夕暮れがゆっくりと落ちていく。セルクルタウンの広場には、灯りがともり始めていた。オリーブ畑の奥から吹いてくる風が、ほのかに甘い。香ばしい匂いと人の笑い声が混じり合い、いつもの穏やかな町が、今日はどこか胸を弾ませているようだった。
「わあ〜、きれいですね〜。セルクルまつり、ひさしぶりです〜」
隣でカエデが目を輝かせていた。今日はジムの制服ではなく、淡い藤色の浴衣を着ている。帯のところに小さなオリーブの飾りが揺れていて、まるで彼女の優しい性格そのもののようだった。
「浴衣、似合ってるな」
「えへへ〜。ありがとうございます〜。あなたも、なんだかいつもよりカッコいいですよ〜」
「そ、そうか?」
「はい〜。やっぱり、お祭りって特別ですね〜」
そう言って笑うカエデの声は、鈴の音みたいに柔らかく響いた。彼女とこうして並んで歩くのは、まるで夢の中みたいだ。通りの両側には屋台が並び、綿あめ、焼きそば、りんご飴――。どれも懐かしい香りがする。カエデは興味津々に屋台を見回していた。
「ねえねえ〜、あの金魚すくい……かわいいですね〜」
「やってみる?」
「いいんですか〜?じゃあ……」
カエデは嬉しそうに手を合わせてから、ポイを受け取った。すくい方もゆっくりで、まるで金魚に話しかけるように優しく網を差し出す。
「ほら、こっちに来てくださいね〜。あ、こらこら〜、逃げちゃだめですよ〜」
ポイの紙がぷつんと破れた。
「わ〜、逃げられちゃいました〜……」
「はは、カエデらしいな」
僕が笑うと、カエデは頬を膨らませた。
「うう〜……。あなたも、やってみてください〜!」
僕が挑戦すると、意外にもすぐに一匹すくえた。
「わっ、すごいです〜! どうしてそんな上手なんですか〜?」
「コツを見てたからだよ。カエデが優しく話しかけてたから、金魚が油断してたのかも」
「もう〜、からかわないでください〜」
そう言いながらも、彼女は楽しそうに笑っていた。次に二人でりんご飴の屋台に並ぶ。
「わたし、これ子どものころから好きなんですよ〜」
そう言ってりんご飴を手に取ると、少し迷って僕の方を見た。
「ひとくち……どうですか〜?」
「え、いいのか?」
「はい〜。仲良しさんですから〜」
僕がかじると、カリッという音とともに、りんごの酸味と飴の甘さが口いっぱいに広がった。
「おいしい」
「ですよね〜」
カエデは嬉しそうに微笑み、自分もひとくち。唇に飴が少しついて、彼女は慌てて指で拭った。その仕草が、妙に愛しくて、目を逸らせなくなる。
「……な、なんですか〜?そんなに見ないでください〜」
「いや……なんでもない。ただ、かわいいなって」
「もうっ……! 本気で言ってるんですか〜?」
「もちろん本気」
「……そういうこと、平気で言えるようになっちゃったんですね〜」
照れながら言うその声が、心にじんわりと染みた。少し歩くと、灯籠の飾られた池の前に出た。夜空を映した水面には、ゆらゆらと明かりが揺れている。カエデはその光景に目を細めた。
「こういうの、好きなんです〜。静かで、でも温かい感じがして〜」
「うん。……なんか、カエデみたいだな」
「え〜、またそういうことを言って〜……でも、嬉しいです〜」
並んで池を眺めながら、肩がほんの少し触れる。離れたくないのに、動けば触れてしまう微妙な距離。カエデはそのまま小さく息を吐いた。
「……あなたと一緒だと、時間がゆっくりになりますね〜」
「僕もそう思う。今日が終わらなければいいのに」
「ふふ〜……同じこと、考えてました〜」
花火の音が夜空を裂いた。ぱあっと光の花が咲き、カエデの横顔が淡い色に染まる。
