下校時刻を過ぎても軽音楽部の活動は終わらなかった。学校からファミレスへと場所を移し、晩飯を兼ねた部活ミーティングの始まりである。
ファミリーレストラン『AJIKAN』は秀華高校から徒歩五分、国道と一般道がぶつかる十字路交差点の角にある。当然そんな立地にあるわけだから、土日祝日を除けばもっぱら秀華高生たちのたまり場となっており、看板のマルゲリータピザを差し置いて「とにかく安くて量が多い」注文ばかりが飛び交う。
とりわけ、「大盛りフライドポテト」の人気は絶大であった。
ファミレス基準の「大盛り」と侮ることなかれ。
車のホイールカバーがごとく巨大なプレートに熱々のポテトが山と盛られ、ケチャップやBBQソースも小皿ではなくボトルのまま提供される。部活終わりにぞろぞろ来店してくる運動部の腹ぺこゾンビたちでさえ、二人がかり前提で挑まねば手に負えない具合の、そんな「大盛り」なのである。
これだけ食いごたえがあって、しかし税込四〇〇円だというのだから貧乏学生御用達のメニューになるのもうなずける。
「──じゃあまずは自己紹介から始めよっか」
店内にはボックス席が三十個ほどあり、軽音楽部の面々は最奥の四人がけのシートに雁首をそろえていた。テーブルの真ん中にはやはり例の大盛りフライドポテト。それを無心でバクバク切り崩しているのは山田リョウで、その向かいに座るのが喜多郁代。喜多のはす向かいにはニコニコとよそ行きの笑顔を浮かべる伊地知虹夏がいて、
そしてその正面には、先ほどまで女子トイレの窓からパンツ丸出しで宙ぶらりんになっていた女の子がこぢんまりと座っていた。
「あたし、軽音で部長やってる二年の伊地知虹夏。楽器はドラムね。で、こっちでさっきから一人でもりもり食べてるのが同じく二年でベースの山田リョウ。よろしくねっ」
虹夏の紹介に合わせてリョウも一旦顔を上げ、
「よろしく」
「は、はあ。どうも……」
「よかったらそっちも名前教えてくれる?」
「えっ。あ、あっ、ごっ後藤、です……一年の、後藤ひとり……」
「ひとりちゃんね。──いやあ、よかったよかった! 一年の子が入ってきてくれて。本当にありがとね。これでひとまず廃部の件も一件落着だよ」
「え……?」
「あ、ねえねえ。ひとりちゃんは中学の頃も軽音やってたの?」
「あっいや……わたっ、あの、」
「楽器は? なにできる? ギター? キーボード? ああ、もちろん楽器初心者でもぜんぜん大丈夫だからね。一からあたしたちが教えるからさ。やりたいのあったら聞かせて?」
「あ、あ……ぅ」
「い、伊地知先輩っ。すみません、違うんです!」
徐々に身を乗り出してくる虹夏と、徐々に身を仰け反らせていくひとりの間にあわてて喜多が身を差し込んできた。
「なにが?」
喜多は虹夏の耳元でコソリと、
「あの、後藤さんは新入部員として連れてきたわけじゃなくて。なんというかその、成り行きみたいなもので……」
「成り行き?」
そう、
早い話が成り行きなのであった。
三十分前、危うく四階から真っ逆さまに落ち逝くところだった後藤ひとりを、喜多は間一髪のところで救出した。幸いなことにお互い怪我もなかった。そこまではよかったのだ。が、その後いつまでもめそめそと泣きじゃくる彼女をどう扱えばいいのか分からず、かといってそのまま便所に置き去りにするのも違うと思い、結局こうして部活談義にまで連れてきてしまった。
冷静に考えてみれば、こんなことをする必要はなかったと思う。先生に事情を話して、あとは全て任せてしまえばよかったような気もする。優しく声をかけながら途中まで一緒に帰ってあげるくらいでも十分だったかもしれない。
やはり、動転していたものと思われる。
泣いている子を目の前にして、理性的な判断よりも罪悪感と責任感が先に顔を出し、つよく袖を引かれてしまったのだ。
