少女の名は、ブライト・ノア   作:6451hole

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28.無垢なるもの

ブリッジからの視座に慣れたブライトにとって、ニチテのシートに縋りついて見る景色ほど心許ないものはなかった。

実際に操縦しているパイロット本人でもなければ、この全天周モニターに映る映像とコックピット内の慣性だけで激しい白兵戦闘の推移を把握することは不可能だ。眩い光とコックピットを叩く衝撃、破損状況が次々に並ぶ仮想モニターの光る文字。把握できるのはそのくらいのものだった。

 

「もう、ほんとに足癖が悪いッ!」

 

ニチテが苛立たしげに叫ぶ共に、強烈なGで真下に押し付けられる。機体が真上に跳躍したのだろう。激しい銃声が自動で絞られた集音にかすかに拾われ、灰色の《メッサー》のバルカンの斉射がニチテの《グスタフ・カール》を追いかけてきたらしいのが分かった。

 

「ねばっこく食らいついてきて、いやらしいったら!」

「つくづく胆力がある」

 

意息も絶え絶えにシートにすがりつきながら、ブライトは唸る。

 

「それっておれのこと? 敵のこと!?」

「敵の……」

「何したら褒めてくれるんだよっ!」

 

心底どうでもいいことに声を荒げながら、今度はスラスターを一気に稼働させたらしい。放り出されるように機体がそのものが飛び、ブライトは顔面からシート背面に叩き付けられる。片腕を何とか突いて体を起こし、めまぐるしく回転して状況など把握しようのないモニターを必死に睨む。

ただの、MSの四肢とバランサーを使った機動だ——飛行ではない。ほんの数メートルの移動のはずだが、それだけで完全に身体感覚が振り回されて使い物にならない。

 

「敵の足を止められるか?」

「おれが止まったらやられるのに!?」

「さっき敵機を沈めた何かを、もう一度やってくれるんじゃないかと思うんだが……」

 

ブライトからしても、突然悶えて倒れた《メッサー》に何が起きたかはよくわかっていなかった。だが、それがこの基地にある何かによって行われた攻撃によるものだということには確信があった。これだけの時間戦っているニチテを、ナイジェルやこの隊の人間がバックアップしないはずがない。

MSに対する機械的な故障の誘発や、コントロールの部分的な奪取——行われたのがそういったものだとしたら、敵の足を止めればその攻撃を誘導しやすくなるかもしれない。

 

しかし、ニチテの答えはシンプルだった。

 

「それが分かってるから、あいつもくるくる動いてるんだっ!」

 

そのくるくる動くのをできるだけやめてほしい気持ちはあるが、とても口を出せる状況ではない。あとはパイロットに任せるしかないということだろう。

ブライトは悪夢のように痛み始めた左腕を胸に引き寄せて、ニチテのシートにすがりついた。

 

■■■

 

メイ・ウチフヅは短い昏倒から目覚めた。

ずれ落ちた眼鏡を直して、ずきずきと痛む頭を押さえる。

《ジェスタ》のコックピットは明滅するアラートランプで埋め尽くされ、ちらつくモニターの中で青い《グスタフ・カール》と灰色の《メッサー》が戦っているのが見えた。

《メッサー》が操っているのはビームサーベルとバルカン——ビームライフルは手放している。コロニーそのものが壊れてしまうのは、『文化セクト』の望むところではないということだろうか。

戦況に頭がついていかない。目まぐるしく立ち位置を変え、空に逃れ、それに追いすがり、曲芸のように空中で姿勢を変える戦いを目で追うのは、彼女には難しかった。

操縦席にゆっくりと背中を落ち着け、呼吸を整える。

 

「ブライト・ノア……このままでは」

 

