乾ききらないバインダー樹脂の妙に甘いような化学臭は、ハンガーの換気を行うたびに薄れていくようだ。塗装されたばかりのマットな安定化酸化チタン顔料層は、日に日に透明感を失い、頑なな白色を得る。
変わっていく。痛々しく破壊された重兵器の塗装が、巨人の純白の皮膚に。
その変化は、繭から羽化したばかりの蝶の羽のようだ——と、ニチテは思っていた。
実験部隊の特殊ハンガー。
例のいわくつきの機体、仮称《ガンダム》を見上げていたニチテは、すでに後ろに立つ長身の影に気づいていた。
「ニチテよお。また愛機との逢引きか? 随分ご自慢みたいだな。テストパイロット様」
笑いを含んだキンジィの声には、まぎれもない敵意がある。ニチテは眉をきりきりと上げ、キンジィを勢いよく振り向いた。
「分かってるくせにやめろよ、そんな言い方。誰かに自慢するためだったら、一人でハンガーになんか来ないだろ」
「ふん……」
年上の同僚は、せせら笑って腕組みし、整備資材のコンテナーに軽く背を預ける。
「キンジィ! ハンガーのものに寄りかかっちゃダメだって、このまえ機付長に言われたろ」
「口うるさい奴う」
真剣でもなさそうな調子で、キンジィは笑い声を立てる。分かり切っている反応だった。この男がそもそもニチテの言うことをまともに聞いたためしがない。
ニチテはむすっと眉間にしわを寄せ、唇を尖らせた。
「キンジィがテストパイロットに選ばれなかったことを気にしてるからって、おれがこの《ガンダム》を見上げるのまで当てつけみたいに言うのは間違ってるよ」
「おまえって、全部口に出して言うんだな……」
腕組みしたままのキンジィは、呆れたように声を上げた。呆れてはいるようだが、視線の険は全く消えていない。ニチテの振る舞いに良くも悪くも慣れてしまったようだ。
キンジィの金色の眼が、照明を落とされた暗い天井にそびえている《ガンダム》を見上げる。広い胸に幾何学文様のように嵌め込まれた装甲パネルを視線でなぞるように、しばらく沈黙を落とす。
少しのため息と共に、キンジィは冷たく言い切った。
「誰がおまえなんか羨むかよ。こんな得体のしれないモノに無理やり乗せられて舞い上がってるおまえに同情してるだけだ」
「舞い上がってなんかない!」
「じゃあ何だったんだよ、あのインシデントは!」
苛立ったように、キンジィが声を上げた。
「おまえの油断であんな女の子を巻き込んじまったってことについて、ちゃんと考えてんのか?」
「……! ブライトに、会ったのか?」
ニチテは目を見開き、声を上げた。
ニチテは早期に任務への復帰を命じられたが、ブライトは未だに医療施設に留め置かれているようだ。自分だけが彼女の病室への訪問を認められている——連邦政府の女はそう言っていた。
体調を持ち直したかと思えば、すぐに過酷な検査が始まったらしいブライトは、いつもどこか疲れたような虚ろな瞳をしていた。それでもニチテの話には注意深く耳を傾け、驚くほど洞察と知性に満ちた言葉を投げかけてくれる。
「ブライトの検査はいつ終わるんですか」——医療技師に何度も確認したが、芳しい答えは返ってこなかった。ニチテにもブライトが重要な被験体として見られているらしいことは推測できたが、それは勿論ブライトへの過酷な仕打ちを容認する理由にはならない。
なりふり構わず必死に食い下がるニチテをブライトは心配したようで、ついにはニチテを叱責し、黙らせたことすらあった——
(ブライトは、気高い女の子なんだ……その気高さを、おれたちの隊は汚そうとしてる)
耐えられない思いで、ニチテはぐっと拳を固めた。
「ま、巻き込もうと思って巻き込んだわけじゃないっ! おれだって……」
「通るかよ!」
キンジィが吐き捨てた。
「あんな純粋な子をこんな肥溜めに叩き込んでおいて、よくもへらへらとあの子のことを語れたもんだな」
息を呑む。
明らかに、直接会って話したと言いたげな様子だ。
ニチテはキンジィを睨みつけ、ずかずかと距離を詰めて激しい剣幕で詰問する。
「ブライトにどこで会ったんだ、キンジィ……!」
「ナイト気取りかよ。恥ずかしい奴だな——部屋に押し入って乱暴したとでも思ってるのか?」