その瞬間、彼女が小さく僕の袖をつまんだ。
「びっくりしちゃいました〜」
「大丈夫?」
「はい〜。でも、こうしてると安心します〜」
袖をつまんだ手は、いつの間にか僕の手を探していた。指先が触れた瞬間、胸が高鳴る。彼女も気づいたようで、顔を赤くして目をそらした。
「……ごめんなさい〜。なんだか、つい……」
「いいよ。むしろ、嬉しい」
「……わたしもです〜」
花火が次々と咲いていく。その光の中で、僕たちはただ見つめ合った。言葉はいらなかった。視線が交わるたび、胸の奥が熱くなっていく。
「ねえ、カエデ」
「はい〜?」
「こうしてるとさ……僕ら、もうずっと昔からこうだった気がする」
「……うん、そうですね〜。でも、不思議です〜。昔より、今の方がずっと……あなたのこと、近くに感じます〜」
花火が一段と大きく咲き、光の粒が夜空に散った。その輝きの下で、カエデが小さく微笑んだ。
「来年も、一緒に来てくれますか〜?」
「もちろん。絶対に」
「約束ですよ〜。破ったら、甘いお菓子じゃ許しませんから〜」
笑いながら言うその顔に、胸がぎゅっと締めつけられた。最後の花火が夜空に消える。ふたりの手はまだつながったまま、離れる気配はなかった。セルクルタウンの夏の夜風がそっと吹き抜け、遠くで屋台の片づける音が聞こえた。祭りの終わりは寂しいはずなのに、不思議と心は満たされていた。今夜の光景を、僕は一生忘れないだろう。
――花火の下で、まだ恋人じゃないふたりが、恋そのものみたいに寄り添っていた。
朝の光がレースのカーテンを透かして部屋に差し込んでいた。柔らかな陽射しがベッドの白いシーツを照らし、淡い金の模様を描いていく。カエデは布団の中で小さく身をよじらせ、まだ夢の名残の中にいた。
けれど昨夜のことを思い出した瞬間、ぱちりと目を開けた。
「……わ、わ〜〜……!」
頬にじんと熱がこもる。祭りの喧騒、提灯の光、夜空に浮かぶ花火。そして、そのすぐ横で笑っていた“あの人”の顔。リンゴ飴を渡されたときの、あの優しい笑い声。手が少しだけ触れたときの温度。屋台の金魚すくいでふたり同時に手を伸ばして、水面越しに目が合った瞬間――。
「うぅ〜……思い出しただけで、顔が熱いです〜……!」
布団を頭までかぶり、もぞもぞと身を隠す。しかし心の中では、夜空の下で見上げた花火が何度も何度も弾けていた。花火が上がるたびに、隣の彼が小さく息をのむのが分かった。その横顔を、つい見つめてしまって――視線がぶつかった。ほんの一瞬のことだったのに、胸がどきりと跳ねて、視線を逸らした後も鼓動が早くなるばかりだった。
「だ、だめです〜……。これじゃあ、完全に恋する乙女じゃないですか〜……」
けれど、否定しようとする心の奥で、ふわりと嬉しさが膨らむ。彼と過ごす時間はいつも楽しい。昨日だってそうだった。一緒に焼きそばを分け合ったり、射的で彼がぬいぐるみを取ってくれたり――。思い出すたび、胸がじんわりと温かくなる。気づけば、唇に小さな笑みが浮かんでいた。
「……あなたといると、ほんとに時間が早いんです〜……」
カエデはそっと布団から顔を出し、寝癖のついた髪を手ぐしで整えながら、窓の外を見た。オリーブ畑の上を、朝の風がやわらかく吹き抜けていく。葉の間からのぞく青空がまぶしい。あの夜の帰り際、彼が見せた少し寂しそうな笑顔を思い出す。本当はもう少し、一緒にいたかった。手を振る瞬間、胸の奥で“行かないで”と声がしていた。
「……また、会いたいです〜」
ぽつりと呟いた言葉は、静かな部屋に溶けていく。
その頬にはまだ、ほんのりと昨日の熱が残っていた。