翅なき従者   作:ぐるぐるチャンポンスープ明太子サラダ

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愚者たちの楽園

目を開けた瞬間、全身を締めつける痛みに息が詰まった。

 

 両手首は荒縄で縛られ、背後の鉄杭に繋がれている。かすかに湿った石壁が背を冷やし、闇の中からは観客のざわめきとも呻き声ともつかない低い唸りが響いていた。

 

 ここは――どこだ?

 

 朦朧とした意識を振り払い、私は首を上げた。

 

 目に飛び込んできたのは、異様な光景だった。

 

 天井から何十本もの鎖が垂れ下がり、その先には無数のムシの死体が吊られている。空洞の眼窩は、まるでまだ生きているかのようにこちらを睨み、風もないのに軋むたびに口が笑ったように歪んだ。

 

「っ……!」

 

 思わず息を呑む。足元には、戦いを待つ者たちが武装を整えていた。釘を研ぐ音、鎧の軋み、低い唸り声。それらが一つの濁流となり、薄暗い空間を満たしている。

 

 王国の果て――《愚者の闘技場》。

 祖父から昔聞いた名が、自然と頭に浮かんだ。戦士の終着地、命を賭ける者しか入れぬ地獄。

 

 主は……?

 必死に辺りを見渡すが、どこにもその姿はない。胸が凍りついた。

 

 そのとき。

 

「――おい。こっちだ」

 

 低い声に導かれ、顔を上げる。

 入口の天井近くに、小柄なムシが鎖で吊られていた。半ば朽ちかけた体、だがその眼は妙に生気を帯び、私を射抜いてくる。

 

「新人か? ふふ、われわれの闘技場にまたしても戦士がやって来たか」

 

 彼は愉快そうに笑った。

 

「わたしは《小さき愚者》と呼ばれている。戦いには敗れたが、こうして案内の役を任じられている。……まあ、敗北者の見せしめとでも言うべきか」

 

 鎖にぶら下がったまま、彼は声を張った。

 

「ここは厳しい試練と容赦なき戦いを求める者が、最後に行きつく場所。自らの印を《試練の板》に刻め。さすれば門は開かれよう。それぞれの試練にはジオが必要だが……おぬしのような戦士なら、困ってはおるまい?」

 

 ――ジオ?

 懐を探る。

 

まともな金など持っているはずがない。

 

「さて、その釘を抜き戦場に躍り出る前に、助言してやろう」

 

 小さき愚者は身を揺らし、語り続ける。

 

「この下には試練を待つ戦士たちが休む場所がある。戦いの前に準備を整えるがよい。……ちなみに、わたし自身も恐るべき戦士だったのだぞ? この身体の大きさと現在の境遇を見て誤解するな。闘技場はわれらを呼んでいる! わたしもいずれ再び、戦場に返り咲くのだ!」

 

 虚勢なのか、本気なのか、判断がつかなかった。だが彼の目は、どこか狂気じみて光っていた。

 

「さあ、ジオを捧げるがいい。さすれば試練への道は開かれよう」

 

 私は縛られた手を必死に動かし、衣の中を探る。

 そのとき、指先に硬い感触が触れた。

 

「……これ、は……」

 

 取り出したのは、あの卵だった。

 ジジから受け取った、鼻を突く悪臭を放つ卵。しまった。捨てる場所に困っていたら、持ったままだった。

 

 小さき愚者の目がぎらりと光る。

 

「ほう……! それは……なんと芳しき腐臭! うむ、わたしの大好物よ!」

 

 縄越しに卵を差し出すと、彼はむしゃぶりつくように食べ始めた。殻ごと砕き、どろりとした中身を啜る。

 

「ふ、ふふ……! この味、このにおい、この腐敗! たまらぬ……! よかろう、おぬしの支払いはこれで充分だ!」

 

 彼は満足げに舌なめずりをすると、声を張り上げた。

 

「門は開かれよう! さあ、戦士よ、愚者の闘技場へ足を踏み入れるがいい!」

 

 私の足元の鎖が、がしゃりと音を立てて外れる。

 背筋を冷たいものが這い上がった。

 

 ――主はどこにいる?

