医療施設の清潔で味気ないベッドに身を横たえて、身じろぎもせずにタイマーが鳴るのを聞く。点耳薬の使用後の姿勢固定が終わった合図だ。
ブライトはゆっくり身を起こした。それは溺れた時の後遺症なのか、聴覚が妙だと訴えたら処方されたものだった。
聴覚だけではない。五感にどうも違和感がある。自分の手足すら妙に白っぽく頼りなく感じられる。視界が妙に低く、天井が遠い。
ブライトはただ、背もたれを起こしたベッドに身を預けたまま、感覚が回復するのを待つために耐える時間を過ごしていた。
点耳を終えた耳に触れて、確かめるようにとりとめもなく呟く。
「あー、あー。シグナルチェック、通信クリアー……」
自分の聞きなれたはずの声が、妙に甘ったるく甲高い声に聞こえる。爆音などによる聴覚異常で音が妙に大きく聞こえるようになったり、低く聞こえるようになることはままあるが、この症状は珍しいはずだ。
医師による説明が欲しかったが、今のブライトに接触する人間は慎重に限られているようだった。
(あの《ガンダム》……それだけの機密だったということだ)
ブライトはすんなりと納得していた。
いち民間人に過ぎない自分がそれを目にしたことの重さ。
それはまるで、かつて自分たちがホワイトベースで直面した状況の鏡写しのようだった。
自分なら、この状況下で巻き込んだ民間人に、どう協力を仰ぎ、どのような情報統制が適切だと判断するだろうか——そんなことを思ってしまう。
なんにせよ、自分はしばらく解放されないだろう。問題はそのしばらくがどれくらいかということだが、その答えすら求めるのは現状では難しい。協力的な姿勢を強調し、可能なタイミングで家族への連絡を依頼するのが筋というものか。
居室のドアからノックの音が響く。
ブライトはまだ甲高く聞こえる自分の声にいくらか苦々しい思いを抱きながら、静かに落ち着けた声で言った。
「どうぞ」
ビジネススーツの眼鏡をかけた女と、連邦軍の制服を着た栗色の髪の少年が立っている。どちらも見覚えのない顔で、医療関係者ではなさそうだ。この取り合わせからすると、機密に関する聴取を行うつもりなのだろう。ブライトはベッドから身を起こし、傍らに置かれた椅子に掛けようとした。
「いいえ、そのままで」
「お気遣いありがとうございます」
女の冷ややかな声に頭を押さえられた気持ちで動きを止め、同じように淡々と答える。
身を起こすと余計に強調される、体への違和感がどうしようもない。手足の長さすらおぼつかない。自分の肉体が、45年間見慣れたものにすら感じられない。視覚もおかしくなっているのだろうか?
女がすたすたと部屋に入ってくる。少年はなぜか戸口にぼんやりと立ったままだった。その視線は痛いほどブライトに注がれている。
(逃亡防止……? そうは見えんな)
訝しく思いながらも、女へ顔を向ける。
「わたしは連邦政府の者です。今回あなたが目撃したものと、あなたの現状についてお話をしたいと思っています」
「伺おう」
ベッドから身を起こした姿勢のままぴしりと背筋を伸ばす。
「まず、あなたのお名前と年齢、住所、職業を」
「ブライト・ノア、45歳。ニューハンプシャーシー4区。飲食店の経営を」
「何だって!?」
聞き返したのは、女ではなかった。ドアを開けたまま棒立ちになっている少年が、素っ頓狂な声を上げている。
ブライトはかすかに眉を寄せた。やはり、自分の名は知れ渡りすぎている——ブライト・ノア。ロンド・ベルの英雄、あるいはテロリストの身内。どちらの意味であっても、今の状況で感情的に取り沙汰されるのはいい結果をもたらさないように思えた。
ブライトは少年を見据え、冷静に語った。
「今はただの民間人だ。あの場にいたのも偶然に過ぎない。君が私の名をどのような状況で聞いたかは知らないが——」
「い、いや、そうじゃないって!!」
少年の声は悲鳴のようだった。
精神的に不安定なのだろうか?
ブライトはやや険しく、見定めるように少年を見つめて言葉を待つ。
何かを意気込んで言いかけた少年は、輝くようなブラウンの眼でブライトを見返してしばらくしたあと、そのままゆっくりと顔を赤らめ、じりじりと背中を丸め、俯いてしまった。
「15歳、って、言い間違えたんだよな?」
「……は?」
それは、およそ理解できるところの全くない指摘だった。
ブライトは掠れたような声を間抜けに一つ漏らして、言葉が継げないまま少年を見ていた。
15歳?
言い間違えた?
何の話を?
