喜多郁代が中学に上がる前年の九月、金沢のじいちゃが死んだ。自宅の玄関で倒れているところを、となりの家の祖父が発見したらしかった。
「金沢のじいちゃ」というのは、横浜市金沢区に住んでいた母方の大伯父のことだ。妻も子供もおらず、顔じゅうシワシワで、痩せさらばえた体は理科室の骨格標本みたいで、いつも蚊取り線香と醤油せんべいの匂いがした。そして、細い体には似つかわしくない立派なギターを持っていた。毎年、お盆休みの時期に家族で母の実家に遊びにいくとき、決まって喜多は彼の家を訪ねるのだった。
じいちゃは喜多を可愛がってくれてはいたが、祖父母のように大喜びで家に招き入れたり、大量のお菓子でもてなしたりといったことはしなかった。ただ、喜多の姿を認めると吊り気味の目を眠たそうにしょぼつかせて、
「あ〜〜〜〜〜〜〜郁代ちゃん」
と寝起きのカバのような声を出したりした。それから一旦のそのそと部屋に引っ込んでからギターを持ってきて、深いえくぼを作りながらお決まりのようにこう言うのだ。
──じゃあいつもの公園でリサイタルやろうねえ
公園は金沢八景の住宅街のど真ん中にある。そこまで毎回、喜多がじいちゃのギターを持って運ぶ係だった。フェンダーの黒いギグバッグはリュックタイプで、両肩に引っ提げると小さな喜多の体はズシリと沈みこんだ。
公園に着くとじいちゃは木陰のベンチに座り込み、軽く音のチェックを済ませてから演奏を始めた。始まりはいつも彼の十八番であるビートルズの『ゴールデンスランバー』で、真っ黒なアコースティックギターを今にもへし折れそうな白くて細い指でかき鳴らした。
じいちゃの演奏が上手だったか下手だったか、喜多はあまりよく覚えていない。音に華やかさはなかったし繊細さもなかった気がする。奏者同様にヨレヨレなメロディはたまに濁ったり詰まったりもしていた。レパートリーも少なかった。だけど、不思議とじいちゃのギターを退屈だなんて感じたことは一度もなかった。
本当に不思議だった。致死量分の陽射しを吸い込んだ灼熱の滑り台、焦げた土とアスファルトの匂い、野良猫の公衆便所と化した砂場、日に焼けたパーゴラにまとわりつくノウゼンカズラのジャングル、数百万人の怨嗟の声を受けてもなお一向に揺るがないセミたちの騒音──。それら日常にまみれた風景の一片一片がいとも容易くじいちゃの作り出す非日常の領域に溶け込んでいくように思えた。
音楽には魔力がある。
じいちゃは杖の代わりにギターを使うタイプの魔術師なのかもしれない。
いや、きっとそうだ。絶対そうなのだ。
幼い喜多はそう感じ、そう信じた。私もじいちゃみたいになりたい。ギターを弾けるようになりたい。
気づけば、喜多の周りには自分以外の観客たちも集まっていた。数人の子供や保護者らしき大人たちは皆して少し距離を置きながらじいちゃのギターに聴き入っていた。
十分程度の演奏が終わると拍手が起こった。喜多は誰よりも大きく、誇らしげに手を叩き鳴らした。じいちゃは恥ずかしそうに頭をかき、皆に軽く頭を下げ、最後に喜多に向かって小さく歯を見せて笑った。喜多も満面の笑みで返すとじいちゃに駆け寄り、二人でハイタッチを交わした。
そういう夏が、毎年あった。
そして、もうそういう夏は二度とやってこない。
じいちゃは階段を踏み外した勢いで下まで転げ落ち、玄関前の床に頭を打ち付けて誰にも看取られずに死んだ。
横浜の斎場でじいちゃの葬儀を終えたあと、喜多は着替えもせずにいつも彼がリサイタルをやっていた公園まで走った。午後六時を過ぎた公園に人の気配はなく、鮮血と同じ色の夕暮れが遊具と木々の輪郭を赤黒く溶かし、ヒグラシとスズムシが不気味な輪唱を作っている。
喜多はゆっくりと木陰のベンチに一人腰をおろした。うつむきがちにまぶたを閉じ、唇を噛んだ。もうじいちゃには会えない、お話しもできない、あのギターの音が聴けない。
