そんなこと言ってるんじゃないんだよ。おれたち、可愛い子が近くで笑ってくれてたらそれでいいのに!」
「……君たちが宇宙で勤務するつもりなら言っておくが」
人垣を出ようと歩き出しかけた足をすぐに止め、ブライトは我ながら滑稽なほど真剣な表情でその少年を見据えて、自分より少し高い位置の肩にぽん、と手を置いた。
「艦内の女性にその手の癒しを求めることは、止めておいたほうがいいぞ」
かつての自分が同じブリッジで働く妻にそれを求めていなかったとは言わないが、誰もが妻のように振る舞えるわけではないのだ。
言わんとしたことは全く伝わらないようで、少年はきょとんと瞬きをしている。この年代の少年ならそんなものだろうと早々に諦め、人垣をなんとか押しのけて進み出ようとした、そのとき——
後ろからぬっと伸びた力強い腕が、ブライトの背を勢いよく抱き寄せた。
「おれに会いに来てくれたの? ブライトちゃん」
「キンジィ」
上から降ってくる楽し気な笑いを含んだ声に、ブライトは呟くようにその名を呼んだ。
悠々とブライトの頭を越して顔を覗き込んできたキンジィが、金色の瞳を密やかに輝かせてブライトの顔と胸元、吊り下げられたギプスへと視線を順繰りにやる。
「怪我、大変だったね。ニチテの奴がもっとしっかりしてればな……」
「君はよく動いてくれた」
長い腕にしっかりと抱きすくめられたまま、ブライトは端的な労いの言葉を告げた。
危険を冒して敵の弾丸に身を曝し、熾烈な銃撃戦を制したのはキンジィの功績だ。キンジィと狙撃手が踏みとどまれなければ、ブライトとリディはあの路地で挟み撃ちに遭うしかなかっただろう。
キンジィは自信に溢れた笑みを返し、さらりと言った。
「おれの仕事だからね」
「そうだな、それをやり遂げた」
唖然としていた周囲の整備兵たちが口々に騒ぎ立てる。
「ブライトちゃんびっくりしてるだろ!」
「怪我人になんてことすんだよ」
「キンジィお前、馴れ馴れしいぞ!」
(本当にな……)
まっとうすぎる指摘にひとつひとつ頷きたい気持ちになりつつ、ブライトは後ろ頭でキンジィの胸板をぐっと押して腕の中から逃れようとした。しかし回された腕にはさらに力がこもり、全くブライトを離す気配がない。
そろそろ離せ、とその腕を掴んで押しのけようとすると、キンジィの大きな手がブライトの右手を包むようにしっかりと捕らえ、その背がぐうっと曲がって唇を耳元に寄せてきた。
「おれと話したいこと、あるんじゃないの? 勘違いじゃないと思うんだけど」
「……」
ブライトは、しばらく思案した。
少年たちを制する様に視線を走らせて頷いて見せ、ゆっくりと息を吐く。
キンジィとブライトが対面で話したことは、考えてみれば最初の邂逅以降はほとんどなかった。ある程度状況が見えてきた今だからこそ、話すべきことはあるかもしれない。
「そうだ、……君と話したい。最初に言ったように……君の話を聞きたいと思ってる」
「決まり!」
キンジィは高らかに宣言し、勝ち誇ったように少年たちに告げた。
「てことで、貰っていっちゃうぜ。残念でした」
少年たちの抗議の声を涼しげに聞き流すキンジィは、溢れんばかりの嬉しさに口元が綻んでいた。いとけないほどに分かりやすい表出。意外な無防備さをそこに感じ取る。
(十七歳、だったか)
この少年は、どこか異質だ。それでいながら、ありふれてもいる——肯定と接触に飢えて、狭い視野の中でもがいているような、青臭い挙動。
ブライトは肘でキンジィの胴を押し、腕を解くように促した。ようやく腕を解いたキンジィがふらりとブライトから離れ、先導する様に歩き出す。
ハンガー奥のコンテナの影に行くつもりのようだ——声を上げれば誰かが駆けつける。必要以上に警戒させないそのチョイスに意図を感じつつ、ブライトは歩き出した。