ヤンデレと被害者。 作:ボクっ娘は一般性癖
『血の繋がりがあるから』
そんな理由で俺は妹の世話をしていた。両親がやるべき家事や愛情を注ぐなんてことはもう俺一人しかやれない。
兄一人、妹一人。我ながら歪な家庭で育ててしまったと思う。
「兄さん」
当然のように妹の不満だの恨みなんてのは俺へと向かう。昔のようにこちらへと屈託なく笑いかけてくることはもうない。随分前から感情を
「ボクのこと、愛してるよね?」
明らかに冷めきった声。どこか達観してしまった潤んだ目。当然のようにそれに呼応する言葉を言ってしまう。
わずかでも妹の助けになるような言葉遣いにしたくてしている敬語の口調。
「もちろん。君のことを愛してる」
聞いてきた妹は無表情を動かさずにこちらの言葉を聞くと、部屋の中へと引きこもる。何もせずともそれだけで充分だと言わんばかりだ。
…昔はあんなのじゃなかったのにな、と思う。
しかし俺もかなり過保護だった自覚もあるし、不充分な兄貴であったと自認している。親から子に向けるような感情も渡せなかったとわかっている。
その結果が突き放したり近づいたりする俺への態度だ。日課のように繰り返すこれは妹離れもできない兄への優しい対応か。学校の様子とは違う、らしい。
学校の様子なぞ学年が違うので見たこともないが、随分と家とは異なるようだ。さほど噂を聞くこともないので詳しくは知れていない。
「…はぁ」
扉は一分の隙もなく閉まっている。何度見ても慣れない妹の奇行。体に溜まったのが疲労か心労なのかもわからない。
夜のこの時間だけは妹の様子が変化している。どうしてなのか、それくらいは聞きたい。しかし聞いたところでどうしようもないものだろう。
貴重な眠る時間を無駄にすることもしたくない。やれることは近くの壁によりかかって寝るだけ。朝になればきっと妹が起こしてくれる。
…とはいえ、実際はどうも変わりはない。
逃げ続けているだけ、という事実は。
「…起きてよ、お兄ちゃん」
朝も倦怠感は抜けない。少しだけ声に反応できないで目をパチパチとする。
視界に入ってきたのは少しだけ表情が崩れた妹。心なしか上機嫌なのはなぜだろうか。二度寝したら遅刻するようなギリギリの時間なのにも関わらず、だ。
そんなことを深く考える暇もなく、ブレザーを着用する。別に妹と俺のでさして変わることもないのだが
『お兄ちゃんのブレザーは着れないの。その…ごめん』
と言われたのでやめている。体臭やブレザーそのものが問題ではないような口振りに傷つきはしたものの、何も言われないよりはマシだ。
「ほら、おにぎり」
口もとにそっと運ばれたソレを丁寧にもそもそと噛む。梅の酸味が眠い体を起こし、米を噛む感覚が意識を目覚めさせてくれる。
「おはよう。今日も起こしてくれたんだね」
「おはよう。…一緒に行かないと面倒なトラブルに巻き込まれるし」
挨拶を返してくれたのと同時に少し辛辣な妹と家を出る準備をする。さほど中身の詰まってない学習バッグ。万が一のために入れてある辞書。妹が入れてくれた桃色の弁当箱。
「髪の毛
「ん、わかった」
されるがままに梳かれている長い髪は妹からの提案だ。正直伸ばす理由はないと思うのだが、それはあくまでも俺視点の話だ。妹にはどうしても必要な理由があるらしい。
どんなことを言われたかもわかっていないが、鼻歌交じりにやれるルーティンにまでなっている以上は変えるのも躊躇ってしまう。
そもそも切る為にお金を使う余裕もないのだ。下手に妹に髪を切ってもらうのもどうかと思ってしまうし…
「…終わった?」
「うん。行こうか」
こちらの問いかけに頷くと、こちらと変わらない背丈の妹がくっついてくる。その様子はどこから見ても満足感に満ち溢れている。
(こうなると尚更に不気味なんだよなぁ…)
つまり妹から俺は嫌われていないということである。あの夜の行動は果たして何をしたいからなのだろうか。変わることもない、というのに。
ふと空を見上げる。朝も遅いというのに、薄すぎる三日月が映っていた。
「…なんだ、もう昼か」
授業で習うことは2年前にもうできる。故に学校へ行ったとしても俺は昼の時間になってから飯を食うだけだ。誰かに誘われでもしない限り自分の席から動くつもりはない。
「
「…構わんが、お前にふざけた敬語を使われると気持ち悪いからやめろ。長い付き合いだろうが」
