月が半分 暗いのは   作:夜のイロ

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ラブレター?

 天気のいい夜だった。

 七歳の冬、母の実家に遊びにきていた喜多はじいちゃと一緒にふたご座流星群を見ようと夜中まで粘っていたことがある。予報では今朝のうちに星はとっくに流れ終わっており、加えて今夜は満月が近いせいで空が明るく観測条件も悪い、大人たちからも風邪ひくからやめなさいと言われていたが、喜多は諦めずにベランダで観測をつづけたのだった。

 きっと今夜も流れ星は降る。

 じゃんじゃんいっぱい降ってくるんだ。

 いくらだって願いごとし放題なんだ。

 ところが、喜多の期待もむなしく夜の十二時をまわっても流星群はおろか流れ星の一つも一向に現れなかった。宇宙の果てまで澄みきったような黒い空の中に、丸い月だけがぼんやりと浮かんでいる。睡魔に意識を飲まれつつあった喜多はウトウトとじいちゃの肩にもたれかかり、半分寝言まじりに文句を言うのだ。

 

 ──月が明るすぎるからいけないのよ。満月じゃなかったらぜったい見えてたもん。ぜんぶ月が悪いのよ

 

 干物のようなシワシワの手が喜多の頭にのせられた。

『もう今夜は諦めよう。体壊しちゃうからね。次はちゃあんと見られるから』

 じいちゃはぶ厚い栗色のセーターの上に赤いドテラを羽織っていて、そのせいでかなり着膨れしていた。その姿がちょっとだけ笑える。

『次っていつ?』

『あ〜〜〜〜〜、じいちゃは学者さんじゃないから分からんけど、たぶん近いうちにまた流れてくるよ、うん』

『でも、また月に邪魔されたらどうしよう。ねえ、どうして月はまん丸になったり半分になったりするの? 見えなくたって別にいいのに。夜はみんな寝ちゃうんだから、どうせ誰も見てないのに』

 するとじいちゃはほほ笑みながら首を上げて、夜空を仰いだ。喜多も寝ぼけまなこでじいちゃを見上げる。青白い月明かりに洗われた彼の横顔は骸骨みたいにやせ細っているけど、三日月みたいに優しかった。

 その顔が、とても安心できた。

 じいちゃがゆったりとした口調で何かを話している。喜多はじいちゃの膝に頭をのせながら話を聞く。言葉のひとつひとつが優しくて温かくて、どんどん喜多の意識が甘く溶かされていく。重たいまぶたはやがて閉じられ、喜多は寝息とともに深い眠りに落ちていった。

 あの日の記憶はそこで途切れている。

 

 

 そして次に目覚めたとき、喜多は保健室のベッドの上にいた。

 

 

 

 *

 

 

 

「──ほんっとに喜多ちゃんはさあ……」

 

 まずは重ったるいため息を一発。

 それから吐き出される呆れと静かなる怒りの声に、喜多はビクビクとベッドの中で首をすくめている。消毒の香りがする白いシーツを鼻先まで被る。ベッドの周りを囲むのは長いこと日に焼かれてすっかり黄ばみ切ったレーヨンのカーテン。上にはありきたりなトラバーチン模様の天井。壁には違法ドラッグの有害性を説く古びたポスター。

 そしてすぐ目の前には、軽音楽部の先輩たちがありがたくも見舞いに来てくれていた。

 いや、正しくいえば説教に来ていた。虹夏がくどくどと小言の雨を降らせてくる。

 無茶はするなっていつも言ってるでしょ、どうして言うこと聞かないの、常時スマホ持ち歩いてるんだから困ったことがあったらすぐにあたしたちに連絡してよ、だいたい喜多ちゃんは危機管理能力がなさすぎるの、だからそんな怪我しちゃうんだよ、むしろ今回はその程度で済んでよかったよ、さっさと早退して病院いってちゃんと検査してくるんだよ、まったく──。

 

「す、すみません……でも、今回はその、緊急だったというか。色々と予想外のことばかりで、」

「言い訳しないのっ!」

 

 問答無用の一喝に、喜多は小さく「ひゃっ」と悲鳴を上げながらベッドに潜りこんでしまった。

 基本的には(喜多に対しては)天使か菩薩のようににこやかで温和な虹夏だが、喜多がヤンチャ行為に及ぶとこうして肝っ玉母ちゃんに変身する。普段優しい人間ほどいざ怒ったときの破壊力はすさまじいもので、喜多も中学時代に幾度となく叱られてきたがいまだに慣れないくらいである。

