リングマの爪が空を裂いた瞬間、フーディンの姿はまたも掻き消えた。次の瞬間、彼は背後に現れ、鋭い眼光で相手を見据える。カエデはくすっと笑った。
「ふふ〜、ほんとにいたちごっこですね〜。でも、クマちゃんはあきらめませんよ〜!」
「クマァアアアアッ!」
リングマの雄叫びが夜のフィールドに響く。続けざまに繰り出されるれんぞくぎり。フーディンは寸前でテレポートを繰り返し、まるで光の残像のように宙を舞っていた。
「……いつも思うけどさ、カエデのリングマって、すごい執念だよな」
「むしタイプになったクマちゃんは〜、どんな時でもあきらめないんです〜。だから、わたしも絶対にあきらめないんですよ〜」
おっとりした口調なのに、その声は芯が強い。僕の胸の奥に、熱いものが走った。
「フーディン、サイコキネシス!」
フーディンが杖のように掲げた腕から、紫色の念動力が奔流のように放たれる。リングマの巨体を持ち上げ、地面すれすれまで押し下げた。
「くっ……でもまだです〜! クマちゃん、がんばって〜!」
リングマが雄叫びを上げ、サイコキネシスの重圧を押し返そうと踏ん張る。爪で地面をえぐりながら、少しずつ姿勢を取り戻していく。
「こんな力技で返すのか……!」
僕も驚かされた。カエデの指示というより、彼女とリングマの信頼が生んだ力に違いない。押し合う力は拮抗し、紫色の光とリングマの体毛に宿るむしの輝きが交錯した。夜空の下で火花のように散る。
やがてカエデが声を張った。
「クマちゃん! かみくだく〜!」
リングマが跳ね上がり、サイコキネシスをねじ伏せてフーディンに迫る。鋭い牙が迫るのを見て、僕は息を呑んだ。
「テレポート!」
ギリギリの瞬間、フーディンが消える。だが避け切れず、頬をかすめるように牙が突き抜けた。
「フーディン!」
フーディンがよろめく。ほんの少しの傷でも、彼の集中は鈍る。カエデはその一瞬を逃さなかった。
「今です〜! クマちゃん、れんぞくぎり!!」
鋭い爪が、夜空を切り裂く。フーディンは再びテレポートで姿を消すが、連撃はまるで彼の行き先を読んでいるかのように追いすがる。
僕の心臓が高鳴る。――そうだ、これがカエデの強さだった。おっとりとした笑顔の奥に隠された、譲らない意志。
「フーディン、落ち着け! 念力で受け止めろ!」
「ディン!」
フーディンの目が光り、迫る爪を念力で止める。爪と念動力がぶつかり合い、空気が軋む音が響いた。
一進一退。決着はどちらに転ぶのか分からない。僕は口の中が乾くのを感じた。やがて、わずかな隙が生まれた。
「フーディン、サイコカッター!」
光の刃が放たれ、リングマの肩を斬り裂いた。大きな体が揺らぎ、後ずさる。
「クマちゃん……!」
カエデの声が夜に響く。けれど彼女の目は、まだ折れていなかった。
「まだ立てますよね〜? わたしたち、ここで終わりませんよ〜!」
「クマァ……!」
リングマが再び立ち上がる。その姿に、僕は思わず笑ってしまった。
「ほんと、すごいな。君とリングマの絆って」
「えへへ〜……ありがとうございます〜。でも、あなたに勝ちたいんです〜!」
幼馴染の彼女の声が、まっすぐ僕にぶつかる。胸が熱くなる。この勝負に、変な駆け引きはいらない。
「フーディン、全力で行こう。サイコキネシス!」
「ディン!」
「クマちゃんも、れんぞくぎりです〜!」
二つの力が正面からぶつかり合う。光と爪の閃きが夜空を焦がし、空気が震えた。どちらも譲らず、ただ相手を倒そうと全力で押し合う。幼馴染の笑顔を守りたい僕と、幼馴染に勝ちたい彼女の想いが、ポケモンたちを通じてぶつかり合う。
そして――