「ま、ゴメンな。全く…俺からしてみりゃ単なる親友だってのに」
まあ、親友に誘われたなら行くのも
「鍵は?」
確か記憶があっていれば鍵はかかっていたはずだ。しかしそんなものを持っているようには思えない…自信満々に誘ってきたからには問題ないと思うのだけれど。
「なぜかは知らんけど壊れてたからな!な!」
「大声で言うもんじゃねぇよ。特に俺等が報告する義理もなさそうだから黙っとけ」
きっと壊れてた鍵を後で直す先生が可哀想だが、まあ校舎の不具合だしなんとかしてもらえるだろう。軋む扉を開け、
「そんで誘った理由はなんだよ」
「んなもんねぇけど?」
目を逸らしながらぴゅーぴゅーと鳴らない口笛を吹かれれば嘘だと流石にわかる。最もわざとやっているのがわかるくらいのオーバーリアクションなら聞きやすくはある。
「…最低限は答えてやるよ」
まあ別に悪評なんて腐るほどあるものだし、目の前のコイツから流されても変わらない。それに男と男だ、女に襲われるより抵抗しやすい。
そんな意図での言葉も目の前のこいつもわかったようで、わざわざ日陰から外に出ていき、両手を広げる。
…コイツの言動が様になっているのは努力したからなのだろうな。少し羨ましいことだが俺にはどうしようもないものだ。
「相変わらずお優しいお兄様なことで…こっちとしても本当に男なのか疑ってるよ」
「黙れ。こっちのほうがカモフラージュになるだろ。兄妹の片割れとしてな」
「死神姉妹ってのも?」
「まあ延長線上のものだ…もともとそんな大仰な名前じゃない」
とはいえそれも俺からではなく妹の発案だ。同じ見た目でどちらの可能性かを考えるだけでナンパ避けにも充分な効力があるとのこと。
…死神姉妹については勝手についた尾ひれだけど。
「そ!俺はその死神姉妹ってのが超気になるわけだよ。厨二病大歓喜の名前の由来が、だ。訂正できるならしときたいしな」
死神姉妹。どこから広がったのかは覚えていないが…俺と妹の容姿が似ているからとヤンキーであることが関係していたことのような気はする。
強いて言うのなら妹に対する悪評がどこにもなくて助かるというべきなのか…孤立している俺でも知っているくらいの噂に妹への罵倒が無くて何よりだ。
「知るわけないだろ…しかも男なんだけど」
まあ当然噂の中で姉だのと言われている時点で風評被害である。妹との見分けのつかせ方は瞳の色くらいしかないようなものだし。
「そんなんてっきしトランスジェンダーとかそっちなのかなって。ほら、男だってパッとわからないんだよ」
「…喉仏がないのがそんなに変か」
自分の喉に女と変わらない手を当てる。本来あるべき突起はなく、ただただ滑らかな曲線を描く喉。病院に行っても『男性ホルモンのバランスが崩れている』との一点張り。
本来ならボサボサであったはずの髪も妹に手入れしてもらってこの綺麗さだ。艷やかな髪でセーラー服なんか着た日には誘拐された。
「だって狼雅、普通に声も高いじゃん。普通に妹と入れ替わられてもわかる気しないんだよ」
「あのさぁ…ま、あってるから何も言えないんだけど…」
双子だの言われるが普通に兄妹だったはずだ。確か分裂した卵子を凍結保存した結果として産まれたイレギュラーなんだとか。
「つーか死神姉妹のサイトまであるぞ。ほらこれ」
こっちと話しながらスマホを見せてくる。中に入っていたのはまとめられた噂。犯罪をどれだけしたかとか不良をどれだけ返り討ちにしたかとかのくだらない噂を集めたサイトだ。
最後に細かくはわからないが『SCP-3125』とかなんとか書かれてある。正直オカルトは聞くだけで頭がこんがらがるから今は除外する。
「あ、でも真実が掠ってんのもあるな」
正直根も葉もない噂ばかりだが、一つだけ真実が混じっている。なんでこういうベタな噂になるようなものが過去になるんだか。
指を指した一文を目の前のクラスメイトは呆れたように苦笑いを浮かべ、茶化すような声でこちらにツッコミを入れてくる。
「『姉は人を100人殺したことがある』…いやいや、流石に違うだろ?」
「そうだよ」
肯定の意味を込め、くだらない噂の真実を正す。確かに人を殺すときに100人なんぞ一々数えているような人間がいれば、それはもう見殺しにし過ぎだろう。
「俺が殺したのは…一度だけだ」
