あれから数日後の午後、僕は少し緊張した足取りでカエデの家へ向かっていた。
「今回は、お菓子を作る会なんですよ〜。あなたも手伝ってくださいね〜」
そう言って彼女に誘われたとき、胸がどきりとしたのを覚えている。
パティスリー『ムクロジ』とは違い、彼女の住まいは町外れのオリーブ畑に囲まれた小さな家だった。玄関の扉を開けると、バターと砂糖の甘い香りがほのかに漂っている。
「いらっしゃいませ〜……じゃなかった。ようこそ、わたしのおうちへ〜」
天然な口調に、思わず笑みがこぼれる。
「店じゃないんだから、緊張しなくてもいいのに」
「えへへ〜……ついクセで言っちゃうんです〜」
キッチンに案内されると、テーブルの上には材料が並べられていた。薄力粉、バター、砂糖、そして大きなボウル。
「今日はクッキーを焼きましょう〜。シンプルですけど、心がほぐれるお菓子なんですよ〜」
「いいな。それなら僕にも手伝えそうだ」
二人並んで作業を始める。バターを練ると、柔らかな黄色がじわじわと溶けていき、そこに砂糖を加える。カエデは木べらを持ち、ゆっくりと混ぜながら言った。
「力を入れすぎないで〜。ほら、こんなふうに……」
背後から手を添えられ、僕の動きを導かれる。ふわりと甘い香りが鼻先をかすめ、思わず心臓が跳ねた。
「な、なるほど……」
「えへへ〜、顔が赤くなってますよ〜。バターの熱のせいですか〜?」
「……いや、それは……」
まともに言い返せず、彼女の微笑みを正面から受け止めてしまう。粉を加えて生地をまとめるときも、自然に肩と肩が触れ合った。
「けっこういい感じですよ〜。あなた、センスありますね〜」
「そうか?でも隣で見てるからだと思うよ」
「ふふっ……そんなに褒めてもクッキーは甘くなりませんよ〜」
「いや、十分甘いと思うけど」
ぽろりと口をついて出た言葉に、カエデは木べらを止め、少しだけ視線を逸らした。
「……そういうことを言うと、困っちゃいますね〜」
オーブンに生地を並べ、焼き上がりを待つ間も二人は言葉を交わした。窓の外からは風に揺れるオリーブの葉が見え、部屋にはどこか柔らかな時間が流れている。やがて「チン」と音がして、香ばしい匂いが立ち上った。
「できましたよ〜!熱いから気をつけてくださいね〜」
皿に盛られたクッキーはきつね色で、見た目だけで幸せになれそうだった。
「じゃあ……いただきます」
ひと口かじると、ほろりと崩れて口の中に広がる優しい甘さ。オリーブの香りがほのかに残り、心まで温かくなる。
「……うまいな。これ、本当に君と一緒に作ったんだよな」
「はい〜。二人で作ったから、おいしさも二倍ですよ〜」
そう言ってカエデもひと口。目を細めて、ゆっくりと噛みしめる仕草がなんとも可愛らしい。
「ねえ〜……あなたが横で食べてるのを見てると、わたしまでうれしくなりますね〜」
「それは僕の台詞だよ。君と一緒に作ったから、こんなにうまいんだ」
「えへへ〜……そんなふうに言われると……。もっと作ってあげたくなっちゃいますね〜」
言葉のやりとりの合間に、自然と手が触れ合う。すぐに離れるでもなく、そのまま視線が絡まった。部屋の灯りに照らされる彼女の頬はほんのり赤く、僕は思わず息をのんだ。
クッキーの甘さよりも、目の前の彼女の笑顔のほうが心を満たしていた。
焼きたてのクッキーを一緒に食べ終えたあとも、僕たちはテーブルに向かい合って座ったまま、他愛のない話を続けていた。けれど言葉よりも、つないだままの手の温もりの方が心を支配していた。
「……あの、手……そろそろ離しますか〜?」
カエデが小さな声でつぶやく。
「離したいの?」
「い、いえ……その……。離したくないですけど〜……」
赤くなった頬を指で隠そうとする仕草があまりにも可愛くて、胸が痛いくらいだった。彼女は普段通りののんびりした声で話しているのに、その指先は小さく震えている。僕も同じくらい緊張しているのだと思うと、嬉しくて仕方がなかった。
「なんか、こうしてると……ほんとに恋人みたいだな」
思わず口にすると、カエデはびくりと肩を震わせ、けれどすぐに笑顔になった。
「……みたいじゃなくて……。なってもいいんですよ〜?」
冗談とも本気ともつかないその言葉に、心臓が跳ね上がる。
その瞬間、オーブンの熱気がやっと冷めてきた部屋が、妙に暑く感じられた。僕は咳払いをして誤魔化すけど、カエデはいたずらっぽく目を細める。
「なんて冗談ですよ~。ちょっと暑いのでエアコンの温度下げますね~」
僕たちは得も言われぬむずがゆさに苦戦していた。
「わたしたち、もっといろんなお菓子を作ってみたいですね〜。次はケーキとか〜」
「いいね。じゃあ、今度は僕が材料を持ってくるよ」
「ほんとですか〜?じゃあ約束ですね〜」
彼女が小指を差し出してきた。子どもの頃の約束みたいなのに、今はとんでもなく甘い仕草に見える。僕は照れながらもその小指に絡め返した。
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気づけば時間は夕方に差しかかり、窓の外は薄い茜色に染まり始めていた。
「もう、こんな時間なんですね〜」
名残惜しそうに呟く彼女の声が、僕の胸を締め付ける。
「……そろそろ帰らないと」
「はい〜。でも……今日はすごく楽しかったです〜」
「僕もだよ。こんなに笑ったのは久しぶりかもしれない」
「わたしも……あなたと一緒だから、楽しかったんです〜」
玄関まで送ってもらい、靴を履きながらふと振り返ると、カエデがそこに立っていた。いつも通りの柔らかい笑顔なのに、どこか切なそうでもある。
「また来てくれますか〜?」
「もちろん。約束しただろ」
「えへへ……じゃあ、待ってますね〜」
外に出ると、夜の風が頬を撫でた。振り返れば、カエデはまだ扉の前に立って手を振っている。僕が見えなくなるまで見送ってくれるのだろう。
胸の奥がじんわりと温かくなりながらも、どこか寂しさもあった。もっと一緒にいたい――その思いを押し込めるように、僕は歩き出した。
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玄関の扉を閉めても、胸の高鳴りは収まらなかった。
「……ほんとに、恋人みたいでしたね〜」
自分で言葉にして、さらに顔が熱くなる。クッキーの甘さなんかより、もっと甘い時間を
過ごしてしまった。
彼の笑顔を思い出すだけで、頬が緩む。けれど同時に、胸の奥に小さな痛みが残った。――もっと一緒にいたかったな。窓から外を覗くと、遠くに彼の背中が小さくなっていく。指先でカーテンを握りしめながら、小さく呟いた。
「……次は、もう少しわがままを言ってもいいですか〜?」
夜の帳が降り始め、オリーブ畑に静かな風が流れた。カエデの心には、確かに恋人のような甘い余韻が残っていた。
甘いですね