体調が回復したブライトは、当然のように「研究への協力」を求められた。
ベッド脇に立つ、くだんの連邦政府の女と白衣の研究員をしばらくじっと見つめてから、ブライトは渡されたペンを手に取り、目の前のテーブルに置かれた同意書にサインをした。
連邦政府の女が、冷ややかに尋ねる。
「ご質問は?」
「はっきりさせておきたいことがある」
ペンを返して、ブライトは言う。
「私がブライト・ノアであることは、認めていただいているのだろうか」
ブライトは自分の頼りない体躯を見下ろす。
今の自分は、本来の自分との連続性が非常に危うい。肉眼では確認のしようがないが、指紋や遺伝子、網膜の血管パターンすら変わっている可能性が高いとブライトは危惧していた。
(指先の形自体が違うんだ……ここに同じ指紋が刻まれているとは思えない)
ペンを手放した自分の手、その仄白く狭い指の腹をブライトは痛みを確かめるように見た。
「あなたがニューハンプシャーシー4区在住、元連邦軍大佐のブライト・ノアであることについては間違いなく確認済みであるとして扱います」
「この肉体でも?」
間違いなく確認済み——この手の官僚めいた人間はなかなか使わない言葉だ。驚いて聞き返す。
連邦政府側が意外なほど柔軟に自分の現状を認めているらしいことは、数少ない安心の材料のように思える。たとえそれが途方もなく失い、終わった人生につけられた名であったとしても、それを都合よく捨てて別人のように生きていくという選択肢はブライトの性質にはなかった。
「だからこそ、あなたの協力が必要なのです。ブライト・ノアは連邦軍でもずば抜けた回数のニュータイプ検査を繰り返し受けている人物です。そして、その結果の全てが、彼が明確にオールドタイプであることを示していました。サイコミュ機器への適性皆無、感覚値の低域安定、精神状態の先鋭化の惹起への感受性も確認できませんでした」
「……やっぱり、他の人間はあそこまで執拗に調べられてなかったのか……」
思い出す——白い部屋、苛立つような沈黙、不可解で長すぎる検査の数々。
ブライトがシャアの反乱直後に徹底的に受けた尋問と検査は、今の状態の比ではなかった。
それが引き起こす世界的な潮流に抗う材料を連邦軍はずっと探していたし、その材料として自分はいつでも生贄にされ得た。
だが、検査結果はあまりに明確だったようだ。結局のところニュータイプは心の持ちようでも、普遍的な可能性でもない。明瞭でフィジカルな個々人の資質の一種でしかないのだ。
自分がどこまでも空気の振動と肉体の動作でのコミュニケーションに縛られ続けたオールドタイプでしかなかったことは、結局自分を守ったのか、それとも——
(分かり合いさえすれば、引き留められたのか、ハサウェイ——おまえがマフティーの名に呑まれて死ぬまでに、一度くらいは)
腐り始めた虫歯を噛み締めるような、痛みを伴う感傷だった。
それに構わず、女は淡々と結論を突き付けてくる。
「明確なオールドタイプがサイコフレームの影響を受け、肉体の変容を経験し、本来ならば目にするべくもないインナービジョンすら目撃している。注目に値する事態です。それが開発中の機体と紐づけられた現象であるならなおさら」
「なおさら……外に出すわけにはいかない、か」
諦めたようにその先を引き取って、ブライトは白衣の男へ視線を向けた。
「研究への協力だが、具体的には何を?」
「まずは簡単な検査を。コンディションの評価後、サイコフレームとの接触実験へとつなげていく予定ですが……」
「……」
連邦軍のニュータイプとサイコミュについての研究は、アクシズ・ショックを契機に一律凍結が行われたことになっている。表向きは不安定性への憂慮————実際には、ニュータイプ思想が宇宙全域を巻き込む終わりなき宗教戦争になる危険性を重く見ての措置だった。*1
だが、もちろんそれは連邦の理屈だ——外部の企業にそれは脈々と受け継がれていた。そして、「ラプラス事変」を契機に、それらは公の場で堂々と俎上に乗るようになったのだ。
新たな人類の可能性の周知。
ニュータイプへの社会的な認知と肯定。
それはこの手の研究と開発を刺激することにもつながっていたということだ——
(封じられたものはすぐに這い出して……認められたものはまた闇に押し込まれる)
皮肉が胸を痛くする。
(何も変わらないのか……じりじり悪くなっているのか)
冷静さを欠いている。それについては、自覚を持つことにした。
世界に対して絶望することは、何も生み出さない。誰もが満足いく世界など最初からどこにもないのだから。それを始めれば無為に虚無を見つめ続け、最後は足を取られて落ちていくだけだ。
そんな人間を、ブライトは飽きるほど見てきた。
「さすがに、そろそろ慣れたよ」
ブライトは呟いた。
連邦政府の女が、眼鏡に触れて尋ねる。
「検査にですか?」
「いや」
ブライトはベッドから起き上がり、頼りない爪先をスリッパに引っかけながら言った。
「欺瞞にだ」
ブライトは検査室の白い天井を見上げていた。
検査はやはり難解を極めた。脳波を取っていることや身体の部位に各種の刺激を受けていることは分かるが、それが何にどう結びついているのかは推測すらできない。
金属製のプローブを引き抜かれ、潤滑剤を丁寧に拭きとられる。服を着直して、ブライトはスリッパを履いた。