罪人の告白を聞く聴衆の視線のごとく突き刺さる太陽の光。
深い海の底に沈んでいく心には似合わない
俺にはどうも。
人を殺したことは受け止めきれないのだ。
今でも覚えてるくらいの過去だ。俺と妹は祖父母の家から帰り、3日ぶりに一軒家へと戻ってきた。当時は中学生と小学校六年生。まだまだ思春期も遅かったからか、二人で一緒にいることのほうが多かった。
妹と帰ろうとしていたときはお父さんと何話そうかとかお母さんのご飯久しぶりだねとかそんな感じだと思う。それくらい日常的な言葉を交わすと、ふと自分の家の違和感に気づいたんだ。
明かりがついているのに静か。余りにも他と比べて異質なそこには、点々と血痕がついている。
『なんでだろうね、兄さん?』
『…静かにしてて』
そこで違和感を感じて喋るのを止め、キャスターを丁寧に両手で持ってそっと様子を確認する。夕方にしてはやけに濃い色が視界を染めていた。シチューやハンバーグにしては余りにも血なまぐさい匂いだった。
空いた家は明らかに危険な罠にしか見えない。本能が鳴らす警鐘に従わないほど俺は命知らずではなかった。…走って逃げようとするとかまで頭が回らず、扉も閉めようとしなかったのは運がよかったとしかいいようがない。
『とりあえず、公園で話そっか。交番、あるしな』
自分の行動が最もマシだったのが、妹と話すときに家には届かない公園で話したことだと思う。深く考えるなんて子供にはできっこないけど、交番の近くが一番いいのだろうとはわかった。
今思い出してみれば、誰かに助けてもらおうなんて至極当然のことを考えていたなとも思える。無駄だと気づけなかったのは幼いだけの理由だ。…ま、それが普通だろうが。
『え…?なに、あれ…?』
…しかし、見せたくないものを見せてしまった。動かない肉の塊。わかりやすいくらい周囲にまき散らされた赤色は家にあった血痕と変わらない。
一人だけなら取り乱してしまったと断言できるほどの惨状。それでも己の痛みを無視して妹へと語りかける。
『…お兄ちゃんがなんとかするから。絶対、大丈夫だから』
子供ながらに言葉を尽くす─そんなことは不可能だった。頼れる大人はきっと全員死んでいる。妹が死なないように守りきるなんてできないと冷静な部分で断じていた。
ただ、妹が胸をギュッと掴んで嗚咽を漏らす。潤んだ目で少しだけ背の高いこちらを見つめている。抱きしめた手から感じる暖かな優しい鼓動は今日で喪われるのかもしれないのだ。
『おねがい。助けて、兄さん…』
あの時にはもうわかっていたのだ。
(もう、妹を守り切る以外に道はない)
このままでは二人もろとも殺される、と。
覚悟を決めたのは、交番の前。いつもならどうでもよさそうな日常の一つの場所。
もし人生に分岐点というものがあるなら。
迷うことなくこの人生最悪の日を選ぶだろう。
妹のために─どこまでもすると。
幸せにするのは自分でもいい。他の誰かでもいい。それは他の人にも譲れる役目だ。もしかしなくても父さんや母さんが生きていればやってくれるだろう。
俺はただ不幸を呼ぶものを壊そう。人なら殺そう。物なら壊そう。自分なら死のう。
子供の決意した脆い覚悟。死に瀕した醜い欲望でしかないそれが今なお残っているとしたら、きっと自分を含めて誰一人とて妹をその後から幸せにできていないのだろう。
間違ったことをしたと言い訳するつもりもない。
自分のしたことが正しいと断じるほど狂ってもいない。
誰かに責任を押し付けるほど鈍ってもいない。
ただ、そのときの覚悟の先にあったものが─殺人の決意というものが大部分を占めていたのだ。
黒光りする拳銃を死体を漁って探す。子供の手に収まる程度のソレは無機質で冷たい。何一つ慣れないその感覚に恐怖を覚えても、立ち止まれはしない。
ふと、小さく死体から音が鳴る。携帯のようなソレを取り、何が聞こえているかを確認する。
《繰り返す。刀を持ったフシンシャがこの住宅地近辺にいるため、至急逮捕またはシャサツするべし─》
『兄さん…?』
『何も心配しなくていい。…一度、家に帰ろうか』
まあ、その後に妹の前で人を殺した。今ならまだやりようがあったと思う。殺さないという選択肢もあった。だが妹を守れるような大人が誰もいないなら自分がなるしかなかった。
…ああ、妹の前での口調?