本来は、もっと穏当に彼を迎え入れるつもりだった。

完全な時代(パーフェクト・エイジ)』……その名を冠する、メイ・ウチフヅたちの団体に。

『文化セクト』の襲撃と暗躍によるプレッシャーに、今思えば彼女の方が先に音を上げたというところだ。ブライト・ノアの身柄さえ手に入れればこの膠着した事態が切り開かれるのは見えていただけに、耐え続けることが出来なかった。彼女の独断で強硬手段でブライト・ノアの確保を試みて失敗し、情報収集のための面談を行う暇もなくこの強襲が始まってしまった。

 

そして、この現状があるということだ。

 

あの青い《グスタフ・カール》に、ブライト・ノアが乗っている。その機体をビーム粒子の刃が幾度もかすめている。その光景を見るだけで、血が凍りつくような焦燥が湧きあがった。

 

「立ちなさいっ、《ジェスタ》……っ!」

 

旧世代のMS。UC計画——今や落日に沈みゆく財団がかつて見た夢を映して、デモンストレーション用に白く塗装された高性能随伴機。『ラプラス戦争(・・)』においてそれが《ユニコーン》を守って飛ぶことはついぞなかったが、彼女のような若い世代のニュータイプにとってそれは特別な意味を持っていた。

《ユニコーン》と《バンシィ》の解体が行われる段になって、アナハイム側のUC計画に関与する部門も凍結された。特にデモンストレーション用の白い《ジェスタ》は複雑な管理体制と権限の噛み合い下にあり、宙に浮いた状態にあった——

 

(それを私が——新たな世代の新たな人類が手に入れたということ)

 

眩暈が収まりつつある。彼女はモニターを睨んで、頭をぐしゃぐしゃと掻いた。

 

(運命の采配……神がいるなら言っているはず。これを用いて、為すべきことを為せと)

 

頭の中で自分に言い聞かせるようにせわしなく言葉を連ねて、操縦桿を握り締める。

溶けた関節がぶつかりあって摩耗する、震えるようなチャタリング音が機体を震わせてコックピットの中に響く。

《ジェスタ》が立ち上がり、視界の高さが確保される。

重力環境下で飛行することはできない《グスタフ・カール》と《メッサー》だが、四肢を使った跳躍とスラスターで疑似的な空中戦を繰り広げているようだ。

 

「このまま渡してたまるものですか!」

 

フレキシブル・アームに支えられたシールドを前面に繰り出し、砲門を《メッサー》の背に向ける。どうっ、と装甲を通した重い震えが走り、炎と煙を引きずってシールドから撃ち出されたミサイルが灰色の背目掛けて飛んでいった。

 

■■■

 

コックピットを揺るがして唐突に響き渡る激しい爆音と衝撃に、ブライトは思わず傷ついた左腕で頭を抱えようとして走る激痛に断念した。

焦った声をニチテが上げる。

 

「ミサイル!? どこから……」

「構うな、そのまま倒せ!」

 

床に放り出された姿勢からなんとか頭を上げながら、ブライトは声を限りに指示した。ニチテは素直に体勢を立て直しながら、それでも怪訝そうに反論してくる。

 

「だって、おれにも当てたよ!」

「素人なだけだ!」

 

メイ・ウチフヅ——

MS戦の素人に、三つ巴の混戦を処理しながら《ジェスタ》のシールドまでをも扱い切るのは不可能だったようで、背面に回されていたシールドはほとんど損傷していなかった。彼女が行動不能から立ち直ってこの状況に横槍を入れるなら、シールドに搭載されたミサイルを使うしかないのは読めていた。

 

粒子の二次放射が収まってクリアーになったモニターに、爆炎に巻かれて空中で完全に体勢を崩している灰色の《メッサー》が映っている。ニチテの《グスタフ・カール》が携えるビーム・サーベルが無駄のない挙動で引き戻されて構えられ、突き出される一瞬が目に焼き付いた。

灰色の《メッサー》の右脚の装甲が、付け根から白熱して泡立ち、金属の泡をぶつぶつと零しながら破断されていく。弾けるように飛び出した配線がねじれながら高熱で気化して消え、内骨格の合金フレームが溶け残って突き出した。