 本気で心配してくれているのよね、とは思う。

 でも、一応いま自分は怪我人なのだからもうちょっとくらい優しくしてくれてもいいのに、とも思う。

 三メートルの高さから落ちたのだ。

 コンクリート敷きの屋上の地面に背中から落ちた。

 頭だって打った。

 その後、騒ぎを聞きつけた体育教師に保健室まで搬送されたらしいが、意識が朦朧としていたため喜多はあまりよく覚えていない。気づいたときには頭に包帯が巻かれていたし、後頭部には見るも悲惨なでっかいタンコブがこしらえてあったし、腕と脚には通常の倍はあろうサイズの絆創膏がいくつも貼られていたし、背中やケツはベッドで横になっていてもズキズキ痛んだ。左手が無傷だったのはせめてもの救いだったかもしれない。

 となりのベッドに腰をおろしていたリョウがけたけた笑い、

 

「いやでもさすがに郁代は頑丈だよね。それだけの怪我で済んでピンピンしてるんだから」

「運がよかっただけだよ。一歩間違えたら、校舎から地面に落っこちてたかもしれないんだから。そしたら喜多ちゃん、今ここにいないんだからねっ、わかってるっ?」

 てるてる坊主のようにシーツにくるまりながら、おっかなびっくり喜多が答える。

「は、はい、ごめんなさい……」

「もういいじゃん。反省してるんだし。そんなガミガミ怪我人怒鳴ったってしょうがない」

 

 リョウ先輩──。

 もぞりとシーツから顔を出した喜多はリョウに憧憬のまなざしを向けた。やっぱり先輩はステキ、私の一番の理解者、どこまでも着いていきます。

 喜多の視線に気づいてリョウがニタリと人差し指を一本立ててきた。「一つ貸しだからね」なのか「あとで千円貸してね」の意味なのかは分からないが、何かしら要求してきたと見える。

 虹夏の大仰なため息、

 

「ったくもうっ……まあ無事ならそれで別にいいけどさ。ところで、」

 ぐるりと保健室の中を見回し、

「ひとりちゃんはどうしたの? 喜多ちゃんと一緒に保健室に運ばれたって聞いたんだけど」

「あ、ええーと、ええーと、」

 喜多は視線をそらしながら、

「さ、さっき早退しました」

「え、もう?」

「ええ。お迎えが来たとかで。一足先に……」

「ふうん、そっか。いや、ひとりちゃんは喜多ちゃんほど丈夫じゃなさそうだからさ、ちょっと心配で。ま、いいや。今度会ったら『お大事に』って伝えといてくれる?」

「ああはい、わかりました」

 

 そのとき、廊下から鐘の音が聞こえた。六限目が始まる。

 

「じゃあ、あたしらはそろそろ戻るよ。ちゃんとこのあと病院行くんだよ?」

「あはは……はい」

「一人で病院なんてかわいそう。どれ、私がついて行ってやろう。というわけで私も早退──ねえウソだから離して、制服汚れる」

 虹夏に首根っこをむん掴まれてリョウがずるずる引きずられていく。保健室の扉が閉められたあとも、しばらくは廊下から二人の痴話喧嘩が聞こえてきた。

 ようやく静かになった。

 

「──お大事に、ですって」

 

 喜多はとなりのベッドの下を覗きこみ、声をかけた。ホコリまみれの隙間からおそるおそるピンクの髪が顔を出して、

「あっはい。き、聞こえてました」

 そのままのっそり立ち上がり、スカートについたホコリをぺっぺと手で払ってからひとりもベッドに腰かける。喜多と同じように頭には包帯が巻かれ、顔には大きなガーゼが一つ貼られている。こう見ると、彼女の方は喜多よりも比較的怪我が少なく済んだらしい。

