神奈子が諏訪子に誘われるがままに釣りを始め、一週間ほどが経ったある日の昼下がり。諏訪の里で湖畔にてひとりでに動き出す小舟と二本の釣竿についての噂が流れ始めた頃、神奈子と諏訪子の二人は舟に乗ってまた釣りを行っていた。
「だめね。今日は全然かからないわ」
「餌は食われてるから居るはずなんだけどねぇ……。
……おっ! かかったかかった。それっ、引き上げるよ! おし、また山女魚だ! よっしゃー!」
「はぁ、なんで諏訪子ばかり釣れるのかしら。これじゃあ気分転換のはずなのに心労にな……る……、むっ! 社から呼ばれてるわ。諏訪子、向かいましょう」
「はいよー。ミシャグジ、この舟戻しといて」
……
「急に呼び出して何事か。神託はもう告げただろう?」
「いやそれが……。突如風変わりな三人組が現れて、明神様に拝謁を願いたいと申してきたのです。
初めは領主様に伺わせようとしたのですが、その様な者ではなく明神様に直接会わせろと不遜にも言ってきたため、申し訳ございませんが呼び掛けさせて頂きました」
「そやつらの素性は分かるのか?」
「えぇ、見たところ二人の童子をひき連れた風変わりな女子でした。その童子達は妖のようでしたが、それらを引き連れた女子は妖力と神力を併せ持った者です」
「そうか、分かった。案内しろ」
「ははっ!」
こうして彼女たち二柱が本殿へと歩みを進めると、確かに三人組が座って待っているではないか。
(天狗にイナバ? それに真ん中の者……、一体どういう組み合わせなのかしら)
そんな事を神奈子が考えていると、案内の者が客人に対して彼女たちの到着を伝え、待っていた三人は平伏の姿勢をとった。
「我こそはここ諏訪の大社が主神の建御名方命である。面をあげよ」
神奈子の言葉を聞いて三人組が顔を上げると、神奈子は目の前の者を見て思わず肩をピクリと動かした。理由は明白。目の色、そして纏う力こそ少し違うものの、余りにも彼女は夫である朝斗彦に似ていたからだ。
いやいや、何を変なことを考えているのよ私は……、相手は初対面の客人よ? そう神奈子が考えていると、向こうもまた名乗りを上げたのだが……。
「恐れ多くも軍神として誉れ高き諏訪明神に拝謁することが叶い、恐悦至極にございます。私の名は八坂刀女比売命、八百万の神の末席に座る神が一柱です。ここに理想の殿方がいると聞き、後ろに控える二童子を引き連れて遠く雲州の地より旅をして参りました」
『!?』
案内してきた者も、陰で盗み聞きしていた諏訪子も、そして彼女の目の前に座る神奈子も驚きを隠せなかった。諏訪大社にて、かつてより存在しない神という暗黙の了解を以て祀られてきたはずの、明神の妻神と同じ名を名乗る存在が突然目の前に現れた為である。
「なっ……あっいや、見ない顔だが、今まで神在月に行われる杵築の集会に来た事はあるのか?」
「いえ、私は鬼の庇護者、言わば鬼神である為、それらを嫌う天照大御神の御前に顔を出すのは不適と考えて今まで参加したことはないのです。
しかし、今年こそはと歩みを進めたものの、着いた頃には集会が終わっていたのです。そして、かの地にて祀られている神に話を伺ったところ、諏訪に向かえという言葉を得たことでこちらへとやって来た次第となります」
神奈子はたった今自分の身に起きている事に内心戸惑いながらも、必死になって次に言うべき言葉を考えていた。ただでさえ夫のせいでややこしくなった諏訪の教義に、更なるややこい存在が飛び込んできたならばそうなるのは必定である。
「えっと……、ちなみにその話をしたという杵築の神というのは……」
「大御神がご次男の天穂日命にございます」
(父上ならまだしもアイツ……こんな問題を押し付けてくるなんて!)