違うのは当然だ。こんなのは教育には悪影響、しまっておくに越したことはない。
昔に喧嘩していたのは単に妹を誘拐した連中を潰しただけさ。肩の骨と足の骨を折った。それだけじゃ足りないから重く腹に一撃も入れて確実に動けなくした。
…ああ、お咎めはなかった。正当防衛だしな。
そういや、正面から俺のことを聞いてきたやつは親友のお前だけだな。『そこで途切れられても続きが気になる』って?
…土産話にもう一つ話してやるよ。どうせ過去でも聞いてこいってわけじゃないんだろうしな。
妹と俺の親戚は全員死んだ。そのことは思い出したくない…というより、思い出せない。頭の中で記憶だけが
まあ、葬儀の場で火の不始末。俺と妹もいたんだけど、なんで生き残っているのかは知らない。
『…は?』
嘘のようなことだと思った。現実感のなさに頭がクラクラした。それでも淡々とすべきことをしなければ妹に不利益になるからと自らの謎に蓋をした。幼いとか不要なことは全て勉強して黙らせた。
残ったのは親から愛情の代わりに渡された金とずっと過ごしていた一軒家。ついでに親族が皆死んだせいで入った大金。正直に言って貰わなければと何回も後悔はしている。
当然、妹と俺だけの二人暮らし。それも中学生のガキ。誰よりも狙いやすいカモとして写っているのは想像に
『一緒に暮らさない?ほら、この年で管理も大変だし、私がやってあげるわよ?』
『なによ、そんなこと言っちゃって。私の息子と仲がよかったし家に来ない?』
『いや、私の家なら誰もいないし─』
呼びかけてくる優しい声の奥底にある確実な欲望が俺の中の獣としての本能を暴く。弱者として目の前の愚か者に見られていることに腹が立つ─否、もはや俺は自分のモノを奪われるのを許容できなかったんだ。
(…ああ、不快だな)
一呼吸おいて感情を
『…佳菜』
『…兄さん』
こちらを心配してくる妹を安心させるために参考書を開き、文字の羅列を眺める。それが正しいことか悪いことかは判断できない。
小さな沈黙の中、妹がぽつりと呟いた。
『…兄さんはいなくならないよね』
『いなくならないよ。…佳菜が死ぬときは一緒に死のう』
取ってつけたような言葉だが、恐らく妹が死んだらすぐに死ねるのは事実だ。というより、生きる理由がなくなるが正しいか。
人を殺しておいて平和な日常なんて送ることは許されないとか妹のいない世界で生きられないとかじゃない。単に死ねるんなら死にたいだけだ。
…おっと、話がそれたな。ともかく、俺の過去はこの程度さ。
昼の暇つぶしにはなっただろう?
「…ったく、暇つぶしには重いわ。それに死神姉妹ってついたのが尚更意味わからん」
特に離れるつもりもない親友はそのまま話を広げてきた。重くなった体にはちょうどいい軽口だ。
「俺に聞くんじゃねぇよ。平和に生きたいだけだってのに…」
これが誰かに見られているならまだ、わかる。ストーカー被害や強盗なんて慣れたものだ。しかしどうしても噂だけは出どころがわからない。
「…そんなん気にする余裕もないだろお前…」
どこからそんなふざけた噂が流れているんだか。実害なんてものは出ていないのがマシ…とは言えない。
「…もしかして下手な主婦より働いてんの…?」
「しなきゃいけない立場だからな。どうだろうとやらなきゃいけないことなんだよ」
金という別に捨ててもよかったはずのものに執着している時点で今さらだ。身に余り過ぎているのはとっくのとうに証明された。
「まあ愚痴程度なら付き合ってやるよ。…悪い、やっぱ濃すぎて無理」
不思議とこいつの軽口はどんどん本音を引き出して労っているような錯覚に陥る。
「それぐらい軽いなら助かるわ。引き際はしっかり見極めろよこのアホ」
「…流石言うことが違うねぇ」
人を殺したやつの言葉なんかそりゃそうなんだろうな。…いや、少しだけ思考が後ろに沈んでるからこう取るんだろう。
(妹には見せられないもんだな…)
つくづく酷い思考なものだ。もしかせずとも過去のことを思い出したからだろう。人のことを信用すれば裏切られるかもしれないから、と。
とはいえソレは目の前の友人とはさして関係のない出来事。頭を振って疑心の心を振り払い、改めて目の前の友人を見つめる。
「いやまぁ、変なことはあるんだがねぇ…」
「どういうことだ?」
純然たる疑問の声が返ってくる。過去の点にわからないところでもあったのだろうか。
「警察の動き。交番のやつを殺したところで通報される可能性があんだろ。サイトの噂にしたってそうだが、お前の行動を知り続けているやつは一人しかいないだろ」
「…わからねぇな」
親友の声を聞いたところで深い眠りにつく。酷く残ってしまった過去の憂鬱さを沈めるのと同じように。
