『死』となった男の話   作: 燃える空の色

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『死』の名を伝える者

 

 

 ある、満月の夜だった。

 その青年は家の外で空に浮かぶ月を見上げながら、父と交わした最後の会話を思い浮かべていた。

 

 

「―――僕はこれから、長年の友との決着と、旅立ちを迎えにいく。我が子よ、賢い子よ。今日の夜、キミの元には昏き『死』が訪れるだろう。昔から、君に語り続けてきたモノだ」

 

「けれど、決して恐れることはない。今はまだ、分からなくていい。だが覚えておきなさい…『死』は安らかな旅立ちだと。『死』は、僕たちの最初の友なのだと」

 

「恐れるとは、未知であることの証左だ。『死』を知るといい。常に僕たちのそばに居る『死』を――生きるとは、つまるところそういう事だ」

 

 父は目を細め、遠くを見つめるように言葉を紡ぐ。

 そして父は、短く息を吐いた。 

 

「姿見えぬ父として生きるのも、今日が最後だ。臆病で頼りのない父だったろうが、僕は君を愛していたよ――達者でね」

 

 

 その言葉を最後に、父は「マント」と共に姿を消した。

 去り際に「マント」から覗いた瞳に、確かな覚悟と安らぎ、そしてどこか高揚した光を宿して。

 

「……父さん」

 

 父は昔から、若き日の旅の折に兄弟と共に出会ったという、恐ろしき『死』の話を語っていた。

 その存在は人に似た輪郭を持ちながら、姿は常に闇に覆われ、男とも女ともつかぬ声で語りかけてくる。

 どこからともなく現れ、またどこへともなく消えていく。――まるで世界の至るところに在るような『死』の話を。

 それを語る父の口ぶりには、畏れと共に、どこか敬うような響きがあった。少年だった彼はいつも、不思議そうに首を傾げたものだ。

 

 そんな父が、畏れていた『死』に向き合おうとし始めたのは、きっと母が亡くなった頃からだった。

 臆病者だった父とは違い、母はとても勇敢で、何事も恐れず、まっすぐと立ち向かう人だった。

 だからこそ、姿を見せぬ父と結ばれ、子を成したのだろう。

 父と母が婚姻を結び、男が生まれてから、凡そ数十年の月日が流れた。

 赤ん坊だった男は立派な青年となり、両親はもういつ天に召されてもおかしくないような齢を迎えていた。

 二人は、『魔法』をつかうものとして見ても、それなりに長生きしたほうだった。

 それでも、たとえ『魔法』をどのように操ろうとも、恐るべき『死』からは逃れられない。

 

 母は数年前、逝去した。

 老衰だった。孫を見せてやることは出来なかったが、最後に父と何かを話して、とても幸せそうに逝ったと思う。

 母が安らかにあの世に向かったのを見て、父は『死』の話をしなくなった。

 けれども父は、母が死ぬ時でさえ、片時も「マント」を外すことはなかった。

 

 しかし、母の死を切っ掛けとして、父は何やら考え込むようになり、一人で物思いにふけ、空の果てを見上げる時間が増えた。

 そして、今日この晩。

 何か意を決したように、父は男に家と財産と名誉を託して、『死』の元へ赴くことを決めたのだ。

 

 父は最後、『死』を長年の友と呼んだ。

 父は最後、『死』を旅立ちと称した。

 父は最後、『死』を受け入れることを選んだ。

 

 

 あれほどまでに『死』を畏れていた父が、何故そのような結論に至ったというのか。

 青年は、その理由を知らない。

 けれども何か。父の中で、何か大きな決心がされたのだと、男にもわかった。

 

 

 ついぞ、青年は父の姿を見ることはなかったが、記憶の中の父はいつも―――臆病で、そして優しい人だった。

 

「父さんのような人こそが、勇敢だと讃えられるべきなんだ」

 