言葉にするのをためらううちに、少年は更に勢い込む。
「15歳。おれより年下だ。あんな状況で、よく……怖くてたまらなかったんだろうに、おれを助けようとしてくれたなんて。きみって、すごく、凄い子だと思う。あの時カメラと集音がいかれちまってたから、おれ、てっきり……きみを、立派な大人の人だと思ってたんだ」
「待て」
「きみみたいな子がこんなところに閉じ込められるなんて絶対駄目だ。それも、おれのためになんて。すぐにでも帰れるように、おれも頑張るよ」
きらきらと輝く瞳がブライトを見ている。
この話からすると、彼があの《ガンダム》のパイロットだったということか。結局ブライトは救助に失敗したようだが、無事だったなら何よりだろう。
少なくとも歪んだ人格の持ち主ではないようだ、と、向けられた声の真摯さからそれだけは確信できた。
(しかし、話を聞かないタイプか……いや、話を聞かないのはまだいいんだが……)
ブライトの思案をよそに、少年はつかつかと室内に入ってきた。
「おれは、ニチテ・サウザン。ブライト……ブライトだって?」
ああ、と言う間すら待たず、ニチテはぺらぺらとまくしたてる。
「一年戦争の英雄から名前を貰うのはおれたちの世代じゃそんなに珍しいことじゃないけど、だいたいそうやってあやかる名前は男の子につけるものだって思ってたよ。勇ましいおうちなんだな」
「……」
ブライトはここに来て頭を軽く押さえ、数秒考えこんだ。
そして、一番有効そうな言葉を選んだ。
「ニチテ、君の気遣いに感謝しよう。しばらく黙っていてくれ。五分でいい」
「ブライト……うるさかった?」
「……君の優しさは伝わった。今はそれでいいだろう」
やっとニチテが大人しく口を閉じる。はにかんだようにわずかに微笑んで、ブライトをじっと見ているようだ。かなり居心地の悪いものを感じながら、ブライトはニチテを視界から追い出すように連邦政府の女へ目を向けた。
「ああ……」
ゆっくりと息を吐き、記憶を遡る。
「標準時19時30分前後、自宅から離れて湖畔の散歩を。その時にあの機体の墜落を目撃しました」
「墜落時の状況を覚えていますか?」
「激しい光と熱風。遮蔽物がなかったので地面に伏せてしのぎましたが、いくらかの衝撃波と熱水の充満がありました」
「冷静に対処されたんですね」
皮肉にも聞こえるが、女の眼鏡の向こうの瞳に猜疑のようなものは見えない。ブライトは落ち着き払って答えた。
「軍が長かったものですから」
(ああ、そうだ。長かった……そして、その果てには何もなかった。ただ、悲しみと、痛みと、喪失だけが……)
何気なく言葉にした自分の言葉に、思っていたより残忍な痛みが走る。
ブライトは唇を引き結んで微かに視線を逸らした。その程度の反応で女の瞳に揺らぎはないが、次の質問が始まるより先にすかさずニチテが声を上げた。
「ブライトはまだ傷ついているんです! こんなの、無理に聞きださなきゃいけないことですか!?」
「……ニチテ」
ブライトはため息と共に、その名前を呼んだ。
「私は話すべきことを話したい。黙っていてくれと言ったはずだ」
「……ブライト・ノアさん。45歳の飲食店経営者。元軍人」
ニチテが何か言いかけたのを制するように、女が突然復唱した。
助け舟ではあるが、奇妙なタイミングだと思った。ブライトは少し眉を寄せたまま、頷いた。
「間違いありません」
「そうですか」
冷めた声音で女は言って、突然居室の中を歩きだした。明らかに脈絡のない行動のようで、ニチテもぽかんとした顔で彼女を見ているが、女は頓着せずに居室の隅に置かれた小さなスタックボックスへ近づいていく。
引き開けられた引き出しから、女が何かを手に取った。
それは、滞在者のために用意されていた備品のようだ——四角いテーブルミラーだった。折り目のついた合成皮革の蓋がついていて、立てられるようになっているらしい。意図が読めずにそれを見守るブライトに、女はつかつかと近づいてくる。
「これをご覧ください」
「鏡を?」
聞き返しながら、女に突き付けられた鏡を見る——
「……」
思考が止まった。
脳が拒んでいる。
目に映ったものをすぐには理解できず、ただ全てが静止するのだけを知覚した。
鏡に映っているのは、見慣れた自分の疲れた顔ではなかった——
黒い髪は首筋を覆う程度まで伸び、首や肩はひやりとするほど細い。
澄んだ白眼に際立つ真っ黒な瞳が、動揺に揺らいで震えている。
「あ……」
少女——
少女だ。
黒い髪と黒い眼しか自分と共通点のない、あどけない、弱弱しい少女。
鏡の中にいるのは、それだった。それでしかなかった。
薄く開いた唇が閉じられ、滑らかな喉がごくりと動いた。
それは、ブライトがまさに今行ったはずの仕草そのものだ。
女は何も言わない。
ブライトもまた、言葉を失っていた。
そんな中、ニチテがいそいそとポケットを探る。
「髪がぐしゃぐしゃなのが気になる? 女の子だもんな。おれ、櫛なら持ってるよ」
脱力感に耐えかねて、ベッドに手をぱたりと落とした。
華奢で細い、非力そうな白い手だった。
そして、それは——
間違いなく、ブライト・ノアの手だと。
ただ、受け入れるしかなかった。