そうして袖を引かれるまま、喜多は捨て猫を連れ帰るような形でひとりの手を引き、ここでこうして虹夏たちと合流したというワケである。
「──そ、そりゃずいぶんと大事件だったね……ってことは、」
あらましを聞き終えた虹夏は「どえらい話を聞いたな」という顔で目を真ん丸に開き、そしてひとりに不安げな声で、
「ええっとつまり、軽音に入りたいとか、興味があるとか、別にそんなんじゃない感じ……?」
「あ、あのっ、えと、すみません……」
「そっ……かあ。あ、あはは、やだなーあたし。早とちりしちゃってたよ〜。いやー、馴れ馴れしく話しかけちゃってごめんね?」
から笑いしながらガックシと虹夏は両肩を落とした。シートに深々と背中を沈ませていく。見ていて気の毒になるほどの落胆ぶりである。
そのとなりで、もっそりと口からフライドポテトの束を突き出しながらリョウが、
「まあ、ふぉんあふぃはふぃふぇあふぇお」
まあ、そんな気はしてたけど。
そう言ったのだろうと喜多は思う。案の定、
「そんな気はしてたけどね。だって郁代が本当に新入部員見つけたんなら、大はしゃぎで大いばりしながらロインしてくるはずだし」
ごっくんと。一気に咥えていたポテトを水のごとく飲み下して、リョウは我が意を得たりとばかりに薄く笑った。それから黄檗色の瞳が喜多からひとりへと素早く移り、
「ところで。ひとり、だっけ? 今なにか部活とかやってるの?」
ひとりは「急になんなんだ」という顔で、
「い、いえ。特になにも」
「バイトとかは?」
「いえ……」
「今やりたいこととかない?」
「とぉ、特には……」
「ふう〜〜〜ん」
リョウの目がギラついた。
「──じゃあさ、せっかくだからこのまま本当に軽音入ってみない? 成り行きの成り行きってことで」
「……へっ」
「どう?」
「は、あぇっ、いやあのっ、私は……!」
「いいじゃん。やりたいこともないんでしょ? まずはお試しでもいいから入ってみなよ」
「で、でも」
「大丈夫大丈夫。うちはね、まあちょっと前までは色々言われてはいたけど、今ではちゃんとしたもんだよ。実に平和で和気あいあいとして温かみのあるアットホームな部活です」
「そっ、そうですか……」
「それに未経験者だって大歓迎。残業なし、敷金礼金なし、年会費も無料。さらに今ならなんと購買のパンとプリンを特典としてプレゼント。さらにさらに、この店のクーポン券もおまけに一枚ついてくる! ただし、先着一名のみっ!」
「わ、わあ……先着一名……どうしよう」
「しっかりして後藤さん。甘言に惑わされないで」
リョウが「邪魔すんな」と言わんばかりにムスッと顔をしかめ、
「いつから郁代は私の敵になったの?」
「だ、だって、なんだか騙してるみたいで悪い気がして……」
「いいの。四の五の言ってらんないよ。あと四……いや三日で頭数そろえないといけないんだから」
すると今度はポテトの大皿をひとりの前に勧めながら、
「ほら、これ美味しいよ。遠慮しないでお食べ」
「え、あ……じゃあ、いただきます……」
言われるままにひとりは一本つまみ上げて口に運んだ。と、
「──はい、百円」
「ふぉっ?」
「それね、四〇〇円のフライドポテト。一つでも手ぇつけたからには、割り勘分はきっちり払ってもらわなあきまへんなぁ」
「え、え……! やっ、でもっ、食べていいって……!」
「タダでとは言ってない。でもイヤなら払わなくてもいいよ。その代わり、この入部届にちゃちゃちゃっとサインを、」
「いい加減にせいっ」
さすがにこれ以上は見過ごせなくなったらしい。
横から虹夏の平手が飛来し、リョウの頭が空き樽のようにパコンと小気味よく鳴った。
「半分冗談のつもりだったのに……」
「半分本気なら止めてよかったよ。もうっ、そういう悪質な勧誘は禁止って前にも言ったでしょ! ほらっ、ひとりちゃん完全にビビっちゃってるじゃん!」
たしかに顔色は真っ青だし、カバンから財布を取り出しかけている。
