この施設の治療環境は不足なく整っているようだった。
暴走する機体の中で負傷していたニチテとは違い、単に短時間の溺水から適切に救助されただけの状況もあり、ブライトの肉体に残る苦痛は時間の経過と共に淡雪のように消えていった。
そう、苦痛は——だ。
ブライトがいつまで経っても慣れないのは、苦痛ではない。自分の肉体そのものだ。
華奢すぎる手足、柔らかな胸、膂力などどこにも宿るはずのない薄い肉付き。
それらが全て最初に想定していたような感覚の狂いですらなく、現実に起きている変化であることが、ブライトに深刻な眩暈を引き起こした。
受け入れられなかった。自分の肉体も、今生きているこの現実も。
もはやこの施設に保護される期間が長引くことより、何も解決していないのに家に帰されることの方がずっと恐ろしいように思えてきた。この変わり果てた姿を目にした妻や娘がどんな反応をするか、想像することすら思考が拒む。
そんな重圧の底で、日々は過ぎていく。
それが決して孤独な時間ではないのが、また堪えるのだ。
頑なに無視したはずのノックから間をおいて、あっさり居室のドアが開けられた。
「ブライト、調子はどう?」
「入っていいとは言ってないんだが」
ブライトはベッドに腰かけたまま思わず抗議の声を上げるが、入り口に立つ少年はにこにことブライトを見るだけで悪びれる様子すらない。
少年——ニチテ・サウザン。仮称《ガンダム》のパイロット。
彼は毎日この部屋を訪れる。複数回やってくることも珍しくない。ニチテも自分と同じようにここに留め置かれている身のはずだが、施設内をある程度自由に行動できるようだ。
「昨日より顔色が良くなったんじゃないかな……お医者さんや政府の人にいじめられたりしてない?」
どうしてもニチテの優しい声音には慣れなかった。若者に親しげに話しかけられるくらいで苛立ちはしないが、年下を通り越して子供に話しかけるような口調だ。
それは、今の自分の見た目を考えれば仕方がないのかもしれない。
今のブライトの肉体は、ミドルティーン程度の少女のものになっている。
健康体だが小柄に加えて筋肉量が極端に少なく非常に非力であり、体力がない。体重は本来の自分の半分程度しかないにも拘らず、この体が軽いとは少しも感じられなかった。腕も脚もひどく細くひょろひょろとしていて、手首に指を回して掴んでみれば、小さくなったはずの自分の手ですら指が少し余るほどだ。
(とはいえ——)
と、ブライトは思っていた。
(この態度を通されると、こっちの頭がおかしくなりそうだ)
ブライトはニチテと目を合わせることはせず、水を差すように言った。
「ニチテ。この前政府側に説明した内容をもう一度話すんだが……おれはコロニー在住の45歳の男で、君の目に映っている姿は異常事態による仮初のものだ」
「それで、ロンド・ベルのブライト・ノアだって?」
ニチテは理解者の生ぬるい笑みを向けてくる。
「おれ、きみのそういう冗談聞いてるの大好きだよ」
「……おれは好きじゃない」
そう言うのが精いっぱいだった。ブライトは湧きおこる疲れを吐息に滲ませた。
「それに、もしきみの言うことが本当だとしても、心配しない理由にはならないよ」
ニチテは輝く瞳でブライトを見る。
「今のきみは誰かに守ってもらう必要があるんだ。おれはそう思う」
「言うまでもなく、連邦政府の保護下だ」
「そんなの、本気でそう思ってるわけじゃないくせに!」
なるほど、少年はこの手の欺瞞に鋭いようだ。ブライトはその表情を横目に伺った。
保護下の民間人に抱く過剰な義務感。なにより、それが過ぎて、自分がいる組織そのものに対して不信感と敵愾心を抱いているようなニチテの様子は危うく感じられた。
目を覚まさせた方がいいかもしれない。ブライトはニチテを見据え、改めて問い質した。
「守るにしたって、何から守る気なんだ。今のところ何も起きてない」
「そんなの、楽観的だ」
「それが必要になるときもある……世の中すべてが戦いじゃない」
言いながらその皮肉に苦笑いしたくなる。無視できないほど、どこかで聞いたようなやりとりだった。
ブライトはニチテの不満げな視線を感じながら続ける。
「確かに、連邦政府の意向次第で何が起きるかは分からない。おれの身にも、君の身にもだ。だが、何をするにせよそこには必ず理由がある。君の決意は、その理由を聞き、自分の頭で考えてからでも遅くないはずだ」
「……ブライトは」
その声色が気になって、ブライトは少年の表情を慎重に確かめた。ニチテはそれまでの尖った気配をにわかに収めている。どこか激しさの失せた真摯な眼差しが、ブライトをじっと貫くようだった。
