マキマに転生したら姫野にめちゃくちゃ敬愛される 作:あきnobu
「ん……田中くん?」
背後から衣擦れと共に微かな声がした。
「はい」
俺が短く答えると、俺が運転する車の後部座席で眠っていたマキマさんがゆっくりと上体を起こすのがルームミラー越しに見えた。既に時刻は午後8時。あたりは夜の闇と静寂に沈み、アスファルトとタイヤとの間で起こるロードノイズとエンジンの重低音だけが車内に響く。時折追い越していく街灯のオレンジ色の光が、車内を規則的に撫でては、マキマさんの陶器のような横顔を一瞬だけ浮き上がらせて、また闇に沈める。
「私どれくらい寝ちゃってた?」
「車に乗ってすぐ寝られたので…ざっと二時間ぐらいです。起こさなくて良かったんですよね」
「うん、覚えててくれたんだね」
マキマさんからは、自分が寝ている時は極力起こさないように言いつけられている。理由は分からない。まあ睡眠を邪魔されたく無いだけだろうが。
「私だけ寝ちゃって申し訳ないね。田中くんだって明日も仕事なのに」
「いえ、仕事ですので。それに飛行機の中でいくらでも寝れますよ」
「まぁ君はそう言うだろうね」
「…………」
「…………」
俺とマキマさんが会話を終わらせた事で再び車内に静寂が訪れる。タイヤが地面を擦れる単調な音だけが車内を支配する。そんな束の間の静寂を破るように、マキマさんが唐突に口を開いた。
「…ねぇ田中君。前にね、私の友人が、その人の人生観を変えた1本の映画を貸してくれたことがあったんだ」
マキマさんは窓の外を流れる夜景を見つめながら、独り言のように語り始める。
「人生観が変わる映画、ですか。どんな内容だったんですか?」
「それがさ、めちゃくちゃベタな内容の映画でね。田舎で根強いお見合い結婚の風習から逃れるために、自由恋愛が主流の都会に主人公の少女が家出するの」
「もしかしてインド映画ですか?」
「そう。まぁインドのラブストーリーの定番と言える内容だよね。ただ、他の映画と違ってこの映画では、主人公の少女の都会での苦労に焦点が当てられているの。ほら、インドの都会って凄いでしょ?」
「あー、分かります。前に仕事でデリーに行ったことがあるんですけど、カオスそのものでしたね。ハマる人にはハマるらしいですけど、私は二度と行きたくないですね」
「うん、少女が何の当てもなく来ていい場所じゃなかった。結局少女は、都会に出た瞬間に財布を擦られ、不衛生な環境で高熱を出して安宿で寝込むことになる。最後には、その安宿の代金さえ払えなくなって追い出されちゃうの。まぁ紆余曲折あって、最終的には好きな人と結ばれてハッピーエンドになるんだけど」
「その映画がどうかしたんですか?」
「友達の話によるとね、この映画はあるメタファーが主軸となってるみたいなんだ。曰く『都会のネズミと田舎のネズミ』」
俺はその言葉に昔読んだ童話の話を思い出した。
「あ、それ知ってます。確か、都会のネズミは豪華な食事と刺激的な日々の代わりに、人間や猫に狙われ続ける危険な日々を過ごすことになる、町のネズミは質素で退屈な日々の代わりに、安全な毎日を送ることができる、童話か何かの話ですよね」
「…前から思ってたけど、田中君って物知りだよね。多分田中君が言ってるので合ってるよ。まあとにかく、それに当てはめれば、この映画の少女は田舎のネズミから都会のネズミに転身したということだね。それでね、私の友人はその映画を見て決意したらしいんだ。自分もまた、都会のネズミとして生きるのだと」
「へー、そのマキマさんの友達ってさっきの天使の子ですか?」
「見てたの?」
「あ、いえ」
「一応誤解のないように言っておくけど、天使くんとは今日初めてあった仲だよ。変な邪推しないでね」
「でも良かったんですか。あの少年、悪魔ですよね」
「大丈夫。まぁ天使という名前から想像はつくだろうけど、彼は人間にすごく友好的な悪魔だし、知能も高いから、万が一にも無垢の人間を襲うことはないよ。それに…彼は典型的な田舎のネズミだから、私たちの都合で都会に連れていくわけにはいかない」
一応、マキマさん。悪魔だと知って見逃すのは犯罪ですよ?
