テーブルシティでの原稿仕事を終えた帰り道、長かった執筆の日々の中で、ようやく一区切りがついた。空の灰色が濃くなるたびに、胸の中に残ったわずかな熱が少しずつ形を変えていく。
――カエデに会いたいな。
自然とそんな言葉が浮かんだ。あの柔らかな声と、少し間延びした話し方を思い出すだけで、不思議と心が落ち着いていく。
セルクルタウンの停留所で降りると、オリーブ畑の向こうにゆらりと白い影が見えた。カエデだった。籠を片手に、道端の草花を眺めながら歩いている。まるで時間の流れが彼女だけゆっくり進んでいるかのようだ。
「カエデ」
声をかけると、彼女はぱっと顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。
「まあ〜、あなたじゃないですか〜。おかえりなさい〜。お仕事、終わったんですね〜?」
「うん、なんとか。ちょっと燃え尽きた気分だけど」
「ふふっ、そんな時は〜、甘いものを食べて休まないと〜」
そう言って、彼女は籠の中からラベンダーのクッキーを差し出してきた。小さく割って口に入れると、ほろっと崩れて、やさしい香りが広がる。その瞬間、ぽつりと頬に冷たいものが落ちた。
「……雨、か」
「本当ですね〜。急に降ってきちゃいました〜」
見上げる空は、もうすっかり薄墨色に染まっている。カエデが腕で頭をかばいながら、少し困ったように笑った。
「うち、すぐそこなんです〜。よければ雨宿りしていきませんか〜?」
誘い方までいつもの調子なのに、なぜだか胸が少し高鳴った。
玄関をくぐると、甘い香りと焼き菓子の匂いが混じり合っていた。窓の外では、雨が細い糸のように降り続いている。カエデがキッチンからタオルを持ってきて、僕の頭にかけた。
「風邪、ひいちゃいますよ〜。ちゃんと拭かないと〜」
「ありがとう。でもカエデも濡れてるだろ」
そう言って、僕はタオルを取り、彼女の髪を軽く押さえる。ふわりと甘い香りが立ちのぼる。オリーブと砂糖の香り。まさにカエデそのものの匂いだ。彼女は少しだけ目を閉じて、「ん〜……くすぐったいです〜」と微笑んだ。
ソファに座り、二人で温かいカモミールティーを飲む。雨音が、静かに部屋を包んでいた。
「あなたが帰ってきてくれて、なんだか安心しました〜。最近、ちょっと寂しかったんです〜」
「……僕も、書いてる間ずっと君のこと考えてた」
カエデが一瞬、目を見開く。そして、ふにゃりとした笑顔を浮かべた。
「えへへ〜、そう言われると……照れちゃいますね〜」
彼女の頬が、ほのかに赤く染まっていた。雨が強まる。心の距離が、近づく。
外の雨脚が強まり、窓ガラスを打つ音が部屋の空気を震わせる。カエデがびくりと肩をすくめた。
「……雷、苦手なんです〜」
彼女の声がわずかに震えていた。僕は自然と、手を伸ばしていた。
「大丈夫。僕がいるから」
言葉と同時に、カエデの体をそっと抱き寄せる。柔らかな体温が、僕の胸に吸い込まれるように重なった。カエデは小さく息を呑み、それからゆっくりと僕の胸元に額を寄せた。
「……あったかいですね〜」
「雨のせいかも」
「ううん〜、あなたのせいです〜」
彼女がそう言って、微笑んだ。その声が、雨音よりも静かに、でも確かに心を打つ。
僕の指先が彼女の髪をなぞり、頬に触れた。その感触が現実なのか夢なのか、もう区別がつかなかった。ただひとつ分かるのは――この瞬間、僕はもう、彼女から離れられないということだった。
しばらくして、雨音が静まり始めた。カエデがそっと顔を上げ、窓の外を見た。
「……止みそうですね〜」
その声に、僕は首を振った。
「もう少し、このままでいい?」
カエデは驚いたように瞬きをして、それから静かに頷いた。胸の中で感じる彼女の鼓動が、雨の残響みたいに心に響く。
やがて、遠くで鳥の鳴く声がした。そのとき、僕はふと口にしていた。
「カエデは……僕の希望なんだ」
その言葉に、彼女の瞳がゆっくりと揺れた。やがて、頬を赤く染めながら、小さく笑った。
「そんなこと言われたら……また雨の日が好きになっちゃいますね〜」
窓の外では、雨上がりの空が淡い光を取り戻していく。二人の影がゆっくりと重なり、静かな時間だけが流れていた。
翌日。
雨が上がったセルクルタウンは、洗い立てのように澄んでいた。僕はカエデのパティスリーの前で、昨日のことをぼんやりと思い返していた。あの雨音、彼女の体温、柔らかい髪の感触――。まるで夢のようで、けれど確かに現実だった。
そんなとき、通りの向こうがざわめいた。オリーブ畑の風が止み、人々の視線が一点に集まる。そこに現れたのは、一目で誰か分かる人物だった。
――オモダカ。
パルデアリーグの頂点に立つトップチャンピオン。威風堂々とした佇まい、夜空のように艶めく髪、そして褐色の肌に走る光のような眼差し。ただ歩いているだけなのに、空気が張り詰める。
「……まさか、オモダカさん?」
呟いた瞬間、彼女の視線がこちらをとらえた。まるで心の奥を見透かすような瞳だった。
「あなたが――例の青年ですね」
彼女の声は穏やかだったが、どこか底知れない重みを感じさせた。
「カエデさんから聞きました。あなた、彼女のジム戦相手として、随分と印象に残る戦いをしたそうですね」
カエデが僕の話を……?心臓が跳ねた。彼女の言葉に、どんな思いがこもっていたのか。オモダカは静かに微笑んだ。
「私は、才能の香りに敏感なんです。だから少し……確かめに来ました」
彼女の背後には、宝石のように輝くキラフロルと、鋭い眼光を放つドドゲザンが控えていた。周囲の空気が一瞬で変わる。まるで空そのものが試されているような感覚だった。
「あなたに、少しだけ本気を見せてもらえますか?」
それは穏やかな言葉なのに、断るという選択肢を与えない声音だった。僕は息を吸い込み、まっすぐに頷いた。
「……分かりました。僕も、全力で挑ませてもらいます」
その瞬間、オモダカの表情がかすかに和らいだ。
「いい返事です。――やはり、カエデさんが惹かれるわけですね」
その言葉に、胸の奥が強く鳴った。遠くで、カエデが店の前に駆け寄ってくる。雨上がりの陽光の中で、彼女の髪が風に揺れていた。
「あなた……がんばってくださいね〜。でも、無理はしないでくださいね〜」
その笑顔が背中を押す。
オモダカが片手を上げる。
「では――行きましょうか。トップチャンピオンとして、あなたの“光”を見せてもらいます」
キラフロルが光を放ち、ドドゲザンが剣を構えた。土の匂いと熱気が混ざり、世界が静まり返る。
――僕は深く息を吸い、フーディンのモンスターボールを握った。
これが、僕にとっての新しい始まりになる気がした。