諏訪 守矢山
諏訪湖より南にある守矢山。そこに人知れず建つ御柱の上にて、諏訪の明神・建御名方神こと八坂加奈子はあぐらをかきながら西を見つめ続けていた。
あの日、朝斗彦が失踪して涙ながらに諏訪へと帰った頃より、ここで帰りを待っては諦めて社へと戻る事は彼女にとっての日課となっていたのだ。そんな彼女を支える諏訪子もまた、ここで不安定な状態の友人を見守り続けている。
「ねぇ神奈子〜……もう帰ろうよ。どうせいつもみたいに待ちぼうけになるだけだよ」
「……」
「第一、こんな山で待ってても来ないって。もうずっと、ずーっとずーっと帰ってこないじゃあないか」
彼女の言う事も一理ある。
初めこそ希望を胸に抱きながら帰りを待っていたものの、気付けば数多の歳月が過ぎた。時の流れはまるで豪雨のように神奈子の抱いた希望を削り続け、彼女が空元気を取り繕っていることは今や誰が見ても分かることであった。
「……諏訪子、先帰っててもいいわよ」
「今の神奈子置いて帰ったら何するか分からないからダメ。
それにさ、迷惑かけてるのは朝斗彦の方だよ! アイツ何年帰ってないと思ってんのさ!」
「……あまりかようなことは考えたくないが、もしかしたら素戔嗚様の手にかけられたのかもしれん」
「えぇ……? でもさぁ、それなら認知する前に殺さない? どうせ田舎者の私でも知ってるくらいのあの気まぐれでも起こしたんじゃ?」
「……素戔嗚様の気まぐれなど、考えただけでも身の毛がよだつ。ああ……朝斗彦、私はずっと貴方のことを待っているんだ。どうか顔を見せておくれ……」
彼が失踪してもうかれこれ数百年。時代はあっという間に移ろいでいき、彼女達のような神々が主役だった時代はとうの昔に終わりを告げた。それでも、彼女にとってはたった一人の夫であり、苦楽を共にしてきた大事な存在なのだ。
そんな彼のためなら幾らでも待てる。そう考えて心を無にして待ち続けていたが、正直そろそろ限界である。たまに義理の伯母からこっそりと使いの八咫烏が遣わされては励ましの言葉をくれたりもするが、日に日に胸に抱く不安は増していくばかりであった。
「ん……神奈子、また不安そうな顔してる」
「……ごめんなさい。どうしても万が一を想像してしまって……」
「全く、こんなに愛して貰えてる果報者だってのに、どこほっつき歩いてるんだよアイツは」
「諏訪子……」
「神奈子、私の前にいるときくらいは気を張らなくて良いんだよ。どんどん顔怖くなってく一方だもん」
「そ、そんなことは……」
「まぁ、その方が威厳はあるのかもしれないけどさ。社に勤めるもの達も近頃の明神様はなんだか怖いって言ってたよ」
「はぁ……、私もダメね。仕える者に畏怖以上の恐怖を感じさせてたなんて」
「私の頃はそれが普通だったけどねー」
「アンタねぇ……。私は祟り神じゃないのよ? 一応正義の味方的な立ち位置なのにそんな事してたらダメよ……。
はぁ、今日はもう社へと戻ろうかしら……」
「そうしよそうしよ。そうだ、帰る前に湖で釣りでもしようよ! 気分転換も兼ねて!」
「……フッ、たまにはそういう娯楽に触れるのも悪くないわね。良いわ、行きましょう」
……
「比売に会いたいなぁ……」
「まーた始まった。もうあと少しなんだから辛抱しよーよ」
ここは美濃の東。
一行は雨が降り始めたために近くの廃れた村にあった、かつての素戔嗚の屋敷のようなボロ屋にて雨宿りをしていた。雨が降るか降らないか分からないような曇天にすっかり気分をやられてしまったことで朝斗彦がウジウジし始め、それをやれやれといった表情で残る二人が見つめていた。
「いやさ……、あの二人が居たから少しくらい憧れの神様らしくあろうとしてたのが結構心労になってたみたい……。
…あーっ! 早く諏訪に帰りたい! なんで大八洲の内陸ってあんな険しい山ばかりあるんだよ! あれがなけりゃさっさと突っ切って帰れるのに!」
「ついにおかしくなって山に文句つけ始めたウサ。言っておくけど完全に八つ当たりだよ?それ」
怒りによって短くなった髪がゆらゆらと逆立った朝斗彦を横目で見たあと、てゐがやれやれと言ってツッコミを入れる。そんな様子の二人を表情も変えずに見つめた後、飯綱丸が頭に浮かんだ疑問を口にした。