爪でも噛み出しそうな様子の神奈子を前にして、朝斗彦達は笑いを堪えていた。どうせならいたずらしようというてゐの提言でこんなことになっているのだが、目の前の神奈子の狼狽ぶりを見ればイタズラは完全に成功である。
何故気付かないのか。なぜ気付くことが出来ないのか。目の前で色々思案している様子の神奈子の顔色を伺いつつ、次に打つ一手をどうするかを朝斗彦が考えていると、先に口を開いたのは向かいの明神であった。
「……先程の発言を聞く限り結婚相手を探しに来たのであろう? 私に今伴侶が居ないのもまた事実。このような堅苦しい場では気が持たないだろう? 少し二人で話さないか?」
「えぇ、是非! 二人共、私は建御名方様と話してくるから待っていてね。失礼のないように頼むわよ」
「承知致しました、刀女比売様」
……
男装する神奈子と女の姿の朝斗彦。互いを知る一部の者が見たら爆笑物であるこの光景は、幸い諏訪方に一切気付かれていない為に奇跡的に成り立っていた。
「それにしても、お綺麗な顔。てっきり髭面の勇ましい方を想像しておりましたが、女の私が羨むほどに綺麗な面立ちをされているのですね」
「あっ、ああ……ありがとう」
「それに私、昔から気になっていたのです。
信徒達から聞いた話によれば、かつての国譲りの際には我が庇護対象である鬼と共に戦い、その勇ましい戦いぶりを高天原の神々に知らしめたとか。それに、諏訪へと攻めた際にもその時の遺臣達と共に協力したそうではないですか。
あの建御雷命とも一戦交えたとも言いますし、惹かれない訳が無いでしょう?」
「ああ、いや、確かに間違ってはないが、諏訪の方はなんというか……成り行きというか……それに建御雷についても……」
「……? あら、もしかしてこちらにはもう一柱神がいらっしゃいますか? 何やら神力を感じますが」
頭を冷ます為に外に出たはずが、突然言葉の猛攻撃を受けて神奈子の頭は破裂寸前である。冷静に考えれば鬼達は諏訪での戦以降に朝斗彦の事を信仰し始めている為、こんなぽっと出の女神が国譲りの時代に存在している訳がないのであるが、そんな所にツッコミを入れられるほどには今の神奈子の頭は回っていなかった。
そんな中で、渦中の八坂刀女比売が初対面でありながら諏訪子の存在を察知した為、神奈子の頭の中には更なる混乱が訪れていた。
「よ、よく気付かれたな。そうだ、ここにはもう一人神がいる。諏訪子、此方へ」
「こんにちは。私の名は洩矢諏訪子。土着神さ。しかし、初めて会うにも関わらず私のことに気付くなんて凄いねぇ。妖力もあるし、もしかして祟り神の仲間だったりする?」
「えぇ。その特性上、人々からは鬼神として扱われていたので、場合によってはそう名乗るのも間違いではございませんね」
(……朝斗彦が戻る前にこんな変な女神と夫婦の契りを結んで暮らすことになるって言うの!? 嫌だわ……。朝斗彦! お願いだから早く帰ってきて!)
神奈子が両手を握り締めてそんな事を考えていると、様子を伺いに来たのか、一人の少年が守役を連れて三柱の前へと現れた。
「いやはや……本当に八坂刀売神が現れるとは……。私はここ諏訪の社の宮司にして建御名方神の子孫、
(これは……出速雄の子孫か。随分とまぁ幼いが、賢そうな子だな)
「あらあら、こちらこそよろしくお願い致します。永き縁に恵まれる事を願いますわ。聡明な領主様?」
有員と八坂刀売神が二人で話している間に神奈子と諏訪子は慌てて後ろへとさがる。そして神々しさの欠けらも無いような耳打ちをし合い、目の前の脅威への対応を論じていた。
「ねぇ、どうするのさ神奈子。あんなゾッコンなのにお前の事が女ってバレたら……アイツ、鬼の大軍でもけしかけてくるんじゃないの?」
「そんなのイヤよ! だいたい、私には朝斗彦って大事な夫が……いや、そんな事よりもまずは目の前の事を対応しなければ……」
「あのさ、その格好で夫がとか言わないでよ! 男色みたいじゃないか!」
「う、うるさい! 私だってこんな格好したくないのよ!」
そんな事を二人でやいのやいの言って騒いでいたその時、有員が発した一言によって二人は動きを止めることとなる。
「いやしかし、八坂刀売神さまは綺麗な青色の目をお持ちなのですね。
明神様より伝え聞いた、私の祖である葦原朝斗彦命のようだ」
『!?』
ちょっと待て、今青色の目と言ったか。先程顔を合わせた際、彼女は鮮血のように赤い目を向けていたのを確かに二人は目にしていた。にも関わらず、青い目だって?
