偽りの騎士を討ち果たした後、主と私は瓦礫の広間を後にした。
足音を響かせながら進んだ先には、見覚えのある鉄製のベンチが置かれていた。
朽ち果てた遺跡の中で、それだけが場違いなほど整然としている。
「……ああ、やっと……休めますね」
私はふらつく足取りでベンチに腰を下ろす。冷たい鉄が背中に心地よく、張り詰めていた身体から一気に力が抜けた。
主も静かに腰を下ろし、黙したまま休息に入る。
この虫は、疲れを見せることも声を漏らすこともない。
けれど、こうして一緒にベンチに座っていると、不思議と心が落ち着くのだった。
「主よ……本当に、無事で良かった……。あんな巨大な敵に挑むなんて、普通のムシなら一瞬で潰されていたでしょうに」
返事はない。
いつものことだ。
けれど、沈黙すらこの場では安らぎに変わる。
しばらく耳を澄ませると、風が抜けるような微かな音が聞こえる。
忘れられた交叉路は死の静寂に満ちているが、このベンチの周囲だけはまるで別界のように穏やかだった。
私は思わず微笑む。
「こういう時間が……続けばいいのですがね」
主はただ前を見つめていた。
その小さな背中に寄り添いながら、私は目を閉じた。
休息の後、私たちは再び交叉路を進む。
石畳の隙間から菌糸が伸び、壁にはひび割れが広がっている。
空気は湿り、甘い腐敗の匂いが鼻を刺した。
やがて、南東の広間に辿り着いた。
そこには巨大な虫が、床の上で丸まるように眠っていた。
「……あれは……?」
私は主の後ろから覗き込む。
丸太のような体、膨れた腹。鈍い呼吸のたびに床が震えていた。
あまりの大きさに、私は声を潜める。
「寝ていますね……。このまま、静かに通り抜けられれば……」
だが主は、歩みを止めなかった。
小さな釘を構え、眠る巨体の間近まで進む。
「し、主よ!? わざわざ近づく必要など――」
釘が振り下ろされる。
――ガッ。
鋭い音が響き、巨虫の体が震えた。
次の瞬間、耳をつんざくような雄叫び。
眠っていた怪物が目を覚ました。
「ひぃっ……!」
私は思わず身を縮める。
それは、グラザーママと呼ばれる存在だった。
丸々と肥えた身体を揺らし、目を血走らせてこちらを睨む。
次の瞬間――突進。
巨体が床を震わせ、一直線に主へ迫る。
主は跳び退き、間一髪でかわす。
壁に激突した衝撃で石片が飛び散り、私は悲鳴を飲み込んだ。
「た、体当たりですか!? あの大きさで……!」
グラザーママは唸り声を上げながら再び溜めを作り、別の方向へ突進する。
その動きは鈍重だが、広い体が通路を塞ぐため避けるのは容易ではなかった。
主は最小限の動きで攻撃をかわし、反撃を加える。
釘が腹を掠め、体液が飛ぶ。
だがグラザーママは怯むことなく、次の動きを見せた。
――バウンド。
巨体がぶるぶると震え、次の瞬間、大きく跳ねた。
壁から壁へ、弾むようにジグザグに跳び回る。
床が割れ、天井から砂が降り注ぐ。
私は転げながら逃げ惑った。
「ひぃぃ……来ないで……!」
主は跳ねる動きに合わせて歩幅を調整し、難なくかわしていく。
そして一瞬の隙を狙い、釘を突き立てる。
戦いは苛烈だったが、やがてグラザーママは苦悶の声を上げ、倒れ込んだ。
巨体が床に沈む。
私は安堵の息を漏らした。
「……よ、よかった……」
しかし。
その腹部が、不気味に膨れ上がった。
――破裂。
「なっ……!?」
中から七匹の小さなグラザーが飛び出した。
ギチギチと甲高い声をあげ、いっせいにこちらへ向かってくる。
「ひぃっ! こ、子供を……!」
私は慌てて壁際へ逃げる。