「……朝斗彦殿、空を飛んで帰るのではダメなのですか? 前に伊吹山での宴の際にふわふわと飛んで胡座をかいていたでは無いですか」
「いやー…だっててゐ飛べないでしょ?」
「うん。あたしは兎だからぴょんぴょん跳べても空は飛べないよ?」
「……抱えてあげたら如何か? 朝斗彦殿であれば彼女一人ぐらい屁でもないでしょう?」
「え〜……こんなのに抱き抱えられたら全身の骨が折れちゃうってば!」
てゐの言葉を聞いて飯綱丸はちらりと朝斗彦の方を見た後に一言、無情にもそれもそうですねと言った。こうして飯綱丸の同意を得たてゐはけらけらと笑い声をあげ、でしょでしょ!? と言って女二人で盛り上がっていた。当然朝斗彦はそれに対して不服に感じていたようで、
「流石にそんな鬼みたいな抱擁はしないよ……大体さ、そういう時っておんぶじゃないの?」
とポツリと一言漏らしていた。ちなみに全員鬼二人の抱擁で死にかけたことがある。ヤツらは加減というものを知らぬのだ。
…
そうこう話している間にいつしか屋内には肌に張り付くような湿気が満ちていき、外では強い雨が降り出したのが分かる。そして、それに乗じて小屋の外より妖しげな気配が漂い始めていた。
「何やら招かれざる客が来たようだ。お二方、如何する?」
「ここであまり揉め事は起こしたくないな」
「私は朝斗彦に任せるよ」
「ふむ……。
知らぬ者にこの姿は見せたくないな。なら一度女子の姿になって様子を見てくるよ。二人はここで待ってて。頭襟に獣耳なんて、あまりにも妖怪だって分かりやすすぎるからね」
「承知致しました」
「はいはい」
朝斗彦は床に置いていた剣を持って立ち上がると、二人がたまたま同時に瞬きした瞬間に力を用いて性別を変えた。そして一言、
「じゃあ、行ってくるわね」
とだけ言って出口の方へと向かっていった。
「……ホント、どうやって性別変えてるんだろう」
「分かりません。幻術の類か何かでしょうか」
「……急に身長低くなる上に、一物失くして胸でかくなったりするって色々と違和感ないのかなぁ」
「んなっ!? そ、そんなの、私に聞いた所で分からないに決まってるでしょう!? 破廉恥極まりない!」
……
外に出ると蓑を纏った集団が村を彷徨いており、朝斗彦改め八坂刀女比売はその真っ赤な蛇眼をギョロギョロと動かしながら周りを見回した。すると、彼女の存在に気づいた者が一人、また一人と現れ、嫌な笑みを浮かべて近付いてくる。
「おいおい、こんな素寒貧な村に人がまだ居ただなんて知らなかったぞ? しかも、べっぴんときた」
「あら、別嬪なんて嬉しいわ。でもごめんなさいね? 私には共に契りを立てた方がおりますゆえ……」
そう言って朝斗彦が目を閉じて苔のむした壁をなぞりながら前へと出ると、妖の山賊達は彼女の事を盲目だと考えたのか、ズカズカと歩み出て彼女へ触ろうとした。
そして、鼻息を荒くした山賊が手を彼女の身体へと触れようとした刹那、痺れとも熱した石を触れたようにもとれる不思議な痛みがその身へと走り、彼は思わずぎゃあっ! と声を上げて仰け反った。
「な、何が起きた!? おいテメェ! 俺の手に何しやがった!」
「あら……? 如何いたしました? 私は何もしてはおりませんよ?」
「抜かせ! この俺を怪我させてタダで済むとでも思ってんのか! 貴様、名を名乗れ!」
「私の名は八坂刀女ノ比売というものですが、何か……?」
相変わらずお淑やかな女を演じている朝斗彦。彼のそんな姿を建物の壁に空いた隙間から覗き見ていたてゐと飯綱丸は、あまりにもあからさま過ぎる朝斗彦の演技に思わず吹き出してしまった。賊たちが苛立っている滑稽な様子も合わせて、二人はその後も笑いをこらえるのに精一杯であった。
しかし、そんないきり立った山賊達の中に一人だけ、朝斗彦が名乗った名を聞いて疑念を抱いた者がいた。年若い彼女は恐る恐る前へと出てくると、賊の頭に対して何かを耳打ちした。
「なにィ? お前、こんな盲目の女が神だって言いたいのか?」
「ちょっ、お頭! 聞かれますって!」
「聞かれて何が悪いんだよ、え?
