月が半分 暗いのは   作:夜のイロ

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放課後のハングドウーマン

 その少年には夢があった。

 

 高校生になったら絶対に彼女を作ってみせる。それで週に一度は渋谷か表参道あたりでオシャレデートをして。月に一度はお互いの家に遊びにいって。クリスマスの日には念願叶って童貞を捨てて。そして今まで自分を非モテだのと散々バカにしてきた中学の奴らに大いばりで自慢してやるんだ──。

 まさしく思春期男子のおもむき。

 とはいえ、夢を持つというのは自分を磨く原動力となるものだった。事実、その少年は中学のときまで近所の安い床屋で髪を切っていたのに、高校に入ってからは生意気にもちょっとお高い美容室に通ったりしている。制服を着崩してワルぶってみたりもしたし、九官鳥レベルの英語しか話せないくせに洋楽好きアピールもしてきた。弾けもしないギターを買って、それを高らかに喧伝したりもした。

 そうやって血のにじむような努力を重ねてきた彼に、今日ようやく春が訪れたのだった。

 女子に校舎裏に呼び出されたのだ。きっと告白イベントに違いなかった。

 しかも相手はとなりのクラスの喜多郁代。

 まさかと少年は思った。あの喜多が。

 一年生の中でも上位層に入るイケイケルックスのあの喜多が、まさか自分に好意を抱いていたなんて。

 もちろん断る理由などなかった。

 告白されたらちょっと悩むふりをして、それからスカした感じでOKしてやろうと彼は決めた。だってそれが一番かっこいい男の仕草なのだから。

 喜多が軽音所属というのが少年的にはやや引っかかるところであったが、別に大きな問題ではなかった。もうあのおっかない不良たちはどこにもいない。部自体もどうせそのうち廃部になる。軽音楽部の代紋を失った喜多を怖がる必要などどこにもない。

 

 ──うん、だからたぶん大丈夫。

 

 自分にそう言い聞かせ、少年はワキワキと喜多を待ちつづける。

 校舎裏は園芸部が使っているねこ車やスコップ、土嚢などが無造作に転がってるせいで手頃な工事現場みたいになっている。私立の学校らしく小奇麗な見た目の校舎もこうして裏側から見ると貧相なもので、目につくのはフェンスに囲まれたGHP方式の室外機か女子トイレの窓くらいしかない。

 ドローンとか使えば簡単に盗撮できるんじゃないか──少年がしげしげと女子トイレの窓を真剣に観察し始めたあたりで足音が近づいてきた。

 

「ごめんなさーい! 待たせちゃった?」

 

 喜多である。

 あわてて少年はふしだらな思考をかき消し、忙しなくバリバリと頭をかいた。そして駆け寄ってくる喜多にスカした態度でスカした返答。

「いっ、いや? べつに? そんなに待ってねえけど?」

「そっか。よかった」

 喜多はふう、と一つだけ大きく息を吐き出してから喜色満面の笑みを向けてきた。走ってきたせいなのか少し頬が紅潮している。それがたまらなく少年をドキドキさせる。

「それでね。さっそくだけど私、あなたに言いたいことがあって」

 

 きたきたきたきたっ、と少年は全身の力を使って背筋を正した。

 この雰囲気はやはり告白だ。ついにこのときがきたのだ。

 これで自分も晴れてリア充の仲間入り。中学の奴らには何と言って自慢してやろうか。いや、まだ早いか。もっと関係を深めてやる事やってからのほうが気持ちがいいだろう。

 喜多が咳払いをして喉を整えている。あと数秒もしないうちに愛の告白がくる。彼女持ちになれる。景気づけにカウントダウンでもしようか、うんそれがいい。三から始めよう。それいくぞ。

 三、二、一、

 タイミングよく喜多の口が開く、

 

「──軽音部、興味ない? いま絶賛部員募集中なの!」

 

 

 *

 

 

「──つまり?」

 

 真剣に愚痴を聞いてもらうには、まず相手の同情を深く誘う必要がある。こんなに自分はがんばったのに結果が報われなかったとか。理不尽な仕打ちにあって思うような成果を出せなかったとか。喜多もそんな感じのことを言ったはずだった。

 

「男子を校舎裏まで呼び出しておいて、結局ただの部活の勧誘だったってわけ? しかも、屋上とか体育館裏で他の男子にも同じようなことをしたって? はーっ、とんだ思わせぶりの鬼畜ドS悪女だね喜多は」