 主になにかあれば、私は・・私は・・

 

私は、拳を握りしめた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 

 「……ここは……?」

 

 鎖を解かれたあと、私は案内人の小さき愚者に導かれて、闘技場の下層へと足を運んでいた。石壁に囲まれた控室は、湿った土と汗の匂いに満ちている。

 そこでは、すでに何人もの戦士たちが己の武器を磨き、次なる戦いを待ち構えていた。

 

 目を引いたのは、殻に重い盾を背負った大柄なムシ。

 

「……この闘技場で栄光を手にすれば、わたしの名は永遠に語られるのだ」

 呟くその姿は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。

 

 また、羽根を持つ細身の愚者が天井近くを舞いながら、誇らしげに叫ぶ。

 

「空を制するのは我らのような者だけだ! 勝者となれば、王の記録に名を刻むのだ!」

 

 私は言葉を失った。彼らは皆、まるでこの戦場の栄光に取り憑かれたかのように見える。

 

 廊下を進むと、ひときわ妙な存在が視界に入った。

 

粗末な木片を削り、釘の形に仕立てた「おもちゃの武器」を握りしめた小さなムシが、壁際に座っていた。

 

 「んん? なんの用だ?」

 彼は私を見上げ、声を荒げた。

 

「貴様もまた、吾輩を笑いに来たのか? 愚か者め! 吾輩はわざとここに囚われたのだ。そのことが分からぬか!」

 

 木の釘を掲げ、胸を張る。

 

「吾輩は“強靭なる”ゾート! この“断命の釘”が抜かれれば、貴様の笑みは恐怖にひきつるであろう!」

 

 私は返す言葉を失い、苦笑するしかなかった。

 

 ゾートは鼻を鳴らして言った。

 

「吾輩にかまうな、この低俗なムシケラめ! 偉大なる戦いに備え、吾輩は休まねばならぬ。……闘技場で吾輩と顔を合わせぬことを祈るのだな!」

 

 私は呆れと不安を覚えつつも、通り過ぎようとした――そのとき。

 

 「……そこのおまえ」

 

 低く鋭い声が背後からかかった。振り返ると、鎧に身を包み、大盾を抱えた堂々たる戦士が立っていた。

 

 「おまえはここで休んでいるがいい」

 戦士は堂々とした口ぶりで続ける。

 

「これまで本当の意味でおれの相手となった者は、数えるほどしかいない。この闘技場が、おれの求める激しい戦いを提供してくれることを願おう」

 

 その姿は、ゾートのように滑稽ではなかった。傲慢だが、背に宿す実力は本物らしく、自然と空気を圧する。

 

 彼は盾を軽く叩き、笑みを浮かべた。

 

「この殻の盾は防御のためだと思っているか? なら警告しておいてやる。この中には強力な秘密兵器が隠されている。……そいつを見る機会が訪れないことを祈るのだな」

 

 彼は力強く言い放った。

 

「おれは全員を粉砕する。そしてゾートとやらもまた、おれの真の力を目の当たりにすることとなるだろう」

 

 ……ティソ。

 その名が周囲の戦士たちの口から囁かれていた。

 

 私は控室の隅に身を置き、二人の戦士を視線で追っていた。

 

 ティソは盾を背負い、悠然と立つ。

 一方、ゾートは床に腰を下ろし、木片の「断命の釘」を誇らしげに掲げていた。

 

 「……ふん、くだらぬ。偉そうに並べ立ておって。吾輩から見れば、ただの盾にすぎぬわ!」

 

ゾートが鼻で笑った。

 

「なんだと?」

 ティソが振り返り、冷ややかに言う。

 

 

「この闘技場は真の戦士を選び取る場だ。おまえのような木屑を振り回す道化が立ち入る場所ではない」

 

 ゾートは目を剥き、立ち上がった。

 

「な、なんだと! 愚か者め! 吾輩は“強靭なるゾート”ぞ! この“断命の釘”が抜かれれば――」

 

 「抜かれればどうなる?」

 

ティソは冷笑を浮かべ、一歩踏み出す。

 

「敵は笑い死にするのか? それとも木屑まみれで逃げ出すのか?」

 

 「ぐぬぬぬ……!」

 ゾートは顔を赤くし、足を踏み鳴らした。

 

「貴様のような無礼者に、吾輩の真の力を見せてやりたいところだが……! 今ここで暴れるのは、控室の規律に反する!」

 

 「規律だと?」

 ティソは肩をすくめ、盾を軽く叩いた。

 

「臆病風をそう呼び変えているだけだろう。……せいぜい舞台に上がってから、観客に笑いを提供するがいい」

 

 「な、なにぃっ!? 吾輩は決して笑いものではない! 真の戦士にして、英雄、賢者、王の寵愛を受けし存在――」

 

 「違う、おまえはただの負け犬だ」

 ティソは冷たく言い捨てた。

 

 その瞬間、ゾートは大げさに胸を張り、拳を震わせた。

 

「見ておれ! 愚かなるティソよ! 闘技場で相まみえたとき、貴様は必ず後悔するのだ! 吾輩の名を知ることになるだろう! “強靭なるゾート”、その恐怖に!」

 

 「はっ……」

 ティソは鼻で笑い、背を向けた。

 

「その時が来るのを楽しみにしているぞ、木片の英雄殿」

 

 張り詰めた空気を横目に、私は息をひそめた。

 

――主は、この闘技場のどこにいるのだろうか。

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