「…………ハァ。わたくし、どうしちゃったのでしょう」
地底を代表する巨女こと豫母都日狭美は、完成が近付く都を流れる川辺に生えた立派な柳の木の下でかがみ込み、悩んでいた。
妖生ゥン千年を誇る老練な彼女の頭の中には、今までずっと不変の太陽のように輝く、若き日の朝斗彦の顔があった。あったはずなのだ。しかし、近頃妙にそれを邪魔する存在がいる。
それは彼女の新たな主、ちっちゃな角を頭に携えた人鬼こと、日白残無である。
残無はかつての主である黄泉津大神のように、皆に聞こえるような大きな声でネガティブな独り言も言わないし、いきなり無茶な事を頼んでくることもない。それどころか、接する者一人一人に対しては常に相手に歩調を合わせ、それぞれの調子に最適化された解決策を導き出すなどといった、凄腕の人心掌握術を持つ堅洲国きっての超新星である。
故に、同族達は皆揃ってこう言うのだ。
『もっと早くに知り合いたかった』……と。
しかし、肝心の日狭美はというと、朝斗彦様に仕えられないなんてここに来た意味がない……とばかり考えていた。強い癖のついた艶やかな黒い髪、黄泉の国の民にとっては美徳たる白無垢の肌、そして何よりも相手が誰であろうと振りまく子供のような純粋な笑顔。
全てが恋しくて堪らないのに、最近彼のことを考えると何故か、必ず同時に残無の顔がちらつくのである。
第一、黄泉醜女を統率する者として、彼女は残無と直接接することが多い。それゆえに残無が向かう場所には日狭美も共に行動するなど側仕え的な日々を過ごすことが増えたとはいえ、日狭美はまだ完全に心を許していなかった。
しかし、残無はそれを見抜き、僅かに駆け引きを引っ掛けて巧みに交流してきては、その度に日狭美の脳内にて存在感を放つのだ。
それがなにより、彼女は気に入らなかった。
「うーん……ハァ……」
頭に紫の花を模した冠を被り、黄泉醜女きっての抜群の体型を持つ彼女が、人目も気にせずに地面に座り込んで明後日の方向を眺めている。通りを歩くもの達はなんだなんだと物珍しげに眺めつつもそれを無視していくが、日狭美にとってそんなことはどうでも良かった。
彼女にとってその悩みというものは、この世の如何なる悩みよりも難題であったからである。
「……貴女、悩んでいるの?」
「……えぇ、悩んでいますわ。今まで感じたことの無い、途方も無い悩みです。例えるなら……そう、虚無に囚われるほどに、ですわ」
「……そう。貴女、悩んでいるのね。悩めるなんて、全く妬ましいわ……」
日狭美の細身ながらも大きな背中の横に、気がつくと小さな背中が増えていた。皆が恐れ、過剰に近づく事すらない日狭美の隣でかがみ込んだ小さい背中の持ち主、その名は水橋パルスィである。
彼女は都起こし計画と共に再建された三途橋に住み着いた橋姫である。都の外れには彼女個人の持家もあるものの、普段は都に何カ所かある橋を転々としている。
嫉妬を操る彼女は、何よりも嫉妬という概念が自身が活動する上で重要なモノであり、この地底においては嫉妬心を抱く者の前には必ず現れると言われていた。
しかしながら、今回彼女が別に嫉妬している訳でもない日狭美と接触した理由は、ただ単純に気になっていたからだった。
より詳細な内容をいうと、実はある日に彼女の飲み友達である星熊勇儀から、『アタシよりもタッパのある、ヤバくて面白い奴がこの堅洲国にいる』……という話を聞いていたからである。
かつて自分にも「アンタ、なかなか面白いヤツじゃないか!」と、声をかけてきた彼女が言うのだ。その話を聞き、パルスィの頭の中は謎の"大きな面白いヤツ"のことでいっぱいになっていた。
(あの勇儀よりも大きいなんてヤツ、本当にいるのかしら?