「ごめんなさい、リョウ先輩のギャグってたまにちょっと分かりづらいのよね」
「そうそう、気にしないでいいからね。タチの悪い冗談だから」
喜多と虹夏のフォローも入り、これでひと安心──と思いきや、突然ひとりがケツに画鋲でも刺さったかのような勢いで立ち上がった。テーブル上の食器がガチャンと音を立て、三人してぶったまげた。
ひとりはモガモガと口を動かし、
「ああああのっ! わたっ、家っ、遠いのでっ! もう帰っますっ! ごっご迷惑おかけしましゃっ!」
「えっ?」
「でまっ、ではっ! しつれ、しまっ!!」
まさに圧巻の逃げっぷりであった。
吃りと早口のせいでほとんど聞き取れなかったが、喜多が聞き返そうという考えに及ぶ前にはひとりはもうその場から駆け出していたし、「待って」と喜多の口が開くころには遠くで自動ドアがすでに退店のお礼を言っていた。
残された三人のテーブルに五秒ほどの静寂が落ちる。
店内に流れるひと昔前のJPOPが、失恋したのは香水のせいだよと言い訳しているのが聞こえる。
五秒後、あーあ、という虹夏のため息、
「逃げちゃったじゃん。リョウのせいだよ」
「ちょっと強く押しすぎたか」
「だからああいう気が弱い感じの子を相手するんなら、もっと慎重にやんなきゃダメだってば」
「ああいう子にこそ、強めに押した方がいいときもある」
喜多も小さく息を吐き出した。背もたれに深く腰かける。なんだかどっと疲れてしまった。両手でコークグラスを持ち、ひと口分だけ口に含んでから中のアイスティーをぼんやりと見つめた。琥珀色の水面に映るのは自分の浮かない顔と、そして三十分前に見た光景だ。
──ご、ごめっ、ごめんなさい、ごめんなさい……っ
どうしてあのとき窓から飛び降りようとしていたのか、結局訊くことはできなかった。事故なのか故意なのかも分からずじまいだ。訊くのが怖かったというのもあるし、自分なんかが軽々しく踏み込んではいけない領域であるような気もした。
きっとその判断は間違いじゃなかったと思う。ただそのせいで、脳裏にはいつまでもボタボタと重たい涙をこぼしながら謝りつづけるひとりの顔がこびりついたままでいる。
ものすっごく、モヤモヤする。
喜多は目をつむって頭を横に振った。
憧れの高校生になれて早一ヶ月になる。それなのに、どうしてこうも日に日に悩みごとばかり増えていくのか。高校生というのはもっとこう、華やかで自由で、何ごとも楽しくあるべきではないのか。ささいな失敗や悲しみも膨大な青春エネルギーで帳消しにできる、人生でもっともキラキラに輝けるサイコーの時代なはずではなかったのか。
ああもう──。
喜多はグラスを大きく傾け、アイスティーを勢いよく呷った。底に溜まったガムシロが喉に直撃してむせそうになる、
「んぐっ、」
むせた。
いいことなんて最近とんとないくせに、こんなささやかな不幸ばかりにご縁があるのが腹立たしい。
ケホケホと咳き込んで喜多はテーブルにグラスを叩き置いた。左手で口をおさえ──、
あ、
咳き込んだせいなのか、それとも自分の左手を見たせいなのか。無意識下にあった記憶の蓋が少し開いた。
左手の指先。十日前、部室のドアに指を挟まれたときに見せてもらった、三十分前、窓から落ちそうなところを助けたときに握った、彼女のあの左手。
思う。
色々あったせいですっかり忘れていたが、やっぱりあの指先は──
「ギター……なのかな」
「んえ、ギター? なんの話?」
漏れ出た声はしっかり先輩二人に拾われていた。
「あ、いえ」
「なに郁代、新しいギターでも買うの? 最近お金ないんですとか言ってたくせに」
喜多はかぶりを振って、
「私じゃなくて。その、後藤さんのことで」
「ひとりちゃん?」
それから先の話を、二人は食い入るように聞いた。そして、喜多は軽く後悔する羽目になった。
廃部の期日まで、残り三日。