お前の戯れ言に付き合うほど暇じゃねぇんだ」
「お待ちください! さっきあの女の名乗った名前には確かに聞き覚えがあるんです! 間違いなく諏訪の明神様の奥方の名ですよ!」
「あら……」
「ほら、なんかそれっぽい反応してますって! ねぇ、お頭ぁ! 信じてくださいよぅ!」
「むぅ……」
目の前の女が思わせぶりな態度をとったことで、山賊達は先程までガウガウ吠えていたのが嘘のように黙り込み、辺りには雨がザアザアと降る音だけが響いていた。そして、しばらくの間互いが様子を伺っていたものの、山賊の頭がため息をついたあとこういった。
「おい、お前! 三日後の晩に改めてここへと来る。お前が本当に神なのであれば、その時に何かそれらしいことを見せろ! 良いな!」
「はぁ……私達も旅の途中なのでこのようなところで時間を無駄にはしたくないのですが……」
「うるさいうるさい!俺の手をこんな目に合わせといてタダで済むわけないだろうが! 妖怪だから大した傷にならなかっただけでもマシだったと思え!」
(小物……)(小物だ……)
「はぁ……仕方がないですね。私としては今見せても良いのですが、貴方のその可愛い態度に免じて三日後までこちらへと残ることと致しましょう。その代わり、連れ合いも居ますので少しだけ食料品を分けては頂けますか?」
「……クソッ! おちょくりやがって……。
言い出しっぺはこちらの方だ。少しだけなら分けてやらぁ! それなら良いだろ?」
「ちょ、お頭マズイですよ! あたしら略奪に失敗したばかりじゃないですか!」
「……なんかさ、相手さんあまりにも計画性が無くない?」
「そうだな。あんなのが頭目だと部下は大変だろう。……しかし相手の一団に生えてるあの尻尾、まるで白狼天狗のようだ。白くはないが」
「でもあいつらからは前に山で見た白狼天狗みたいな文字通りの猛者って感じの雰囲気は特段しないね。磨いた石と原石くらい違うや」
結局、彼らは目の前の疑惑の不審者に対して食料を渡すと、尻尾をだらりと下げ、とぼとぼと歩いてその場を離れていった。
そんな彼等の寂しげな後ろ姿を見送った後、朝斗彦はいそいそと屋内へと戻り、待っていた二人に対して事情を伝えた。
「まぁ私たちは旅の同行者ってだけだからいいけどさ、そんな道草食ってていいの? 珍しく癇癪だって起こしてたのに」
「いやぁ……食糧せびれば嫌がって破談になるかと思ったら素直に渡してきたからさ。それで逃げるのはなんか可哀想じゃない?
あ〜……それにしてもさ、ずっと瞼とじてたから眉間が痛いよ」
「しかし、あやつらは何者なのです? 何やら白狼天狗のように尻尾が生えてましたが」
「分からない。でもなんか血の臭いと獣臭は凄かったよ」
「朝斗彦様にも分からないのですか。……まぁ、もし揉めたとていくら犬っころが何匹群れようと我々には敵いませんよ」
「「……」」
「……犬扱い?」
「いえ、これは白狼天狗に効果覿面の煽り文句です。師より伝授されました」
「そんなぞんざいに扱ってるくせによく共生出来てるなぁ……」
……
~三日後~
「やい! 諏訪の神とやら! 約束通り戻ってきたぞ!姿を見せやがれ!」
「ちゃんと来たよ……。朝斗彦、出番だよ」
「はーい。……これでどうかしら?」
「はいはい、大丈夫だから早く相手してきて」
立て付けの悪い扉を無理矢理開けて八坂刀女比売がその姿を現すと、山賊達がおぉ……と謎の感嘆の声をあげた。彼等は彼女の素性について半信半疑であったため、斯様な場所にて三日も過ごせばいくら美人とて汚くなるものだと考えていたのに対して、初めて見た時と一切変わらぬ姿で八坂刀売ノ比売が現れたからだ。
「やっぱり!あの穢れなき肌、絶対唯ならぬお方ですよ!」
「黙れ! 俺達よりも強い妖かもしれぬのだぞ!」
目を閉じたままふらつきもせずにこちらへと向かってくる朝斗彦に対し、山賊の頭は思わず後ずさりしたくなる気持ちを抑えて彼女と対峙した。
「さぁ、約束を果たしてもらおうか。お前は何を見せる?」