最後にじいちゃとどんな会話をしたんだっけ──思い出そうとする間もなく涙があふれた。喜多は両手で目元をおおうと、それからずいぶんと長いあいだ肩を震わせて泣いた。
──ギターの音が聴こえてきたのは、ヒグラシとスズムシの声が途切れた、ほんの一瞬の時間だったと思う。
顔を上げる。
しゃくり上げながら赤く腫れた両の目尻を手の甲で擦り、辺りを見回す。誰もいないしギターの音なんて聴こえなかった。
気のせいか。それとも幻聴でも聴いたのだろうか。こめかみから流れた汗が頬を伝ってあご先からベンチに滴り落ちる。
風が吹いた。ふと空を仰ぐと夕空は群青に進み、半分の月がぷかりと浮かんでいた。右側が欠けた月は上弦の月だったか、下弦の月だったか。
ともかく夜が迫っていた。
喜多は洟をすすりながら、ゆらりと腰を上げた。もうお家に帰ろう。さすがにこれ以上、外にいたら親に心配をかけてしまう。死んだじいちゃも天国から心配して見ているかもしれない。
汗と涙でびしょびしょの顔を袖で雑に拭い、喜多は息を止めるようにして走り出す。ぬるい風が枝を揺らし、虫の声が降り注いでいる。
喜多は走りつづける。金沢八景の住宅街は終わりの夏と生活の音に包まれている。どこかの民家から流れてくる弱々しいギターの音色などいとも簡単に塗りつぶされてしまって、もう喜多の耳まで届くことはなかった。
まだまだ下手くそなそのギターは『ゴールデンスランバー』を奏でている。
高校生の不良行為なんてせいぜい飲酒喫煙あたりが相場だろうが、秀華のヤンキーはひと味違う。
なにしろ、
私立秀華高校の軽音楽部といえば、名実ともに生え抜きの不良集団として有名であった。酒タバコはもちろんのこと、一般生徒へのカツアゲや暴力行為も日常茶飯事。持ち前の獰猛さから誰彼かまわず噛み付いてくるという狂犬っぷりだ。屈強な体育教師でさえ手を焼く始末で、並の先生や風紀委員のうらなり連中などでは到底太刀打ちできる相手ではなかった。
そんな彼らがついに違法薬物にまで手を染めた。
買った使ったどころの話ではない。白昼堂々、学校の花壇で苗から大事に育てて栽培していたというから驚きだ。
当然レッドカード。教員の通報からすぐに警察のガサが入り、呑気にジョウロで水をやっていた彼らは一網打尽でお縄についた。取り調べで乾燥大麻の所持に加え、闇サイトでの取引記録なども確認されたことから、まとめて少年院へと強制送還だ。
ちなみに、この不祥事には教員たちも色々と面倒な側杖を食ったようで、特にメディアや保護者会らの対応をしていた教頭がストレスから禿げ上がってしまったなどという根も葉もないウワサが校内で飛び交っている。
しかし、何はともあれ。
こうしてワルは滅び、秀華高校にもようやく平穏の光が差したのだった。小鳥たちはさえずり、生徒たちの笑顔は輝きに満ちて、心地よい春の日差しに包まれた明るく平和な学校生活の訪れと、
「──廃部ってどういうことですかっ?」
ならなかった。
「もうあの人たちはいなくなったのに、なんで部をつぶす必要があるんですかっ!」
女子生徒の声だった。
校門近くのヤマザクラが緑に染まり切った四月の下旬、軽音楽部の処遇について、残った数少ない部員の一人が校長室に呼び出されていた。その女子生徒は胸元に大きな赤いリボンをつけた明るい髪色の女の子で、自身の憤りを示すためにまだ幼さの残る目元をどうにか怒りの形に変えようと力んでいるように見える。
彼女の名は伊地知虹夏である。
二年三組出席番号一番、現軽音楽部部長の虹夏の前には、ガラス机を挟んで秀華高校の校長先生が座っている。その隣にはカツラ疑惑の教頭の姿もあった。
校長は苦々しく顔をひきつらせながら、
「いやうん、そうですね。言いたいことは分かるんですけどね。とりあえずいったん落ち着いて話を、」