 青年は月を仰ぎ、胸の奥に木霊する父の言葉の響きを感じ続ける。

 真に勇気あるものとは、強き者を打ち払うものではない。人々を救うものではない。知恵をつけたものではない。血統に優れしものではない。

 真に勇気ある者とは即ち、『死』を恐れず、『死』よりも恐ろしいものがあると理解し、『死』を安らかに受け入れるものであるのだと。

 謙虚で臆病で、他の誰よりも『死』を恐れて、しかし『死』を受け入れることを選んだ父のことであるのだと。

 最後の姿なき父からの教訓として、男は胸に刻み込んだ―――その時だった。

 

 

『――――賢い子だ』

 

 

 月夜だけが世界を優しく照らし出す、夜の暗闇の果てに。

 風が空を切る音が、木の枝の葉が擦れる音が、闇に生きる生物たちの呻き声が。

 数え切れない音の重なり――それらが総じて、ひとつの声となって響いた。

 

「っ――!!」

 

 咄嗟に杖を出し、闇を打払う『光』を杖先に宿し闇へと向ける。

 けれど、いくら照らせど闇の果てにまた闇は広がり、先は決して見通せず。

 そして何より――杖を持つ手が震える、地面を踏みしめる両脚が竦む。

 男の額には汗が滲みでて、その瞳には測りきれぬ恐怖を孕む。

 

 瞬間、男は理解する。

 この声の主こそが、父の語った『死』なのだろう。

 呼吸の一つ一つでさえが、満足にできなくなるほどの圧迫感。

 そして同時に、何処か安心できてしまうが故の不気味さ――全て、父の語ったモノだ。

 男は杖をより強く握り締め、勇気を振り絞って口を開く。

 

 

「……父は、アナタの元へ帰ったのか」

 

『―――イグノタスは、『()』を乗越え新たなる旅立ちを迎えた』

 

 絞り出すような問い掛けに、声は厳かに答えた。

 続けて、季節外れの蟋蟀と蛙の合唱が、湿った夜の空気に淡く響く。

 

 

『―――誇るといい。キミの父は、正しく『死』を制した』

 

「……アナタは、一体」

 

 青年の声は震え、言葉は夜の闇に吸い込まれていった。

 応答はない。ただ、闇の奥から微かな風が渦巻き、枝葉をそっと揺らす。
 そして次の瞬間――闇の中に、かすかな輪郭が浮かび上がった。

 

「っは、」

 

 男の視線がその輪郭に触れた瞬間、思わず声を上げた。

 そこに居たのは、かつて父の語った恐るべき『死』の姿とは、また違ったものだった。

 

「…っ、人……?」

 

 そこに居たのは、『死』ではなく『獣』ではなく『恐怖』ではなく――『人』だった。

 色白の肌、暗い瞳、真っ白に染まった生気のない髪―――美しいと形容する他ない容姿。

 青年とも、少年とも。

 女性とも、幼女とも。

 性別も年齢も定めがたい中性的な顔立ち。 

 どこか浮世離れしたような存在感。

 一目見たその時から、その全てに魅了され、男の脳裏に蕩けるような甘い感情が過ぎる。

 けれども、同時に襲い来るどうしようも無い『死』の気配が、目の前の存在が決して正しく『人』ではないのだと理解させてくる。

 

 

『―――僕の名は『モルス』。安らかな『死』を、永遠なる終わりを齎すモノ。

 僕を恐れよ――だが恐れに溺れるな。

 僕を畏れよ――だが畏れに屈するな。

 僕はキミたちを見届けるモノ、キミたちを見送るモノ。

 君たちが最後に還る場所。

 僕の名を忘れるな、僕の姿を忘れるな、僕は常に君たちのそばにいる。僕は常に、キミたちを見ている―――伝えよ、伝えよ、伝えよ』

 

 青年は、ふと父の声を思い出す――あの夜、父が語った『死』は、安らぎであり、友であるという言葉。

 しかし今、男の心を支配するのは、ただ一辺倒の恐怖の二文字だけだった。

 

