それはかのエデン条約事件から一月ほど経った、夏も終わりを迎えようとしている時の話です。
キヴォトス中を駆け巡った「エデン条約調印式で大規模テロ」「ゲヘナ飛行船墜落」のニュースはすでに影が薄くなり、トリニティの一部を騒がせた「聖園ミカ脱獄」「アリウス自治区制圧」の噂もそろそろ真新しさを失っていました。
喉元過ぎればなんとやらで、一時は夜中まで灯が付いていたトリニティ総合学園第3校舎ティーパーティー簡易事務室も、以前の気の抜けた雰囲気を取り戻していました。
「そういえばアトリさん、聞きましたか? 最近住宅街にアリウスの残党が出没しているとか」
「はぁ、アリウスの残党ですか」
「ええ、気をつけなければなりませんよ。わざわざトリニティ自治区へ現れるんですもの、トリニティの生徒に復讐を企てているなんてこともありえますわ」
まだ日焼けできる程度には日差しが強い残暑の中、エアコンの効いた事務室で書類を睨みながら話している2人はティーパーティの役員たちです。
他に見ている人もいないからと制服を着崩し、手よりも口をよく動かしているあたり、それほど情熱を持ってこの仕事に取り組んでいる訳でもないのでしょう。
少し前まで口に出すのは憚られる話題となっていたアリウスがどうのこうの、なんて話が口から滑り出してしまうのも、甘いお菓子と同じくらい新鮮なゴシップを好む女子高生ならば然もありなんです。
「トリニティの生徒に復讐って……アリウス分校なんてものがある事、私あのとき初めて知りましたよ。それで復讐だなんだって、迷惑な話です」
アトリと呼ばれた生徒はエデン条約の時の目が回るような忙しさを思い出して渋い顔です。
下っ端の私には大した仕事も振られないでしょうと舐めていたら、1年生の時とは比べものにならない圧倒的な仕事量。ついでに各派閥の摩擦を押さえ込むために躍起になった上層部があれこれと指示を飛ばしてくるせいでトリニティ中を走り回らされる。
そこまでして
そうやってとても口には出せない無責任なことを考えながら一日働き、最後には事務室に泊まり込みの夏休み返上覚悟で仕事を終わらせたのです。
ところが調印式が無事に始まったから私の仕事も一区切り、休暇を取ってビーチにでも行こうかな、なんて妄想はミサイルの飛来でパアになり、混乱する指揮系統の下で右往左往。
やれ内紛だ転覆だ、ゲヘナがアリウスがシスターフッドがどうのこうのと情報が錯綜し、結局事件の全貌を知ったのは一区切りついたあとの報道番組でした。
彼女だってアリウスが行動を起こした理由、トリニティの暗い過去について噂を通じてなんとなく知っていますから、大声でアリウスを非難したりすればどんな目で見られるかは分かっています。
ですから、こうしてぼやくのは気心の知れた同僚の前に留めていました。
「そういえばアリウス分校って結局どうなったんでしたっけ?」
「さぁ? そういえば最近はニュースでも取り上げられませんね。あれこれと詮索されて余計なことが転がり出しても面白くないでしょうし、大方どこかが通信部に圧力でも掛けたのではありませんか? ニュースにして面白い部分はあらかた片付いてしまいましたから、クロノスももうあまり取り扱う気がないようです」
そう言ってアトリの同僚──タマコと言います──は肩をすくめました。
未だ派閥意識が強く各派の策謀が渦巻くトリニティにおいて、トリニティ内のニュースを司る通信部は最優先で繋がっておくべき組織であり、各派閥が息の掛かった人間を送り込んだり、逆によその派閥によって追い出されたり、四方から圧力を掛けられすぎた通信部が分裂したり、再び統合されたりと常日頃から苛烈な権力闘争が発生していることで有名です。
かく言うアトリとタマコも、ティーパーティーとしては下っ端ながら現「ホスト」であるナギサ様直々に「丁度素晴らしいお茶菓子を手に入れている」お茶会に招待され、そこで「たまたま通信部の話題になり」、その後「ナギサ様から分けていただいたお茶菓子を頂くお茶会」に通信部の生徒を招待したりしましたが、まぁそれはよくあることですから……。