 

 ところが、返ってきたのは優しい慰めや励ましの言葉とはほど遠い、紛れもなく正真正銘のイジワルなまでの正論であった。

 正論の射手は「さっつー」ことクラスメイトの佐々木次子で、喜多の真正面に座りながら昼飯のアップルパイをハムスターのようにもそもそ食っている。対する喜多は、さっき購買で買ったいちごミルクのパックにストローをぶっ刺しつつ、

 

「ひどいっ。そこまで言わなくてもいいじゃない!」

 と、プリプリ言い返すのだった。

「ひどいのはあんたの方でしょ。なんでよりにもよってそんなド定番な告白スポットに呼び出す必要があんのよ。普通にその辺で誘えばいいだけの話をさぁ」

「だ、だってっ、軽音って今も評判あんまりよくないでしょ? 人目があるところで誘ったら、周りを気にして誰からもいいお返事もらえないと思って」

「だからって、あまりにも男泣かせでしょそんなの。さすがに相手が気の毒だわあ。そんなね、詐欺かハニトラまがいのこといい加減やめときなって。そのうち手痛いしっぺ返しくるよきっと」

 

 険のある喩えにムッと喜多は眉根を寄せた。人聞きが悪い、私だって悪気があった訳じゃないのに、必死に部員集めしてただけなのに、さっつーも同じ立場なら私の気持ちがわかるはずよ──ストローを噛みながら、いちごミルクをプンスカ吸い上げていく。

 昼休みの教室は閑散としていた。喜多の座る窓ぎわの席は真昼の日差しに晒され、うっすらと開いたサッシ窓の隙間からはまだ肌寒さの残る外気が入り込み、クリーム色のカーテンをさやさやと揺らしている。

 その風に当てられて少し冷静に考えてみれば、さっつーの言うことも理解できてくる。たしかに、自分だってひと気のない場所にいきなり呼び出されたりしたら変な勘違いをしてしまうかもしれない。それがどれだけ恥ずかしいことなのかまではまだよく想像つかないけど。

 ストローから口を離し、

 

「……分かったわよ。もう呼び出しとかそういうのはやめる」

「それがいい。下手な小細工せずに正々堂々と言うのがいちばん」

「そうよね。そうする」それでパッと喜多は笑顔に切り替えて、「というわけで。ねっ、さっつー? 一緒に軽音やろっ?」

「やんにゃい」

 アップルパイの切れっ端を口の中に突っ込んで、もそもそとさっつーは即答した。

「何度も言ってるけど、うちは楽器なんてからっきしだし。それに人前で演奏とかマジ無理だから」

「うう……そこをなんとか」

「やんないって」

「なんとかっ!」

 

 それでもさっつーは首を横に揺らすばかりだった。

 思えば、こうして頭を下げて彼女にお願いするのも五回目くらいになるだろうか。根気強く手を合わせていればそのうち折れてくれるかもと淡い期待を寄せていたが、さっつーもなかなか防御が固い。

 元気の尽きた喜多は机に顔を沈ませて、

 

「はあ……どうしてもダメなのね……」

「どうしてもダメなのよ。こればっかりはうちも力になれんわ。他を当たってくれ」

「他なんてもういないわよ……楽器やってるって子、手当り次第にアタックしてみたけど全敗。今日誘った男の子がリストの最後の一人だったのに、あっさりフラれちゃった……」

「あはっ、ドーンマイ」

「笑いごとじゃないわよ、もうぅっ。ああ本当にどうしようっ。約束の期限まであと四日しかないのに……!」

「約束──ああ、例の校長から言い渡された条件だっけか。そっかあ、残り四日かあ。つらそうだね〜」

「〝そう〟じゃなくて、ほんとにつらいのよう。先輩たちも毎日必死に色んな人に声かけてるんだけど、ぜんぜん捕まらないみたいで。はあ、このままじゃ本当に廃部になっちゃう……っ」

 

 早いもので、あれからすでに十日が経過していた。

 当初は二週間もあれば部員の一人くらい余裕だよねと三人してぶっこいていたが、現実はこの有り様である。負の感情が凝縮された吐息が喜多の口からプスプスと抜けていく。

 そんな喜多を見てさっつーは少しだけ真面目な顔になり、

 

