これまた、大いに不幸なことだ。来た時と同じように、行かざるをえない。風を追って労苦して、何になろうか。
夕日の差し込む正義実現委員会本部。
事務担当の部員たちはぼちぼちと引き上げていく時間です。
そんな部屋を出て行く黒髪おかっぱの部員たちをかき分け、部屋の最奥部に置かれたデスクまでやって来た部員が一人。デスクの主は、難しい顔をして書類を見つめています。
「副委員長、今お時間よろしいですか」
そう声を掛けられて、副委員長こと羽川ハスミは、これで最後と目を通していた書類から顔を上げました。
「ええ、かまいませんよ。……“例の件”についてですか」
「はい、こちらがここ2週間の間に捕縛した不良生徒たちに対する取り調べの結果です」
そう言って差し出された2つのコピー用紙の束を見て、ハスミはその柳眉を一瞬だけ顰めました。
──予想以上に多い。
特に厚い方は先日同じようにして受け取った資料の倍以上はあり、中身を詳しく見る前から不穏な物を感じさせました。
「薄い方はトリニティ自治区内部でトラブルを起こしたアリウス生……そちらの件数は以前とほぼ変わらずといったところです」
いわゆるはぐれアリウス……エデン条約締結式の破綻後頃から出没するようになった彼女らは、当初こそある程度の人数で組んで正義実現委員会と衝突することもありましたが、最近保護、または拘束されるのはもっぱら単独行動している者ばかりです。
そこらの不良では敵わないような強力な装備と戦術を持っているとはいえ、強力なリーダーもなく、人数もツテも限られている状態で集団を維持するのは困難だったのでしょうか。
ティーパーティー、及びエデン条約事変以降勢力を伸ばしたシスターフッド、救護騎士団がアリウス生原則保護の方針を掲げている以上、正義実現委員会としてはアリウス生の分散が起きる前に片を付けるのが理想でした。
しかし、トリニティ内でも様々な派閥が、全力を掛けて捕縛しできる限り多量の情報を吐かせるべきだとか、逆に全く関わるべきではないだとか、それぞれはぐれアリウス問題への対応を主張しています。これらの主張を踏み倒しての強行は無闇にトリニティ内の摩擦を増やし、情勢を不安定にさせることになりかねないとの判断から、積極的な対応は出来ていないのが現状です。
ハスミが資料を捲ると、以前の資料で見覚えのある名前がいくつか見つかりました。即ち再犯であるということです。大半は食料、弾薬などが困窮した結果の違法バイト参加、万引き、強盗行為。トリニティ側に解決策が一つも生まれていない以上、はぐれアリウスたちの困窮状態も以前となんら変わりなく、犯罪行為の内容も似たり寄ったりです。
このままはぐれアリウスたちをチンピラ同然の勢力としてトリニティ内で活動させていては、保護の後トリニティへの転入が決まった元アリウス生たちへの視線も厳しくなってしまう。
正義実現委員会に正義を誓った者として、調和を尊ぶトリニティ総合学園の一員として、ハスミは現状に悔しい思いを抱えていますが、結局実現可能な案は見つかっていないのです。
「厚い方はトリニティで保護、または何らかの理由でトリニティ自治区に滞在しているアリウス分校の生徒を狙った恐喝行為や強引な勧誘……いわゆる“アリウス狩り”に関するものです。発生件数は依然として増加しています」
エデン条約事変に直接関与しなかった大半の生徒たちが持つ「昔のことで急に襲撃を仕掛けてきた怖い学園」の印象と、ここ最近のはぐれアリウスによる治安悪化が生み出した、重苦しい空気。
そんな空気感のなかで、弱い立場に置かれたアリウス生を狙う犯罪も数を増やしています。
「……分かりました。ありがとうございます。この件はツルギとも話し合っておきます」
一通り目を通したハスミは、資料を持ってきた部員に礼を述べて退室させ、ため息を吐きました。
アリウス生を狙った犯罪の殆どは、トリニティ生ではなくスケバン、ヘルメット団他不良生徒たちによるものでした。しかし特定の学園に所属している訳ではない不良たちは、一部の過激なトリニティ生たちのように、エデン条約周辺の軋轢からアリウス生を攻撃するとは考えにくいです。正義実現委員会を頼れない彼女らを狙った金目当ての行為だとしても、大した金品を持っていないアリウス生たちを襲撃することで、トリニティの生徒を狙う以上の利益が得られるものでしょうか。