そういえばエデン条約騒動の時、クロノスが元気な割に通信部はやけに大人しかったのもその辺りに関わってるのでは。つまり、当時通信部内で優勢だったのは……。
トリニティの暗部が見えそうになり、アトリはそこで考えるのをやめました。ティーパーティーはトリニティを取り纏め安定させるべく、各部に根回しをしているのです。私が普段やっていることも、ティーパーティーの絶え間ない尽力の一部。たとえグレーでも黒くはないのならそれでいいじゃない。触らぬ神に祟りなし。うんうん。
「……あーあ、どうして世の中はこう物騒なんでしょう、仕事に困りませんね」
アトリはため息を吐くと、「物品破損保険の申請:ティーカップ200個」という文字が堂々と記された目が滑る書類を一旦脇へ置き、甘い物でも食べようと机の上に置かれた小粒のチョコレートを一粒口へ放り込んだところで、スマホに一つ通知が来ていることに気づきました。
「……あ、これですか? 不審人物目撃情報、ってやつ」
そう言ってタマコに見せたスマホの画面にはひとつのニュース通知。
「不審な人物を目撃したと正義実現委員会に通報あり、身長160cm程度でガスマスク、防弾チョッキを身につけている。目撃場所は聖堂通り第4寮近辺……ちょっと、これあなたの部屋の近くじゃありませんか?」
「まああの辺治安は良くないですからねぇ、いまさら一人ぐらいどうってこともないでしょう」
おかげで家賃が安くて助かってますよ、とアトリは指で輪っかを作ってみせます。
「もう、そのうちひどい目に遭っても知りませんわよ!」
*****
聖堂通りとは、名前のとおり聖堂の通りである。
伝統と格式を重んじるトリニティにおいても、聖堂がコンビニより多い町はこの辺りくらいだから、大変分かりやすい名前なのは間違いない。
聖堂が多いと言っても特別大きいものがある訳でもなく、特別古いものがあるわけでもないので、時折物好きが訪れる以外には古くて入り組んでいて不便な街といった様子である。
エデン条約調印式の会場となった通功の古聖堂からもほど近く、エデン条約への関心の高まりに合わせて一瞬だけ注目を集めたりもしたが、結局それ以上は何もなく、現在は再び閑静な街へと戻っている。
そんな街並みには似合わない、ガスマスクの生徒が一人。暗い灰色の髪は長らく洗っていないせいでごわごわと固まっていて、白いコートは砂埃を浴びて煤けた色になっている。
その特徴的なガスマスクと物々しい防弾チョッキからして、彼女がアリウス分校の生徒であることは間違いない。揃いの装備を身につけてエデン条約締結式に現れた姿は、連日のニュースで繰り返し報道されていたのである。
ただ、今の彼女にはトリニティを震撼させたあの時の兵士たちのような覇気は感じられない。踏み出す足に力が籠もっていない様子からして、かなり衰弱しているようである。
このようなはぐれアリウス生は、近頃のトリニティにおいて
エデン条約襲撃の後、引き上げる部隊からはぐれた者。
「アリウススクワッド」捕縛の為に送り出され、トリニティによる自治区侵攻によって戻れなくなった者。
「マダム」失踪によって混乱するアリウス分校から逃走した者。
一連の混乱の中でアリウス自治区からはぐれたアリウス生たちは、トリニティ自治区内をうろついてトリニティ生に喧嘩を売ったりするので、トリニティ全体の治安問題にかかわるとして、ここしばらくの間正義実現委員会の悩みのタネなのだ。
とはいえはぐれアリウス生達もバカではない。食料と銃弾の補給さえままならない根無し草生活を抜け出すべく、ある者はトリニティの保護を受け入れて転入手続きを取り付けられ、またある者はブラックマーケットあたりへ流れてならず者の仲間入りをしていることだろう。
それなのにこの生徒はどうしたことか、まだ一人でトリニティ自治区のはずれををうろついているのである。
あっちへふらふら、こっちへふらふら、と歩いていたアリウス生は、狭くなった視界の端に路地から覗くヘルメット頭を見つけ、あいつらもいい加減しつけぇなぁ! という苛立ち混じりに、ショットガンを握る手にわずかばかりの力を込めた。
