「…………ッシ!」
妖怪の山、守矢神社にて。
秋姉妹を経由して百姓から購入した藁と、自ら整えた材を用いて作った案山子に向けて僕は弓を構え、矢を放つ。
洗練された武士の作法には及ばないと自負する、遠い昔の実戦経験から身に付けた型から放たれた矢は、目標が被った陣笠のつばへと掠る程度に当たると共に、それに弾かれてあらぬ方向へと飛んで行った。
「……狙いを外されるとは珍しいですね。朝斗彦様、何か気になる部分でもお有りでしたか?」
「左手で弓を握った時の感覚がやっぱりいつもと違う。弦の張力も弱い以上、日頃の手癖で撃つとあんな事になってしまう。
いやはや、恥ずかしい所を見せてしまったな」
今僕が手に持つ弓は、弓道の心得があった早苗の姉が学生時代に使っていたものだ。いつも使う神弓とは異なり監督さえしていれば早苗でも弦を張れるし、これを使って夫婦二人でその使い方を彼女に教えた時もある。
最も、僕は技術面では教えられるものの構えが汚いので教育者失格であるが、それに対して比売は昔必死になって矯正したこともあって弓の所作がかなり綺麗だから、品格は彼女担当である。
「……順応が遅い。それくらい使いこなせないと神の肩書きが泣くわよ」
「いや……全くもって返す言葉も無いな。これじゃあ、如何に普段あの弓矢に頼りっきりだったかがバレちゃうな」
天之麻迦古弓に天之波波矢。
神話に出てくる神器であるそれらは、使用者だった天稚彦命が射った後にどこからともなく降ってきて彼を射殺し、彼が埴輪へと改造される原因*1となったり、国譲り後には複製されて天孫の証として諸王子に用いられた。
その中でも、我が従兄にして義兄でもある天之忍穂耳尊が男子の一人、磐舟を乗り回した太陽の貴公子こと饒速日命……の、その息子であり物部氏の祖でもある
一方で、なんでそんなモノを天孫ではない、むしろ天に刃向かった側である僕が持っているのかといえば、天稚彦が使っていたものを取り返したからだ。
……元はと言えば、国譲りが果たされた後にソレは恭順の証として高天原へと返される予定だった。実際こちらは返したと思っていたのだが……。
かえってきたのは、
「いや、返されてないけど?」
という無情な返事だけだった。
その後、報せを受けたもう一人の義兄の天穂日が必死になって捜索したものの、力尽きた使者は見つかれど肝心の弓矢は完全に消息不明。結局、義兄が涙目になりながら伯母上を始めとする天津神たちへと謝罪したことで、高天原では天孫降臨に伴い、揃って型番違いのモノが複数作られることとなった。
それからずーっと時が経ち、色々あって力を喪ったので仕方なく徒歩で諏訪へと帰っていた僕が、出雲より遠く離れた近江において天邪鬼を懲らしめた際に発見し、それをかつての定例会にて報告したのだ。
「……大和の王家のもとで天孫たちの序列がハッキリとしている以上、今後新たに扱う者は居なかろう。
故に、それは褒美とする。其方がとっておけ」
素戔嗚の子に渡すなど縁起が悪い! と、大いに反対する者達も居た中で、伯母上は迷うことなくそう言い切った。こうして、それから千四百年以上が経って付喪神になってしまった今も尚、弓矢は僕の物言わぬマブダチの二人として肩身離さず扱ってきた。
それくらい、もはや僕にとって大事な存在なのだ。
「…………己が持つ概念の揺らぎは、時に己の存在そのものすらをも崩しかねない。神霊という概念上の存在であるからこそ、我等は神として、自らを壊しかねない状況は避けねばならない」
「ど、どうしたんですか朝斗彦様? なんだか怖いです」
二の矢を番え、狙いを再び先程と同じ部位へと合わせる。しかし、突如として視界がグラグラと揺れ動き、矢を持つ右手までもが震えだした。こんな事は初めて弓を握った童の頃に、(自分はこれから人を殺す為の練習をするのか!)と、極度の緊張状態に陥った際にあったかなかったか……というくらいのことである。
ふぅー……と、ため息を着いて気を紛れさせた後に射ようとしたその時、視界の端に映りこんだ比売からの止めの合図が飛び出した。
「…………朝斗彦。アンタ、今日はここまでにしなさい。これ以上修練を重ねた所で今のアンタには何もつとまらないわ」
「……ならそうしよう。
比売、君がそうやって止めてくれるってことは間違いなくその通りになる。となれば、今がやめ時なのだろう」
長いため息を着いたあとに僕は脱いでいた片袖を羽織り、後片付けを始める。座って見ていた早苗が慌てて手伝い始めたので礼を言ったあと、二人で黙々と作業することでその日は手短に片付けを終えた。
……
「朝斗彦様、ずっとあんな様子ですね」
「やっと元気を取り戻したと思えばこれよ……。あんまり長い事あの調子を続けられるとこちらも困るわね、どうしたものかしら」
今や人里で最も見掛け、話しやすい神ナンバーワンとも言われる山の神が一角、葦原朝斗彦。