「ここが、どんな場所だか分かってるのか?」
「……いや。説明は受けてない」
こちらから聞きもしなかったというのが正しい。過度に情報を知りたがる素振りを見せることが、拘束期間を延ばすかもしれない。それがいかにも「無害で協力的な民間人」らしい振る舞いに見えるのかどうかはわからなかったが、沈黙を守るしかなかった。
「おれも初めてここに送られたんだけど……おれがいる実験部隊が持ってる病院なんだ」
「実験部隊、……」
曖昧な呼び名だ。だが、いかにもあの機体——仮称《ガンダム》のパイロットがいる場所らしい、異質らしさは感じられた。
ブライトは思案顔のまま、ニチテの言葉に耳を傾けた。
「だから、ここにきみを収容するってことは……『その手』の研究に巻き込まれる可能性が高いんじゃないかって」
「その手?」
「その……ニュータイプ」
——『ラプラス事変』で公開された宇宙憲章最後の条文、ニュータイプ登用の努力義務。
一夜にして宇宙のあるゆる居住区に広く知れ渡ったそれは、その忌まれ、遠ざけられ、否定され続けていた存在に光を当てた。ごく僅かな、ちかちかと瞬く、頼りない、それでもまぎれもなくそこにある光を。
世界は一晩では変わらない。
それでも、変容は根を張り、花開く時を待っている。
偏見と否定の眼差しは消えてはいないが、少なくともそれが広く認知されるようにはなった。個人個人がどのような態度で接するとしても、それが存在することが当たり前になっていく。
その実感を、ブライトは近年、肌で感じていた。
軍を去り、市井の人に混ざって暮らせば、その変わりゆく空気に、もっと近づけるのではないだろうかと——そんな考えも、かつてのブライトの中にはあった。
(虚しい思い込みだ——)
振り払うようにその一言で思索を終わらせ、ブライトはニチテを見た。
「君はニュータイプで、この施設に拘束され、研究されていると」
「ち、違う違う! ニュータイプなのはほんとだけど……」
慌てたようにニチテは声を上げる。
「ここはおれの職場じゃないんだよ、言ったろ? 部隊——要は職場が持ってる病院だって。おれの仕事はMSパイロットだし……工場で働いてる友達より、給料はずっといいくらいだよ」
「16歳でかね?」
「え? ええと……そんなの。そうだ、16歳ったって9カ月もしたら17歳だ。とっくに一人前の男みたいに働いてる。子供だと思われるのはイヤだな」
拗ねたように唇を尖らせる少年に、それ以上言い募るのは躊躇われた。
ニュータイプへの抑圧、社会の闇で行われる非人道的な利用。その歴史は、時間も距離も、ブライトにとってはあまりにも近しすぎた。声色や表情に洗脳の影は感じ取れないが、少年本人の言葉であっても無批判には信じられない。
沈黙して、ただ先を促すことにする。ニチテは真摯な眼差しをブライトに注ぎ、力強く訴えかけてくる。
「とにかく、おれはここに志願して入ったし、この病院に拘束されるってだけなら受け入れもするけど……きみは巻き込まれただけだ。おれはプロだけど、きみは素人だ。どんなに凄い子だとしても、その差は埋められないんだよ」
自負。自覚。責任感。それは間違いなく必要なものだ。軍人なら——MSという暴力の実行装置のコックピットにただ一人身を置き、その力を振るうパイロットなら、なおさら。
ブライトはただ、ニチテの目を見つめ、耳を傾けた。
ニチテの声は、ただまっすぐだ。
「おれたちの都合に巻き込んで助けた人がたまたまニュータイプだったからってそのままなし崩しに危険な目に遭わせて協力させるなんて、絶対あっちゃダメなことだ!」
「……」
しばらく間を置いて、ニチテは少し首を傾げた。
「どうして胸を押さえて目を逸らすんだ、ブライト?」
「い、いや……それが必要な時だってあるだろう……」
ブライトの過去を全て見抜いているかのようなニチテの瞳。いつだって自分なりに最善の選択をしてきたつもりだが、改めてその非情さを突き付けられると胸の痛みで今すぐ死にそうだ。弱弱しく絞り出すように呻いてみたが、ニチテは頑として首を振る。
「そうかもしれない。でも、あるにしたって、受け入れちゃダメなんだ」
「……そもそもおれはニュータイプじゃない。その手の感受性がないことは確かなはずだ。あの感応は明らかに異常現象だ」
「何が異常だっていうんだ?」
「あるだろう、目の前に異常が」
ぽん、ぽん、と自分の薄い胸を叩いてみるが、ニチテには通じないようだった。
その視線が叩いて示した胸部へしばらく注がれ、ぱっと弾かれたように逸らされる。