 

ごぉん——……

 

金属塊と化した《メッサー》の右脚が地上に落ちて突き刺さり、右足を完全に失って重心が大きく変わったその機体はバランスを崩したスラスターに振り回されるように横っ飛びに吹っ飛んだ。

 

「油断するな、ニチテ……!」

 

残った四肢の重さに振り回されるように地上に落ちていく《メッサー》が、驚くべき速さで姿勢を持ち直し、下から上へ打ち抜くように機関砲を撃ち出す。激しい衝撃と轟音の中、モニターに大量のグリッチが走り、色彩の奔流の後に歯抜けのように映像が欠けた。

 

「頭をやられた!」

「パニックになるな。敵もそうは動けないはずだ」

 

少なくとも、《グスタフ・カール》を落としてブライトを引っ張り出すような真似はもうできないはずだ。《メッサー》のパイロットがどんな人物かにもよるが——

 

ニチテの《グスタフ・カール》が地上で衝撃を殺し、直立する。

破壊されたMSハンガーのメインゲートの残骸が押しのけられ、機影がのっそりと現れるのが見えた。ハンガーから出てきたばかりのそれは、ニチテ機と同様の塗装の《グスタフ・カール》だ。

 

〈ニチテ、無事か?〉

「ニーフォ、遅いよ!」

 

実験部隊のMSパイロットらしい少年からの通信に、ニチテが唇を尖らせる。

 

「センサーが歯抜けだ。でも、戦えるよ」

〈よし、それなら——〉

 

脚部の損傷にMSの援軍。灰色の《メッサー》の判断は素早かった。欠けたスラスターを白熱するほど噴かしてその場から吹き飛ぶように飛び上がり、解いた紙縒りのように有機的によれた機動を描いて破壊された舗装広場(ランプ)を離脱する。

通信の向こうのMSパイロットの少年が焦った声を上げた。

 

〈あいつ、あんな状態で逃げ切れる気でいるのか!?〉

「追いかけないと——」

 

ニチテが欠けた視界を必死に巡らせて灰色の《メッサー》の進路を追いかけ始めたその時、通信阻害によるざらつく薄いノイズを被ったナイジェル隊長からの映像音声通信が入る。

 

〈ニーフォ機は速やかに灰色の敵機を追走、VTOLのバックアップをつける。ニチテ機はここに留まって周囲を警戒〉

「ナイジェル隊長、あいつらはブライトを……」

〈分かってる、話は後だ。無事ですね、ブライト艦長?〉

 

いつの間にかどこかにぶつけていたらしい鼻骨が熱く、少量の鼻血が上唇を汚していた。病衣の袖でそれを拭い取り、ブライトは顔を上げてモニターを見上げた。

 

「問題ない、無事だ」

〈それを聞いて安心しましたよ〉

 

ナイジェルからは一部始終の動作が見えているはずだ。皮肉っぽい、呆れたような笑いがその声には含まれていた。

友軍の《グスタフ・カール》が逃げた敵機を追って飛び出す。ニチテはちらつくモニターを険しい顔で睨んで、周囲に慎重に視界を巡らせている。灰色の《メッサー》がいなくなっただけで、戦場のプレッシャーが段違いに和らいでいるのが感じられた。

 

「ウチフヅさんは……」

 

ランプにほとんど仰臥した形で沈黙している《ジェスタ》に、ニチテが慎重に近づく。初手で《メッサー》の踵落としで叩き潰されたスラスターは完全に沈黙し、ニチテが近づいてもカメラ類が動く気配すらない。

 

「武器を捨てて機体から出てきてください! もう逃げ場はないですよ!」

 

外部スピーカーを通して言いながらニチテは残りの数十メートルを大股に詰める。《ジェスタ》の反応は一切見られない。そのころにはニチテにも察せていたようだった。

 