明らかに不自然。何かがあるのは間違いない。
ハスミはこの件に明らかにきな臭いものを感じましたが、動かせる人手も多くありません。
「ティーパーティーにも報告して掛け合うべきでしょうか……」
しばらく考えた後、ハスミは自分のデスクに向き直り、受け取った資料をもとに報告書を書き始めました。
結局その日ハスミが部屋を出たのは、夕日もすっかり沈みきり、暗くなった後でした。
*****
本日分の仕事を終え、日が沈んで薄暗くなった道を帰宅途中のアトリは、少し違和感を感じていました。
「おい。見つけたか?」
「ダメだ。そう遠くまで行ける訳がねぇはずだが……」
聖堂通りでヘルメット団を見かけること自体はそう珍しくもありません。
お世辞にも治安が良いとは言いがたい地区ではあるし、不良上等、家賃が安ければ良い! とこの地区の寮を選んだアトリはその辺りをわきまえているつもりでした。
しかしそれにしたって今日はやけにヘルメット団が多いですね。いくらこの辺りは監視が薄いとはいえ、わざわざ
普段ならば路地裏から2、3人がちらちらと表通りを覗いて品定めしているくらいの時刻ですが、今日はいくつかのグループが銃を手にあちこちを走り回っています。それもあまり余裕が無いようです。全体的に焦っているというか、殺気立っているというか。
構成員の誰かが金を持って逃げたとかでしょうか、と適当な妄想をしながら、アトリは気が立っているヘルメット団たちと目を合わせないように俯いて早足で道を進みます。
ティーパーティーのお嬢ちゃんなんかが不良の溜まり場を突っ切るなんて、いいカモじゃないか、と思うかもしれませんが、意外にもアトリがこのあたりに引っ越して来てから、不良に絡まれたことは片手の指で数えられるほどしかありません。
アトリはそこの理屈について考えたことはあまりなく、とりあえず大人しくしとけばあんまり襲われないからいいんじゃないですか? と能天気なものですが、不良たちの方にはきちんと理由があるのです。
それはティーパーティーの制服が正義実現委員会との繋がりを強く示唆しているからであり、アトリ自身の自信家でも卑屈でもない適当な態度が不良の興味を引かないからでもあり、その気になればいつでも狩れるという不良たちの余裕のおかげでもあります。
ティーパーティー所属生徒を襲って正実の掃討部隊を送り込まれるのも面倒だし、あの能天気な奴はまた今度でいいか……、という危ういバランスの上で、アトリの家賃節約生活は成り立っていました。
それはつまり、その平穏はちょっとした変化で簡単に崩れうる、というわけで。
「おい! そこのお前!」
背中を丸めてせこせこと歩くトリニティ生に気づいた1人の黒ヘルメットが、大きく声を張り上げました。アトリはその声にびくっ! と肩を弾ませるも、振り返ることなく一層足を速めます。
「お前だよお前! 白い羽の!」
バァン! とショットガンの威嚇射撃が響いたので、アトリは渋々足を止めて黒ヘルメットに向き直ります。
彼女はこの低治安エリアの住人とは思えないお上品なハンドガンしか持ち合わせていないし、そもそもその銃を撃ったことすらほとんどないので、戦って切り抜けるなんてことは出来ません。今日はお財布にあんまりお金が入って無くてよかった。
アトリがやむを得ないかと財布を取り出そうとしたところで、黒ヘルメットは意外にも一つだけ質問をしてきました。
「お前、この辺でアリウスを見なかったか?」
「は?」
予想外の発言に、アトリはカバンの中で財布を握ったまま、ティーパーティーのお嬢様らしくない間抜けな声を出してしまいました。黒ヘルメットは「ほら、ガスマスクのアレだよ」と言いながら、自分のフルフェイスヘルメットの前を撫でるように手のひらを動かしています。
アリウス? なんで私に聞くの? なんでこいつらがアリウスなんか?