キンジィは鼻で笑って、胸ぐらに伸ばされるニチテの手を払い除ける。
「検査に呼び出されたらたまたま会ったのよ。そこそこ話は弾んだぜ」
「最初からそのつもりだったんだろ? ブライトを探して、病院をうろついて……」
「だとしたら、なんだよ」
肯定も否定もしないようだ。ニチテはぐっ、と喉奥で罵声を押し殺し、払われた手をのろのろと引っ込めた。
ブライトが施設の中を歩き回れるほど回復しているのは、もちろんニチテも知っていた。誰かと接触するのは不自然ではない。接触した相手がキンジィでなければ、自分だってこんなに動揺してはいなかったはずだ——と、ニチテは認めざるを得なかった。
キンジィ・マォンは、この実験部隊の花形だ。
この隊で要求されるあらゆる技術に秀で、腕が立って頭も切れる。
キンジィではなくニチテが仮称《ガンダム》のテストパイロットに抜擢されたのは、隊の誰にとっても意外なことだった。
もちろん、ニチテにとっても——
(MSの操縦で負けるつもりは、最初から全然なかったけど)
キンジィの薄笑いをじっと見る。
(能力で劣るおれがテストパイロットをやって、あのインシデントを起こした——噛みつく理由としては、確かに十分なんだろうな)
乗っていたのがキンジィであってもあのインシデントは起きたはずだ。ニチテにはその確信があった。だが、実際にこうなってしまっては言い訳にもならない。
今となっては、キンジィは仮称《ガンダム》のテストパイロットとして抜擢され、至らずにインシデントを引き起こし、それ以降も関連人物として確保されたブライトと定期的な接触を許されているニチテに明確な敵意を抱いている。
能力が秀でている彼が、ニチテを許せないことについてはもう受け入れるしかないのかもしれないが——
「おまえがブライトと会って、何をしようってんだよ!」
ニチテは声を上げた。
「おれにここまで噛みついてきたキンジィが、今になってブライトを探して会おうとしてるのがすごく嫌なんだ。キンジィがブライトに会いたがる理由なんかないはずなのに、明らかに執着してる。まさかとは思うけど、おれへの嫌がらせで——」
「思い上がるな、バカ!」
キンジィの鋭い声が制する。
「テストパイロットに選ばれようと選ばれまいと、《ガンダム》はおれたちの部隊ともう不可分なんだ。情報は少しでも拾っておかなきゃ、身を滅ぼす——おまえみたいにぼんやり口を開けて待ってるだけのやつとは違うんだよ!」
「……! じゃあ、《ガンダム》について知るために、ブライトと接触を?」
女の子に慣れていて、いかにも優しそうなキンジィですら、彼女をただの情報源としてしか見ていないのか。
そんなのは、連邦政府の尋問と何も変わらないではないか——
ニチテの険しい視線を受けて、キンジィは歯軋りをしたようだった。
「誰も教えちゃくれないんだ。自分で動くしかない。そんなことまでお前に責められる謂れはないぜ」
「だって、ブライトが何を知ってるっていうんだ。あの子は巻き込まれただけだぞ!」
「そんなのはおまえが決めることじゃない。立場が違えば知ってることも変わるんだ」
ぎらぎらと光るキンジィの瞳が、苛ついたようにニチテを狙って細められる。
ニチテは即座にそれを受けて立つように一歩前に出た。ハンガーの冷え切った空気が、ますます緊迫したひりつきを帯びる。
「——ニチテよお」
キンジィは皮肉に満ちた声で呼びかけ、鋭い瞳からふと力を抜いて傍らへ視線を遊ばせた。
ぶつかり合うようだった視線を逃され、ニチテは肩透かしを食らった心地で瞬きをする。
腕組みしていた腕を解き、キンジィが冷ややかに言う。
「あんまりあの子を……ブライトをナメない方がいいと思うぜ。やたら冗談ばっかり言って手に負えないところもあるが、ワケありなのは本当なはずだ」
いつもの軽妙な調子が、その声からは失せていた。
「……」
ニチテは力みかけていた肩からゆっくりと力を抜いた。怒鳴ろうと肺に溜まっていた空気を漏らすように息をつき、キンジィに正面から向かい合う。
真剣な話のようだ——いつもの愉悦と軽侮が感じられない。この様子に気づくのが遅れていたとしたら、自分は頭に血が上りすぎていたのだろう。