「に、虹夏先輩、思ったより優しいですね。怒ってるときはめちゃくちゃ怖かったですけど」

「そうよ、怒るとすっごい怖いの。でもあまりお目にかかれないから、あれはけっこうレアな姿なのよね」

「そ、そうですか。……それで、あの、」

 ひとりは喜多のタンコブと無数に貼られた絆創膏をちらと一瞥してから、苦々しく顔をうつむかせ、

「えっと……色々とご迷惑おかけしました。わっ、私をかばったせいですよね、その怪我。ほんと、ほんとにすみません……」

「ああううん、気にしないで。大したことないから」

 喜多は笑みを見せながら首を振って、

「それに、元はといえば私がしつこく後藤さんのこと追いまわすような真似したのが悪いんだし。私の方こそごめんなさい。期日が近かったからつい必死になっちゃって」

「期日、ですか?」

「うん。校長先生との約束でね、明後日までにあと一人部員集めないと廃部って約束があって。がんばって人を探してる最中で。それで、もしかしたら後藤さんが楽器経験者なんじゃないかって思って、だから──ぁ、」

 そこまで話して、喜多はキュッと口をつぐんだ。あまりベラベラ部外者に言いふらすことじゃなかったかもしれない。

「廃部……あ、そういえば昨日もたしか虹夏先輩がそんなこと……」

「いや、はは……ごめんなさい、変なこと話しちゃって。後藤さんには関係ないことなのにね。忘れて?」

 無理やり笑って喜多は話を終わらせにかかった。だが、ひとりは何か言いたげにムゴムゴと口を動かしていて、

 少ししてから、その口が突然「ギ」と開いた。

「ギ? なに?」

 ひとりはもう一度、

「ギ、ギ──、ギター、です」

「へ?」

「が、楽器……はい、やってました。私、ギター、やってました……」

「え、あ……へ、へえ〜……」

 

 喜多の中で感情が二つ同時に生まれる。

 やっぱりそうだったんだという納得。「やってました」という過去形に対する疑問。それらをどう処理してどう返答の言葉にするか、でっかいタンコブがくっついたままの頭で考えようとする、

 が。

 

「だ──だけど……もう、弾けないと思います……二度と」

 そのひと言で、一気に全て吹き飛んでしまう。

「どういうこと?」

 今度は考えるより先に言葉が出ていった。ひとりはその問いに困った顔でふるふるとかぶりを振る。

「わ、わからないです……わからないけど、あの、」

 ひと呼吸置いて、

「なんとなく、そっそういう、気がして、」

 またひと呼吸置いて、

「だ、だから、私じゃきっと何の役にも立てないと思ったから、勧誘、断ったんです。に、逃げずに最初からそう伝えてれば、こんなことにならずに済んだかもしれないのに……ほんと、すみませんでした」

「……そう、だったんだ……」

 

 打ち止め。

 返すべきセリフもそこで尽きてしまった。

 白い保健室に真っ白な沈黙が降りる。外のケヤキからヒバリのさえずり声が聴こえてくる。真夏に近い熱を孕んだ午後の日差しが窓を突き抜け、室内に光と影を作っている。

 その影の中で、ひとりはぽつねんとベッドに座りこんでいる。まるで耐えがたい孤独と未練に押しつぶされて、いつまでも成仏できずに現世に留まりつづける幽霊のように見える。

 なにか事情があるのだろう。

 いくら鈍感な喜多でもさすがに察せた。これより先は、まだ出会って日の浅い自分が好奇心だけの土足で侵入してはならない。興味本位で触れることも許されない。山より高く、海より深い、絶対不可侵な心の縄張りだ。

 言葉を選ばないと。

 返すべきセリフが思い浮かばないのなら、せめてどうにかこの沈黙だけは埋めたいと思った。でも、彼女を傷つけたくはないし自分が傷つくのもイヤだ。当たり障りのないひと言さえ、ひょっとしたら地雷になるかもわからない。

 だから──、喜多はこう言うことにした。

 

「せ、背中痛い」

「……え?」

「ごめんなさい。なんだかどんどん痛くなってきちゃって……いたた」

 

 実際、痛みはさっきよりひどくなってきている気がする。

 多少空気が読めていない感じになってしまっているが、これ以上この気まずい空間に置かれるよりはこっちの方が精神的に楽だった。

 

「も、もしかして、骨、ボキッてなっちゃってるんじゃ……や、やっぱり病院いったほうがいいんじゃないかと……」

「さすがに折れてはないと思うけどね。でも伊地知先輩にも釘刺されちゃったし、大人しく早退しようかな。後藤さんは?」

「あ、わっ私はいいです……下校の時間になってから帰ります」

「そう。じゃあ、これでさよならね」

 よっこらベッドから立ち上がると、喜多はこわごわと腰を捻ってみた。わざとらしく「あいたたた」と言ってみる。

「だ、大丈夫ですか。あの、よ、よければ肩……」

「ああ、平気平気。歩けるから。それじゃあね」

 