「今日の検査はここまでです。明日の朝食は食べられませんが、昼食と夕食はご自由に」
「ここまで?」
ブライトはベッドに腰かけたまま医療技師を見上げた。まだ12時を回った辺りだ。大した疲労も感じていない。身体の内部に微かな不快感が残る程度で、それも数分もすれば薄れるだろう。
かつては座る間もないほど検査施設を延々歩き回らされたものだが……何か不具合でもあったのだろうか。
医療技師はブライトを見下ろし、宥めるように優しく笑った。
「うん、協力ありがとう。正直、君くらいの女の子には少し辛い検査かと思ってたけど、君がいい子にしてくれたから、随分早く終わったよ」
「……ベッドに横になってただけだ」
「とても難しいことだ」
向けられる笑顔と猫撫で声が不気味だった。ブライトはしかめっ面を背け、ネックストラップ付のホルダーに入った無地のIDカードを受け取った。被験体に許されている範囲での自由を、これが保証してくれるらしい。
ベッドを立つ。
食堂の位置は教えられていた。体が動く状態であれば、この施設にいる間は、そこで食事を摂ることになっているようだ。囚人のように毎日ただただベッドで食事を持つよりはいくらか気が楽かもしれない。
廊下は厚手の樹脂塗装が施された金属パネル、真新しい建材の匂いがする。
ドアの多くは電子ロックが掛かっているようだ。
かなり新しい建物で、造りは堅牢だ。
食堂には扉がなく、廊下からシームレスに繋がった開けた空間になっている。クロスの掛かったテーブルの周りに、三人の少年が溜まってわいわいと話しているのが見えた。
ブライトは食堂に踏み込んで立ち止まり、IDカードを手に周りへ視線を彷徨わせる。これを渡されたはいいが、使い方までは聞かされていなかった——
(これか?)
壁に設置された小ぶりなコンソールに向かい合ってカードホルダーからIDカードを引き抜き、そのスロットにカードを突き立てようとすると、くすくす笑いが耳に届いた。
座った椅子を後ろに傾けてぐらぐらと揺らしていた少年が立ちあがり、無造作にブライトに近寄ってくる。
赤いつやつやした髪をうなじの上で括ってイタチの尻尾のようにぴょこんと跳ねさせた、長身の少年だ。年齢はニチテより上、18歳前後——手足が長く、鍛えこまれている。ニチテのように連邦軍の制服は着ていないが、くだんの「実験部隊」の隊員なのだろうか?
にやにやと笑って、少年はブライトの手に掌を重ねた。
「きみ、おじさんみたいな間違え方するんだな」
「……そうみたいだな」
「それは緊急メンテナンス用の認証コンソール。戦艦のブリッジにでもついてそうな古臭いスロット式なのは、保守業務の都合だってさ。ご飯食べに来たならそっちに用はないはずだ」
その手はIDカードをあっさり取り上げ、ブライトの胸に下がったままのホルダーに差し込んで戻してしまう。
鮮やかな金色の瞳が片方だけ俊敏な瞼に隠され、完璧なウィンクをよこした。
「この食堂は初めて? 使い方、教えるよ」
「助かるな」
幾らか言い返したいことはあるが、大人しく受け入れることにした。
少年は華やかに笑い、ブライトを先導するように歩きだす。サイド1でよく見るカジュアルブランドのロゴが入った、フライトジャケットの背中。どこでも見かける平凡なファッション——そこから何か読み取れるものはない。
食堂の機能を担う大型端末は、ブライトには壁に埋め込まれた金属板のようにしか見えなかった。少年がその前に立つと、青い光が壁面に走っていくつかの写真とガイドテロップを表示する。
「きみって、オイルサーディンは食べられる?」
「特に好き嫌いは」
「あは、そう? いい子ぉ」
鼻歌と共に、少年の指が壁面を踊る。
「宇宙線・放射線耐性のための抗酸化作用……栄養強化サーディンが水産ブロックで大量生産できるようになってから、イワシばっかりやたら食べさせられてる。おれも嫌いじゃないけどね。コロニー育ちは水産物に慣れてないのも多いから、不満はあちこちで聞く」
食事に絡めた何気ない世間話のようだが、ブライトにとっては聞き逃せない言葉だった。
遺伝子保護のための栄養添加レーション。連邦軍では比較的最近の思想で、一部のコロニーから優先的に施行されている。『実験部隊』の実態が伺える内容だ。
「宇宙での任務を?」
「そりゃあるよ」
少年はブライトを一瞥し、悪戯っぽく笑って自分の胸を人差し指でとんとんと叩いて示した。
「キンジィ・マォン。実験部隊のパイロット。腕が良くなきゃ務まらない。道理でちょっとだけ、かっこいいだろ?」
「パイロットらしさは十分あるな」
「それって誉め言葉?」
軽妙に弾んだ少年——キンジィの声を聞き流し、ブライトは端末に表示される文字を眺めた。少年はカードを手にする仕草すらなかった。身に着けてさえいればこの端末が反応するようだ。
RFID。大して珍しい技術ではないが——伝統のある部隊ほど実装が遅れている類のシステムではある。実験部隊の創設自体がかなり最近であることが伺えた。
「やってみたかった? きみの分も頼んじゃったけど」
「気遣いありがとう」
ブライトは特に不満を示さず、淡々と言った。
キンジィはしばらくブライトをきょとんと眺めてから、「どういたしまして」と楽しげに笑い飛ばした。