「ブライトはどうして、守られたり、頼ったりするのをそんなに嫌がるんだ?」
「嫌がってるわけじゃないが……」
「おれが心配してるのは、ブライトをここに『保護』するっていうのが、それ以上の意味を持つことだ」
少年の態度は、真摯だったが——
(今更……)
保護以上の意味合い。
そんなものはもう持っているに決まっている。ブライトはただ機密を目撃しただけではなく、今やサイコフレームがもたらす例外中の例外の事象、その結果そのものになってしまったのだ。ここ自体が単なる連邦政府の病院でなく研究や実験を目的とする組織が持つ施設なのだから、そこに収容された目的は明確だ。
そう口にしかけてすんでのところで抑えた。
伝わりようによっては、この少年は政府側に殴り込みをかけかねない。
「現状は『保護』と言っていい。ここからどう変わるかは分からない」
そう言うのが精いっぱいだった。
そんなブライトに、ニチテは焦がれるような視線を注いでいた。
「ブライトは、強い子だな」
「……」
妙に距離が近い——ベッドの上で少し腰を引いた。
ニチテの膝がベッドの縁を押し込むように踏み、その掌が頬に触れた。
「おれはブライトみたいに、賢くも強くもないかもしれない。でも、戦う人間なんだ。だから、それが必要な時はおれがきみを守るよ」
「切迫しているようだな。君の実験部隊は今、戦闘状態なのか?」
実験部隊。
これについてはブライトとしても、どこまで聞いていいものか責めあぐねている。あの落水の後にロンデニオンの外へ移されたわけではないようだ。サイド1周辺宙域で大規模な戦闘が起きている話は聞かない。だが、小規模な特殊部隊の小競り合いはこの宇宙ではよくあることだ——自分の知識で及ばない何かが起きていた可能性は十分ある。
ニチテは、ブライトのその質問に不本意そうに唇を尖らせた。
「任務自体もそうだけど……」
「うん」
吐息が掛かりそうな距離に居心地の悪さを感じながら、何気なく相槌を打つ。ニチテの瞳は夢を見るように遠くきらめき、まっすぐにブライトを見ていた。
「その……どんなものからでもきみを守りたい。バカげてるって思うかもしれないけど……これは心の問題なんだ。おれは、きみのことが好きだから、きみを傷つけるもの全部と戦いたい」
その思い込みの激しさはやはり危うくも思えたが、少年の言葉にはどこか平和で牧歌的な響きも感じられる。
そのことに、ブライトはかすかに安堵していた。
心の問題。この手の具体性を欠いた言葉が迷いなく出てくるということは、少年やその実験部隊に極度の緊張や危険が迫っていないということがうかがえる。
なぜか『一世一代の告白をした直後』のようなぎらぎらした目で自分を見ている少年の視線を軽く遮るように手を上げ、ブライトはその華奢すぎる手を少年の肩にぽん、と置いた。
少年は訓練を怠っていないようだ。見た目より肉が詰まり、厚みのある、鍛えられた感覚がある。
「君の真っ直ぐな想いを喜ばしいと思っている。それについては喜んで受け取ろう」
「……! う、受け取る!? 受け取るって言った!? ブライト……!」
「……?」
それまでの会話にそぐわない奇妙な剣幕にたじろいで、ブライトは一度言葉を切った。
きらきらと目を輝かせてこちらに飛びついてこんばかりのニチテの肩をそのままぐいと押しやろうとするが、びくともしない。ブライトの方から少し下がって、ヘッドボードに背をつける。
良くない兆候だった。
じりじりと増す緊張感の中で、ブライトは静かに言葉を突きつけた。
「真っ直ぐだとは言ったが、思い込みが激しいのは直せ」
「あ……。思い込み……?」
ニチテはしばらくブライトの真上に飛び込んでこんばかりの前のめりの姿勢だったが、やがて何かに思い至ったようにゆっくりと息をつき、背中を丸めて肩を落とす。
「うん……分かったよ。思い込み……きみがそう言うなら、そうなんだろうけど」
しばらくの間をおいて、ニチテはブライトを見つめ、にっこりと笑った。
「また、遊びに来ていい?」
「来なくてもいい」
「来ていい?」
来るな、と——
なぜか言えなかった。
黙殺しているブライトに何を感じ取ったのか、ニチテは嬉しそうに笑ってブライトの手をきゅっ、と握った。そのまま持ち上げられた手が、ニチテの唇に寄せられる、その前に——肘にスナップを掛けて、ブライトは自分の手を引っこ抜くように取り戻す。
自分の体に隠すように手を後ろについて、ブライトは眉を僅かに逆立てた。
「今日のところは帰りなさい」
「うん、また明日ね、大好きなブライト!」
ニチテは輝くような笑顔を見せ、ようやくベッドから降りた。