「機体の中にいない!」

「機体を捨てて逃げたのか……あのミサイルを撃ち尽くした直後といったところだろう」

「そんなの、すぐ捕まるに決まってるのに!」

 

ニチテが焦った声を上げる。

ブライトは朝のコロニーの曖昧な日差しの中、仰向けに横たわる純白の《ジェスタ》を眺め、しばらく黙り込んで思案していた。

 

「そうだ、すぐに捕まる……」

 

病衣のポケットに手を滑り込ませ、ずっと携えていたそれを指先に挟んで取り出す。

 

「実験部隊より先にコトを起こす連中が、それを見逃すはずがない」

 

小指ほどのサイズしかない、ピン型通話機。単一の通信先への発信のみが可能な、安価の通信機器——

メイ・ウチフヅ本人が、ブライトに押し付けたものだ。その発信先はただ一つ、彼女の個人端末に繋がっている。

 

「ブライト、それは?」

「人助けだ……こればっかりは、そんなに嫌な仕事じゃない」

 

呟くようにブライトは言って、ピン型通話機のマイクキャップを外した。

 

■■■

 

「せめてブライトちゃんを連れ出してたら、少しは役に立ったって言ってやれたんだけどな」

 

キンジィの口元に、呆れと徒労感で乾いた笑みが浮かんだ。

望遠レンズの向こうでよろよろと走る、連邦政府の女を追いかける。どこかに逃走用のヴィークルくらいは用意しているはずだが、当初から事態を大分甘く想定していたのだろう。そこに辿り着くまでに苦労しているようだ。

 

「実験部隊のポンコツどもだって、まぐれで追いつけないとは限らないよなあ……」

 

実験部隊の少年たちは、基地内を逃走する《メッサー》のパイロットに掛かり切りになっているようだ。《ジェスタ》を乗り捨てた、それも身元がはっきり分かっているメイ・ウチフヅに割ける人員はないということだろうが——

ナイジェル隊長なら、基地周辺の監視データから逃走経路を割り出していないとも限らない。最低限の労力で彼女を制圧し、聞くべきことを聞き出してしまう。歓迎できない事態だった。

 

「狙撃は難しいな……近づくしかない」

 

キンジィは双眼鏡を置いて、立ち上がった。拳銃を腰の後ろのベルトに押し込み、フライトジャケットを翻して羽織る。

 

「メイちゃんを心配して、支えるために駆けつけた、なんて言って……信じるかな、あの女」

 

戯れるように呟いて、喉を鳴らしてキンジィは笑う。

戦場を知りもせずに突っ込んできた馬鹿な女に、永遠の沈黙を与えるだけの仕事。つまらないが、容易い作業だった。

 

「Not to-day nor yet to-morrow can complete a perfect age...」

 

完全な時代は、今日来ないように、明日もやってこない。

鼻歌まじりに歌いながら、キンジィは階段を下りていく。足音は遠くで行き来して響いていて、キンジィの存在に気づくのは少し先になりそうだ。

 

■■■

 

日課として十分なトレーニングをしてきたつもりだが、MS戦で摩耗したメイ・ウチフヅの体はすでに悲鳴を上げていた。革靴の踵が瓦礫に乗り上げ、視界が勢いよく横に吹き飛ぶ。転びかけた体を壁に手を突いて支え、荒い息を弾ませた。

 

「まだだ、まだ終わってない……」

 

自分を鼓舞する様に、呟く。

 

「『完全な時代(パーフェクト・エイジ)』はまだ戦力を残しているし……1バンチへの潜伏逃走だって、手はずはすでに整えている。時期を見て、今度こそ……」

 

追っ手はいないように見えるが、足音があちこちから響いて確信が持てない。足を止め、目を強く閉じて息を整え、感覚を投射するイメージで無理に拡張してみるが、どこかでぶつかり合う戦意や焦燥が無限にハウリングを起こして突き刺さるようで、詳細な情報がつかめない。

肝心な時に役に立たない、鋭敏すぎる感覚。

苛立ちに息を詰まらせ、感覚をもう一度集中させようとした、その時に——

軽快な電子音が、メイ・ウチフヅの鼓膜を叩いた。

 

「……! 今、こんな時に……」

 

個人端末を手に取る。画面には無機質な数列が表示されている。それはブライト・ノアに渡したピン型通話機に割り当てられた番号のはずだった。

 

(ブライト・ノアに渡した通信機から、私に、今……?)