神奈子と諏訪子の二人がドタドタと慌ただしく近寄って刀女比売の身体を押さえ付けてその細い瞼を開かせると、確かにそこには透き通った青い目があり、二人は驚きを隠すことが出来なかった。
「えーっ!? なんで!? さっきまで赤かったのに!」
「ちょっ、諏訪子騒ぐな! しかし、何だ? 何が起きているんだ!?」
そう二人で騒いだ後に顔を上げると、キョトンとした表情で神奈子と諏訪子を見つめる女神の姿が。その顔はどうかされましたか? とでも言いたげである。
「ところで、八坂刀女比売さまは髪は伸ばされないので? 伸ばせばよりお綺麗になられると思うのですが!」
「いやぁ、実は前までは腰くらいまで伸ばしていたけど、色々あって切ってしまったの。旅をするなら短いのも楽よね〜と思って今まで伸びないようにしていたのだけれど、わざわざそう言ってくださるのなら神力で成長させてみるわね」
そう言って彼女が力を使い始めると、彼女の特徴的な緩い癖毛はみるみるうちに長くなり、姦しい二柱にとってはあまりにも見覚えしかない雰囲気へと様変わりした。
「……え、あれ、これって……?」
「……でも、胸もあるし身長も低いぞ?まさか隠し子?」
「いや、待ってよ神奈子……。さっき言ってた話だってさ、おかしくない? なんでこの女が色々詳しいことまで知ってんのさ。それにさ、庭に出てきた時にまるで神奈子の男装を始めから見抜いてる様な物言いだったし……」
「た、確かにそうだな……。と、という事はだ。もしやお前は……?
いやもしかして貴方……、朝斗彦なの?」
目の前の女に対して伸ばし掛けた手を慌てて戻したものの、神奈子はそうであって欲しいという一心のみで、一歩ずつその身を八坂刀売比売へと近付ける。そしてそれに対して忌避感を示すことなく彼女は微笑むと一言こう言った。
「……あぁ、ようやくその名を貴女の口から聞けた」
先程のドッキリから頭が混乱し続けていた為、神奈子の感情はぐちゃぐちゃである。いつの間にか溢れ出してもはや止めようがない涙をゴシゴシと袖で拭ったあとに顔を上げた神奈子の前にいたのは、数百年間離れ離れになっても想い続けたたった一人の夫、朝斗彦そのものであった。
その目にも止まらぬ速さでの変化に諏訪子は頭上の帽子共々目が飛び出そうになるほどに驚いて尻もちを着き、周りにいた他の者達も思わず驚嘆の声を漏らしていた。
「……えっと、あ、えぇ? ほ、ホントに帰ってきたの?信じられないわ」
「そうだよ。この旅の間、一時も貴女の事を忘れることなんてなかったさ」
「私もよ……。えっと……あの、ねぇ……抱き着いてもいい?」
「どうぞ? 支えるべき立場の私が高名な諏訪明神様に請われて拒否するわけなど無いでしょう」
「な、なら遠慮なく……。
ああっ! この安心感……紛れもなく朝斗彦のものだわ! もう、ずっと戻らないんじゃないのかって思ってた! うぅ……信じられない……朝斗彦、帰ってきてくれてありがとう……! 嬉しい、嬉しいわ……」
恐る恐る朝斗彦へと抱き着いた神奈子が顔をくしゃくしゃにして再度嬉し涙を流し始めると、そしてそれに合わせて背後から諏訪子も彼へと飛び付き、
「お前、帰ってくるのが遅いんだよ!」
と言いながらも頭をベシベシと叩いて大喜び。気付けば二童子ことてゐと飯綱丸も現れ、それぞれが朝斗彦と神奈子の双方に対して労いの言葉をかけていた。
「いやいや皆様方、今日は祝宴をあげなければなりませんね。何せ、幼き頃より聞かされてきた悲しき別れ話が、今こうして長い年月を経て解決したのですから」
「わーい、お酒だ! ここまでついて来た甲斐があったウサ!」
「折角ですし、私も一口頂きましょうかね」
「龍、飲んじゃって大丈夫なの?」
「てゐ、天狗は鬼ほど厳しくないのよ。飲みたきゃ飲め、酔ってしでかしたことへの責任を他の者は一切負わない……というのが我らの流儀。
あいつらが居た時はケチつけられたくなかったから口にしなかっただけ。それに、ここいらは我が父の支配域にも近いから多少の無理難題も通るさ」
「ほへ〜、しらなんだ」
「貴方、あの者達は一体?」
