町は、静かだった。
崩れた屋根、風に軋む看板、灯りの落ちた家々。
人影といえば、井戸のそばに腰を下ろす老虫ひとりだけ。
「おや、旅の者か。残念ながらこの場所にはもう、わししか残っておらんよ。町はすっかり寂れてしまってな」
掠れた声が響く。
その語りは町の廃れた空気に溶け込み、まるで遺跡の壁から漏れる風音のように聞こえた。
主は立ち止まり、じっとその声を受けている。
私は思わず口を開いた。
「主よ……ここが、あの“ダートマウス”なのですね。けれど、まるで墓地のよう……」
老虫は私たちを一瞥したあと、井戸を指さした。
「ほかのムシたちはみんな消えてしまった。あの井戸の底へ、一匹、また一匹と降りていってな。
かつてそこには「ハロウネスト」というすばらしい王国があったのだ。富も、栄光も、悟りさえも……。おまえさんらも夢を求めて来たのだろう?」
私は息を呑んだ。
主の目的――「忘れられた交叉路」の奥、黒卵の神殿にあると聞いている。
けれどその果てに待つものを、この老虫は知らないのだろうか。
「夢なんて、本当は見ないほうが良いのかもしれん……」
老虫はそう言って視線を落とした。
その沈黙に呼応するように、町全体が軋む。
私は震える声で主に囁いた。
「……主よ、ここに立っていると、まるで私たちも色あせて消えてしまいそうです」
主は何も言わない。
ただ井戸の暗がりを覗き込み、そのまま身を放り出した。
私は慌てて追いかける。
残された老虫は、井戸の縁からこちらを見送っていた。
その姿は、もはや石像の一部のようにしか見えなかった。
ーーー
主は迷わず、井戸へ身を投じた。
私は慌ててその後を追う。短い脚で縁を越え、滑り落ちるように暗闇へ。
風が体を撫で、耳が詰まり、心臓がひどくうるさく鳴った。
やがて、暗闇の底で柔らかな土の感触を覚える。
主はすでに立ち上がり、釘を手に、無言で前を見据えていた。
そこが「忘れられた交叉路」――かつての王国の玄関口にあたる場所だった。
石造りの回廊は広く、だが荒れ果てていた。
壁はひび割れ、苔が染み出し、どこからか冷たい滴が絶え間なく降り注いでいる。
かつてここを行き交ったであろう虫たちの姿はなく、残されているのはただ、瓦礫と崩れた標識だけ。
私は小声で主に話しかけた。
「……主よ、本当にここに“ハロウネスト”があったのでしょうか。あまりに荒れ果てていて、墓場と変わらない気がします」
もちろん返事はない。ただ背中が、歩けと告げている。
主が進むたび、私も小走りで後を追う。
暗闇の中を進むと、やがて遠くからかすかな呻き声が聞こえてきた。
私は息を呑む。
曲がり角の先にいたのは、一匹の虫だった。
かつては王国の住民だったのだろう。今は眼が虚ろに濁り、口から涎を垂らし、よろめきながら徘徊している。
その動きは生き物というより、壊れた人形に近かった。
「主よ……危険です」
声をかける間もなく、住民だったものは気づき、こちらに飛びかかってきた。
主の釘が閃く。
殻の硬質な音、夕焼けのように橙色の体液。
一瞬のうちに敵は斬り伏せられ、静寂が戻る。
私は物陰にしがみつきながら、震える声で呟いた。
「……やはり噂は本当だったのですね。ここにいる虫たちは、みな正気を失っている」
主は返事をしない。釘を収めることもなく、再び歩みを進める。
私は慌てて後を追った。
交叉路は迷路のように入り組んでいた。
天井は高く、石のアーチが連なり、かつては壮麗だったろうと思わせる造りだ。
だが今は、苔と胞子に覆われ、壁にはひび割れ、あちこちに崩れた瓦礫が積もっている。
進むたび、正気を失った虫たちが現れる。
主はそのたびに釘を振るい、淡々と斬り倒していく。
私には何もできない。ただ物陰に隠れ、終わるのを待つしかない。
「……主よ、あなたは怖くないのですか? かつての同胞をこうして斬ることを…」
当然、返事はない。
けれど、釘を構え直すその小さな背中は、何も迷ってはいなかった。
やがて、広い広間に出た。
壁には崩れかけの看板が掛かっている。文字は掠れて読めないが、かつてここが道の分岐であったのだろう。
私はふと、頭上に開いた天井の裂け目から光が差し込んでいるのに気づいた。
「……まだ、地上と繋がっているのですね」
光は弱々しいが、それだけで心が少しだけ安らぐ。
だが主は立ち止まらない。闇の奥へと、さらに歩を進めていく。
私は胸に手を当て、声を絞り出す。
「主よ、お願いです。あまり奥へは行かないでください。私は翅を持たないので、戻る道を見失ってしまいそうで……」
だが背中は答えない。
ただ、釘の先を闇に向け、歩みを速めていく。
さらに進むと、不意に広間に甲高い笑い声が響いた。
私は身をすくませたが、主は立ち止まりもしない。
そこにいたのは、地図を広げた一匹の虫――コーニファーであった。
彼は鼻歌を歌いながら紙を広げ、にこやかに我らへ声をかけてきた。
「おお!旅の者ですな? このあたりの地図がご所望かな?」
私は思わず主の影に隠れる。
この静寂の中で、あまりに軽やかで、人懐っこい声だったからだ。
だが主は躊躇なく近づき、地図を受け取った。
「……地図、ですって。なるほど、これがなければ迷う一方ですね」
私は紙を覗き込みながら呟いた。
だが線はまだ未完成で、白い余白ばかりが広がっている。
「……不親切な地図ですね」
コーニファーは笑った。
「はっはっは、旅は自分で線を引いていくものですよ!」
私は言葉を失う。
けれど主は何も言わず、ただ地図をしまった。
その姿は――“道を描く者”にふさわしいと、なぜか思えた。
再び暗い通路を進む。
敵が現れれば斬り伏せ、罠があれば避け、迷路のような道を進む。
やがて私の脚は重くなり、息は荒く、視界が霞む。
「主よ……もう少し、休ませてください……」
私は壁に手をつき、震える声で訴える。
主は振り返らない。だが数歩先で立ち止まり、こちらを見つめていた。
沈黙。
それが、彼なりの「待っている」の合図なのだと、私は気づく。
私は深く息を吸い、再び歩き出す。
小さな脚でも、主の背中を追うことはできる。
それが、私の存在理由なのだから。
暗闇の奥で、何かが蠢いている気配がした。
石壁の隙間から、囁きのような風が流れてくる。
私は胸を抱き、震える声で呟いた。
「……主よ。あなたが向かうのは、黒卵の神殿なのでしょう? そこには、何が眠っているのですか」
答えはない。
ただ沈黙が、闇を満たす。
だが私は信じていた。
あの日、差し伸べられた小さな手の温もりを。
だから私は、何も知らぬままでもいい。
この背中を追い続ける。
滅びの王国の深みに至る、その時まで。