『―――僕の名は『モルス』

キミの父に与えられた名を持って、『人』として生きる権利を持ったモノ。

ただこの世界で、一人として生きていくモノ』

 

 

 『死』――『モルス』と名乗る存在の冷たい両手が、男の頬に触れる。

 

『―――僕を受け入れよ。僕の先を見届けよ。僕と共に歩を進めよ。

 僕はキミたちの終わりであり、始まりでもある。

 さあ、歩め。恐怖と共に歩み、真の勇気を知れ。恐れる者には終わりがある。恐れを超えた者こそ、展望は有り続ける

 ――――恐れるな、賢き子よ。

 ――――敬うな、愚かな子よ。

 キミが全てを見た先。キミたちが全てを見た先に。例えどのような道を進もうと、その果てにある頂きは同じこと』

 

 穏やかな声色――だが、その穏やかさが恐怖をより深くする。

 

『勇敢に生きるといい。狡猾に生きるといい。叡智を蓄え生きるといい。忍耐強く生きるといい。そしてやがて、僕の元へ還るがいい』

 

 『死』は腕を広げた。抱擁を求める腕――しかし、その先に待つのは薄暗く深遠な『死』。

 

 男は深く息を吸い、杖をしっかり握り直す。

 目の前の『死』を正視する。 

 心は震えるが、逃げることはできない。

 父は、この恐怖を乗り越えたのだ。

 母は、この恐怖を笑って受けいれたのだ。 

 進まなければならない。父と母の子として、これから歩む道の先に何があろうと、男は一歩を踏み出すしかないのだ――。

 

『―――良い子だ』

 

 その瞬間、男は目を閉じ、訪れる『死』を覚悟した。

 しかし、その肩を抱いた小さな腕は――思いのほか、温かく、優しかった。

 驚きと戸惑いで、男はしばし硬直した。

 その腕の感触は、恐怖ではなく、何かを包み込む安堵の感覚だった。

 心臓はまだ速く打っているが、肩の力が自然と抜けていく。

 恐怖も、混乱も、全てを一瞬だけ忘れたかのように――ただ、その温かさに身を委ねる。

 

 そして目を開けた時――視界に『死』の、『モルス』の姿はもうなかった。

 闇の静寂だけが残り、男は周囲を見遣る――そして、自身の肩に掛けられた、布のような感触に気づいた。

 

「…これは」

 

 男は慌ててその布を手に取る―――瞬間、その手ごと、まるで世界から消えたかのように、周囲の景色に溶け込み消えた。

 間違いない、これは、父の纏っていた「マント」だ。

 

「父さん……」

 

 ひんやりとした感触と、柔らかく肩に沿う重みが、確かに現実を伝えてくる。
 心臓はまだ速く打っているが、胸にじわりと安堵が広がる。抱かれたときに感じた温かさと、今、肩に掛かったマントの安心感――恐怖と驚きの余韻が、静かに溶けていく。

 男は息を整え、杖を仕舞いこむ。
 

 夜の闇は相変わらず深く、静寂に包まれているが、もう恐怖だけではなかった。

 抱かれたときの温かさ、そして肩を覆うマントの安堵が、確かに自分を守ってくれていることを告げていた。

 男はゆっくりと歩き出す。夜道を抜け、すぐ側にある家路へ――その足取りは、まだ震えているものの、一歩一歩が確かな意志に支えられていた。

 家の扉を開けると、いつも通りの居間の灯りが温かく迎えてくれる。
 その光に、男はほっと息を漏らした。外の闇の中で感じた恐怖も、モルスの抱擁も、そして肩にかかるマントも、すべてはここで自分の中に静かに落ち着く。

 

「……伝えよ、だったか」

 

 椅子に腰を下ろし、肩のマントの感触を確かめながら、男は静かに、机に置かれた自身の手記に手を伸ばした。

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