「あぁ、あの二人は杵築からここへと向かう間に旅を共にした仲間だよ。ホントはもっと他にも居たんだけど、途中でやりたいことがあるって言ってきて別れちゃった。
ある意味、僕らにとっての幸運の運び手でもあるよ。ほら、あそこ。彼女の首元にある飾りを見てみ」
「……あら? アレって、父上の幸運のお守りよね? どうして彼女が?」
「どうしても何も、彼女が元の持ち主だからさ。アレには幸運を運ぶ彼女の力がこもってるから、譲り受けた大国主様や僕は今まで何度も危機を脱したんだ」
「つまり、全ては父上の齎した縁の元で繋がっていたのね」
「そうそう、父は偉大ってやつだ。まぁこっちはその父親のせいで大変なことになったけれど」
「そうよ! 素戔嗚様の勘気に触れたのかと思ってたから私達本当に心配していたのよ? ……けれど、戻ってきてくれて本当に良かったわ」
「勘気に触れてしまったのはむしろ父上というかなんというか……。多分、今も大国主様と伯母上にこっぴどく叱られてるんじゃないかな……」
「そういえば、素戔嗚様で思い出したわ。
昔の中つ国の言い伝えで、根の国は地下に延々と広がっているって話があったじゃない? だから似たような伝承のある穴に諏訪子と二人で潜って貴方を探しに行ったりもしたのよ。けれど、見つかったのは旧友が住まう蛇の王国だけだったわ。
友と再会してかつての交を温め直せたのは嬉しかったけれど、何処か様子が変だったし空気も澱んでいるしで散々だったわ」
「……それってもしや浅間の国? あの地震と一緒に噴火が起きた時に火砕流に飲まれて滅亡したんじゃなかったのか」
「私も会うまではそうだと思っていたけれど、生き残ってたってことは何かあったのでしょうね」
「きな臭いなぁ……。どうせ陰謀好きな天津神かなんかの仕業だろ?」
朝斗彦がそう言うと、神奈子は彼の口に指を当てて言ってはダメだと知らせ、彼は不服そうにしながらも頷きかえした。その後、神奈子が言うにはその話題は出雲の集会でも口にしてはならないモノという話であった。
「あっそういえばさ、集会に向かう時はちゃんと余裕もって出てる?」
「……ッ! えっ、ええ? そりゃあ、モチロン……」
急にしどろもどろな様子を見せた神奈子に対して朝斗彦が怪訝そうに目を向けていると、朝斗彦に肩車されていた諏訪子が頭上よりこう言い出した。
「あ、全然ダメだよ。出雲に向かう時は毎回ちんたらし過ぎて、いつの間にか諏訪明神はその蛇体を引き摺るから遅れるなんて言われるようになったもん。ね、神奈子」
「あっ、ちょ!」
「…比売、なんで嘘つくのさ」
「うっ……」
「……遅参せずに間に合った最後の時って覚えてる?」
「えっと…………。えっ…と…、貴方と最後に行った時かしら……」
「……」
「……」
「今年は一番乗りしよう。決まりね」
「分かったわ。その、ごめんなさい……」
「良いんだ。どうせなら僕らを舐め腐った連中にやれば出来るって所を見せつけてやろうよ」
その後、宣言通りに社では祝祭と称して宴会が行われた。既に神霊となっていた明神夫妻の近親……即ち各氏族の祖神達も集った事で、普段は神氏といがみ合っている周辺氏族の面々もまた集まり、この時だけは日頃の恨みつらみを忘れて盛り上がったという。
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長野県諏訪には神々や妖にまつわる数々の伝説が伝わっているが、それはかつて存在していた氏族それぞれのの脚色も入っているため断定は出来ない。しかし、下社大祝を戦国時代まで勤めていた金刺氏の記録の中では、広庭王即位より三十二年の夏(西暦571年頃?)に西の雲州より斗神帰還する事叶うという文言が遺されていたという。
彼らは古くより建御名方神の配神たる八坂刀売神を信仰していた氏族であるが、また斗神の名は山陰地方のごく一部地域に残る東神信仰における祭神の東神様にも繋がりを見いだせる可能性がある為、更なる調査が必要だ。
【秘封倶楽部活動レポート・失われた信仰と東神斗神 その2】より抜粋。
神武天皇とかの名前を出している以上は吹っ切れるしかない。