知っていないことを、言い訳にするように。
妹としてのボクという存在は、兄さんの目にどう写っているのだろうか。
可愛くて守ってあげなきゃいけない妹。自分以外に頼れないかわいそうな妹。幼くて甘えん坊の優しい妹。
もしそうだとしたら─
ずっとボクに寄り添ってくれるのも好きだ。ボクの前からいなくならないのも好きだ。この先ずっと愛してくれるのも好きだ。
だけど、たった一点。
ボクのことの中で一つだけ許せないことがあるということだ。もちろん兄さんは何も悪くないし、世間的にも何の問題もない。
…悪いのは、ボクなのだ。
ボクが兄さんのことを好きになっていたのには特に深い理由はない。昔から一緒に過ごしていた兄さんはともすれば両親よりも深く繋がっていただろう。
双子のように間違われるほどの体でも、ところどころはやはり男と女という差が出ている。胸とか…あるいは、お腹のところとか。
まあ多少どうであっても兄離れをするつもりは一度も考えられなかった。兄もまた
きっと変わらないことは殆どないその関係を壊したのは一つの非日常の風景だった。それがなければ歪な関係にもならなくて済んだし、いつも通りの日々が続いていただろう。
あの日はよく晴れた空なのに夕焼けでちょっとだけ怖かった。兄さんと他愛もない会話をしながら、おじいちゃんの家から帰ろうとした日。
『…ァ』
家の中からこちらを覗くように睨みつける黒フードのバケモノ。フシンシャなのかとかそういうことを言う前に、刀に刺さっている何かが気になった。
…死体だった。照れくさそうに笑っているお母さんとは違う苦しそうな顔。守ってくれると胸を張った父さんとはほど遠い肉体。
あくまで遠くに見ただけ。家の中に変な人がいるんだからその飾りなのかもしれない。
『…とりあえず─』
優しく手を引かれて赤く染まった視界はふらふらと動く。喋れるような状況ではなくなってしまっていることは兄さんの硬くなった顔を見ればわかった。
(きっと、もとの日常に戻れるよね…)
そんな油断は現実で許されない。交番の前はイヤにしんとしていて、まるで朝までいた静かな田舎の感じにそっくりで。
意味もなく感じていた悪寒は人に真実を飲み込ませる。警察の人は静かに血の池の中で眠っていて、普段から嗅がない匂いが漂ってきた。
私にとって初めての死体はそれだった。同時に父さんと母さんの死体になったこともわかってしまった。
『…兄さん』
頼りにできる警察も両親もいない。私がすがりつけるのは目の前の兄だけだった。普通なら中学生に押しつけるようなものじゃないとわかるはず。だが当時は錯乱していたし何よりも近くにいる誰かへと縋りたくなった。
助けて、の一言もない。言葉にしたいことが浮かぶこともなく消えていったし、兄さんに何かを聞くこともできない。
たとしても兄さんという存在には充分だったのだ。狼の如く気高い覚悟を決めた顔をして語りかけてくる。
『…お兄ちゃんがなんとかするから。絶対、大丈夫だから』
前が見えなくなった公園の中でも、その言葉ははっきりと響いた。まだ優しく手を差し伸べてくれるようなところが神さまに見えた。
…だけど、裏を返せば兄さんに妹という重荷を載せてしまったということだ。気づけなかったがこの時から兄さんはどこか壊れたような気配がしていた。
だから兄さんを殺したのは私だ。あの日までのぶっきらぼうに優しく接してくれた兄を殺したのは私なのだ。
ずっと後悔はしている。けれども同時に湧き上がってくる自分だけが兄さんを正しく認識しているということに対してなんとも言えない喜ばしさを感じてしまっているのもまた事実なのだ。
その後、兄さんと私しかいないような町を二人きりで歩きながらついに両親を殺したアレを見つけた。こちらを殺すように獣の爪に見えるソレをこちらへと向けて襲いかかる。
『…兄さん』
『…任せとけ。すぐ終わらせるから』
パン。パンパンぱぁん。
いつの間にか兄さんが拾っていた拳銃は狙いすましたかのように心臓を貫く。大きくのけぞってこちらを見た地獄行きの目は、やっぱり理解ができなかった。
兄さんが空になった拳銃を構えて更に頭を狙うのをそっと止める。何一つ難しいことではない。私が兄さんに呟けば問題がない。
『お家、帰りたいな…』
自分は結末をわかっているのだけれど、それでも願わずにはいられなかった。あの死体が偽物で泣きながら両親に抱きしめられたかった。
…お兄ちゃんが、悲しまないように。人を殺したことを、強く理解しないように。
現実とは無慈悲だと物言わぬ死体となった両親は最後にそれを教えてくれた。通報する前のスマホはヒビが入っていて使い物にはなりそうもなかった。
