翅なき従者   作:ぐるぐるチャンポンスープ明太子サラダ

2 / 9
古井戸の交叉路

町は、静かだった。

崩れた屋根、風に軋む看板、灯りの落ちた家々。

人影といえば、井戸のそばに腰を下ろす老虫ひとりだけ。

 

「おや、旅の者か。残念ながらこの場所にはもう、わししか残っておらんよ。町はすっかり寂れてしまってな」

 

掠れた声が響く。

その語りは町の廃れた空気に溶け込み、まるで遺跡の壁から漏れる風音のように聞こえた。

主は立ち止まり、じっとその声を受けている。

 

私は思わず口を開いた。

 

「主よ……ここが、あの“ダートマウス”なのですね。けれど、まるで墓地のよう……」

 

老虫は私たちを一瞥したあと、井戸を指さした。

 

「ほかのムシたちはみんな消えてしまった。あの井戸の底へ、一匹、また一匹と降りていってな。

かつてそこには「ハロウネスト」というすばらしい王国があったのだ。富も、栄光も、悟りさえも……。おまえさんらも夢を求めて来たのだろう?」

 

私は息を呑んだ。

主の目的――「忘れられた交叉路」の奥、黒卵の神殿にあると聞いている。

けれどその果てに待つものを、この老虫は知らないのだろうか。

 

「夢なんて、本当は見ないほうが良いのかもしれん……」

 

老虫はそう言って視線を落とした。

その沈黙に呼応するように、町全体が軋む。

 

私は震える声で主に囁いた。

 

 

「……主よ、ここに立っていると、まるで私たちも色あせて消えてしまいそうです」

 

主は何も言わない。

ただ井戸の暗がりを覗き込み、そのまま身を放り出した。

私は慌てて追いかける。

 

残された老虫は、井戸の縁からこちらを見送っていた。

その姿は、もはや石像の一部のようにしか見えなかった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 

主は迷わず、井戸へ身を投じた。

 

 

私は慌ててその後を追う。短い脚で縁を越え、滑り落ちるように暗闇へ。

風が体を撫で、耳が詰まり、心臓がひどくうるさく鳴った。

 

やがて、暗闇の底で柔らかな土の感触を覚える。

主はすでに立ち上がり、釘を手に、無言で前を見据えていた。

 

そこが「忘れられた交叉路」――かつての王国の玄関口にあたる場所だった。

 

 

 石造りの回廊は広く、だが荒れ果てていた。

壁はひび割れ、苔が染み出し、どこからか冷たい滴が絶え間なく降り注いでいる。

 

かつてここを行き交ったであろう虫たちの姿はなく、残されているのはただ、瓦礫と崩れた標識だけ。

 

私は小声で主に話しかけた。

 

「……主よ、本当にここに“ハロウネスト”があったのでしょうか。あまりに荒れ果てていて、墓場と変わらない気がします」

もちろん返事はない。ただ背中が、歩けと告げている。

 

主が進むたび、私も小走りで後を追う。

 

 

暗闇の中を進むと、やがて遠くからかすかな呻き声が聞こえてきた。

 

 

私は息を呑む。

 

曲がり角の先にいたのは、一匹の虫だった。

かつては王国の住民だったのだろう。今は眼が虚ろに濁り、口から涎を垂らし、よろめきながら徘徊している。

その動きは生き物というより、壊れた人形に近かった。

 

「主よ……危険です」

声をかける間もなく、住民だったものは気づき、こちらに飛びかかってきた。

 

 

主の釘が閃く。

殻の硬質な音、夕焼けのように橙色の体液。

 

 

一瞬のうちに敵は斬り伏せられ、静寂が戻る。

 

 私は物陰にしがみつきながら、震える声で呟いた。

「……やはり噂は本当だったのですね。ここにいる虫たちは、みな正気を失っている」

 

主は返事をしない。釘を収めることもなく、再び歩みを進める。

私は慌てて後を追った。

 

交叉路は迷路のように入り組んでいた。

天井は高く、石のアーチが連なり、かつては壮麗だったろうと思わせる造りだ。

だが今は、苔と胞子に覆われ、壁にはひび割れ、あちこちに崩れた瓦礫が積もっている。

 

進むたび、正気を失った虫たちが現れる。

主はそのたびに釘を振るい、淡々と斬り倒していく。

私には何もできない。ただ物陰に隠れ、終わるのを待つしかない。

 

「……主よ、あなたは怖くないのですか? かつての同胞をこうして斬ることを…」

 

当然、返事はない。

けれど、釘を構え直すその小さな背中は、何も迷ってはいなかった。

 

やがて、広い広間に出た。

壁には崩れかけの看板が掛かっている。文字は掠れて読めないが、かつてここが道の分岐であったのだろう。

私はふと、頭上に開いた天井の裂け目から光が差し込んでいるのに気づいた。

 

「……まだ、地上と繋がっているのですね」

光は弱々しいが、それだけで心が少しだけ安らぐ。

だが主は立ち止まらない。闇の奥へと、さらに歩を進めていく。

 

 

 

私は胸に手を当て、声を絞り出す。

 

「主よ、お願いです。あまり奥へは行かないでください。私は翅を持たないので、戻る道を見失ってしまいそうで……」

 

だが背中は答えない。

ただ、釘の先を闇に向け、歩みを速めていく。

 

さらに進むと、不意に広間に甲高い笑い声が響いた。

私は身をすくませたが、主は立ち止まりもしない。

そこにいたのは、地図を広げた一匹の虫――コーニファーであった。

 

彼は鼻歌を歌いながら紙を広げ、にこやかに我らへ声をかけてきた。

 

 

「おお!旅の者ですな? このあたりの地図がご所望かな?」

 

私は思わず主の影に隠れる。

この静寂の中で、あまりに軽やかで、人懐っこい声だったからだ。

だが主は躊躇なく近づき、地図を受け取った。

 

「……地図、ですって。なるほど、これがなければ迷う一方ですね」

 

 

私は紙を覗き込みながら呟いた。

だが線はまだ未完成で、白い余白ばかりが広がっている。

 

「……不親切な地図ですね」

 

コーニファーは笑った。

「はっはっは、旅は自分で線を引いていくものですよ!」

 

私は言葉を失う。

けれど主は何も言わず、ただ地図をしまった。

その姿は――“道を描く者”にふさわしいと、なぜか思えた。

 

再び暗い通路を進む。

敵が現れれば斬り伏せ、罠があれば避け、迷路のような道を進む。

やがて私の脚は重くなり、息は荒く、視界が霞む。

 

「主よ……もう少し、休ませてください……」

私は壁に手をつき、震える声で訴える。

主は振り返らない。だが数歩先で立ち止まり、こちらを見つめていた。

 

沈黙。

それが、彼なりの「待っている」の合図なのだと、私は気づく。

 

私は深く息を吸い、再び歩き出す。

小さな脚でも、主の背中を追うことはできる。

それが、私の存在理由なのだから。

 

暗闇の奥で、何かが蠢いている気配がした。

石壁の隙間から、囁きのような風が流れてくる。

 

 

私は胸を抱き、震える声で呟いた。

 

「……主よ。あなたが向かうのは、黒卵の神殿なのでしょう? そこには、何が眠っているのですか」

 

答えはない。

ただ沈黙が、闇を満たす。

 

だが私は信じていた。

あの日、差し伸べられた小さな手の温もりを。

だから私は、何も知らぬままでもいい。

 

この背中を追い続ける。

滅びの王国の深みに至る、その時まで。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。