*
昼休みになってすぐ一年二組に突撃したというのに、教室にひとりの姿はなかった。喜多は仁王立ちで外から教室内を
「あ、ちょっとごめんね。後藤さんいる?」
女子生徒はあからさまに「げっ」と顔をしかめて見せた。軽音部の奴がきた、と思っているに違いない顔だ。
「え、後藤さん……ですか?」
「そう、ちょっと用があるから呼んできて欲しいの」
もう一度、女子生徒は怪訝そうな顔になる。困った様子で辺りを見まわしてから近くの友達を呼び寄せ、小声で、
「……ね、ね、後藤さんって誰だっけ」
「え? ああ、んーと……ほら、あれじゃない? たしか、窓枠二列目五番目のピンクの子」
「ああ、あの窓枠二列目五番目ピンクの子か」
納得した表情で喜多に振り返って、
「──あの子なら今いないですよ。てか、昼休みになるといつも一人でどっか行っちゃうんですよ。たぶん、ぼっち飯的な?」
あんまりである。
窓から二列目、前から五番目の席という意味なのは分かるけど、いくら何でもそんな競走馬みたいな識別は可哀想だと喜多は思う。しかし、一ヶ月経つのにこの扱いとはどれだけ影が薄いのか。
「じゃあ、いつもどこでご飯食べてるか知ってる?」
女子生徒とその友達も即座に首を横に揺らす。まあそうだろうなという気はしていた。
「そ、そっか。ありがとう」
軽く礼を言って喜多は足早に退散する。困ってしまうが、気持ちを切り替えてとりあえず近くのトイレから捜索を開始することに決めた。ぼっち飯といえば便所が定番だと考えたらしい。
それにしても、面倒な任務を仰せつかってしまったものである。
昨夜のファミレスで、ひとりが実はギター経験者なのではないかという推測を先輩たちに話してみたところ、意外なほど二人は食いついてきた。特に虹夏は机から身を乗り出して、
──もう一回ひとりちゃん、あたしたちのとこに連れてきてもらえないっ? 今度こそちゃんと勧誘したいの! お願いっ!
どうしてそこまで。便所の個室を一つひとつノックしながら喜多は歯噛みする。
そりゃあ約束の期限まで今日を入れてあと三日しかないのだから、新入部員は喉から手が出るほど欲しいのはわかる。しかもそれが楽器経験者だというなら尚更だ。だが、それがギター経験者である必要はどこにもないはずなのだ。
ギターならもう私がいるのに──。
そう思いながら、また一つ個室のドアをノック。「入ってまーす」と返ってくる声はひとりではない。
もちろん、喜多だってバンドにギターが二人いること自体はべつに普通のことだと思うし、リズムギターとリードギターの役割だって理解している。ただそれでも、あんな風に先輩らがもう一人のギターを欲しがっている様子を見てしまうと、胸の奥底から幼稚な不満と陰気な不安がプスプスと黒煙のように立ちのぼってくるのだった。
自分のギターが下手だから、先輩は代わりを欲しがっているんじゃないか。
もしもひとりが本当にギターが弾けて、しかも自分よりも上手かったとしたら、将来的にいつか自分はお払い箱になってしまうのではないか。
「──そ、そんなのイヤァッ!!」
思いあまって個室のドアを両手で叩きつけると、中から「ひああああぁ何があっ!?」と悲鳴が上がった。あわててその場から逃げ去る。
そうして三十分が経過した。
その後も一通りトイレ巡りをしてきたが、結果ひとりはどの個室にも立てこもっていなかった。やはり便所飯などフィクションなのだ。そもそも排泄をする場所で摂食をするなど、なんだか倫理的にとっても間違っている気がする。だから断言できる、ひとりはトイレにはいない。
結論づけたところで、我慢できずに腹の虫が鳴いた。腹が減っているのにトイレに通いつづけるのも生物として間違っていると喜多は思う。
ちょっと休憩しよう。昼休なんだし。