…そこいらの物も何もかも荒らされたこの家は、全てを壊しきったあとに感じる。
『…佳菜は動かなくていい』
兄さんが血の続く廊下に行こうとした。両親のことで何か私が迷っているように見えたのか、弱々しい言葉だけを言い捨てて。
この時私の頭に浮かんだのは兄さんがこれらと同じ目に会うかもしれないという恐怖だけだった。自分の命よりも何よりも兄さんが死ぬことを恐れていた。
後ろから兄さんの服をつまむ。子供らしい行動だけど、誰もいないからと言い訳を心のなかで済ませてから。お兄ちゃんと一緒にいたかったから。
『…や。一緒にいて』
兄さんは困ったように手を繋ぐと再び暗がりの中へと歩いていく。隣りにいる私を気遣うようにゆっくりと進み、その先の電話を指先で探る仕草を見せる。
それがどれだけ救いになったのか─その後におこるであろうことを知っていてなお、私は幸せに包まれながら眠りについた。
…この後は事情聴取のあとに葬式。親戚の人数はとても多く、両親の骨を家の庭に埋めるなんてことだけで済ませられなかった。
『あぁ、よく来たな…狼雅、もし辛いなら妹と引っ込んでてもよいんじゃよ?』
『…構わねぇよじいちゃん。どうであれ佳菜を守らなきゃならないのは変わらないんだ』
おばあちゃんのいた東北地方では、普段と変わらないはずの目が全て鋭く見えた。喋りかけてくることも恐ろしく、思わず兄さんの背中へと隠れてしまったくらいだ。気分は完全に蛇に睨まれた蛙だった。
(あの家、どうなるのかな…)
左から右に念仏を流し、過ごしてきた家のことを思う。二人だけで住むのは難しいし、保護者面談なんかも踏まえたらこっちに来るのが一番なのだろう。
自分のことなのに現実感のない悪夢を見ているかのようで。普通なら悲しんでしまうような悪夢の中でなぜか私は─どうでもよかった。
どうでもよかったのだ。
焼香が終わればあとは宴会。ケンパイだのといいながらへしこを齧る大人たちは、何一つとしてこちらのことを歯牙にかけていなかった。
『…あの、マジメな話はいつすればいい?』
『どうせ儂が仕切るから構わん。どうせこの先どうなるかわからないんだから自由に過ごせや』
おじいちゃんは小さな杯を天に掲げてから兄さんに渡す。中の水面が揺れているのも構わず、月を纏めて一息に飲み込んだ。
『…マジィ』
『ほれ、離れに飯は用意しといたからそっちで食え。大人にこうやってだる絡みされるぞ』
ケラケラと笑うおじいちゃんはどうも寂しさを隠しきれていないようで、酔ってないのに少しだけ目が赤い。一日も経っていないのだ、本当は子供の世話なんて見たくもないんだろう。
『…兄さん』
とは思っても私にはどうすることもできないので兄さんに問いかける。まだ幼さの残る兄は、唯一の味方だと感じていたのだ。
酷く考え込んでいる兄の仕草は、父さんに似ていた。
『じゃあそうするか。…佳菜がどう思ってんのかは知らないけど、俺にも考える必要はあるんだからな』
そっと労るかのように手を置かれる。強く撫でることもなく置かれただけの手。嘘のように小さいそれがどれだけ負担を和らげたのかは言うまでもない。
離れは酷く新しく作られていたようで、異質なまでにぽつんと布団が二つだけ置いてあった。食事についても殆どちゃぶ台の上の盆に置いてあり、子供が食べるにしては明らかに過剰だった。
『…はぁ。ごめん、気分悪いから先に寝る。一緒に寝るなら後から入ってきていいから』
食べてくれそうな兄さんは疲れたのか静かに布団の中へと潜る。一人で食べれるほどの量じゃないのは傍から見ても明らかだった。
…迷った末に私はいくつかの好物をそっと取り出し、残りを家へと返しにいくことにした。流石に食べないものを置いておくことに躊躇したのだ。
『…ったく、にしても狼雅が生き残ったか…』
(…お兄ちゃんについての話題なら、聴いてもいいかな…)
想像よりも静かな宴会の声の中には他ならぬ兄さんの名前が出ており、思わず止まってしまった。
止まるだけなら、まだよかった。
あろうことかその声は、信じられないことを私の鼓膜へと届けたのだ。
『やはり、この葬儀が終わるまでに殺しておくべきだな。酒でも飲んで動かない内にやっておこうか』
どう、して。
おじいちゃんが、そこに。
声はでないまま、ぐるぐると思考は巡る。真っ先にでてきたソレは野獣となんら変わりのない野蛮な思考のみだった。
(ころさなきゃ)
弱肉強食。生存本能。私の中にはお兄ちゃんが殺したアレの姿が、行動が、全てが未だに焼き付いている。しかし同時に今この場所で衝動に任せればお母さんとお父さんのところへと送られることもまた強く理解していたのだ。
(どうすればいいんだろうか…?)