「おかしいじゃないですか! 悪い人たちが軽音部にいました、その人たちが悪いことをして捕まりました、よかったよかった、それじゃあ部をなくします、って。ずっと真面目に活動してきたあたしたちはどうなるんですかっ? あの人たちの分まで責任を取れっていうんですかっ?」
「それは、ええ。まあたしかに酷な話だとは思いますけどねえ……」
「酷どころか横暴です! こんなのあんまりですよ!」
「う、ううん……」
淀んだ口調の校長にさらなる追撃をかけようとするその前に、教頭の咳払いが挟まってくる。
「君ぃ、さっきからなんだねその態度は。相手は校長先生なんだよ。ちょっとは言葉づかいに気をつかってだね、」
「だって、こんなのいくらなんでもひどすぎますよっ」
教頭は大仰なため息を吐き落とした。
「あのねえ、君はまだ学生の身だから分からんかもしれんが、大人の世界は当事者だけが罰を受ければそれでいいってわけではないのだよ。現に、私たち先生は彼らのした行いに対して毎日毎日たくさんの人たちに頭を下げているんだ。それにだね、逮捕者を出しておいて学校側が何も対処しないとなれば、再発防止の意思がないと世論に受け止められかねん」
「でも……だからって」
「デモもストもないっ。君が部を守りたいのと同じように、いやそれ以上に我々先生には学校を守る義務がある。そして、そのためにはこうする必要があるのだよ。もうこれは職員会議でも決まったことなんだ。ワガママはやめて大人しく受け入れるように」
分かったかね、と鼻の穴を大きくしたまま長広舌を終えた教頭を虹夏は横目で睨みつけた。そういう話を聞きたいわけではなかった。しかし、困ったことに教頭の話には反論の隙がないように思える。
勢いを削がれて黙り込んだ虹夏に勝ち誇りを得て気を良くしたのか、日々の鬱憤晴らしなのか、教頭はふたたび声を降らせてきた。
「だいたいねえ、さっき君は『自分たちは真面目に活動してきた』みたいなことを言っていたが、それも事実か疑わしいね。聞けば、軽音楽部はあの不良たちを除けば君ともう一人しかいないみたいじゃないか。たった二人でどう真面目に活動してきたというんだ? えっ?」
虹夏はぐんと背筋を伸ばし、今度は教頭の顔を正面から睨みつけた。これに乗じて真実までウソとねじ曲げられてはたまらない。
「練習は二人でも普通にできますし、今までもちゃんと真剣にやってきました」
ふんっ、と教頭は蔑みのこもった鼻息。虹夏はさらに、
「それに、先日部員が一人新しく入りました。今は三人でやってます」
教頭はそれがどうしたと言わんばかりの顔だ。
「二人が三人になったところでねえ。そうですよね、校長先生?」
「ええ、まあそうですね。『部』として扱うには最低でも部員が四人以上いないといけませんから……」
「と、いうことだ。つまり、対処うんぬん以前にそもそも君たちは物理的に部を続けることができない状態なのだよ」
ほれ見たか、と教頭はますますいやらしい顔つきになる。ふさふさの黒髪の下はどうせサハラ砂漠だろうに、と虹夏が胸の中で無関係な悪態をついていると、
「──話は聞かせてもらった」
おそらく、しばらく前から外で聞き耳を立てていたはずである。
突然、ドアを蹴破らんばかりに新たな女子生徒が室内に乱入してきた。
「な、何だね君はっ!」
「話は聞かせてもらいました」
「名を名乗りたまえ!」
虹夏は太いため息をつき、
「リョウ、部室の掃除して待っててって言ったじゃん」
「ん、終わって暇になったから」
虹夏と同じく二年三組で、軽音楽部副部長の山田リョウはそう言いのけてから教頭たちに向き直る。
「部員、四人集まればいいんですよね?」
不意打ちの登場に多少面食らっていたようだが、教頭はすぐに表情を切り替え、