キヴォトスで一人というのは、並みの生徒にとっては危険な状態である。いくらトリニティといえども、正義実現委員会がパトロールする中央エリアならばともかく、そこから外れた人通りの少ない街には、ヘルメット団を筆頭とするよりどりみどりな各種チンピラがカツアゲを狙って虎視眈々と待ち構えているのだ。
彼女らの大半は満足に銃弾の用意もできないような状態だが、数だけは一丁前である。目も手も少ない一人歩きの生徒は絶好の獲物だった。
とはいえ無知なトリニティのお嬢様とは違って相応の装備を持ち、よく訓練されたアリウス生と正面からぶつかるのは得策ではないということぐらいは考えているのか、ここ数日入れ替わり立ち替わり、少人数で彼女に襲撃を仕掛けてきているのである。
偵察を撒くだけの余力は最早なく、馬鹿正直に迎え撃つたびに弾と体力を消耗し、追いかけていけば集団に誘い込まれる。
中央エリアへ逃げて正義実現委員会に助けてもらう? ……出来るわけがない。まとめて檻の中に決まってる。
はぐれアリウス生は、今や猟師に追われる獣であった。
何が悪いのかと言えば、彼女がアリウスに従順すぎたことが悪いと言うしかない。
土壌が痩せ、外部との交流も絶たれたアリウス自治区において、生活資源は「マダム」のツテによって与えられるものだった。
固くて味のない栄養バーや塩辛い缶詰など、決して質がいいとは言えない代物ではあったが、「マダム」の下で使役されている間は毎日の食事が保証されていた。
彼女にとって食事とは「
画一化された忠実な兵士であることは、アリウスで生きる上では役に立っても、一人で路地裏のチンピラを相手にする時には通用しなかったのだ。
健康な肉体とよく整備されたショットガンがありながらトリニティ自治区の中でカツアゲに遇い飢え死にしかけているのは、その長年をかけて研ぎ澄まされた思考停止の賜物である。
「よぉ、そこのお前。ちょっとアタシらにつきあってくれねェか」
路地からぞろぞろと現れたのは特段面白くもない黒ヘルメットの一団。中央に立っている一際偉そうな奴が
「へへ……まぁ一人でよくやったよ、お前。アタシの部下もしっかりやられたしなァ」
……全部で10人。所持している銃器はショットガン他全員近接戦向け。
「でもお前、もう限界みてェだな?」
もうこいつら全員を相手できるだけの弾がない。ボスを黙らせるのに使うとして後ろの奴らはどうする?
「アタシだって鬼じゃねェ、その銃と防弾チョッキをこっちによこしな。そしたら食いもんを分けてやったって構わねェ」
一番右の奴は明らかに不慣れだ。視線が泳いでいるし構えもなってない。
だが今の私が逃げ切るのに、それだけで足りるのか?
無機質な彼女の思考に一瞬の弱気が過る。
ボスが指摘した通り、既に彼女は限界、あるいは限界を超えた状態なのだ。
「なんならアタシらに加わるか? ちょうど荒事に慣れてる奴が欲しいんだよ。どうだ?」
すーっ、ふーっ、と深く息を吸って、吐く。
感じるのは、よく手入れされた植木の花とどこかの家から流れてきた紅茶の匂い。
トリニティの空気は、アリウスのように質の悪い硝煙と泥臭い水溜まりの匂いがしない。
──
脳の底がすっと冷えて、疲労で濁っていた頭が集中力を取り戻す。
全身の疲労はあの日の懲罰の痛みと同じ。あの日やったことを今日もやるだけ。
何百、何千と繰り返した訓練の経験が彼女の身体を貫く。
構える。狙う。撃つ。
「死ね」
クローズド・クエスチョンにイエスでもノーでもない斬新な答えを返した彼女は、敵前で余裕をぶっこいていたリーダーの顔面、もといヘルメット面にショットガンを2発、目を付けていた一番右の部下に最後の1発をぶち込んで駆け出した。
「ボ、ボスッ!! 大丈夫ですか?!」
「イッ──だぁっ! アタシはいいから追えっ! あいつ1人に何日掛けたと思ってる! ぜってぇ逃がすなッ!!」
ひっくり返ったボスが全員で自分を囲んで助け起こそうとする部下たちを怒鳴りつけた時には、はぐれアリウス生は狭い路地の角を曲がって姿を消していた。
だらだら書いていたらメインストーリーアリウス編で新設定が明かされて間に合わなくなりそうだったので、見切り発車ですが投稿します。