とはいえ小学生の記憶に人を殺せるようなものを思い出せるわけがない。本来ならばそんなことは日常では起こり得ないのだから。
だとしても私はまだ兄さんと生きていたい。この牙を剥く非日常を喰らい返し、人としての尊厳を保ちたいのだ。
自分でも破綻している考えだとわかっていた。たとえこちらを殺そうとしているものだと理解していても、一般的な理性が本能を押し留めようとした。わかっているのだ。
…そして。
悩んだ末に私は─決意した。
これは兄のための行動ではない。単に兄を言い訳にしているだけの、愚かなことだ。
例えるなら自分のエゴ。殺されることを─兄さんが自分以外のものになることをよしとしない怪物のエゴ。
『燃やすには酒瓶でも転がして中身を…』
薄汚い欲望の声は、私にもできる容易な行動をもたらした。台所なら火の不始末で処理されるだろう。真実を語れるような親戚は皆死んでしまうのだから。
なぜ殺そうとするのかなんて聞くつもりはなかった。大人の行動は全てに理由などない。子どもとして持つその純粋な感覚は、自分が怪物になったことを認めるようなものだった。
(いいさ、別に…)
自分の
妹の私がやろうとしなくてどうする。兄と同じところまで墜ちなくてどうする。
その日の夜、近寄りがたい炎に巻き込まれて猿共は死んだ。
猿共を殺した後の遺産は私たちしか親戚がいないのも相まり全てが集まった。不要なものだと思い捨ててしまうことを考えたが、二人暮らしをする上ではお金は頼れるところになってくるだろう。大人はもう信用できないのだから。
その数、10億と9900万。税金が引かれてなおこの金額。
慎ましやかに生きるのであれば充分に過ごせる大金。宝くじが当たるよりも多いそれは、本来なら容易く人を狂わせるだろう。
「…こっちでやっとく」
しかし兄さんは別だった。私の懸念していることなど何一つ起きないように欲望を留め、金銭を一般的な家庭の消費量に抑えていった。
だが。
猿はどうしても寄ってくる。
『一緒に暮らさない?ほら、この年で管理も大変だし、私がやってあげるわよ?』
『なによ、そんなこと言っちゃって。私の息子と仲がよかったし家に来ない?』
『いや、私の家なら誰もいないし─』
『ウチさぁ、屋上あるんだけど焼いてかない?そのまま─』
家に代わる代わる押しかけてはそんなことを宣うけばけばしい猿の目には透けて見えるほど浅ましい欲望が見え隠れていた。
私の中では一つしか頼る人はいなかった。その人だけしかまともに人としての私を見てくれなかった。
自分の評価を下げたくないがために苦手な人付き合いをして優等生と呼ばれるようになった。
彼のために優等生として過ごしていた私と、私のために悪評を被ってまで家のことを優先した彼。
どちらがいい人間なのかは明白だ。過ごしていく日々が、積もっていく罪悪感が、自分の中で爪を立てて暴れまわる。一度も愛されていいとは思えない。
塞ぎ込んでいるような私が兄を愛さなければならないとわかることはなかった。気づいたのは誘拐されたあの日だ。
誘拐、なんて聞き覚えのないものだ。普通なら巻き込まれることはないのだから。しかし私は普通ではなかった。
それを知ったのは友だちに眠らされて唐突に転がされた廃城の中。要は単なる金づると性欲のはけ口になっていると気づいた瞬間、みっともなく逃走し始めたときだ。
無様に叫ぶこともできず、静かに壊れた壁の隙間から抜け出した。辺りの暗さにほっとしても泣くことも笑うことも許されない。
駆け出しながら真っ先に出会ったのは─兄だった。力のかぎり抱きしめようとして押し倒してしまったが些細なことだった。私よりも長い髪が暗闇へと光り、突き放そうとした手は優しくこちらを抱きかかえるようにしてくれる。
「佳菜!?」