 ひとりの提案を笑顔でかわし、喜多は老婆のような動きで扉まで歩み寄っていく。

 これは戦略的撤退、戦略的撤退なのよ──。

 そう自分に言い聞かせてやれば、文字どおり弱腰の自分も多少は格好がつくかもしれなかった。

 これは逃げなんかじゃない。仕方のないこと。むしろ私はよくやった。がんばった。結局、勧誘は失敗に終わっちゃったけど、後腐れなく別れられたんだから御の字よね。

 扉に指を引っかけ出ていこうとする、と。

 

「あ、あの──、喜多さんっ」

 

 名前を呼ばれたのは、おそらくそのときが初めてだったと思う。

 喜多は少し驚きながら振り返った。ひとり自身もなぜかびっくりしている顔だった。思ったより大きな声が出てしまったことに自分で驚いているのかもしれない。

「なあに?」

「あ、ぁ、えと……あぅ、」

 呼び止めたくせしてなにもセリフを考えていなかったのか、ひとりは少しのあいだ口ごもる。

 それからようやく、

「──も、もしも、この後も部員が集まらなかったら……そ、それから先はどうするんですか……?」

「廃部になったらどうするのってこと?」

「あっ、その、はい。すみません」

「そんな先のこと考えてないわよ。まだ時間はあるんだし、私もまだぜんぜん諦めてなんかないんだから」

 ちょっとだけ強い口調になってしまったことに内心で反省しつつ、「ただ」と言葉を継いで、

「……もし廃部になったとしても、変わらずに音楽はやってると思う。同好会とか、学外とかで」

「あっ、そう……ですか。音楽、好きなんですね」

「それもあるけど、それだけじゃなくて」

 喜多はくるりと体の正面をひとりに向け直した。

「私には先輩たちがいるから」

「え……?」

 ひとりと視線が交差する。喜多は扉に背中を預けながら照れくさくほほ笑んで、

「その、一緒に夢を追いつづけられる、というか。そういう人が私にはいるから。だから私は何があっても音楽はやめたくないし、ずっとつづけていきたい。そう思うの」

 ギュッとひとりは口を真一文字に結んだあと、

「夢って、なんなんですか」

 喜多は即答する。

 

「『結束バンド』を日本一のバンドにする」

 

 窓の隙間から急に風が吹きこみ、カーテンが大きく膨らんだ。それまで遮られていた太陽光が保健室に一斉に差し込まれ、室内の影を消し去り、相対する二人の少女を照らし上げる。

 ひとりは目を大きく見開き、

「…………結束、バンド?」

「あ、私たちのバンド名ね。えへ、かわいいでしょ?」

 ひとりはうなずくような、首をひねるような微妙なリアクションをする。喜多は自信たっぷりな鼻息をふんと吐き出し、

「そういうわけだから。たとえ廃部になっても私たちは終わらない。というか、そもそも廃部になんてぜったいさせないから。今に見ててよね」

 冗談めかして笑い、イタズラっぽくひとりを指さす。

「いつでも軽音部に遊びに来ていいから。それで、ちゃんと潰れずにつづいてるって証明してあげる」

「や、でも……私、無関係な人間だし、そんな……」

 ウジウジと下を向くひとりに喜多は何気なく、

「いいのよ別に。もう私たち友達じゃない。なんにも遠慮しなくていいから。先輩たちだってきっと喜ぶと思うし」

「友──え、」

「じゃ、私はこれで。バイバイ」

 

 だんだんと背中のズキズキが洒落にならなくなってきた。冷や汗を肩で拭い、ひとりと顔を向き合わせたまま手を振る。そして保健室からそろりと出ていく。

 ぴしゃり。

 扉を閉めると体を反転し、ひとつ息を吐き出してからまだ授業中の静かな廊下をとぼとぼと歩き出した。この時間帯に帰れるという優越感は全くといっていいほど心にない。

 ふと立ち止まる。腰に手を当て、窓から雲だらけの青空を見上げ、喜多はひと握りの不安を口の中でつぶやいた。

 本当に、廃部になんかならないわよね──?