ああ、気になりすぎる。私にここまで興味を向けさせるなんて、なんて妬ましい存在なのかしら……)
そんな事を考えながら自らの縄張りを転々としていると、噂をすればなんとやらといった様子で衆目を集める謎の巨躯の女子がいた。
そして、少し前に
間違いない、彼女が例のヤツだ、と。
そして今に至る。
「……良かったら、何に悩んでるのかわたしに教えてくれないかしら」
「……いいですよ。実は、わたくしにはずっと、ずーっと、昔から想い人がいるのです」
「あら、そうなのね……。別に気が乗らないなら答えなくてもいいけれど、それはどれくらい前からなのかしら」
「そうですわね……ざっと千と七百四十年近く前から……でしょうか」
「……相手もそんな前から想われてるってのに気付かないなんて、信じられないくらい妬ましいわね……」
確かに、噂に違わず面白い。これは質問を聞いた後、パルスィが抱いた率直な感想である。何せ、そんな自分が生まれてすらも居ない昔の時代から恋煩いをしている存在が隣でウジウジしているなんて、あまりにも現実味が無さすぎて面白すぎるのだ。
そんな日狭美はパルスィにとって、自身が永遠に妬む為に存在しているのか? と思う程に内なるジェラシーを感じさせる妖怪だった。
「……貴女が妬ましいくらいの長い年月を恋煩いと共に過ごしてきたのは分かったわ。けれど、なんでそんな事になってしまったのかしら」
「……彼、既婚者なのよ。それも、側室や妾のひとりやふたりすらも作らない、超が付くほどのおしどり夫婦なのよ!
……死の穢れに生きる私と、生の象徴たる国津神の彼、結ばれるわけも無いままずっと! ……ここまで来てしまったのよ……。そんな……、そんなのッ! もう執着するしかないじゃない! なのに、最近なんだか妙に関係のない残無様の顔まで浮かんでくるわで、もうわたくし訳が分からないのよォーッ!」
やはり衆目を気にすることなく叫んだ後、ううぅ……と啜り泣き始めた日狭美の背中を擦りながら、パルスィは内心彼女の隣にずっと居たいと感じていた。
因みに、恋愛感情なんてものではない。例えるならば、そう。洩矢諏訪子と八坂神奈子の関係性のようなものである。
(この人の隣にいるの、なんだか居心地がいいわ。だって、ここにいれば嫉妬の感情でホクホクだもの)
なお、ひさひさぱるぱる……と無意識に共鳴し合うこの二人は、最早誰も近付けない程の暗黒面を辺り周辺に生み出しており、恐らくこれがもう少し大きくなれば異変を察知して朝斗彦が飛んでくることとなる。
「……ねぇ、貴女はずっとその人を想ってるのよね? なら、何か今まで手を打ったりはしたのかしら?」
「ぐすっ……んん、理性が働く範囲であれば、何でもしましたわよ。でもあの子、普通の感性の持ち主じゃないのよ……。だって、去年再会した時なんて、話してる間は私の目しか見ないのよ! 殿方ならもっと……そう、色々と、しっかり見てくるでしょう!?」
「……まぁ、そうね。確かにそれは変よね……。でも、たまに居たりするじゃない。欲が無い人」
「っ、そうよ! 彼、欲が全っ然無いのよ! お父君はわたくしにナンパしてきたこともあるのに、息子である彼ってば全くそんな事しないのよ! ……あ?」
「どうしたの?」
突如として隣の女が泣き止んだためにパルスィが首を傾げると、今度は急に震え始めた。その震え方はまるで、硬直後の死体が無理矢理に動き出したかのようなカクカクとした動きであり、それまで横に居たパルスィも流石に恐怖を感じたほどのものだった。
「……気づいたわ。わたくし、あの方の事……全っ然理解出来てなかった。欲が無いんじゃあないわ……! 今傍にあるモノで完全に満足してるからそれ以上は手出ししないのよ……。
わたくし、誰よりも彼を慕っている自負があったのにそんな事にも気付けないなんて……これじゃあ、想われ人失格ですッ!」
(……いや、話を聞く限り向こうにとって貴女はあくまでも友人なのであって、別に想ってなど居ないんじゃないかしら?)
