ここはパルデア地方・セルクルタウン。オリーブ畑に囲まれた、小さな町だ。
僕はそこで生まれ育ち、今は作家として机に向かっている。……なんて言えば聞こえはいいが、要するに、家にこもって文章ばかり書いている。それでも、これ以上の幸福はないと思っている。
この町にはジムがある。そして、ジムがある以上、ジムリーダーがいる。ジムリーダーの名は――カエデ。僕の幼馴染だ。
「カエデはパティスリー『ムクロジ』でお菓子を作っているし、ジムリーダーもしているし……どれだけ頑張り屋なんだか」
ひとりごとのように口にすると、昔のことが脳裏に浮かぶ。
小さいころには未来のジムリーダーであるカエデとポケモンバトルをよくしていた。彼女はお菓子作りにも精を出していたが、ポケモンバトルにも並々ならぬ情熱を持っていた。しかし勝っていたのはいつも僕だった。
僕は10歳になると隣町のオレンジアカデミーには入学せずに各地方を旅するバックパッカーをしていた。もっと広い世界を見てみたかったからだ。
その間カエデはオレンジアカデミーに入学してめきめきと力をつけていった。旅をしていた間も僕とカエデは文通をしていた。そのころから、僕はカエデのことやセルクルタウンのことが恋しくなってきたため、帰ってこうやって仕事をしている。
僕はトレーナーでもしようと思ったが、昔から文を書くのが好きだったため、試しに書いてみたところ、ネットで話題を呼んで今の仕事につながっている。
カエデは僕が旅をしている間に、ポケモンリーグに認められ、ジムリーダーをしていた。これが帰ってきて一番びっくりした。
さて、もうそろそろおやつの時間だ。お菓子を買いに行くとするかな。
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幼馴染に会いに行くのか、それとも甘いものに釣られているのか。論理的に考えれば後者のはずなのに、心臓は前者の答えを選んでいた。
石畳を踏みしめながらセルクルの町を歩く。オリーブ畑から吹いてくる風が涼しく、油のような香りがかすかに鼻をくすぐった。
やがて町の中央にある小さな洋菓子店――『ムクロジ』が見えてくる。ドアの上の小さな鈴が鳴ると、甘い香りが一気に押し寄せた。
「いらっしゃい~。あら、今日も来てくれたんですね~」
柔らかい笑顔に間延びした声、おっとりとした雰囲気に僕も頬を緩ませる。
虫の繭のように編み込まれている緑の髪に、左頬のほくろがあって、着ているコックコートには蜘蛛の巣やアリの触角のような模様がついている。
それが彼女、カエデだった。
「ああ、原稿がひと段落したから、甘いものが欲しくなってね」
これは、半分はうそで半分は本当だ。わざわざ僕のように毎日買いに行くやつもなかなかいない。
「それはそれは〜。じゃあ、今日のおすすめを紹介しますね〜。オリーブパイに、はちみつタルト〜……どちらも、口に入れたら 幸せになりますよ〜」
主人公はメニューを眺めながら首をかしげる。
「どちらにしようか……迷うな」
「えへへ〜、迷ってくれるのは 嬉しいですね〜。……でも、わたしとしては〜、あなたがおしゃべりしてくれるだけで、もう十分ご褒美なんです〜」
彼女はそう言って、照れ隠しのようににっこり笑った。奥で働く従業員が、ひそひそと囁く。
「……ねえ、やっぱりあの人、店長の幼馴染なんでしょ」
「うん……なんか特別っぽいよね。あんな顔、ほかのお客さんに見せてないもん」
ちがう、カエデは誰にだってやさしいんだ。決して僕が特別なわけではない。
「あら~、ほかの皆さんは手が止まっていますよ~。さあ、うごいて~」
カエデの働きかけにより手が止まっていた従業員が動き出した。さすがジムリーダーをやっているだけあって、人望はあるらしい。
「うーん、やっぱ全部おいしそうで選べないよ」
「うれしいですね~。あなたにそんなことを言われるのは~」
「おすすめとかある?」
「じゃああなただけに特別ですよ~?実は店にはまだ出していない試作品があるんですが、それを試食していきませんか~?」
前半に言われたことを胸の奥にしまい、カエデの提案に乗ることにした。
僕は首を縦に振った。
カエデは奥の厨房へと小走りに消えていった。やがて、小さな銀のトレイを両手で抱えて戻ってくる。
「じゃじゃ〜ん。これは、オリーブのはちみつ漬けを使ったフィナンシェなんです〜。
ふふっ……まだレシピが定まっていなくて、お店に出すのはちょっと先になりそうなんですけどね〜」
皿の上には、小ぶりな焼き菓子が二つ並んでいた。表面はこんがりと色づき、ほんのりとはちみつの香りが漂っている。
「どうぞ〜、あなたの舌で、感想を聞かせてくださいね〜」
フォークを手に取り、一口かじる。しっとりとした生地が舌にほどけ、オリーブの爽やかさとはちみつの濃厚な甘さが重なり合った。
「……すごいな。甘いのにくどくなくて、後味がすっとしてる」
「ほんとですか〜? えへへ〜……よかったぁ〜」
カエデは胸に手を当ててほっとしたように笑う。
「でも……」
僕はフォークを置き、思わず口にしていた。
「これはもう“試作品”じゃないよ。完成品だ。どこに出しても恥ずかしくない」
「……あら〜」
カエデは少し目を細めて、頬を赤く染めた。
「そんなに褒められちゃうと〜、わたし、ジムの仕事を忘れてお菓子ばっかり作っちゃいそうです〜」
「いや、それは困るな。ジムリーダーの仕事もちゃんと……」
「……あらら〜、わたし、また“店長”って言いそうになっちゃいました〜」
唇に指を当て、照れ笑いを浮かべるカエデ。その仕草に、胸がちくりと疼く。
この人は、昔から変わらない――天然で、優しくて、だけど人を惹きつける強さを持っている。
従業員が横目でこちらを見て、またひそひそと囁く声が聞こえた。
「……やっぱり、あの人のこと特別なんだ」
僕は聞こえないふりをした。だが胸の奥では、否定しきれない答えが鼓動になって鳴っていた。
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「そろそろ帰るよ、長居しても悪いだろうし」
「そうですか~。……でも、また来てくれますよね?」
その一言に、胸が不意に熱くなる。これは好意じゃない、そう自分に言い聞かせた。……そう思わなければ、この鼓動の理由を説明できなくなってしまうから。
「じゃあ失礼するよ。ジムリーダーの仕事も頑張って」
ドアを押して外に出ると、夕方の風が頬を撫でた。オリーブ畑の向こう、沈みかけの陽が赤く滲んでいる。胸の奥も、同じ色で満たされていた。
――きっと明日も、僕はここに来るのだろう。
評判が良ければ書きます