「主よ、今日は少し……歩くのが速すぎます」
私は小さな脚で必死に追いつきながら声をかける。
返事はない。私と同じくらいの角のある背中は、ただ前を向いて歩き続ける。
「そこ、苔が濡れてます。足を取られますよ」
「……あ、また戦うんですか。はあ……」
主は釘を抜き放つ。
次の瞬間、影のようなムシが飛びかかり、主の無言の刃に弾き飛ばされる。
私は慌てて身を低くして物陰に隠れた。
「お強いのはわかっていますけど……もう少し、危ないときは声をかけてくださいませんか?」
戦いはすぐに終わる。
異様な橙色の体液が石畳に染み込み、主はそれを振り払うこともせず歩き出す。
私の言葉は相変わらず届かない。
それでも、私は話し続ける。
黙っていると、ハロウネストの静けさが怖すぎるから。
菌糸の霧も、ひび割れた壁も、あまりに声を吸い込みすぎるから。
「……主よ、次に見えるのは交差路でしょうか? あそこに着いたら、少し休みませんか」
やっぱり返事はない。
だけど、不思議と私は安心する。
主は歩いている。私はついていける。
それだけで、この沈んだ王国における私の世界は保たれるのだ。
主との出会いは突然だった。
あの日、私は「王の道」の端で、ただ震えていた。
天井の裂け目から差し込む光は薄く、あたりは静まり返り、時折響くのは石壁を伝う水の音だけ。
そこに私は一匹きり。翅を裂かれ、戦う力もなく、崩れた王国の廃墟に取り残されていた。
影のように蠢くムシたちが近づいてきたとき、私は死んだと思った。
逃げる脚もなく、声をあげる気力すらなかった。
ただうずくまって、暗闇に呑まれるのを待つしかなかった。
――その瞬間。
小さな影が、私の前に立ちはだかった。
釘を剣のように携えた、その姿。
私と同じくらい小柄で、言葉ひとつ発さず、ただ黙々と影を斬り払っていく。
硬質な音が響き、次の瞬間には襲いかかってきた敵が地に伏していた。
私は信じられなかった。
私と同じくらいの体躯で、どうしてこんなにも強く在れるのか。
どうして、この暗闇の中を恐れもせずに進めるのか。
主は倒れ伏す私に手を差し伸べた。
けれどその手は、掴むことを求めてはいなかった。
ただ「立て」と促すように、静かに差し出されていた。
私は、その手を取った。
その瞬間から、私は決めたのだ。
この背中に従おうと。
――そして今も、私は主の後を追い続けている。
苔むした道も、崩れた石橋も、声なき住民の呻きも。
すべては主と共に歩むための景色となった。
「……主よ」
私は声をかける。
返事はない。
けれど、無言の背中が答えだとわかっている。
私の世界は、あの日差し出された小さな手から始まったのだから。