「それで私思ったんだけど、公安の対魔課って完全に都会のネズミの集まりだよね。高い給料と充実した福利厚生に釣られて、毎年たくさんの子供が公安に入るけど、実態はそれに釣り合わないような危険な仕事ばっかり。しかも悪魔への恐怖を増幅させないという名目で、世間には公安の実情は公開していないから、たまに田舎のネズミが間違って公安に入ってきてしまう。都会に不運にも迷い込んでしまった田舎のネズミは、田舎に帰してあげるべきだよ」
「はぁ」
「ところで田中君…」
マキマさんが後部座席から運転席に身を乗り出しながら言った。
長くマキマさんと仕事をしてきたが、その端正な顔を近づけられると、今でも少しドキッとする。
「君の奥さん、妊娠したらしいね」
「…それがどうかしたんですか?」
あまりに突拍子のないことだったので、俺は思わず聞き返した。
「君の奥さんから相談されてね。あんまり新婚のお嫁さんを心配させるもんじゃないよ。ということで…はい」
マキマさんから、折り畳まれた一枚の紙が差し出された。
「自分、運転中ですので」
「分かってるよ。開いてあげる」
彼女の細い指が、紙をパサリと広げる。
「はい、ここが次の君の職場。必要な書類はこっちで用意したから。これはその下書きだね」
転属か。ここ最近は無かったが、人の入れ替えが激しい対魔課ではよくあることだ。
「次の配属先はどこですか?1課に里帰りですか?」
「いや?君は、今年一杯で公安を自己都合退職する予定だよ」
は?
一瞬俺の脳がフリーズした。マキマさんの言葉を処理することができない。
俺は処理性能が著しく低下した脳で何とかマキマさんに聞き返す。
「それってつまり…」
俺は麻痺した思考を必死に動かし、ルームミラー越しに彼女を仰ぎ見た。
俺の混乱で歪む視線を受けて、マキマさんはーーーまるでイタズラに成功した子供のような笑みを浮かべていた。
「おめでとう。公務員なら誰でも一度は夢に見る天下りだよ。しかも天下り先は最大手のデビルハンター事務所。まぁ最大手って言っても民間の実力なんてたかが知れてるから、田中君の実力ならすぐにエースになれるよ、あ、今度みんなで田中君を見送る会をしようね」
俺の耳にはもう、マキマさんの言葉の半分も届いていなかった。
どうやら俺は、公安をクビになるらしい。マジか。
「……いたたた」
風呂上がり、薄暗いリビング。 姫野はヨガマットの上で、呻き声を漏らしながら太ももの裏を伸ばしていた。 普段ならお酒を飲んでそのまま寝てしまうことも多いけれど、今夜はなんだか眠れない。身体を動かして、無理やり意識を別の場所に逸らさないと、胸の奥がソワソワして落ち着かないのだ。
(三週間……。長すぎだよ、マキマさん)
最後に見た彼女の姿を思い出す。 成田空港へ向かう車に乗る直前、いつも通りの涼やかな笑みで「行ってくるね、姫野ちゃん」と言ったあの顔。 マキマさんは、自分から連絡をくれるタイプじゃない。こちらから現地のホテルに国際電話をかけても、大抵は「外出中です」とフロントに言われるか、たまに繋がっても「元気だよ。そっちも変わりない?」と、数分で切られてしまうか、業務の話ばっかだ。嫌になっちゃうね。私の通話料金でも気にしてるのかな。そんなのマキマさんと話せる代償としては安すぎるぐらいなのに。
「……あ、そうだ。アレ、ちゃんと撮ってきてくれたかな」
不意に思い出したのは、三週間前。成田空港へ向かう直前の田中先輩を、物陰に呼び出した時のことだ。
「おいおい、姫野。これどうしたんだ。こんな高級な一眼レフは役所じゃなかなか見ないぞ」
「三週間もあるんだもの。たくさん良い写真が撮れると思って、ボーナスはたいて奮発しちゃった」
私はタバコを指に挟んだまま、得意げに笑った。そして、空いている手で予備のフィルムが詰まった箱を田中先輩の鞄に押し込んだ。
「ほー。酒とタバコとマキマさんにしか興味がない奴だと思ってたが、案外良い趣味してるんだな。……それで、出張先の色々な風景を撮れば良いんだな? アンコールワットとか、街の風景とか」
アンコールワット?街の風景?田中先輩は一体何を言っているのだろうか。
「違いますよ、田中先輩。撮る対象はマキマさんただ1人です。三週間もべったり一緒にいるんだから、たくさんチャンスはあるでしょ?」
「だよな。お前にそんな高尚な趣味があるわけないし、どうせそんな事だろうと思ったよ。だがな姫野、相手はマキマさんだぞ」
「大丈夫ですよ、田中先輩はマキマさんに信用されてるし。良いですか、私が欲しい写真はマキマさんの海外での食事風景、移動中のふとした横顔、そして……これが最重要項目。飛行機の中での寝顔。機内で、こう、ふいっと眠りに落ちちゃった瞬間のマキマさんの寝顔をこのカメラに納めてきて欲しいんです」
「………」
「お願いします、田中先輩。先輩達が帰ってきたら、最高級の焼肉奢りますから。ね?」
「……。……ハァ…」
「……ふふっ」
思い出して、私はベッドの上で思わず笑みを浮かべる。
田中先輩は結局カメラを受け取ってくれた。帰ってきたら、すぐにでも現像してもらおう。
なんとなく点けていたテレビの中では、相変わらずキャスターが「天下り問題」について熱弁を語る。
『……こうした透明性を欠く人事が、組織を内側から腐敗させるのです!』
「組織の腐敗ねぇ……。まぁマキマさんが上司である以上、4課には関係ないことかな」
私は、ベッドの上からリモコンを操作してテレビを消した。