一度、感情をフラットに落ち着けなければならない。ニチテはキンジィを見つめ、はっきりと言い切った。
「おれは、ブライトをこの状況から守り抜くと決めた。……ブライトがおれの知らないことを何か抱えてたとしても、あの子を守らない理由にはならないんだ」
「何か、ってのは? 何を考えてる?」
何か——
「聞かせてみろよ、ニチテ」
挑発ではない。キンジィの声にそれを悟った。
気付かないふりをして、安全圏に留まることをやめろ——キンジィは、そう言っているのだ。
(そんなの……)
ニチテとキンジィの視線が交錯した。
過熱した感情はいつの間にか失せ、二人はこれまで頑なに触れずにいた領域へ自然と踏み込む決意を固めていた。
ニチテはキンジィから目を逸らさないまま、はっきりと言った。
「ブライト・ノアって名前を、今名乗ることに特別な意味がないとは思えない。もちろん広い宇宙に同姓同名はあり得る話だけど、そんなことすら彼女は言わない——ただ、『自分はブライト・ノア』だって、ずっとそれだけだ。英雄に名前を貰ったのかとか、そんな話にすら無反応だった」
それは、ずっとニチテの中に引っ掛かり続けていたことだった。おそらく、キンジィもそれは同じだったのだろう。キンジィは横やりを入れず、真摯に耳を傾けている。
ブライト・ノアは、まぎれもなく英雄の名前だ。だが、マフティー動乱と関連報道を知る世間はもはやそう扱わない。連邦政府の強権と残忍を背負い、黄昏に沈むように軍を去った一人の人物。マフティーのようなテロリストへの対策が進むたびに、世間という奴はこれから声をそろえて言うのだろう——『連邦軍は無数のブライト・ノアを抱えている』と。
連邦軍にとってのスケープゴート。
市民にとっての恐怖。
反逆者にとっての唾棄すべき名。
『ロンド・ベル』のお膝元であるロンデニオンで、政府側の拘束を受けた少女が頑なにその名を名乗っている——
「意味を見出さずにいるほうが、ムチャってもんだな」
キンジィの呟きは、ニチテの想いを全て代弁しているようだった。
「まだ、それが持つ意味は正確にはわからない。ただ分かるのは、ブライトには強い政治的な思惑があって、それを隠しもしてないから、あの子の立場はいつもとても危ういってことだ」
「節穴じゃないことには安心したぜ。だが、そこまで分かってて、なんでおれがブライトと話しただけでそんなにキレちまうんだ?」
「それとこれとは別だろ——」
ニチテが声を荒げようとした、その時だった。
カアァァァン——
堅いものが金属部品を叩く、甲高い音が響き渡った。
ニチテとキンジィは即座に背筋を伸ばして、踵を揃えて仮称《ガンダム》の前に並ぶようにぴしりと直立した。ニチテは軍服のジャケットの前を閉じ、キンジィは捲っていたフライトジャケットの袖を伸ばして袖口を整え、手早く身なりのチェックをする。
整備用キャットウォークの足場を、金属で強化された作業靴の爪先で叩いて甲高い音を立てる——
それは、この「実験部隊」の隊長がハンガーに現れる前の癖のようなものだ。少年たちの前に突然現れて要らぬプレッシャーを与えないための先触れ。特に上官には見せたくないものをいじっていたようなら、この音がしてから隊長が現れるまでの猶予で処分できる。
やがて金属音の尾が掻き消えて、靴音と共に隊長が現れた。
淡い色合いの髪を襟足まで伸ばした、伊達男然とした長身。ぐっと出た鼻骨が影を落とす金壷の眼が鋭い光を宿しているが、浮かべる表情はどこか軽やかで柔和だ。
隊長は軍人らしからぬ気負わない足取りですたすたと歩いてきて、並ぶニチテとキンジィを顎をさすりながらじろじろと見る。
ニチテとキンジィは揃った敬礼をして、隊長に言った。
「お疲れ様です、隊長——」
「お前らってさ」
隊長は畏まった少年兵の態度に全く構わず、マイペースに言った。
「声、デカいな。すごくうるさかった」
キンジィとニチテの声が、寸分タイミングを違えずに響く。
「はっ、申し訳ありません。操縦時のインシデントについてニチテくんに教導を——」
「はっ、胆に銘じます! キンジィの態度について指導を——」
「……」
「……」
睨み合う二人に構う気は、全くないようだ。もう慣れているといったところだろう。