「あのさ。思うんだけど、なんでそんな躍起になって部員なんか集めてるわけ? 別にいまの軽音がつぶれたっていいじゃん。新しく『新生・軽音楽部』みたいなの作って、そっから再スタートとかじゃダメなの?」

 喜多はのっそり頭を上げて、

「……新しく作るにしても、『部』として申請するには結局四人集まらないとダメみたいなのよ」

「んじゃ同好会とかでいいじゃん。それなら人数関係ないっしょ?」

「新設の同好会は部室がもらえないって伊地知先輩が言ってたの。学校もあんまり空き部屋に余裕がないからって。いま使ってる部室は廃部になったら取り上げられちゃうし、部室なしだと大きい音出して練習もできないし……だから何とかして、いまの部を存続させるしかないのよ」

 

 あとは、先輩二人が校長相手に軽音部の立て直しをしてみせると大見得切ってしまった以上、いまさら取りやめるのが難しいという事情もあったが、まあそれは黙っておく。

 さっつーは「ふう〜ん」と難しい顔で頬杖をつき、気だるげに窓の外に視線を移した。人差し指でトントンと意味もなく机を弾く。

 それから長い長い十秒間を経て、

 

「──そりゃあ大変だあ」

 

 という短い一言で喜多の苦労と悩みを総括してきた。

 

「もうっ。他人事だと思って」

「実際そうだし。部外者からすれば『大変だなあ』としか言えんわ。協力のしようがないもん、そんなの」

「そっ、そうだけど……そうなんだけどぉ……」

 ううぅ、と喜多は嘆きの唸りを上げてまた机にふさぎ込んでしまう。 普段はまっすぐ伸びた綺麗な背中もいまは悲しいほどに丸い。

「まあ元気出せって。生きてるだけで素晴らしいんだから」

「そんな適用範囲広大な慰めなんて要らないわよう」

「しょうがないな〜。そんじゃあ、気休めでいいならなんかアドバイスしたげよっか?」

 喜多は顔の上半分だけ見せて、

「アドバイス?」

「そ、三つくらい。気休めにね」

 念押しするさっつーはスマホを取り出して、何やら調べながら語り出す。

「えー、まずひとつ。『慎重に考え、大胆に動くべし! 幸せは思いのほか近くにあるかも!?』」

「……なにそれ?」

「次、『運命は夕方にあり! 赤い夕日を眺めながら気になるあの子にドキドキ接近大チャンス!?』」

 もう占いのアドバイスであるというオチには気づいた。

 でも一応、三つ目も大人しく聞いてみる。

「最後ね。『ラッキーカラーは青と黄色! 人生を大きく変えちゃう可能性あり!? 血まなこで探すべし!』だってさ」

 ひと呼吸置いてからさっつーは得意げに、

「──これね、よく当たるって最近ウワサの占いサイト。よかったね喜多。おうし座、今日一位だったよ。なんかいいことあるんじゃない。知らんけど」

 本当に気休めね、と喜多は黒目を半分にする。

 それでも自然と口角が上がってくるのはさっつーなりの気づかいが嬉しかったのと、良きにつけ悪しきにつけバカバカしさに心が落ち着いたからなのかもしれない。

 もう少しだけ、勧誘がんばってみよう──。

 ということで、

 

「ねえさっつー? やっぱり一緒に軽音やら、」

「やんない」

 

 窓から見える五月初旬の空は青かった。

 

 

 

 *

 

 

 

 その日の授業もつつがなく終われば、放課後はいつも通り軽音部総出で部員探しミッションの再開となる。今日は、虹夏は人通りの多い東棟に出向して手当り次第にビラ配りと声かけ。リョウも校門付近で帰宅部の生徒を狙いうちするという作戦だ。

 ちなみに最近は一年生に限定せず、二年、三年にもとにかく何でも声をかけまくる「数打ちゃ」方針に変わってきている。それだけ必死ということなのだろうが、血走った目でガツガツ話しかけてくる彼女らに対し、一般生徒たちも心中穏やかではないはずである。

 さて、一方の喜多はというと特に配置場所が決まっていない独立遊軍で、体育館周辺や西棟の中などをグルグル駆けまわっていた。そこで狙いをつけた生徒に近づき、持ち前のコミュ力と愛想の良さで話しかけ、相手の警戒心を解いたところで懐から部員募集のビラをズドン。これをずっと繰り返していた。