 

わけがわからない。混乱が思考を浚いそうになるのを必死に踏みとどまる。だが、今この状況で黙殺するなどできるはずもない。

震える手でボタンを押し、通信に出る。ザッ、と微かな雑音が混ざった後、音声はクリアーに落ち着いて響いた。

 

〈メイ・ウチフヅ——ウチフヅくん。おれの声が聞こえるか〉

「……ブライト・ノア!」

 

震える声で、メイはその名を唱えた——神の背負うハロウに向けて五体を投げ出すような、敬虔で決定的な心地で。

 

〈『文化セクト』は撤退し、君の《ジェスタ》は実験部隊が確保した。君が想定している逃走経路は、全てではないが八割がたが潰されていると思った方がいい。これが脅しではないのは分かるはずだ〉

 

無慈悲なほど明瞭に響く愛らしい少女の声に、和んだような笑みでウチフヅは言う。

 

「あなたたちは、私がどこにいるかさえわかっていないのに?」

〈君の具体的な現在位置は、この段階になると大した問題にはならん。どこに行きつき、誰の手に落ちるかだ〉

「……なら、なぜ私に通信を?」

 

震える声に笑いを含んで、聞き返す。

返ってくる答えは、どこまでも澄んで、くっきりと輪郭すら持っているように思えた。

 

〈君は殺されるぞ、ウチフヅくん〉

 

声を失い沈黙を選ぶしかないウチフヅに畳みかけるように、ブライトの声はすらすらと続いた。

 

〈言うまでもなく、『文化セクト』にとっても君は排除対象になっただろう。後顧の憂いを絶つために始末される……それは君も織り込み済みだと思うが……〉

 

膝が笑っていた。ウチフヅはふらりと上体を揺らして沈み込むように下がる視界を支えるように、半壊した建物の残骸に寄りかかった。

頭が痛み、耳鳴りさえ響いているのに、ブライトの声は驚くほど真っ直ぐに聴覚に飛び込み、速やかに意味を形成してしまう。

 

〈君の仲間にとっても、ここまでの事態を引き起こした君を泳がせておく意味は既になくなっている。連邦政府のエージェントである君すら取り込んで、これまで尻尾を掴ませなかった連中だ。彼らについて多くを知り、そしてこれだけの事態を引き起こすほど不安定な君という存在を……一刻も早く消そうとしているはずだ〉

 

は……、と、かすれた声がメイの喉から漏れた。

通信の向こうのブライトは僅かに間を置き、穏やかに言った。

 

〈正直な話、おれは同情している。君ではなく、君の仲間にだ。ニュータイプのような個人の能力に頼りすぎる傾向がある小規模な組織において、個人の暴走は珍しい話じゃないが、それにしたってこれは度が過ぎる〉

「い、今はそんな話は……」

〈そうだな、話が反れた〉

 

あっさりと認めて、ブライトは続けた。

 

〈おれが言いたいのは一つだ。君に死なれると困る〉

「それは、私を……私の想いを受け入れるって、そういうことですか?」

〈頼むから、言ったことを言ったとおりに受け取ってくれ。君に死なれると困るんだ〉

 

辛抱強いブライトの声に、波立つ感情を抑えられなくなる。

ああ、まただ。また、この人は。誰よりも波立つ心を板子の下に押し込めて、凪の海を滑るかのように振る舞う。嵐に打たれ、稲妻に目を焼かれてなお、暗雲に立ち向かうように佇んで——……