というわけで、一階の渡り廊下を通り抜けて喜多は体育館脇の自販機にたどり着いた。紙パックのコーヒーや牛乳などラインナップは大したことない上にどこか古臭い。とはいえここの自販機は校内で唯一、全品百円だから財布の軽い喜多には心強い味方だった。
百円を投入。豆乳を購入。ストローを雑にぶっ刺して、ひと口分だけ吸い上げた。
ひと息、
「──ふう」
空きっ腹に豆乳が染みわたる。
落ち着くと、ゆるい風が吹いて喜多の髪がさらりと流れた。何ともなしに上を見上げてみれば、濃い青の空にもくもくと巨大な雲の山が太陽を覆い隠さんとばかりにそびえている。
若々しい夏の空だった。
おかしな話だ。三週間前まではまだ桜の花も残っていたというのに。いつのまにかもう次の季節が迫ってきている。
高校生になって初めての夏はどんな体験ができるのかな──しみじみと四季の移ろいと新たな夏に思いを馳せていたところで、
喜多は突然、ハッとなった。
「いやいやそんなことよりまずは廃部の危機を乗り越えなきゃよね」と我に返ったわけではない。近くで物音がした。
ゆっくりと振り返る。体育館脇には自販機が二台あって、そして二台の自販機のあいだに挟まれる形で紙パック用のゴミ箱が置かれている。
そのゴミ箱がいまさっき、ガタンと動いたのだ。
なんだろう。
まさかお化けではあるまい。
息を飲んで近づく。近くで見ても変わった様子はない。指先でつんつん、とゴミ箱をつついてみても反応はない。ならばと思い、喜多は思い切ってゴミ箱をつかんでガタガタと揺らしてみた。
「ふわああっ!!」
ビックリした。
ゴミ箱がいきなり甲高い声を上げ、そしてぶっ倒れた。蓋が外れてあたりに空の紙パックがバラバラとばら撒かれる。喜多も飛び退いた勢いで後ろにすっ転びそうになったが、脅威の粘り腰でなんとか耐えた。
「な、なんなの?」
そこで気づいた。
声はゴミ箱本体からではなく、その後ろ。自販機のあいだの、ちょうど人が一人分くらいなら収まりそうな空間から聞こえてきたのだ。
「だ、誰かいるんですかっ?」
返事の代わりに薄闇の中で人影がのっそりと立ち上がるのが見えた。倒れたゴミ箱を丁寧に起こしながら出てきたのは、
「──後藤、さん?」
「え……あっ、き、昨日の……!」
ひとりだった。
なんたる偶然。昼休みでの捜索はもうほとんど諦めていた頃に、こうして出会えるとは。ひどいドッキリを食らわされたが、まずは見つけられたことに安堵する。
でも、なんでそんなところに──?
まずはそれを口火にしようと喜多が開口するや否や、いきなりひとりがその場できびすを返した。そしてダッシュ、一目散に走り出す。
「え。ちょ、ちょっと!」
なぜ逃げるのか。困惑する思いを抱えて、喜多も紙パックを蹴散らしながら急いで後を追う。
威勢よく走り出した割には、ひとりはだいぶノロマだった。単純に足が遅いうえにどんくさいから何度も転びかけていた。おかげで喜多もすぐに追いつくことはできたのだが、小癪にも機動力だけはあってちょこまかと駆け回るため、捕らえるのにはやや時間を労した。
そしてついにひとりを追いつめることに成功したのは、昼休みも残り五分を切った教室棟の屋上だ。ひとりはフェンス際までネズミのように追い込まれ、喜多も息絶え絶えに、
「さ、さあ、もう逃げ場はないわよ……!」
「はっ、ひっ、たぁ、助けて……!」
セリフだけなら喜多が悪に見える構図だが、どちらかといえば話も聞かずに逃げ出したひとりの方に非がある。とはいえ、しつこく追い回した自分もあまり良くなかったと喜多は思ったようで、息を整えながら穏やかな声色を作った。
「聞いて。私、後藤さんに用があるの」
「…………なんですか」
「昨日、軽音の先輩たちと会ったでしょ? 二人がね、また後藤さんに会いたいって言ってて、それで、」
「け、けけっ、軽音部には入らないですからっ!!」
──両断。
完全に不意打ちだった。いきなり話の核からぶった斬られた喜多は一瞬固まり、珍しく吃りながら、