 だが、繰り返しているということはつまるところ失敗ばかりということで、ビラに目を通すやいなや、生徒たちは喜多の本性を見抜いたがごとく青ざめ、ビラを投げ捨て、恐れおののき走り去っていくのだった。

 

「宗教勧誘の人もこんな気持ちなのかしらね……」

 

 そしていま現在、喜多は昇降口付近の石段にぐったりと腰かけ、疲労困憊を声にして吐き出している。

 小一時間ほどぶっ通しでスカウトをつづけてきたが結局全員に逃げられてしまった。おおかた予想通りの展開ではあったにしても、予想通りの現実というのは無意識の期待を裏切られた気分でふつうに凹むものだった。

 腹の底から深いため息。

 少なくとも二十人には声をかけたというのにこの結果とは。漫画一冊分の厚みにもなるビラの束は、一枚として役目を果たすことなく喜多の腕の中でペラペラと風に吹かれて虚しくはためいている。

 喜多はぼんやりと時計塔に目線を上らせた。時刻は午後六時を二十分ほど過ぎていて、東の空はもう夜の闇に染まり出している。近くのテニスコートではソフトテニス部員らがネットのクランクを下げ、グラウンドでは野球部のイガグリ坊主たちが整地ローラーを引っ張っていた。

 まもなく下校の時間だった。

 秀華高校の校則では、六月〜十月までを除く期間を「冬時間」とし、六時半までにはどの部もおしなべて活動を終了。その後は速やかに下校しなければならないことになっている。

 要するに今日はもうタイムリミット。ゲームセット。ノーサイド。

 自虐気味に終わりの言葉を唱えつつ、よっこらと腰をあげて喜多も部室に向かおうとしたときだった。

 

「──わっ、わ、わ、」

 

 急にグラウンドから突風がやってきた。前髪が一気に持ち上がり、ついでにスカートも景気よく持ち上がりそうになる。あわてて喜多は両手で裾をおさえた。が、その隙に腕に抱えられていたビラの束から何枚かがするりと逃げていった。

 

「ああっ。もうっ、もうっ!」

 

 一人で何をやっているんだろうと思わなくもない。

 惨めに腰をかがめて紙切れを拾い上げる自分を、遠まきに笑っている生徒がいる。恥ずかしくてひどく顔が熱くなっている自分にも気づいている。

 でも、拾う手は緩めたくなかった。

 打ちのめされてたまるか。いまに見てろと思う。ぜったいにあと一人部員を集めて、しっかり部を立て直して、誰が見ても恥ずかしくない軽音部に返り咲いてみせるんだから。

 散ったビラはあと一枚となった。

 辺りを見回してみると、すぐに白い影が見つかった。校舎裏の方まで飛ばされていたようだ。そういえば、今日スカウトした男子も校舎裏に呼び出したんだっけと不意に思い出しながら、また風に飛ばされないうちに急いで駆け寄っていく。

 そして背を丸め、手を伸ばし、

 拾い上げ

「──ぁいたっ」

 ようとしたらいきなり頭にコツリと固い何かが降ってきて、思わず喜多は顔をしかめた。

「な、なに?」

 

 

 青と黄色だった。

 

 

 正確にいえば、水色と黄色二つのキューブがくっついた女子のヘアゴムらしきものが目の前に転がっていた。手に取ってみればやはりそれは何の変哲もないヘアゴムで、これが上から落ちてきて頭に直撃したのだと分かる。迷惑な話だ。誠に遺憾である。

 上から落ちてきて、

 上から、

 

「上?」

 

 ゆっくりと。

 首を真上に持ち上げてみる。

 そこで、上にいた女の子とバッチリ目が合ってしまった。

 

「…………なにしてるの?」

 喜多が訊ねると、女の子は気の毒なほどに震えた声で、

「あ……あ、し、死にます……」

 

 その言葉が冗談に聞こえなかったのは、女の子が置かれている状況にあった。

 まず、四階建て高さ16メートルほどの標準的な校舎が目の前にある。そこの四階の窓から、女の子が逆さてるてる坊主のような格好でぶら下がっている。

 もう少し具体的にいうと、女の子はひざ裏で窓枠を挟むようにしてなんとか落下に耐えている状態で、当然そんな状態だからパンツなんか丸見えだし、頭に血が降りてきてヤバい顔色になっていた。

 しばらく思考停止していた喜多の平常心にようやく風穴があいた。全身から汗が噴き出し、弾けるように狼狽しながら、

 

「あわわ……っ、あわわわわっ!! どっ、どうしようっ! えとっ、ええとっ、すぐに先生呼んで──」

 

 

 ──慎重に考え、大胆に動くべし! 幸せは思いのほか近くにあるかも!?