 

「事ここに至って、あなたが私の心配をしているとは思えませんが」

〈心配はしていない。君に提示したいだけだ……生きる道を〉

「実験部隊への投降がそれだと?」

〈不本意かもしれないが、賢くなるべきだ〉

 

ぐっ、と、喉奥で詰まった息が掠れた。

 

「運命だと思ったんです。それを逃がすなんて、私が生きてきた意味を捨てるのと同じなんです」

〈運命……?〉

「奇蹟が起きたのが、あなただったこと。あなたに奇蹟による変容が起きて——それも、若い女性の肉体を備えたこと。運命以外の何物でもない。これは妄想ではなく、事実なんです……奇蹟がそこにあるという、観測的事実——!」

 

叫ぶように吐息が爆発し、のどに痛みを残した。

かすれた絶叫にたじろいだように、ブライトが冷たくぴしゃりと言う。

 

〈今は、そんな話を……〉

「世界は間違ったまま進み続けるから……どこかで立ち止まらなければならないんです。サイコフレームによる若返り——つまり、変容による停滞! ブライト・ノアにそれが起きることが、どれだけ世界を諦めたニュータイプを奮起させることか……!」

 

しばらくの沈黙の後、至って真剣なブライトの声が返される。

 

〈君が延々おれのことばかり考えていたのはなんとなく分かってきたが……〉

 

ため息——

ブライト・ノアの、とても長い、実感のこもったため息を、マイクが拾っていた。

 

〈人間何でも思いつめるとろくなことにならんな〉

「わっ……」

 

血が突沸するような、一瞬の激昂——

 

「私を!」

 

通信端末に向かって叫んだ瞬間、溢れた涙が頬を濡らした。

 

「私を! ただの拗れた女のように扱わないでっ……! ずっとあなたのことを考えて、あなたが生きていくに相応しい世界のことばかり、私は、ずっと……!」

〈落ち着け、そうは言ってない〉

「言った! 言ってます! 言ったのと同じですっ! 伝わるんだから! そういうのホントよくない! 言わなきゃ分からないなんて思わないでください……っ!」

 

分からなくなってきた。

思考が乱れて、透徹した信仰心すら濁って波を立てている。

ブライト・ノアが自分を見て、自分に語り掛けているこの現状を素直に喜ぶ気持ちもどこかにある。だが、ブライト・ノアが見て、語り掛けているのは、ごくありふれた、二十歳にもならない、所属していた組織に切り捨てられつつある、不安定な若者のメイ・ウチフヅでしかないのだ——

 

(違う。違う違う違う。私はあなたを救済するために、あなたを通して世界の歪みを正すために……特別で、唯一で、あなたにとって世界そのものになるはずの……!)

 

過熱していく思考を、ブライト・ノアの一声がひたりと鎮めた。

 

〈ウチフヅくん〉

 

ぐすっ、と鼻を鳴らして、口をつぐむ。

 

〈おれは君と話をしたいんだ。泣きじゃくる子供をあやすつもりはない〉

「私と、話を……」

 

 

【挿絵表示】

 

 

そうだ、と、通信の向こうの澄んだ声が同意する。

 

〈時間がないぞ。ウチフヅくん。君が生きるための選択をするんだ。我々に君を助けさせてほしい。君の安全は、君が全く歯の立たなかった凄腕のMSパイロットが保証するだろう〉

「うっ……そ、そういうこと、今言わなくたっていいんじゃないですか……!」

 

泣きじゃくる子供と思われるのも癪だが、この状況で諸手を挙げて受け入れられるはずもない。食い下がるように呻くが、ブライトの反応はにべもなかった。

 

〈無駄話だ。決断を〉

 

しゃくりあげる自分の喉の痙攣が煩わしかった。涙を拭い、また溢れる涙を拭う。通信の向こうのブライト・ノアは沈黙を守り、続きを促す様子はない。

泣く子供。

それが今の自分だ。

彼女は静かに、それを認めた——

 