「そういう問題ではない。たとえ部員が集まろうが、軽音楽部の廃部はもう決定事項だ。いまさらぐちゃぐちゃ言っても、」
「あと一人集まれば部としてまた活動できるようになって、秋の文化祭ライブに出てもいいし、来年の夏のロックフェスにも出場していい。そしてそこですごい演奏をして汚名返上すれば万事解決。部費もがっぽり貰えるようになる。そういうことですよね。それなら大丈夫です。余裕です」
「まったく話聞いていないじゃないかっ」
さっきからずいぶんとボケ倒すな、と虹夏は思う。リョウも普段はちゃらんぽらんだが、ここまで大人相手にふざけることはしないはずである。
教頭はこめかみを震わせながらガラス机をバンバン叩き、
「ええいっ。めちゃくちゃなことを言って我々を混乱させ、すべて有耶無耶にしてやろうという魂胆なのだろうがそうはいかんぞっ!」
リョウがギクリと肩を縮めた。なるほどそういう作戦だったらしい。
「君らがなんと言おうが廃部は廃部だ! 軽音楽部は不良の温床なんだよっ。このまま残しておいては、またああいったクズどもがうじゃうじゃ湧いてくるっ。ここで摘んでおかねば未来の私の毛根が、」
「教頭先生」
校長の静かで鋭い声に、教頭がギョッと動きを止める。
「どんなにヤンチャな子でも、先生が生徒を『クズ』などと悪しざまに言うのはいかがなものかと思いますよ」
「あっいや、それは……」
「あと、諭し方も良くありません。感情的な口調で抑圧するのは教育ではなく支配ですよ。それでは二人も納得できないのではないですか?」
五秒ほど口の中でもごもご言葉を転がしていた教頭だったが、最終的に「すみません」の一言で引き下がった。
「さて、どうしたものですかね」
今度は校長のターンのようだった。先ほどとは打って変わって、できる大人のオーラを背後でくゆらせている。虹夏は息を飲み、言うべき言葉を考え、
リョウはほとんど焦りに任せた口調で、
「と、とりあえず近いうちにあと一人かき集めてきます。それが出来ないようなら煮るなり焼くなり何なりと好きにしてください」
「ちょ、バカっ。そんな約束っ……!」
しかし案外、校長の反応は悪くない様子だった。ふむんと唇を曲げてあごを指先で撫で回して思案している。
と、急にリョウに向かってあごを向け、
「──さっき、君はすごい演奏をして汚名返上するのは余裕だ、というふうに言っていましたね? それは本心ですか?」
「、はい」
どうにか即答できたようだが、顔が引きつって見える。次に校長は虹夏めがけて、
「伊地知さんも、そんなことが本当にできるって自信を持って言えますか?」
この質問はきっと『どう答えるか』ではなく、『どんな反応をするか』を見ているのではないかと虹夏は思う。出来るはずがないとわかっていながらやけっぱちな虚勢を張るか、チクショーやってやるよと勢い任せの強がりを見せるか。
「で、できます! ぜったいにやってみせますっ!」
結果、両方入り交じったような答えになった。
「なるほど。分かりました」
すると校長はやおら立ち上がり、自分の机へと帰っていった。柔らかそうな椅子にどかりともたれかかった。
どう受け取ったのだろう、とハラハラしながら虹夏はちらとリョウを盗み見る。リョウも不安そうにこちらを見ていた。
そこから三十秒近い沈黙が流れ、
校長が、
「──いいでしょう。二人がそこまで言うのでしたら、当座は私のほうで部活動の存続を認めます」
実に自然な調子でそう言い放ったので、最初の数秒間は誰も反応できずにいた。やがて各々が表情を変えていく。
まず虹夏が目を炯々と輝かせ、
次にリョウがほう、と全身の力を溶かし、
最後に教頭がゆっくり目を剥いていった。
「こっ、こっ、校長先生っ!?」
そしてゾンビのような動きで校長の机に近づくと、教頭は身を乗り出して吠えた。
「ななな何を言ってるんですかっ! そんなのっ、保護者も教委も納得するわけないでしょうっ!」