 

 

 そのとき脳裏をかすめたのは、昼間にさっつーからもらった気休め程度のアドバイス。

 それが決め手となったわけではない。ただ、思い直すキッカケとなったのはたしかだった。かろうじて残っていた冷静さの欠けらを寄せ集め、落ち着いて迅速に「最善」を考える。

 女の子に向かって叫んだ。

 

「──すぐにそっちいくからっ!!」

 

 ビラの束を放り出し、同時に喜多は走り出した。

 下校の時刻が迫っている。あと幾ばくもしないうちに校舎の鍵も閉められてしまう。先生を呼びにいっている間にそんなことになったら大きなタイムロスだ。あの女の子は間違いなく助からない。

 だからこれでいい。大丈夫。

 自分は正しい判断をしている。

 きっとあの子は助けられる。

 自分が助けてみせる。

 弾丸のごとく昇降口に突っ込み、下靴も履きっぱなしでカマイタチのように喜多は階段を駆け上がっていく。自分でも信じられないくらい息は乱れていない。あっという間に四階の床を蹴り上げて、そのまま女子トイレまで駆け込んでいった。

 勢いよくドアを開け放ち、

 

「助けにきたよっ!」

 

 ピクッと窓から出ている脚が反応する。こうして見るとなかなかホラーな光景だが、躊躇している場合ではない。

 すぐさま喜多は窓に近づいて女の子の脚を押さえつけた。余った手を窓から伸ばし、

 

「ほらっ、手! にぎれるっ?」

 

 女の子は重そうにあごを引き、焦点の定まらない目をどうにか喜多に向けた。しばらく宙吊りだったからか顔はむくみ、夕方の日差しと内出血のせいで可哀想なくらい真っ赤になっている。それでもまだ余力はあったようで、ぶらんと力なく垂れ下がっていた両手を喜多の差し出した右手にがんばって伸ばし、

 がっちりと掴んできた。

 

「せーーーのっ!!」

 

 喜多は歯を食いしばり、地球でも釣り上げるかのように全力で女の子の手を引っ張り上げた。瞬間、ぐりんと世界が暗転する感覚と共に喜多の背中はトイレの床にべちゃりと落ち、次に引き上げられた女の子が喜多めがけて落ちてくる。

 ぐぇっ。

 自分とさほど変わらない体格に押しつぶされ、喜多の口から女子らしからぬ胴間声が上がった。ほんの一瞬だけ意識が飛ぶ。

 が、すぐに自分のものではない体温に意識を呼び戻された。目だけを動かして今の状況を確認しようとすると、喜多の首筋に顔を埋めていた女の子がもぞりと起き上がった。乱れに乱れた長い髪の隙間から整った顔が見える。

 目が合った。

 

 あのときの女の子だった。

 

 いまになってようやく気づいた。一週間前、いきなり軽音部の部室にやってきたあの子だ。

 薄桃色の長い髪、ターコイズを湛えた淡いブルーの瞳、小動物のような顔立ち、スケートリンクみたいに白くてきめ細かい肌。それに、いまだに喜多の右手を握ったままでいる彼女の左手の先端には、ざらざらとした固い厚みがある。

 数秒の間、

 その後、

 

「……どうして?」

 

 渋滞する思いから真っ先に口をついて出たのは、あらゆる疑問を圧縮したそんな言葉だった。どうしてあんな格好でぶら下がっていたのか、どうして大声で助けを呼ばなかったのか、どうしていつまでも離れずに抱きついたままでいるのか、

 

「ご、ごめっ、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」

 

 どうしてそんなに苦しそうに泣いているのか。

 分からないことだらけで頭が痛くなってくる。

 でもまずは──今これだけは言わなければと喜多は思う。女の子の背中を優しく叩きつつ、

 

「あの、そろそろどいてくれる? 重いの……」

「あっ、すみません……」

 

 遠く、六時半を告げる鐘の音が聞こえてくる。

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