(十二年前、天啓を受けたと思った——ブライト・ノア大佐の、人の心の奇蹟を否定する、悲しい嘘を聞いて)

 

胸に拳を当てて、俯く。

 

(この人に救われながら、そんな嘘をつかせる世界が許せなかった……いつか私が、このひとを救うのだと、そう思っていた)

 

それすら、実を結ばない妄執に過ぎなかったのか——

現状は十二年間紡ぎ続けていた夢と、あまりにもかけ離れていた。いつか来る完全な時代を紡ぐはずの組織の戦力を自分は徹底的に出血させ、いまや切り捨てられようとしている。そして、その自分の惨状に真っ直ぐに手を差し伸べているのは、変容し少女の肉体となったブライト・ノアその人だ。

 

(結局は——)

 

心の鎧が剥がれ落ちていくような、奇妙なすがすがしさがメイ・ウチフヅを襲っていた。

重厚で陰鬱な宗教画が描かれた天蓋が砕かれ、本物の朝日が差し込む一瞬。

そんな幻視が、彼女の心を破滅的なほどに軽くしていく。

 

(私も、ブライト・ノアに救われるものの一つに過ぎなかったんだ。どこまでいっても……)

 

つまりは、ただの、世界の一部に。

 

ウチフヅは、自分の涙で汚れた通信端末の画面をジャケットに擦りつけて拭いた。

眼鏡を外して目元に残る涙を拭い、ゆっくりと眼鏡をかけ直す。震える声が、肺から絞り出された。

 

「助けて……助けてください。このまま死ぬのは、嫌……」

〈すぐに向かう。君の現在位置を〉

 

その声は、あまりにも当然のように響いた。人を助けることを、そのための戦いをすることを、呼吸のように当然にしてきた男の声だった。

ブライト・ノアが、自分を、ただ一人の自分を見据えて話しかけてくれたのだと——その実感を抱くには、十分すぎた。

砕かれた信仰の欠片が煌めく朝の空を、彼女は見上げた。零れる吐息が妙に熱く、胸がときめいているのが感じられた。

 

「メンテナンスプラントブロック。セキュリティハッチに識別コードが描かれています。BAY005……」

〈分かった。すぐに向かう——〉

「ブライト・ノア」

 

はっきりとした声で、ウチフヅは呼びかけた。

通信の向こうで、ブライトは少し怯んだように息を呑んだようだった。

 

「見失いそうになっていました。本当に大事なことを」

〈……気にすることはない。誰にでもままあることだ〉

「ええ。とても。……あなたがそこにいることより、尊い奇蹟なんて他に無かったのに!」

 

困り果てたような、少し長い沈黙が垂れこめた。

くぐもった咳払いの後に、うっすらと疲労を含んだブライトの険しい声が続いた。

 

〈そこにいなさい。十分に警戒を〉

 

ウチフヅは壁に背をつけてもたれ、通信を切った。

そして、ジャケットの裏に引っかけていた拳銃を取り、雑然と積まれた整備用足場の影に立つ影へ銃口を突きつけた。

 

「話が終わるまで……待っていてくれたわけですか?」

 

影は答えない。微かに陽射しを跳ね返すものがその手元に光り、おそらくは拳銃を持っているのだろうと予測はついた。息を凝らして両手にしっかりと拳銃を構え、揺れない銃口でその影を狙う。

 

「早く仕掛けてこないと、《グスタフ・カール》に踏みつぶされますよ。今の話は聞いていたでしょう?」

「……」

 

影が飛び出す。

彼女は素早く反応し、引き金を引いた。

銃声が、整備工場区画の静寂をつんざくように響き渡った。




次回更新は未定です。11月下旬(20~30日)に再開予定です。
11/30追記:12月上旬再開予定に変更します。

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