「なっ、どっ、い、いきなりどうしたの? 私、べつに入部の話なんて一言も……」
「ち、違うんですか? じゃあ、どっどうして二人は私なんかに会いたいって言ってるんですか……?」
「それは、ええと、」
「ほ、ほら……やっ、やっぱり入部の件じゃないですか。だ、だったら二人には会わないですっ。わたっ、私にはなにもできませんから! 軽音部に入ったってどうせただのお荷物になるだけだし、チームの輪を乱すだろうし、いっぱい迷惑かけるだけなので!」
どうにも引っかかる言い方だった。他の生徒たちのように軽音部そのものがイヤだからというよりは、極端なマイナス思考ゆえの遠慮に思える。
何にせよ、先輩に会ってもらわないとこちらの面目が立たないので、
「ま、まあまあ。とりあえずまずは先輩たちと会ってお話ししてもらえない? それでどうしてもイヤだったらその場で断っちゃってもいいから。ね?」
「むむ、無理ですっ。上級生二人に囲まれて断れる度胸なんてないです……! 特にあの青い人……こわい」
「リョウ先輩? 大丈夫よ。あの人ね、すごく面白いし、かっこいいし、色んな楽器できるすごい人だから」
「そ、それの何が大丈夫なんですか……」
「とにかく、今から二人のところにいきましょ? 私も一緒についていくから。ほら、」
強引に話を進め、喜多はひとりの腕に手をのばした。が、ひとりは大げさに身をひるがえしてその手をかわす。さらに天空を指さして、
「あ、ああっ! UFOっ! あんなところにUFOがっ!」
「もう。そんな可愛い引っかけに騙されるわけないでしょ」
「よ、世にも珍しいギター型のUFO!!」
喜多が後方を見上げる。
その隙に、ひとりは背後にある金網のフェンスに足をかけた。そしてクモの巣に引っかかった虫のような動きでガシャガシャとよじ登り始めた。
「な、何してるの!?」
音に気づいて、喜多があわてて止めにかかる。なんとか左足をつかんだが、上履きだけがすっぽ抜けてしまった。片っぽ靴下のまま、ひとりはどんどん上に登っていく。
まずい──。
昨日の一件が脳裏に映し出される。ひとりが本当に飛び降りてしまう姿がイヤに鮮明に想像できてしまった。
「ちょっと! ねえやめてっ! ごめんなさいっ、わかったから! 私から先輩に断っておく! だからもう悪ふざけはやめて降りてきてっ、お願いっ!」
それでもひとりは止まらない。何かに取り憑かれたかのように無言で登りつづけて、
そしてとうとうてっぺんに到達した。
三メートルのフェンスには有刺鉄線がなく、乗り越えた先には柵らしい柵もない。高さ16メートルの剥き出しの断崖絶壁があるばかりだ。
ひとりはフェンスの上縁に跨ると、突然ピタリと動かなくなった。激しい風が薄桃色の長い髪を奈落に誘うようになびかせている。じっと地表を見つめる顔はさっきまでとは一転して、気味が悪いほどに表情に乏しい。
まるで急に人格が切り替わったみたいだった。
まるで死とは無縁の人形のような顔だった。
「後藤さん……?」
その姿に、喜多は怖気をふるった。怖気が使命感を与えてきた。
止めなきゃ。
飛びかかるようにフェンスにしがみつく。どこのバカにパンツを見られようが構わない。猿のような身軽さで格子につま先を交互に引っかけて登る、登る。上履きが両方とも途中で脱げても気にせず、靴下のまま喜多もてっぺんにたどり着いた。
ものすごく風が強い。髪がめちゃくちゃに乱れ、横隔膜が落下の恐怖で痙攣している。必死に金網に掴まっていないと風に煽られてそのまま文字通り必死だ。ひとりに向かい合う形で喜多もおそるおそる上縁に跨り、震える声で、
「ねえ、お願いだからもう降りよう……? ここにいたら本当に死んじゃうわよ」
ぽつりと、
「──して、」
「え……?」