「ええ、だからこそ諭し方が大事なんですよ」
「さ、諭し方って……」
「なんのお咎めもなしでは世論の溜飲は下がらないでしょうからね。ですのでいくつか〝条件〟を与えて、それらが達成できないようなら廃部、というように今度の説明会で私からお話しします。もちろんこの言葉にウソはありませんよ。全ては彼女たちのがんばり次第ということで。──このへんが落としどころでどうでしょうか?」
校長が目線を向けてくる。虹夏とリョウは顔を見合わせたあと、同時に校長に向かって力強くうなずいて見せた。
そのかたわらで教頭がしぶい顔をしている。頭を抱えようとして、ふさふさの黒髪が頭から床にこぼれ落ちるのを虹夏とリョウは目撃した。
ともかく、首の皮一枚はつながった。
校長室を後にして二人で部室まで戻る道々、虹夏は大きく息を吸い込むと、
「うわああーーーんっ、よかったよーーーっ」
と天井に向かって投げつけるように叫ぶのだった。
「何とかなってよかった」
「うん、ほんとに……いやまだ全然何とかなったわけじゃないんだけどね」
とはいえ、蜘蛛の糸はなんとか手中にたぐり寄せられた。あとはこれをじっくり確実に昇っていけばいい話なのだ。
校長から与えられた「条件」というのは大きく三つ。
一、明日から二週間以内に新入部員をあと一人迎え入れること。
二、週に二回以上は部活練習をすること。
三、年内に何かしら大きな「活動」を一回はすること。
三つ目の「活動」というのはつまりライブのことなのだが、それは校内外問わないとのことだった。この他にも、これ以上の問題行為は起こさないだとか教頭のヅラは他言しないだとかの小さな条件もあったが、まあ大したものではない。
ぶっちゃけ、かなり緩いと思う。週に二回の練習なんて今までどおりやっていれば楽に達成できる課題だし、「活動」も秋の文化祭ライブに出場すればそれでクリアとなる。
さしあたっては部員集めが課題となるだろうが、一人くらいならすぐに捕まるだろうと虹夏は軽く考えていた。
「ひとまず、これからは色んな人に声をかけていかないとね。特に一年生。まあでもコミュ強の喜多ちゃんがいるし、これも案外さっくり見つかったりして──」
そこでふと思い、
「てかさリョウ、喜多ちゃんはどうしたの? 来るとき一緒にいなかったよね?」
リョウは気まずそうに前髪をいじり出し、
「あっ。えっと、うん……」
「部室で留守番してる感じ?」
「ああうん。まあそんな感じ」
「なにその反応」
「いや、べつに」
「……なんか怪しいな」
「何でもないって。ほんと」
なにか隠していると見た。
虹夏はしばし思考をめぐらせ、
「──あのさ、まさかとは思うけど部室の掃除、喜多ちゃんに任せっきりで来たわけじゃないよね? ちゃんと終わらせてからあたしのとこに来たんだよね?」
リョウの額からだらだらと汗が流れてきた。必死に目線を逸らそうとするが、やがて虹夏の圧に耐えきれなくなったのか「ふっ」と誤魔化しの笑みを浮かべた。
虹夏の顔を小さく指さし、
「ビンゴ」
瞬間、虹夏の頭突きがうなりを上げる。
*
少しだけ時間を戻す。
虹夏が校長室で教頭たちと舌戦を交え、リョウが「虹夏の助太刀に行ってくる」と掃除をほっぽり出して出て行った頃、喜多郁代はといえばデッキブラシを片手に、一人部室でせっせと清掃作業に明け暮れていた。
屋内の部室の掃除にデッキブラシなんて普通おかしい。
それはきっと常識的な感覚に違いないが、中の有り様を見ればそのような常識はたちどころに覆る。
壁、床、天井についたおびただしいまでの汚れ。それも生活の中で自然とつくような、なまっちろいものではない。天井にはタバコのヤニでできた広大な黄ばみ、床には酒やら何やらをこぼして作られた壮大な染み、あとは部屋中を埋めつくす低俗で下品な落書きの数々。それらはもちろん、あの不良生徒たちが残した負の遺産であり、真面目な先代たちが代々受け継いできた伝統の成れの果てであった。