 頭も背中もすごく痛い。

 

 廃部の期日まで、残り二日。

 

 

 

 *

 

 

 

 診断の結果、腰椎まわりの骨挫傷とのことだった。

 要するに、落下の衝撃で背骨の腰部分が内出血を起こしちゃったのだ。レントゲンやCTでも骨に異常がなかったため、翌日に人生初のMRIを体験してようやく判明したのだった。

 そんなわけで一日は学校を休む羽目になり、翌々日に喜多は登校することとなった。オヤジの腹巻きみたいなコルセットをいやいや腰に巻いて、重たい足取りで高校に向かう。ちなみに、虹夏とリョウから新入部員が入ったという報告はいま現在も受けていない。

 

 廃部まで、残り半日。

 

 

 

 

 学校に着いて、まず最初の違和感は昇降口にあった。

 下駄箱を開けて、脱いだローファーを突っ込もうとしたときに喜多はあるものに気づいた。

「ん、封筒?」

 白の縦封筒が中に入っている。不思議に思いつつもすぐに手に取って裏に書かれた差出人の名前を確認すると、喜多は思わぬ人物の名前を目にした。

 

 後藤 ひとり

 

「後藤、さん……?」

 疑問。

 いったいなんの要件だというのだろう。わざわざこんなものまで用意して。

 やたらと頑丈に糊付けされてあった開け口をその場で強引に破って開け、入っていた一枚のA4コピー用紙を開いて見てみる。実に簡素な手紙だった。小さく下手くそな文字でこう書かれている。

 

『今日の昼休み、屋上にきてくれませんか。待ってます。』

 

 疑問が増えた。本当にどういうつもりなのか。

 頭のまわりでハテナをいくつも巡らせながら階段を上がり、あとで本人に直接訊こうと思いながら教室に入る。と、いきなり「おっ」と声をかけられた。

「来たよ、ジャッキーチェンが」

 さっつーである。

「名誉の負傷の具合はどーお?」

 言いながらニシシと近寄ってくるさっつーに、喜多は不機嫌そうにむっと眉をひそめ、

「なによジャッキーって。いきなり変なこと言わないでよね」

「いやあ、体を張った救出劇はまさにアクションスターさながらだよ。さすが喜多だよね。ウチらみたいな凡人にはできないことを平気でやってのけるんだもん。そこに痺れて憧れちゃった子もいるみたいだし〜」

 そうしてニマニマと笑う。

 第二の違和感にはそこで気づいた。

 そろりと喜多が周りを見やると、クラスメイトたちの好奇の視線が一斉に自分に注がれていた。普段から軽音楽部の輩なんぞに関わりたくないという思いがあからさまに透けて見える彼らである。そんなクラスメイトたちから、こんな風に注目されるのは入学以来初めてのことだった。

 喜多はさっつーの腕を引っつかんで耳元で、

「もしかして、みんな一昨日のこと知ってるの……?」

「そりゃあ、あれだけ騒ぎになったんだから知ってるって。それに、昨日もあんなことあったし」

「昨日?」

「ええと、たしか後藤だっけ? (くだん)の女子。その子がね、昨日の放課後この教室に来たんよ。『喜多さんに伝えたいことがあるんですっ、呼んでくれませんか』とか言って。しかもやたら大声で」

「後藤さんが?」

 うなずき、

「でね? まあそのときはウチが『喜多は今日休みだよー』って言って、後藤もそのまま帰っていったんだけどさ。その様子見た感じ、な〜んかすんごい『それ』っぽい雰囲気だったからさあ。見てたみんなもソワソワしちゃって。これは喜多が来たら面白いことになるぞってことで。……もうお分かり?」

「え。なにが?」

 さっつーは「まったくこいつぁ世話が焼けるなあ」とでも言いたげな顔で、

 

「こ、く、は、く。そんな感じだったって言ってんの」

 

 緩んでいた頭のネジがギュッと締められる感覚があった。

「こくはく……え、告白? 告白って、あのっ?」

「他にどの告白があんのよ。白を告げると書いて告白だよ」

 もちろん喜多が知っている「こくはく」もそれ一種類しかない。

 思う。

 

『今日の昼休み、屋上にきてくれませんか。待ってます。』

 

 となれば、あの手紙はつまりそういうことなのだろうか。

 急に顔が熱くなってきた。

 いやいやそんなわけないこれはきっと何かの間違いよ、と思う自分がいる。一方で、これだけ証拠がそろってるんだからさっつーの言うとおり告白確定でしょ、と思う自分もいる。