「どうして、まだ生きてるんだろ……昨日、ちゃんと飛び降りたはずなのに、なんでまだのうのうと……ああそっか、またひよったのか。この死にぞこない、よわむし、生き恥」
「ご、後藤さんっ? 後藤さんっ、どうしたのっ? 大丈夫っ?」
様子がおかしい。
明らかに普通じゃない。
喜多は落下の恐怖も振り切って身を乗り出し、ひとりの顔を覗き込んだ。見れば顔色は真っ青だし、口はだらしなく半開きで、瞳孔も開いている。ブツブツと呪詛のような言葉を唱えながらも意識の介在しない瞳は黒く濁って、目の前の喜多を認識できていないように見える。
どうしようどうしよう。
きっと良くないことが、すごく悪いことがいまひとりの中で起こっているのだと思う。
何かをしなければならない。でも、何をすればいいかが分からない。自分にできそうなことは何なのかも判断できなくなって、喜多は頭がクラクラしてきた。
それでも、何とかして飛び降りだけは防がなければという思いだけは生きていて、喜多は思い切って両手をフェンスから離すと抱きつくようにひとりの背中に腕を回した。
「え……」
「ダメッ、ダメだから! 飛び降りなんてぜったいダメよ! お、お父さんもお母さんも、後藤さんが死んじゃったら悲しむのよっ。たぶん、ぜったい! 悲しませちゃダメなのっ!」
もうちょいマシなセリフは言えないのかと自分を罵るが、悠長に言葉を考る余裕もなかった。とにかくめいっぱい、頭に浮かんだ文章を感情に乗っけて吐き出すしかなかった。それが自分にできる最大限のことだと信じた。
腕の中で、ひとりの体から徐々に力が抜けていく。強ばっていた筋肉が柔らかくなり、彼我の区別がつかないほど密着した体の奥から彼女の心臓の鼓動が伝わってくる。
ひとりがため息まじりにつぶやく、
「……またダメだったね」
その声は一瞬で風にさらわれ、目の前の喜多にも届くことなく消えた。
喜多は今もひとりにしがみついたまま、「ダメよダメよ」と懸命に生の尊さを訴えている。当のひとりはぼうっとした顔でただ無気力に空を見上げている。
長らく巨大な雲に覆い隠されていた太陽が、今ようやく顔を覗かせた。
「あ、」
間の抜けた声がひとりから上がる。
「あ、ぁ……私、また……え?」
たったいま白昼夢から目覚めたような顔で目をパチクリさせる。そしてすぐに、ひとりはギョッと目を見開いた。セミかコアラかのように自分の体にガッチリとしがみついている喜多に、
「え、えっ! なんっ、なんで、抱きつい……!」
「ダメよ、後藤さん! ダメったらダメなのよ!」
ダメダメ言われても何がダメなのか分からないという顔で、ひとりはたまらず喜多の肩をつかんだ。そのまま引き離そうとする。が、喜多は喜多で軽いパニック状態に陥っている。ひとりが力を入れれば入れるほど、喜多も反射的に逃すまいとより強固に腕を絡めてきた。
「ああああのっ、ここっ困ります……! そっそっそんなに、くっつかれると……!」
「こうしてないと落っこちちゃうもの! 落っこちたらお父さんとお母さんも落っこちちゃうの! 落っこちたら痛くて悲しくてダメなのよ!」
「な、何がなんだか……ととっ、とりあえず一旦離れてくだ、」
そこで強引に喜多の体を押しのけようとしたのが良くなかった。
反作用でひとりの体が後ろによろめいた。そのせいでこれまで体勢を支えてきた脚の力も強制的に解除され、ひとりはバランスを大きく崩した。
「わ、わ、」
フェンスから──
落、
「──後藤さんっ!!」
そのとき、喜多の中の本能が弾けた。考える間もなくフェンスを蹴り上げ、落ちゆくひとりに喜多は飛びついていった。
空中でひとりは信じられないものを見るような目で喜多を見つめる。喜多はその目に無言でうなずいて応え、ひとりの手をにぎった。
二人が空中で絡まり合う。
走馬灯なんてものを感じる間もなく、落下の衝撃はすぐに二人の体を貫いた。
昼休みの終わりを告げるチャイムが秀華高校に響きわたる。