デッキブラシを動かすたびに、喜多は悲しくなってくる。どうして自分は掃除なんてしているのだろう。
こんなことをするために軽音部に入ったわけではなかったはずである。
中学時代から仲の良かった虹夏とリョウを追いかけて、自分も同じ高校に入った。三人で一緒に、中学のときにはできなかったバンドをやろうと約束していたのだ。そして三人で文化祭ライブに出て、色んな人からキャーキャー言われて、校外でも音楽フェスに参加して、スカウトの目に留まって、ついには高校生でメジャーデビューも果たしたりなんかして──、
そんな輝かしい未来を期待して軽音部のドアを叩いたはずだった。
ところがどうだ、
現実じゃこうして縁もゆかりも無い不良生徒たちのケツ拭いをしていて。軽音部というだけで周りからは腫れもの扱いされて。文化祭ライブへの出場どころか、廃部の可能性までウワサされているときた。
どうしてこうなってしまったのか。
壁に赤のスプレーで書かれた「SEX」の文字を忌々しげに見つめ、喜多は八つ当たりのように全力のデッキブラシをかける。何度も何度もブラシを壁に擦り付ける。が、ラッカー塗料の頑固な汚れはその程度ではビクともしない。いくら擦ってもまるで落ちやしない。うらぶれた現実と共にしつこく壁にこびりついたままだ。
しまいに喜多は涙目になって、ブラシを壁に放り出した。そして「もういやあっ!」と駄々っ子のような叫びを上げながらとうとう自身も床にひっくり返ってしまった。
「…………なにやってるんだろ、私…………」
虚しい独り言もただ天井に飲まれるだけ。
よく見れば、天井にもうっすらと「SEX」の文字があることに気づく。不良たちがどれだけ種の保存本能に忠実だったのかと考えたくもないことが頭によぎり、たまらず喜多は起き上がった。
「……はあ」
掃除はまったくと言っていいほど進んでいなかった。タバコの吸い殻などの目に見えるゴミはある程度拾い終わってゴミ袋にぶち込んだが、見た目の変化など微々たるものだ。まだまだそこらにはシャフトの折れ曲がった譜面台の残骸やら、体育倉庫から盗んできたと思しきマットが転がったままでいる。
そこのマットに喜多は腰をおろした。リョウが行ってしまってから掃除のやる気も一緒にすっぽ抜けてしまったらしい。スカートのポッケからスマホを取り出して堂々とサボりに入った。
画面に指を這わせ、ざっとイソスタのTLを流し見し、次に動画アプリも開いてみる。「弾いてみた」系のギターの弾き語り動画ばかりがトップに表示されるのは、喜多がそういう系統のチャンネルを多く登録しているからだった。
中でも、喜多がよく視聴しているのが「ギターヒーロー」というチャンネルだった。
登録者数5万人。この手の演奏系オーチューバーにしてはなかなかの規模である。
「ギターヒーロー」のアカウントから喜多は一番上にあった最新の動画を再生する。この動画ももう何度観たか覚えていない。映し出されるのはいつもの芋っぽいピンクジャージを着た女の子。顔は映っていない。年季の入った黒いレスポールカスタムのボディをリズムよく指先で軽く叩くと、女の子はすぐにストロークを開始する。
喜多がこのチャンネルをよく視聴する理由は、単純に演奏のクオリティにあった。
はっきり言って、『バケモノ』なのだ。
一山いくらの「弾いてみた」動画たちと比較しても明らかに頭ひとつ抜けている。ディストーションが効いたリードは脳が揺れるほどエネルギッシュで、ブリッジミュートで刻まれるリズムは一切の濁りがない鮮やかさ。指板を高速で這い回る白い指はクモみたいに縦横無尽だが、無駄を極限まで削ぎ落としたゆえの動きであることは喜多にも分かっている。