「それでは、舞でも致しましょうか。 皆様?そんな腕組みして凝視せずとも、酒でも飲み交わして気楽に観てくれて構いませぬ」
そう言うと彼女はどこかからか榊を取りだし、静寂の中で舞を踊り始めた。山賊達は焚き火を囲むように地べたに座り込み、あるはずが無い伴奏を耳にしながらその舞を眺めていた。
しばらく舞い続けた後に彼女は榊を袖へと仕舞い、腰に携えた剣を鞘ごと抜いたかと思えば、胸を張ってズカズカと歩いて山賊の頭の横へと向かう。そして彼が持っていたおちょこをひったくるとそれを一気飲みし、また舞っていた場所へと戻って行った。
なお、ひったくられた本人は困惑しながら少し苛立った様子を見せたものの、三日前に朝斗彦の正体を勘付いたお付きの女子に制止されたことで浮かせた腰を再び地べたへとつけた。
そして急に彼女が地面に横たわったので山賊達が困惑していると、不意に地面が揺れ始めたのである。なんだなんだと彼等が慌てふためいていると、突如地面が隆起してそこから太い木の根が飛び出してきたのだ。
「な、なんだ!? 何が起きているんだ?」
飛び出してきた根はまるで獲物を物色する蛇のように周りを伺うような動きを見せると、山賊たちが何処かで掻っ攫ってきたであろう酒瓶へとその先端を思いっ切り突っ込んだ。
「ぎゃあああ! 俺達の酒に土が混ざる!」
そう言って山賊達が目の前の出来事に困惑している間にも新たに七本の根が現れ、そのうち一本が頭のお付の女子を攫ってしまったのだ。それを見た山賊達は驚きのあまり座り込んだまま後退りし、根に縛り付けられた彼女は混乱し泣き喚いていたのだが、彼女はその後すぐに違和感に気付くこととなる。
「……あの、お頭。全然痛くないです。むしろ優しいくらいです」
『は???』
間の抜けたやり取りを山賊達がしていると、今の今まで我関せずと言わんばかりに寝っ転がっていた八坂刀女比売がムクリと起き上がり、剣を引き抜いて八本の根と戦い始めたではないか。
まるで勇ましい武神のような剣裁きを見た山賊達は先程までの様子が嘘のように大盛り上がり。勘の良い者達はこれが素戔嗚の八岐大蛇退治の場面であるのだと気付きを得た。
山賊達の熱狂の中、素戔嗚に扮する八坂刀女比売はあっという間に八本の根を倒した。その後拉致した女子の身をさりげなく根より引き渡してもらうと、彼女を姫抱きにして地面へと降ろした後に困惑して棒立ちする女子に跪いてその剣を捧げたのであった…。
舞を終えた後に顔を真っ赤にした少女の横に立って、
「如何でしたか? 信じてくださりますか?」
と聞いてきた八坂刀女比売に対し、初めてその真紅の眼を目の当たりにした山賊達は激しく首肯し、その後慌てふためきながら平伏した。
「あ、あの……。優しくして下さりありがとうございました」
「いえ、こちらこそ急にあんな事をしてしまい申し訳ございません。さぞ驚かれたことでしょう?」
「えっ、まぁ、そりゃあ? ちょっとは驚きましたけど……。でも、こんなそこいらに生えた草の根っこみたいな存在である私の事を優しく抱いてくれましたし……しかも二回も……」
「…………大丈夫なら良かった。自分の事を卑下するのは少々頂けないですけれど」
こうして朝斗彦は人狼の集団に付けられた因縁を吹き飛ばすことに成功(?)し、ようやく木曽路へと歩みを進めた。目的地の諏訪までは残り僅かである。
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嘗て、かの
主を喪い、同胞からも見放された彼らはやがて間もなく気高さの証たる純白の体毛すらも暗い色へと変化してしまい、野犬同然の生活を送るようになった。こうして裏切られし者となった彼らはいつしか人々を襲う事を厭わなくなり、民草からは単純に人狼と呼ばれるようになったのだ。
【秘封倶楽部活動レポート・真神信仰と七つ石の伝説について】より抜粋。
「オリジナルの設定がかなり多いね。どうしてだい?」
「そうした方がいいかなって」
「ふーん、君は頑張ってる!」
相も変わらずそんな作品です。ご了承ください。