そんな彼も、守矢神社が引っ越してきてすぐの頃にその名を知る者は居るか? と問われた里の民達には素性が一切分からず、尽くの住民達が『誰……? そんな神様、いたっけ……???』と、困惑されたという逸話をもつ日本の国津神が一柱である。
しかし、そんな今では考えられないようなかつての大衆達にとっての知名度の低さとは裏腹に、妖達の間における彼の名は、幻想郷最恐の種族である隠れし鬼達が崇めし存在ということもあってか、良くも悪くも超有名人だった。
故に、妖怪の山が外の神を受け入れた際、霧の湖の吸血鬼一派を除いたどの勢力にも必ず一人は彼の名声、武勇、そして変人っぷりを知る者が居たほどである。
そんな存在感があるのか無いのかよく分からない彼が、もはや酷い悪癖となっている昼寝をする訳でもなく、かと言って日課の修練を行う訳でもなく、ただ縁側にて胡座を組み、ぼーっと外を眺めながら座っている。
社の風祝である東風谷早苗はそんな姿を見たあと、なんだかほっとけないと彼を構ってあげようとしたものの、社の元締めであり彼の妻でもある八坂神奈子から制止を受けた。
「そのうち自分で立ち直るから、今はそっとしておこう」
時に厳しく、時に優しい神奈子から諭されるようにそう言われては彼女は引き下がるにほかはなく、こうして数日もの間は注連縄を降ろして寂しげに丸まった背中をただ見守っているというわけである。
「神奈子様、本当に何もしなくてよろしいのですか? 早苗は心配です」
「しなくていい! ……って、断言するのは簡単だけど、そうね……。
ちょっと、私からも聞いてみるわ。そうすればあの人が何に悩まされてるのかが分かるかも」
「お願いしますっ! 朝斗彦様は……まぁ、鳥の羽よりも口が軽いので聞けば全然話してくれそうですけど。こういう時に頼れるのは神奈子様、あなたしか居ません!」
「……ま、まぁそうね? 否定はしないわよ?」
事実とはいえ貴女に言われたきゃないでしょうに……と内心では思いつつも、なんだかんだ可愛い孫娘のような存在である早苗の願いには応えなければと思い、こうして神奈子は覚悟を決めたのであった。
───────
「…………だから、私に話してみなさい」
「……うーん、別に話すことなんてないんだけど」
視線も合わせず、しらばっくれるようにそう返した朝斗彦に対し、神奈子は不満気な表情を浮かべながら布団を敷いていた。
近頃、『八坂神奈子と会合する時はとりあえず朝斗彦も一緒に呼べば向こうがお堅く*2ならなくて話しやすい』……という、妙な共通認識を持たれている彼女が、その認識の通りに少したりとも気負わずに話せるのが夫の葦原朝斗彦であり、そしてその逆もまた然りである。
だからこそ、ここで素っ気ない態度を取られたことに対して神奈子はとても不満だった。
「…………アンタね。
『ボクの耳が良いのは穴が兎に角綺麗だから』…………って、若い頃耳掃除する度に聞きたくもないのに言ってたクセして、昼の会話が一切聴こえてなかったとか、悪いけどそんなバカな事は絶対言わせないわよ?」
「…………」
「さぁ。何がアンタの心を煩わせるのか、私にちゃんと伝えなさい。それを聞くのが、妻としての私の役目なのだから」
布団を敷き終わり、神代の頃ほど長くはなくなった結んだ髪を振りほどきながら、神奈子がそう言う。そんな彼女とは反対に、長い髪を今も尚持つ朝斗彦は一言、「参ったな……」とだけ口にした。
「……遠い昔の、過去を見た。数日前に玄武の沢への行った時の話だ。
僕はにとりが作った絡繰によってかつての海峡の戦いを敵側の視点から観て、そこに映る光景が自分の知る歴史と"ソレ"が違うことに気が付いたんだ。
僕は運良く大国主様に拾われ、運良く君と結ばれ、運良くあの戦いを生き残り、亡国の英雄の一人として、民達の強い支持のもとで元の神人から大して概念を変えぬまま、神霊へと昇華した。
……でも、それがひとつでもズレてしまったら、その時僕はどうなったんだ? ひょっとしたら、大国主様に拾われぬまま野垂れ死んでいたかもしれないし、義弟のように誅殺されたかもしれないし、比売……君ともこうして結ばれなかったかもしれない。
自分という概念が揺らぐことに対して、僕は今強い恐れを感じている。それは今回の弓だってそうだ。些細な事でも当たり前が当たり前じゃなくなることに、今僕は底無しの恐怖を感じているんだ」
自分の布団へと座り込み、そうぽつりぽつりと話し始める朝斗彦の傍へと神奈子はすり寄った。そして白い腕を彼の大きな背中へと回し、何も言わずにゆっくりとさすり始める。
河童が行った不穏な実験のことなど、勿論神奈子にとっては初耳であるし、それに思うことは沢山ある。
それでも彼女はわかっているのだ。今は自分がとやかく口を出さずに、ただ彼の言う事を受け止めるべきだということを。
「比売、僕はどうすればいい。どうすればこの不安から解放されるんだ?
