交叉路を抜けた途端、空が不意に広がった。
そこには、懐かしい光景があった。都の上空に、ひとつの湖が浮かんでいたのだ。澄みきった青が大地を映すようにたゆたい、時折きらめく光が雨粒となって下界へ落ちていく。その雫はやがて「涙の都」の瓦礫や塔を濡らし、灰色の石畳を暗く染めていく。
――その湖を抜けねば、黒卵の神殿へは至れない。
私は足を止めた。長い沈黙の後、低くつぶやく。
「……『安息の地』へ、寄らせてもらえませんか」
問いかける声には、どこか震えがあった。私は視線を湖の方へ向けたまま語り出す。
かつて湖の近くに、小さな名もなき村があったこと。私自身、そこに生まれ、祖父に育てられたこと。祖父は王国の全盛を知る世代で、歴史を語っては物づくりを教えてくれたこと。だが、獣の襲来ですべてが壊され、祖父もまた殺されたこと。
「……せめて、墓だけでも作りたいんです」
その言葉に、主はただ無言で頷いた。
かつての村は跡形もなかった。家々は潰れ、壁は食い破られ、土台すら崩れて草に覆われている。私は倒れた梁や瓦礫をどけながら、必死に探した。だが、遺体は見つからない。
「わかってましたよ……もう、食われているって。意味なんてないんだって……」
私は膝をついた。そのとき、主は奥の瓦礫から小さな光を拾い上げた。泥に汚れながらも形を保った、銀のペンダントだった。
「……!」
私は震える手でそれを受け取った。懐かしい模様が刻まれている。祖父が、よく削って見せてくれた工芸の意匠だった。
「ありがとう……主……」
嗚咽に混じる言葉は途切れ途切れだった。主は慰めの言葉をかけることなく、ただその肩に静かに手を置いた。
私は涙を拭い、顔を上げた。
「……船を作りましょう。あの湖を渡るために」
そう決意を口にする声には、かすかに力が戻っていた。
二人は村の残骸から木材や鉄片を集め始めた。だが水辺に近づいたとき、不意に気配を感じ取る。
視線を向けると、湖のほとりで水浴びをする影――。
それは武具を纏わぬ、素肌のままのホーネットであった。滴る髪を払うその姿に、私は思わず息を呑み、主は静かに立ち尽くした。
湖畔へ向かう途中、私たちは船の材料を探していた。古い村の残骸から持ち出した木材、鉄の釘、折れた梁……それらを抱え、水音のする方角へ足を運ぶ。
やがて視界が開け、空に浮かぶ巨大な湖の一角が、地表に影を落としているのが見えた。
上から落ちる雫は透明な糸のように幾筋も垂れ下がり、地面を濡らして小さな池を作っていた。湖の匂いは甘く、湿った空気はどこか懐かしい。私は胸を押さえ、深く息を吸い込んだ。――祖父と共に過ごした村の空気を思い出す。
そのときだった。
「……主、止まって!」
木材を抱えたまま、反射的に声を上げた。
水面がきらりと光り、そこに影が揺らいでいる。ムシの影だ。細くしなやかな脚、長い爪を持つ腕。だが甲冑は身に着けず、白銀の糸のような髪が濡れて背に張り付き、滴が背中を伝って落ちている。
「……っ」
私は思わず顔を赤らめ、木材を取り落としそうになった。
その影は、水浴びをしているホーネットだった。戦場では針を振るい、誰も寄せつけぬ鋭さを持つ彼女が、今は無防備に湖水に身を委ねている。細身の体が露わになり、柔らかい光に濡れていた。
主は動かなかった。驚きもせず、ただじっとその姿を見据えている。無言の瞳には、戦士としての冷静さがあった。
しかし私の心臓は跳ね上がり、息が乱れる。
「い、いけません! 見ちゃ……」
焦って主の腕を引こうとしたが、そのとき、湖畔の影がこちらを振り返った。
ホーネットの瞳が鋭く光る。
「……誰だ」
低く、張り詰めた声が湖に響いた。先ほどまでの静けさが、一瞬で緊迫に変わる。彼女は水から上がり、濡れた髪を振り払うと、地に伏せていた針を素早く拾い上げる。
その動きは流れるようで、美しくも恐ろしい。
私は慌てて前に出た。
「ち、違います! 戦うつもりじゃなくて……!」
だがホーネットは一歩も引かない。裸身をさらした羞恥よりも、戦士としての警戒が勝っていた。
主は一歩前へ進む。無言のまま。
それが返答のように見え、ホーネットの爪が針の柄を強く握る音がした。
「……またお前たちか。ハロウネストを彷徨う旅人。何を求めてここに来た」
その問いかけは鋭い刃のようで、私は息を呑む。
「ぼ、僕らは……『涙の都』を目指しているんです。黒卵の神殿へ……」
震える声で答えると、ホーネットの表情がわずかに動いた。だがすぐに冷たく戻り、視線が主へと移る。
「……」
主は相変わらず何も言わなかった。ただ、その小さな身体が揺るぎなく立っているだけで、答えの代わりになっていた。
しばらくの沈黙。
ホーネットは針を下ろし、ふっと鼻で笑った。
「……無言のままか。相変わらずだな」
私は目を丸くした。まるで以前から主のことを知っているかのような口ぶりだ。問い返そうとしたが、ホーネットは振り返り、湖に視線を投げた。
「この湖を渡るか。ならば……覚悟しておけ。お前たちが歩もうとしている道は、王国の残滓と絶望ばかりだ。帰る場所を持たぬ者にしか、最後まで進めはしない」
その声には、冷ややかな警告と、かすかな哀しみが混じっていた。
私は拳を握りしめた。――帰る場所。祖父の墓を作ろうとして、遺体すら見つからなかった私。確かに、もう戻る場所はなかった。だからこそ主と共に歩んでいる。
「……それでも進みます」
静かに告げると、ホーネットはじっと私を見つめた。やがて目を細め、わずかに頷いた。
「……ならばよい。だが、気を抜くな。王国の涙は甘くない」
彼女は針を背に掛け、再び湖を渡る道へと消えていった。濡れた足跡だけが、地面に残されている。
私はしばらくその背中を見送った後、主を振り返った。
「……知り合い、なんですか?」
主はやはり答えず、ただ湖を見上げていた。
私は胸元のペンダントを握りしめ、深く息を吸った。
――どれほど警告されても、引き返す気はない。祖父の想いと、主と歩む道を守るために。