ため息が出た。
天才とはきっとこういう人のことを言うのだ。
年齢だって自分とそう変わらないように見える。
動画の更新が半年以上前で止まっていることが気がかりではあるが、おそらく本格的にプロを目指し始めたからだとか、大手のレコード会社からスカウトされたからだとか、そのへんの理由なのだろう。
なんだか悔しくなってきた。
一分も再生しないうちに動画を止め、すっくと喜多は立ち上がった。何をしようと思ったわけではない。ただなんとなくジッとしていられなくなった。さっさと掃除を終わらせて、綺麗になった部室で自分も思いっきりギターをかき鳴らしてやろうと喜多は思った。
「……よしっ」
まずは床の汚れから重点的にやっつけよう。そう思ってバケツの水を取り替えに、ドアを開けて廊下に出たときだった。
人影はドアのすぐそばに立っていた。
「あっ……!」
「えっ?」
軽音楽部の部室は防音の目的もあって、人通りの少ない西棟の階段下、用務室の隣にひっそりと存在している。当然、こんなへんぴな場所を訪れるのは軽音部員を除けば用務員のおっちゃんかゴキブリくらいで、一般生徒が目的あって立ち入ることはほとんどない。
ましてや、一年生の女子がたった一人で来るなどありえない話である。
「あなたは?」
「あ、あっ、いや……その、」
「軽音になにか用事?」
「あぅ、あのっ、あのっ……!」
人見知りなのかもしれない。女の子は顔を伏せると薄桃色の異様に長い髪をだらりと垂らし、通学カバンの中を何やらガサガサやり始めた。上履きの先端が喜多と同じ色だから一年生なのは間違いない。
もしかして入部希望の子かしら、と喜多が明るい結論にいたって期待のまなざしを向けていると、
ようやく女の子が顔を上げて、
「こ、こっ、これでどうか……!」
そう言って取り出したのは、入部届の用紙──などではなかった。
「…………ブタさん?」
の、貯金箱である。
間違いない。「ちょきんばこ」とブタの背中にもマジックで書かれている。
喜多は意味がわからないという顔でブタと女の子を交互に見つめた。
「だ、だいたい十万円くらい入ってます。だっ、だからこれでどうか、お、お願いします……!」
「ねえ、なんの話をしてるの?」
女の子は長い前髪の下でターコイズブルーの瞳を左右に揺らしながら、
「あ、えっと、ここで買えるって聞いて……」
「なにを?」
「ガ、
「ガンジャ?」
喜多の頭に、謎のインド人の僧侶の顔が浮かんだ。
判然としない喜多の様子に、女の子もだんだんと不安な表情を見せ始め、
「あ、あれ……? こ、ここで買えるって……ウワサで聞いて……」
「よく分からないけど、軽音部ではなにも売ってないわよ?」
「えっ。あ、そ、そうなん、ですか」
女の子は落ち込むような、あるいはどこかホッとするような微妙な顔でつぶやいた。
「あっ、じゃあ私はこれで──」
そしてそのまま流れるように立ち去ろうとするので、
「あっ。ね、待って」
がっしりと。喜多は女の子の腕を両手でホールドする。
「へっ!?」
「えっと、ガンジャ? っていうのはないんだけど、楽器ならあるわよ。ギターとか。なんなら私、それなりに演奏もできるし、ちょっと見ていかない?」
よく分からない理屈ではある。
だが今は理屈よりも道理よりも、女の子を逃さないことのほうが重要だった。わざわざこんな僻地まで来てくれるなんてきっといい子に違いないと喜多は思う。ぜひとも友達になりたい。あわよくば入部してもらおう、そうしてもらおう。
徐々に部室へと引きずりこまれていく女の子は首がちぎれんばかりにかぶりを振って、
「やっ! いやいやいやっ! いいですいいです! ほっほっほんと大丈夫ですからっ!」
「遠慮しないで。いまちょっと掃除中だから少し部屋汚いけど、すぐ終わらせるから。ねっ?」
「そ、掃除中……?」