……神がこんな事を考えるなど、全くもって荒唐無稽なのは自分でも分かってる。だけど、恥ずかしいとかそんな事は言っていられないほどに……今の僕は君に頼らなければどうにかなってしまいそうだ」
「そんな、もしもこうなら……なんて起きるかも分からない事に惑わされたらダメ。それに、貴方がこうして生き残って来たのはその都度最善の選択をしてきたからじゃない。例え後ろ指を指される様なことでもね。
私だって幾度となく貴方の助言に身を救われて今があるのだから、ここは自分の直感に従うべきよ。
答えは中々見つからないかもしれない。けれど、そういう時こそしっかりと熟考して、正しい判断をするといいわ」
焦燥に駆られた夫の顔を両手で押えて自分に向けさせた後に神奈子がそう言うと、朝斗彦は普段ののんびりとした性格からは想像できないような落ち着かない素振りを見せながらも、「そうだ、そうだな……」と、自分に暗示をかけるように唱えるのであった。
「……きっと、この煩いは時と共に己が解決してくれる。数千年のしがらみを、見て見ぬふりをしてきたモノを、己の手で解決できるはずだ」
「……ちょっと待ちなさい。アンタってばすぐそうやって自分を追い込もうとするわよね?
確かに今は出来ないかもしれないけど、そういう暗示をかけるようなマネは強迫的になって自分にとっても要らない負担になるわよ。今は兎に角気を楽にもって、ただ普段通りにしていればいいの」
「うっ……ごめん、悪い癖が出た。ありがとう比売、助かるよ」
マズったな…と頭を搔く朝斗彦に対して、神奈子は胸を張り、フンと鼻を鳴らした。
「うむ、結構。
……それにね。私が思うには、多少なら別にどうにかなってもいいとも思うわよ? だって、今まで色んなことがあったとはいえ、貴方はこうして何事もなく私の伴侶としてあり続けてくれたじゃない。
貴方に折れない芯がある事は私が一番わかってる自負がある。その私が立ち直れるって信じているのよ? 貴方はもっと自分に自信を持ちなさい!」
そう言われた彼が、「確かに……」と小さな声で反応すると、神奈子は中々人前では出さない優しい笑みを浮かべ、ね? と念を押した。
「…………もし……もしよ? 貴方がどうにかなるような事があるのなら、その時は私だって"どうにか"なるわ。たとえそうなってでも、私は貴方の傍に居たいのだから……」
顔を紅く染めながらそう口にする神奈子の様子を見て、朝斗彦は呆気にとられた様子で笑みを浮かべた。
「……フッ、変な事を言うものだ。そんな所まで君が一緒になってどうするんだよ」
「どうするも何も、私達は夫婦よ? 似た者同士、どこまでも一緒なんだから……アンタも覚悟しなさいよ?」
そう言い放つと、神奈子は先ほどまでとは打って変わり、支配的な笑みを浮かべる。
それを見た朝斗彦は一瞬目を丸くしたものの、彼もまたすぐに片側の口角をにっと上げ、凶相とされる三白眼の眼力も相まった、実に威圧的で獰猛な笑みを妻へと返した。
「ああ、そうだ。僕らは一蓮托生、絡みついたら決して離れない偉大なる
勿論、自白を行うことだけで心に巣食う問題が全て解決したなどとは神奈子も朝斗彦も互いに微塵も思っていない。しかしそれでも、互いの思いの丈を伝え合うことで彼女達はより強い結束で結ばれることになった。
……
それから間もなく、夏が終わって秋になった頃。
幻想郷ではまた新たな異変が起きた。弱き者達が為の逆転した天下を作らんと画策した天邪鬼と小人が、打ち出の小槌の魔力によって物言わぬ道具、草の根の下級妖怪達を暴走させたのだ。
里からひっきりなしに来る妖怪退治の依頼という名の日常業務をこなしていた博麗霊夢が新たな異変の存在に気が付くと、彼女はまるでまってましたと言わんばかりに妙に張り切って敵を蹂躙したため、騒動は瞬く間に鎮圧された。
然し、その真犯人である天邪鬼は逃げ
そんな幻想郷では、今日も山の神によって愛弓捜索願のビラが配られている。
人目もはばからず暴れ回ったあと、気鬱の病のような状態に陥るジェットコースターのような性格の朝斗彦。そんな彼の持つ短所は自身が面倒を見た直弟子達にそれぞれ分割される形で引き継がれています。