 ひとりの顔を思い浮かべる。気弱で自信の欠片もなさそうで恋愛なんて柄じゃなさそうなあの顔。そうよ、私たちまだ知り合ったばかりなのよ、そんな簡単に恋なんて生まれるはずないでしょ、いくら私が体を張って後藤さんを助けたとしてもそんなすぐ好きになるわけ、だけどもしかしてそういうドラマみたいなことも有り得たりするのかしら、ああでもそんなの困っちゃう、

 

「──喜多。ねえちょっと、聞いてる?」

 唐突にひとりの顔がさっつーに置きかわってビックリする。喜多は夢から弾き出されたような気分で目をパチクリさせて、

「あ、え、なに?」

「だからー、軽音の廃部の期限ってたしか今日まででしょ? そっちはどうなってんのって」

「あ、ああ……」

 イヤなことを思い出させてくれたわね、と喜多は仏像のような顔になった。薄ら笑いを浮かべて、

「その、いまも部員がんばって探してます……」

「え。ま、まだ見つかってないの?」

 

 HRの予鈴が鳴り出した。喜多は自分の席に向かい、さっつーもまだ何か言い足りないような心配げな顔のまま席に戻っていく。廊下にいた生徒たちもあわてて教室に入り、寝ぐせあたまの担任が出欠を取り始める中、喜多は机に顔を伏せてひとりの名前が書かれた封筒をスカートのポケットの中で大事に握りしめている。

 本当に告白だとしたら、どう返事すればいいのかな──頭の中にあるのはそればかりだ。

 

 

 

 

 昼休みになって喜多はいの一番に教室を飛び出し、さっそく屋上にたどり着いていた。さっつーから「お昼いっしょに食べよ」と誘われていたが、用事があるからと言って断った。

 周りを見まわす。まだ誰の姿もない。

 一度大きく深呼吸してから、スカートのポケットに手を突っ込み封筒を引っぱり出した。朝からずっと入れっぱなしだったせいで、汗がにじんで中の手紙もだいぶヨレヨレになってしまっている。

 もう一度読み直す。

 

『今日の昼休み、屋上にきてくれませんか。待ってます。』

 

 うん、

 やっぱり断ろう。

 それが、喜多が午前中の授業を犠牲にして考え抜いて決めた答えだった。

 理由は色々ある。いまは恋愛よりも音楽に集中したいからとか、憧れてる先輩がいるからとか。ただ、それらが本当の理由なのかと問われれば喜多には返すひと言もなかった。

 本当のところは、自分でもよくわかっていない。

 恋愛がどんなものなのか、ちゃんと理解できていない。そんな幼稚な自分を覆い隠すため、もっともらしい理由を作ったに過ぎないのだ。だけどそれでいい。そんなことを詮索するような意地の悪い人間はいないだろうし、ひとりがそんなことをするような人とも思えない。

 汗が出てきた。

 喜多の額に玉の汗が浮かび上がってくる。今さらだが、今日はかなり気温が高い。すっかり真上にのぼった太陽はもはや真夏の輝きだ。そこそこ長い時間待ちぼうけを食らっているような気がして腕の時計に目を落とすと、感覚どおりすでに二十分は経っていた。

「……遅いわね」

 昼休みに屋上、という情報しか手紙には書かれていないから遅刻だとは言えない。しかし、普通こういうのは差出人のほうが早くきて然るべきなのではないかと手紙を見ながら思い──

 

 そこで、喜多は第三の違和感に気づいた。

 

 この手紙に書かれている〝今日〟とは、果たして本日のことを言っているのか。もしも、この手紙が〝昨日〟下駄箱に入れられたものだったとしたらどうだろう。

 考えてもみろ。さっつーの話だとひとりは昨日、自分が休みだったことを放課後になるまで知らなかったはずだ。手紙を入れたのがそれより前の話だったらどうだ、時間が二人の間で一日ズレていることになる。ひとりがいつまで経っても現れないのも、それなら説明がつくんじゃないか。逆に、ひとりが昨日教室に来たというのも昼休みに自分が屋上に現れなかったから心配になって向こうから会いに来たのではないか。

 なんだかそれが正解な気がしてきた。

 ぜったいにそうだと思った。

 途端にものすごい罪悪感が湧き上がってきて、喜多はあわてて駆け出した。ひとりに会いに一年二組に向かおうとして、

 そのとき、タイミングよく屋上のドアが開いた。

 

 あっ、

 