隊長は呑気にあくびをして仮称《ガンダム》を見上げた。
「今から心底くだらないたとえ話をするんだが、お前らは真面目に答えろよ」
「……はっ」
薄闇に沈む機体のカメラとにらみ合うように、視線を動かしもせず続ける。
「お前ら二人は地球の、地球連邦の野外キャンプ地でテントを設営して休息を取った。夜、どちらからともなく目が覚める。二人は寝袋に入ったまま、広がる星空を見上げてる——その光景から、何が分かると思う?」
隊長は地球出身だと聞いていた。星空に独特のロマンチシズムを求めるのはアースノイドの特徴なのかもしれない。
ニチテとキンジィは顔を見合わせて少しの間黙り込む。
キンジィはニチテに先手を譲るつもりのようだったので、ニチテが先に口を開いた。
「地球では雲が出ると星が見えないらしいから、快晴であることが分かると思います。季節や時間帯によって見える星空の形も違うらしいし、おおまかな季節と時刻も分かるかも。星空をよく見て雲の流れが見えれば、上空の風向きも分かります」
「ふーん、なるほどね」
キンジィは? と言わんばかりに、面白がるような隊長の視線が滑る。
キンジィは軽く頭を掻いて、困った笑いを浮かべた。
「一緒に見てるのがこいつじゃなくて可愛い女の子だったら、今頃最高の夜だったってことがわかりますね。重大なタイミングの逸失を確認します」
「キンジィ!」
睨むニチテをよそに、隊長は右に流した長い前髪を乱して軽い笑い声を漏らした。
「正解を知りたい?」
「は、……」
「それは、まあ……」
隊長は我が意を得たりとばかりに笑んで、人差し指を立てた。
「寝袋から星空が見えるってことからわかるのは——『テントがなくなってる』ってことだ」
呆気に取られているニチテとキンジィに向かって、長い人差し指をぴっ、と立てて示す。MSパイロット上がりの隊長の手は厳つく節くれている。人を食ったような軽い調子で、隊長はすらすらと続けた。
「お前らは考え過ぎる。目の前にある答えにたどりつけない。若さってわけでもないな……考えながら生きるのが癖になりすぎたんだ」
どこか優しい光が、その目に宿っているようだった。
ニチテは少したじろいで、でも、隊長——と言いかけ、キンジィに脇腹をつつかれた。
隊長は少しの間反論を待ったようだが、二人の静かさを確認したようで、やがて笑いと共に言った。
「病院に収容されてる女の子が、ブライト・ノアを名乗ってる。お前たちが見てる事実ってのはそれだ。もちろん、そのブライト・ノアって名前が持つ意味は今では大分複雑で、面倒なものになっちゃいるが——それでもだ」
ブライト・ノア。
その名前に——
(隊長も、何かを感じているみたいだ……)
そう思ったが、口にはしなかった。
隊長は二人を見て、静かに告げた。
「あの子がブライト・ノアを名乗ってることからわかるのは、差し当たってあの子をブライト・ノアって呼ぶべきだってことだけだ。わかる?」
「……は」
「憶測が過ぎました、隊長!」
納得いかずぼんやりとしているニチテの横で、キンジィは折り目正しく敬礼をする。
ニチテも遅れてそれに倣い、隊長の眼を注意深く見つめた。
不満を感じ取ったように、隊長はニチテを見る。だがそれだけで、何も言わない——その不満さえ今は許すかのような、鷹揚な眼差し。
隊長は無造作に二人に広い背を向け、歩き出す。その背中を見た途端、ニチテの感情は大きく動いた。
「ナイジェル隊長!」
わん、わん、わん……と、残響を残すほどの大声だ。
隊長は足を止めるが、振り返らない。
自分の言葉を待っているのだと、ニチテには当然伝わっていた。
「考え過ぎだって言うなら、そうかもしれません! でも、考えるのを止めるのは、今の時代のおれたちみたいな人間にはいい結果を生まないんです!」
「……考えるのを止めろとは、言ってねえ」
ロンデニオン実験部隊の指揮官——ナイジェル・ギャレット隊長は淡々と言って、肩越しに振り向き、実に様になる一瞥を送ってきた。
「アドバイスだよ、先達のな」
ハンガーを立ち去るその後ろ姿。ニチテとキンジィは並んでそれを見送り、今の会話が二人にどのような変化をもたらすのか、その先のことについて思案せずにはいられなかった。