大声を出さずに驚く器用な真似をしたのは、私よりも状況がわかっているから。
透き通ったその目は、獣を慰める月のようで。
触ってくる手は、包みこんでくれて。
心音まで、伝わってくるようで。
それらが全て、自分にしか向けられることのない優しさだった。
「…喋らないでついてきて。佳菜の安全を確保できないから」
兄さんはされるがままの状態で私を抱きとめながら立つ。自然とよりかかる体制になり、硬い胸板に鼻先が当たる。
呆然としながら連れて行かれた先は崩れた小部屋だった。人が隠れるにしては余りにも大きいし、隙間も少し狭いため一般的な男性なら通らないだろう。それに追いかけるには入り口の辺りの瓦礫が邪魔になってやれないだろう。
「…佳菜は動かなくていい」
あの時よりも優しい言葉で、あの時よりも強い意志を持っていて。
自分の兄に向ける感情の変化というのは理解できていて、間違っていたとしても止めるつもりはなくて。
「
ボクのお兄ちゃんは、そう言ってくれた。
帰ってきたお兄ちゃんは狩りの終わった獣のような荒々しさと人らしい知性の両方があった。それは手から零れ落ちる血とシワや汚れの一つもつかない制服のせいだろう。
「…大丈夫ならちょっと待っててくれ。血は洗いたい」
「…ついてってもいい?」
お兄ちゃんは驚いていたけど、2回ほど瞬きして「…いいよ」とこちらに背中を向けながらスタスタと歩く。
優しくしてくれるお兄ちゃんがもうボクのこと以外も考えているのが少し妙にイライラして。
後ろから腕を絡めてお兄ちゃんの横へと立つ。腕が汚れてしまうが関係はない。暖かい手をボクの手でそっと支える。
「ボクもこれでいい。お兄ちゃんと一緒がいい」
ボクの中で何かがハマった音がした。それは自分の中に芯が通ったような気がするもので、心に暗い火を
ぐちゃぐちゃになった感情の中で整理をつけながら、ボクは満月の下でこう思う。
お兄ちゃんを他に渡さない、と。
長ったらしい理屈とかそういうものはない。あるとしたらメスが強いオスに惹かれるような本能。心変わりも何もかもしない絶対的なもの。
そう強く確信するほどまでに兄は美しく─強く光っていた。
それからどれくらい経ったのだろう。
兄と二人だけの歪な楽園は長く続いた。
お兄ちゃんはどんなことをしてもボクのことだけを気にかけてくれていた。
とても幸せで、離したくなくて。
だからこそ、壊れることが恐ろしかった。
(結婚したら、終わるのかな…)
お兄ちゃんと結婚する誰かのせいで終わるかもしれない。あるいはまた何かあって殺されるかもしれない。
必死に優等生の皮を被りながら、ボクはお兄ちゃんとの将来を考えた。どうすれば愛されるのか。
『血の繋がりがあるから』
その脆い理由だけで兄を引き止めることができないとわかっている。
そして悩んだ末に一つの結論にたどり着いた。
「子供を作れば一緒にいられるよね」
どこからどこまで破綻すれば気が済むのだろうか。自分が愛しているからどこまでも傷つけて構わないのだろうか。
そんな自問に対して体は止まらなかった。兄のブレザーの香りで絶頂に達するようなケダモノには意味がなかった。
夜になればなるほど、自分を抑えきれなくなる。
喰らえ、と。容易く押し倒され、無防備にも私の前へと
理性はとうに、本能へと敗北していた。
最初の方こそ体調を崩したが、それすらもお兄ちゃんからのものだと考えるだけで下腹部が震えた。何も考えないで貪ること。
歯止めの効かないソレは、血の味を覚えた狼となんら変わりなかった。
いつかこのことを白日のもとに晒したとき、お兄ちゃんはどんな反応をするのだろうか。
「お兄ちゃん、喜んでくれるよね」
眠りながら果てた愛おしい兄へと頬ずりし、互いの体温を確かめ合う。
そこには確かに、人としての─二人だけの営みがあった。