 二人同時に声が上がって、二人同時にお互いの名前を呼び合う格好となった。

「ご、後藤さんっ」

「き、喜多さん」

 それから先に二の句を継いだのはひとりの方で、

「よ、よかった。やっと会えた……私、ずっと探してて」

 ドキリとする。変に意識してしまうせいで、何気ない言葉も妙に緊張してしまう。

 一方で、ひとりはブレザーの内ポケットに忙しなく手を突っ込んで、

「あのっ、これ! 私、喜多さんにこれをお渡ししたくて……ど、どうぞっ!」

 そう言って、腰を折り曲げながらあるものを差し出してくる。

 またしても封筒だった。

 喜多は困惑しつつもそれを受け取り、いつ告白の言葉が飛んでくるのかドキドキしながら上目でひとりの顔をうかがう。

 やがてひとりはおずおずと顔を上げると、

「そ、そこに書いてあるとおりなので……それじゃ、失礼しますっ!」

「えっ、あれ、後藤さんっ?」

 

 ひとりは背を向けて、パタパタと階段を駆け下りていってしまう。途中、踊り場で立ち止まって喜多に恥ずかしそうに軽く頭を下げると、今度はもう止まらずに走り去っていった。

 告白じゃない……?

 いや、まだそうと決まったわけではない。喜多はひとりからもらった新しい封筒に意識を移した。こっちが本命なのかもしれない。こっちに愛の言葉がびっしりと書き連ねられている可能性がある。

 ぜったいにそうだと思った。

 そうでなきゃ、いま自分は世界で一番かっこ悪い人間になってしまうと思った。

 糊付けされていない封筒の口を開け、中の紙を勢いよく引っ張り出す。三つ折りにされたB5サイズのコピー用紙を天にかかげるようにしてバッと広げた。薄めていた目をゆっくり、ゆっくりと開いていく。そして、まずは一番大きな文字から読み始めた。

 

 

 入部届

 

 

 ひっくり返る。

 骨挫傷だと言われ、不本意ながらもオヤジの腹巻きみたいなコルセットまで巻いたというのに、喜多は構わず背中からびったんと地面に倒れた。だけれど痛みなんてまったく感じなくて、ただただこうつぶやくばかりだった。

 

「……廃部……回避ね……」

 

 強がるようなほほ笑みも、やがてため息とともに溶け落ちていく。

 先日、さっつーから言われたことが頭の中でガンガンと響いてきた。

 

 ──そんなね、詐欺かハニトラまがいのこといい加減やめときなって。そのうち手痛いしっぺ返しくるよきっと

 

 きっと、これがそのしっぺ返しなのだと思う。無意識に男子生徒たちを勘違いさせてしまったツケ、それが今日返ってきたのだ。

 喜多はようやく男子生徒たちの気持ちがわかった気がした。そして心から「ごめんなさい」と謝罪した。

 空が青い。

 はやく虹夏とリョウにこのことを報告しないといけないのに、昼休みもあまり残ってないんだからさっさと昼飯も食わないといけないのに、どうにも力が入らない。もう少しくらい何も考えずに空を見上げていたい。

 あと五分くらいはこうしていようと思う。

 

 

 

 ちなみに、喜多が見落とした第四の違和感は手元の封筒の中にある。

 喜多はまだ気づいちゃいないが、実は封筒の中には百円玉が一枚同封されていたりする。実にわかりやすい。先日、リョウから言われたポテトの割り勘代を支払えという冗談をひとりは真に受けていたのだ。だから入部届と一緒に封筒に入れたのだろう。まるでそれが入部の条件だとでもいうように。

 それともう一つ。

 B5のコピー用紙は、たしかに間違いなく軽音楽部への入部届で、ひとりの名前もクラス担任のサインもしっかり入っている。さすがの喜多もそこはしっかり確認してある。とはいえ、「入部理由」についてはちゃんと目を通していなかった。今どきこんなことを書かせる学校というのもおかしな話で、ひとりもきっとここで筆を止まらせたに違いない。

 結果、「音楽で世界平和を広めるため」というトンチンカンなことが書かれてしまっているわけだが、よくよく見てみると消しゴムで何度も消して、書き直されたあとがくっきりと残っている。

 そこにはこんなことが書かれていた。

 

『友達がいるから』

 

 そんなことを知らない喜多は、今もぼんやりと青い空を眺めている。おそらく、この先もずっと知ることはないはずだ。

 だって、鈍感だから。

 長い春が終わり、夏がやってくる。

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