そう考えるパルスィを他所に、日狭美は辺り一面にモヤモヤとどす黒いオーラを纏い始めた。大粒の涙を流し、それが零れ落ちた場所からもくもくと、ひとたび吸い込めば一溜りもないような死の霧が浮かび上がり始めたのである。
いよいよマズくなってきたかしら……とパルスィが危機感を持たずに考えていたまさにその時の事だ。遠巻きに出来ていた野次馬達の人混みの一部が次々に道を開け始め、自慢の長い黒髪を靡かせたとある者が現れた。
「……一体なんの騒ぎかと思ったら、その原因はお主か。日狭美」
少しばかり癖のある黒髪、黄泉の民が好む白い肌、そして何より皆に慕われるその存在感。袈裟姿が妙に似合うその者の名は日白残無である。
彼女は深く頭に被った笠を左手でくいっと持ち上げると、手に持った錫杖を振り上げた後に地面を打った。そして、錫杖の先に付いた飾りをしゃんと鳴らすと、辺りに漂っていたヤバさしかない霧を瞬く間に晴らしてしまったのである。
「……あら、残無様。ごきげんよう」
「……のう日狭美、そなた友を前に無理をしておるな?」
「……やはり、あなた様にはお見通しでしたか……」
(なんだか分からないけど私、勝手に彼女のお友達って事にされてるわね)
彼女は気付いていない。魅惑の巨女と隣り合わせで座り込んでから既にそれなりの時間が過ぎていることに。そして、もはや離れるにも離れられなくなっていることにすらも、彼女は気付いていない。何故ならば、日狭美の持つ『絶対に逃さない程度の能力』によってパルスィは見ず知らずのうちに捕まってしまっているからである。
この力から強引に逃げ切ったのは有史においてたった二人のみ。大八洲の父たる伊弉諾尊、そして星無き国を照らす北斗の神……つまりは葦原朝斗彦だけである。
「お主が色々と抱え込んでいるのは知っておった。だが、それを仕えてまもない主に見破られるようでは、まだまだじゃのう?」
「……あなたにわたくしの何がわかると言うのですか! こんなにも朝斗彦様をお慕いしてるというのに、結ばれることのない愛を望む私の気持ちを、アナタはわかるって言うんですか!」
日頃なら適当にあしらうような残無の煽りも、朝斗彦の程度の低い冗談すらも真に受けそうな程に神経を尖らせた今の日狭美には痛恨の一撃である。
残無様が来たからにはもう安心だ……と、呑気に考えてた野次馬達は日狭美のあげた金切り声に思わず耳を塞ぎ、パルスィは内心、(まぁ、たまにはそう文句の一つや二つも言いたくなる時、あるわよね……)と、謎に共感をしていた。
「まぁまぁ、そう気を荒立てるな。怒りは己にとって無益でしかないぞ?
さて、一つ問おう。もし儂が納得の行かぬことに対して泣いて喚き、関係の無い者を巻き込んで騒ぎを起こしたとしよう。お主、それを見たとしてどう思う?」
「…………気持ち悪いに決まってるでしょう!? 何が嫌で主のそんな姿見なきゃいけないんですか! 黄泉津大神様じゃあるまいし!
そういうのに振り回されるのが嫌だからここにきたんですよっ、わたくしたちは!!!」
ひっそりと流れ矢を喰らった黄泉津大神こと伊弉冉尊の事は脇に除けつつ、日狭美が半狂乱な様子でそう叫ぶと、残無はそれを聴いたあとにキッパリと言い放った。
「ならば、目の前の川の水面を覗いてみるがいい、今のお主はその端正な顔立ちが歪み、醜くなっておるのが自分でもわかるはずだ。
……日狭美よ。今の儂の例え、それをしてるのは他でもないお主じゃ。お主は黄泉醜女の別当、付き従う者がそんな腑抜けた様子の主人を見てどう思う? きっと先程のお主のような気持ちを抱くのではないか?」
「そ、そんなことは……」
「ない、とは言わせんぞ。
かつての主との間に何があったかについて、儂には分からんし別に興味も無い。だが、これだけは言えよう。一度裏切りし者は二度目もある。例え相手が血族であろうとも、な」
混沌の時代を生き抜き、やがて人の道を逸れて虚無へと至ったこの怪僧の言葉は、この場にいる三人の中で残無が一番の歳下であったにもかかわらず、ほかの二人にぐさりと突き刺さった。
日狭美は黄泉津大神の元から一族を率いて出奔してここ根の堅洲国へとやってきた為に心当たりがない訳ではなかったし、そしてパルスィもかつて、意中の相手にも裏切られたにも関わらずその相手を信じ待ち続けた結果、橋を渡りゆく夫婦達への嫉妬心から妖怪へと身を窶していたからである。
両手を地面に着き、流れる川を覗き込みながら、日狭美は涙を流す。それでも周りに悪い影響が起きないのは、隣に立つ残無が扱う法力で抑えられていたからだった。
なお、妖怪らしからぬ力を用いた残無に対してパルスィは驚きつつも、水面に映った別に普段と特段変わりない自らの顔をぼーっと眺めていた。
「……残無様! わたくし一体どうすれば良いのですか!? どうしたら朝斗彦様に解ってもらえるのでしょうか!?