「……っ、フーディン!」
最後に押し切ったのは、フーディンだった。念動力の奔流がリングマを大きく吹き飛ばし、地面に倒れさせた。
「クマァ……」
リングマは立ち上がろうとしたが、その場に崩れ落ちる。
夜のフィールドに、風がそよいだ。カエデはリングマをボールに戻し、静かに微笑んだ。
「……やっぱり、今回も負けちゃいましたね〜」
「本気だったのは分かってる。だからこそ……胸を張れよ。いい勝負だった」
僕がそう言うと、カエデは目を細めて、少し照れくさそうに笑った。
「えへへ〜……あなたにそう言ってもらえると、やっぱりうれしいです〜」
夜空には星が瞬いていた。二人の間を流れる風が、どこか心地よかった。
カエデは小さく息を吐き、それでも笑顔を浮かべてこちらを見つめていた。頬にかかった髪を直す仕草が、なんだか子どもの頃の彼女を思い出させる。
「でも、すごく楽しかったよ。君が本気を見せてくれるのは、僕にとっても特別だから」
「えへへ……そう言ってもらえると、うれしいです〜。でも悔しいから……次はもっと練習
してきますね〜」
そう言って笑う彼女の顔が、ランプの光に照らされて柔らかく輝いていた。僕は思わず近づき、手を差し出す。
「おつかれさま」
カエデは少し戸惑ったように見えたけど、次の瞬間、恥ずかしそうに笑って僕の手を取った。指先がかすかに震えていて、そのぬくもりが夜の冷えた空気の中で心地よく伝わってくる。
「あなたと手をつなぐの……なんだか懐かしいですね〜」
「昔もよく、一緒にオリーブ畑を歩いたよな」
「はい〜。でも……今は、少し違いますね〜。大人になったからでしょうか〜」
彼女の言葉に、胸が高鳴る。昔とは違う感情を抱いているのは僕も同じだ。
「……カエデ」
「はい〜?」
少し言葉を選び、息を整えてから口にした。
「カエデは、僕の希望なんだ」
その一言で、彼女の瞳が大きく見開かれる。次の瞬間、頬がほんのり赤く染まり、視線を逸らしながら小さな声で答えた。
「……そんなこと、急に言われたら……照れちゃいますよ〜」
彼女の声は震えていたけど、つないだ手は離れようとしなかった。僕はその温もりを確かめるように、指先を少し強く絡める。
「本気で言ったんだよ。今ジムリーダーをやっていて、パティスリーの店長だなんて誇り以外の何物でもないよ」
「……わたしも……あなたがいてくれるから、がんばれるんですよ〜」
その告白のような言葉に、胸が熱くなる。ふたりの間を満たす沈黙は、不思議と心地よかった。
ジムの外に出ると、夜空が広がっていた。街灯の少ないセルクルタウンの空は驚くほど澄んでいて、星が宝石のように瞬いている。
「わあ……きれいですね〜」
カエデが空を見上げ、子どものような声を漏らした。その横顔があまりにも美しくて、僕はしばらく星よりも彼女を見てしまう。
「……何ですか〜?そんなに見られると……恥ずかしいです〜」
「星より、君の方がきれいだから」
また口が勝手に動いてしまった。けれど、もう止められなかった。カエデは顔を覆って「もう〜」と笑い、けれど指の隙間から覗く瞳は、嬉しそうに揺れていた。少し行き過ぎたのかもしれない。これも勝った余韻だろうか。
そのまま僕たちは並んで腰を下ろし、夜空を見上げた。
静けさの中に、虫の声が優しく響く。彼女の肩がそっと触れる。少し距離を詰めれば、もっと寄り添えそうだった。
けれど僕は今、この距離感が愛おしいと思った。夜風と甘い香りと、彼女のぬくもり。それだけで、世界が輝いて見える。
――そして僕は心の中で繰り返した。
「カエデは、僕の希望なんだ」と。
すごいだろ。
これで付き合ってないんだぜ。