主は怯むことなく釘を振るい、次々と小グラザーを斬り捨てた。
小さな体躯と俊敏な動きは、むしろこの相手にこそ相性が良いのかもしれない。
血と体液が飛び散り、やがてすべての小グラザーが沈黙した。
広間に再び、静けさが訪れる。
私はその場にへたり込み、震える声で言った。
「……あ、危なかった……。次からは、眠っている敵をわざわざ起こすのは……やめにしませんか……」
もちろん返事はない。
主はただ釘を拭い、奥の通路へと歩き出す。
その先には、一匹の小さなムシが倒れていた。
小柄で、体を震わせながら地面にうずくまっている。片手には釘を握っているが、正気を失っているのか虚ろな目をして、呻き声をあげていた。
「う、ううう……おいオロ……こん棒のように釘を振り回すんじゃねえ……」
掠れた声が漏れる。
私は駆け寄り、主の代わりに問いかける。
「あなたは……大丈夫ですか?」
主がすっと前に出て、釘を持ち直した。
「ま、待ってください! 殺す必要なんてありません! まだ生きて……」
けれど主が手にしたのは、いつもの釘ではなかった。
それは細長く、先端に微かな光を帯びた刃――「夢見の釘」。
私は目を見開いた。
「……それは……夢を断ち切る刃……?」
夢見の釘――伝承でしか知らなかった。
かつて王国の奥深くで作られた秘具。眠りと記憶、そして心の残滓を斬り、形なきものへ干渉する力を持つという。死者の囁きを聴き、汚染に囚われた魂を解き放つ、特別な刃。
だが、実物を見るのは初めてだった。
主は迷いなくその釘をかざし、震える蠅の額に軽く触れさせた。
淡い光が走り、呻いていた虫の体から黒い霧が立ちのぼる。それはやがて弾けるように散り、残された虫はぐったりと地に伏した。
次の瞬間、彼の目がかすかに瞬き、正気の色を取り戻す。
「ん……なんだ!? あんたらは誰だ?」
驚いたことに、その虫ははっきりとした言葉を口にした。さっきまで汚染に囚われ、狂気に沈んでいたのに。
私は呆然と主を見上げた。
「し、主よ……まさか……あの釘で、汚染を……?」
だが主は相変わらず無言で、ただ釘を収めた。
「……そうか、助けてくれたのか。
オレの名前はスライ。本当はダートマウスで暮らしてたんだ。
でも、この遺跡に迷い込んで……ずっと眠ってたらしい」
私は小さく頷く。
「ダートマウスに……戻るのですね」
「そうだな。この空気はどうも好かない。町に戻ることにするよ。
もしまた地上に出たら、オレの店を訪ねてくれ。助けてもらった礼をしたい」
そう言うとスライは立ち上がり、よろよろと歩き出した。
そして、主の持つ釘に目をとめると、感慨深げに呟いた。
「その釘……ずいぶん古いな。わかるぜ、釘が喜んでやがる。だけど、それじゃちと、可愛そうだ。もしもっと深く潜るつもりなら、『涙の都』にいる釘鍛冶師を訪ねるといい。……あんたなら、その価値がある」
そう言い残し、スライは地上へ戻っていった。
私は主の方を振り返る。
主は無言でそれを見送っていた。
私はまだ震える心臓を押さえながら、主を見た。夢見の釘――あれはただの武器ではない。魂そのものに触れ、救いと終わりを与える刃。
主はどうして、それを持っているのか。なぜ迷いなく使いこなせるのか。
問いかけても、答えはない。
けれど私は確信した。主はただの旅人ではない。この沈んだ王国の深淵へ導かれる、何か特別な存在なのだと。
「……まだ、この遺跡に生き残りがいたのですね。
主よ……私たちの旅は、まだ始まったばかりのようです」
そう呟き、私はその小さな背中に再び付き従った。