日狭美はもう、どうしたら良いのか皆目見当もつきません!」
いちいち挙動が不審な日狭美が勢いよく振り返ってそう質問すると、残無は一言こういうのである。
葦原朝斗彦命の事はもう諦めるべきだ、と。
そんな非情な宣告に日狭美はわなわなと震え、冗談ですよね……? と聞き返すが、残無は何も返事を返さなかった。残無としても、現状仕事付き合いしかない相手が抱えるよくわからない私情を、ましてや本人でもない日狭美から聞かされるのはもうウンザリだったのだ。
「もう儂らがこの地へと来てからちょうど一つの年じゃぞ? その間、儂らは王が国許へと帰っていくのを何度目撃した?」
「……毎日です」
「そうだ。ならばなぜ王はこの地を領有するにもかかわらず、わざわざ国許へと帰る?」
「それは……地上に住まう奥方、御名方神奈刀比売命と過ごす為です」
「その通り。日狭美、あの方はな。本当に初めから奥方以外のおなごなど眼中にないのだよ」
……言われてみれば、確かにそうだ。
忘れやしない、かつて初めて出会った時の事を思い出しながら、日狭美は明後日の方向を眺める。
かつて、自らを突き動かす妄執を止めようと立ち上がったものは誰か。
言わずもがな、若き日の闘魂溢れる御名方神奈刀比売であり、それより十七の時代が巡り巡ったこの時においてもなお、朝斗彦との間に愛を育み続ける八坂神奈子である。
「……そうね。初めから、わたくしがあの女に勝てる要素なんて無かった……」
そう言い残すと、一粒の涙を膝に零したあとに日狭美は目元を拭いながらとぼとぼと何処かへと歩いていった。
「……日狭美さん、大丈夫なのかしら?」
「何とかなるじゃろうて。あれでも、百戦錬磨の妖怪じゃ、きっと立て直すはず」
「……そうかしら。ところでアナタ、失恋したことはある?」
「いいや、ない。生憎、儂はそういったモノとは無縁の人生を送っておるからな」
パルスィはその言葉に一抹の不安を覚えたものの、(……それは個人の問題なのだから、私がどうこういう事でもないわね)と、何も言わずに切り替えることにした。
「……しかし、あの日狭美に友が居るとは知らなんだ。お主、付き合いは長いのか?」
「……私、彼女と話したのは今日が初めてよ。アナタがくるまで私、彼女の名前すら知らなかったもの。多分、向こうも私の名前は知らないんじゃないかしら」
「…………なんじゃと!?」
……
「駄目だよ、朝斗彦さま! 今あなたがあの気配がする場所に行ったら絶対ロクなことにならないから!」
「お燐がそう言うってことは絶対そうだよ! そうだよね、こいし様!」
「アハハ! 分からないけどそうじゃない〜?」
「……ちょっと! なんで皆して僕を止めたがるのさ!
……さとりちゃん! 黙って見てないでこの子達何とかしてくれ!」
「……いや、今は行かない方が良いと思いますよ? 恐らく残無さんが何とかしてくれているはずでしょうし、何より貴方が行けば混乱の種にしかならないでしょうから」
「……むぅ、なら仕方ないか……。いやしかし、大丈夫かな……」
話の本筋には関わらないであろうけど、さりげなく歴史を動かした女。
地霊殿メンツの中で一番書きたかったパルスィさんを出せてワタクシ大満足です。