「はぁ、見てませんけど」
「そうか。じゃあもういいわ」
そう言うと黒ヘルメットはバタバタと仲間の元へ走り去ってしまいました。「いやー知らねぇって~」とかなんとか言っているのが聞こえます。
血も涙もないと噂のヘルメット団が、カツアゲもせずに聞き込み? しかもアリウスを探してる?
頭の中が
*****
撃たれた足が速くなった鼓動に合わせてずきずきと痛む。
聞こえるのはふーっ、ふーっ、という自身の荒い呼吸だけ。
ヘルメット団たちから逃げ出したはぐれアリウスは、銃撃を受けながらも彼女らを撒くことに成功し、古い建物に身を隠して……というより、その門の裏でひっくり返っていた。
これが万全の状態であれば、銃撃の数発なぞ意に介することなく受け止め、こちらも撃ち返してやることもできようが、まっすぐ歩くのもままならない限界状態で全力疾走、撃たれる前から歩きすぎで痛かった足を執拗に撃たれながら、空っぽの銃を振り回して逃げてきたのである。
もう手も足も動かない。私はここで死ぬのか。
撃たれた足が痛い。空腹で腹が痛い。寝不足で頭が痛い。
呼吸を整えようとしたが、喉が痛くてそれも出来ない。
出来るのは、倒れ込んだ石畳の冷たさを感じることと、とりとめもないことを思い出すことだけ。
マズルフラッシュの瞬き、教官の怒声、雨漏りする屋根、石畳の水溜まり。
銃の反動、赤い光、煙の匂い、燃える飛行船、枯れ木、曇り空、ヘイロー。
びっくりするくらい、つまらない思い出ばかり。ああ、私は、世界は本当に……
──
全身が痛くて、頭がふわふわして、なんだかすべてが億劫になって、ゆっくりと目を閉じようとした──その時。
「うわ、誰ですかあなた」
驚愕半分、面倒くささ半分の声が無遠慮に頭上から降り注いで、はぐれアリウスはうっすらと目を開けた。
誰かと言えば、このはぐれアリウスが逃げ込んだ古い建物……もとい、トリニティ総合学園聖堂通り第4寮に帰宅してきたトリニティ生、アトリであった。
仕事終わりにヘルメット団に詰め寄られて精神的に疲れていたアトリは、寮の門と自分の部屋の扉の間に倒れた誰かさんを踏みつけそうになり、うんざりしてため息を吐いた。
あー、そういえば不審人物目撃とかありましたっけ。
ひっくり返った何者かがガスマスクを付けているのを見て、アトリの忘れっぽい脳みそは先ほどヘルメット団と遭遇した時には忘れていたニュースをようやく探り当て……なんで「アリウス」がココに!?
ここで相手がしゃんと立って銃を構えていれば、肝の小さいアトリは悲鳴を上げてひっくり返ったりするのだろうが、何せ相手の方が先にひっくり返っているので、せいぜい喉の奥で「ヒッ」という音が漏れたくらいで済んだ。
というかこの人どうしたら……正義実現委員会に通報したほうがいいんですか?
そうしてアトリが固まっていると、ひっくり返っていたアリウス生が大きく息を吸い込んだ。思わずアトリは身構えたが、アリウス生はそのまま──
「……アリウス分校、
――絞り出すように呟くと、再び目を閉じた。
……えっ、もしかして今、「誰ですかあなた」に答えたんですか?
アトリは思わず通報のためにスマホを探ろうとしていた手を止め、しばらくその表情の読めないガスマスクと、自分の部屋と、自分が立っている通りの左右を見ながら迷っていた。
やがて決心がついたのか、ゆっくりとその身体を掴み、自分の部屋へアリウス生――エノコを引きずって行った。
【アトリの銃】
側面にニワトリの飾りが彫られた拳銃。
銃とかよく分からないアトリが雨風に強いというアピールに押し負けて買わされたが、買った後で別に自分は雨風の中で戦ったりしないと気づいた。