そこで女の子は喜多の後方に目をやった。視線をたどった先にあるのは、壁中を埋め尽くす暴力的な落書きやどこもかしこも染みだらけの不衛生極まりない世紀末の風景。
途端に女の子は真っ青になり、漫画みたいに顔に縦線まで走らせて、
「え、えんがちょおっ!!」
と叫びを上げながら、ものすごい力で喜多の手を振りほどいた。さらに部室の引き戸を閉め、喜多を中に封じ込めようとしてくる。
「きゃっ! ちょ、待って!」
しかし喜多も食らいつく。すんでのところで戸を引っつかみ、強引に開けにかかった。隙間から目だけを覗かせて女の子をジロリと見つめ、
「待ってってばぁっ」
「ひ、ひいぃ……ぼぼぼ暴力反対悪霊退散……!」
失礼しちゃう、と喜多はむくれる。私はそんな野蛮な人間じゃないのに。
とはいえ、こうして無理強いをしてしまってはそう思われても仕方ないし可哀想にも思えてくる。
「ねえっ、分かったから! もう無理やり誘ったりしないから! 開けて話を、」
──つるりと。
そのとき、うっかり汗ばんだ指先がドアから離れてしまい、
「ほぎゃああぁっ!」
勢いあまって引き戸が思いっきり閉められる重低音と、指を挟まれた女の子の悲鳴が響き渡った。
「わああぁっ! ご、ごめんなさいっ! 大丈夫っ?」
今度は喜多が顔を真っ青にし、あわてて廊下でうずくまる女の子の手を取った。
「ああっ、ちょっと赤くなっちゃってる……! どうしようっ。痛くないっ? 保健室いくっ?」
「あ、いや……ちょ、ちょうど指の付け根のあたりだったので、そこまで痛くは……」
「そ、そう? でも一応、保健室にいって先生に診てもらったほうが、」
女の子の左手を取りながら、喜多の意識は徐々に指の先端のほうへと滑っていく。
そして「そこ」に目が留まった。
指先。
ひび割れて白くなった固そうな指先。
これまで幾度となく弦を押さえつづけてきたギタリストの証によく似た指先。
少なくとも、喜多にはそう見えた。
「…………ねえ、」
喜多のその一言にも満たない呼びかけに、ギクリと女の子は身を固くする。何事かに怯えるかのように目を伏せ、かすかに唇を震わせている。
それにも気づかず喜多は口を開く、
──もしかして、あなたもギター弾けるの?
「喜多ちゃ──────────んっ!!」
その問いかけが声になるより先に、廊下の奥から自分を呼ぶ声が響いてきた。
「伊地知先輩?」
顔を向ければ、校長室に呼び出された部長の先輩と、頼まれたわけでもないのに助太刀に向かった副部長の先輩が並んで走ってきている。
喜多も二人に歩み寄ろうとして、
「……あっ!」
その隙に、女の子がバタバタと突っ転びそうになりながら反対側の廊下を走り去っていくのが見えた。追いかけようかと一瞬迷ったが、もうこれ以上は嫌われるだけだとして喜多は足を止め、がっくり肩を落とした。
「いまの子、だれ?」
いつの間にか近くにきていたリョウが訊ねてくる。そういえば名前を訊いていなかった。喜多はふるふると首を横に揺らし、
「一年生の子だとは思うんですけど」
それだけ答えて、自分の左手を見おろした。人差し指、中指、薬指の先端はどれも白くて固い。中学の頃から大切に育ててきたギターたこ。だけど、あの女の子のほうがもっともっと固そうだったように思う。
四月はあと数日もしないうちに五月になろうとしている。
虹夏が校長から言い渡された条件を喜多に伝えている。リョウが実は教頭がヅラだったことも一緒に教えている。喜多は白目を剥きながらひきつり笑いを浮かべて、自分のバンド人生の行く末を憂いている。
窓の外では繁殖期に入ったウグイスが眠そうに鳴いていた。
考えてみれば当然だ。桜が散ると同時に春が終わるわけではない。
まだ春はもう半分くらいは残っているはずなのだ。
あともう少しだけ、この春はつづくのだ。
出会いの春だった。