マキマに転生したら姫野にめちゃくちゃ敬愛される 作:あきnobu
1995年 ソ連 モスクワ クレムリン 大統領室
重厚なオーク材のデスクの上には、古びた報告書と、最新の経済指標、そしてその中に一際丁重に置かれた数枚の写真と資料が並べられていた。
ソ連大統領ミヤイル・カルバチョフは、高級官僚にのみ支給される芳香なコーヒーを口につけ、ため息をついた。
「…自由か」
彼は人民の熱狂的な支持のもと、第3回ソ連大統領戦に勝利し、3期目の政権続投を確実なものにした。その支持は、疑いなくペレストロイカの成功によって支えられている。
彼が1984年以降に推し進めたペレストロイカは、政治の民主化と市場の自由化によって、非効率な行政と経済の改革ーーすなわち、党による政治と経済の支配を緩めることにあった。
「何が社会主義市場経済だ」
彼は自嘲気味に呟く。共産主義を標榜しながら、経済成長のための格差の拡大を容認する。その自己矛盾こそが、今のソ連の姿だった。
人民が命を賭して守ってきた社会主義は、すでに形骸化している。
平等、平和――そうした普遍的な理念としてのみ、人々の意識の中に残されていた。
その空白を埋めるように台頭してきた民主主義は、すっかり人民の中に定着している。
ペレストロイカは、まだ道半ばではある。だが、大枠においては、すでに達成されたと言っていい段階に入っていた。
だからだろうか。
これまで考えないようにしてきたこと――改革の過程で、ソ連が失ったものについて、私は思いを巡らせるようになっていた。
そして、その思考の中で、真っ先に浮かぶのは、幼い頃、父に連れられて参加した政治パーティで、ただ一度だけ目にした存在だった。
――ツァーリ。
ソ連で生まれ育った者なら、誰もが知っている御伽話の中の存在。
人民解放の女神として語られるその姿は、しかし、私の記憶の中ではまったく異なっている。
彼女は、幼い幼女だった。大人たちが言うには、大人もたじろぐほどの美貌を備えていたらしい。
だが、当時の私には女性の美醜を理解する感性などなく、ただ「少し可愛い同年代の女の子」としか映らなかった。
それ以上に、私の中に強い違和感として残ったのは、彼女の姿が御伽話とかけ離れていたことだ。
物語の中で、ソ連国旗を掲げ人民を導くツァーリは、金髪で、豊満な胸とふくよかな体を持つ大人の女性として描かれていたはずだった。
下品な言い方をすれば、男の欲情を煽る象徴のような存在だ。
だが、私の目の前に現れたツァーリは、赤毛と金色の瞳を持つ幼女だった。
父は言った。
ツァーリは何度か代替わりしているのだと。
今のツァーリは13代目なのだと。
ツァーリ――すなわち支配の悪魔は、その性質上、共産圏で誕生しやすい。
少なくとも、自由を標榜する民主主義国家で生まれた例は、未だかつて確認されていない。
だからこそ、ツァーリが党に反旗を翻した時、党は彼女を殺してきた。
そうすれば、新たなツァーリが再びソ連圏で誕生し、また新生児の段階から徹底的に再教育することができるからだ。
事実、四年前――保守派クーデター鎮圧後の混乱に紛れて現ツァーリが姿を消し、やがて日本へ亡命していたことが判明した際、党幹部の多くは暗殺を強硬に主張した。
だが、私は思う。
ここまでペレストロイカが進展したソ連で、再びツァーリが生まれる保証など、どこにあるというのか。
――いや、もはやこれは推測ではない。確信に近い。
もし次にツァーリが生まれるとすれば。
いや、支配の悪魔が再びこの世界に現れるとすれば。
それは、ソ連圏ではない。十中八九中共圏で生まれるだろう。今や、まともに人民を統制している共産党など、彼の党しか存在し得ないのだから。
私は、手元の資料を閉じ、眼鏡を外して眉間を揉んだ。デスクの上に置かれた数枚の写真――そこには、日本の「公安対魔特異4課」という組織の中で、漆黒のコートを纏い、涼しげな顔で歩くかつて「ツァーリ」の姿があった。写真の中の彼女は、何も答えない。ただ、その金色の同心円状の瞳が、写真越しに此方を見つめているようで気味が悪かった。
私は思わず、残りのコーヒーを一気に口に含んだ。冷めかけた液体は、ひどく苦かった。
「……すみません、冷やしトマトもう一つ。あと、ハイボール濃いめで」
田中は少し投げやりな手つきで店員を呼んだ。既に数杯の酒が入っており、彼の頬は赤く染まっている。普段は完璧に仕事をこなす彼も、さすがにクビを宣告された直後では、不貞腐れずにはいられないようだ。
「田中くん、そんなに怖い顔をしないで。せっかくの私の奢りなんだから、もっと楽しんでくれてもいいんだよ?」
マキマは田中と対照的に、順調に卓の上の料理に箸を進め、時より微笑んでいる。どうやら出てきた料理が彼女の琴線に触れたようだ。
「楽しめって言われても……。マキマさん、俺、まだ30前ですよ? 公安を追い出されて、民間のデビルハンター事務所で『エース』になれって、それって要は前線から引けって言ってるようなもんじゃないですか」
「失礼だなぁ。民間のデビルハンターだって、立派な対悪魔の前線だよ」
マキマは箸を止めずに言う。
「この前だって、宮城に癌の悪魔が出たって聞いて、新幹線で急行したでしょ?そしたら偶然観光してた民間のデビルハンターが、私たちが着く前に倒しちゃってたじゃない。名前からして、あれ相当強いはずだよ」
「倒したの、佐原先輩じゃないですか。四課出身はノーカンですよ。そもそも民間で活躍してる人、ほとんど元特異四課の先輩方じゃないですか……」
少し間を置いて、田中は言葉を継いだ。
「……ふと思ったんですけど。特異四課から民間に行く人とか、事務方に回される人がやたら多いのって、もしかして全部マキマさんが……?」
「ふふ、バレた?」
マキマは悪びれる様子もなく、いたずらっぽく笑った。
「私が天下り先を開拓してるんだよ。内調にいた時に仲良くしてくれた官僚さんたちが、今は大手デビルハンター事務所の重役にたくさん天下っているからね。かなり融通が利くんだよ」
「天下りが、新たな天下りを呼ぶんですね……。官僚機構って怖いなぁ」
田中は呆れたように笑いながら、ハイボールを飲み干した。
「まぁでも、自分の都合で辞める人も多かったよ。佐原先輩とかはそのタイプ」
「…佐原先輩めちゃくちゃ強かったですよね。マキマさんと佐原先輩のバディは、東京本部の伝説ですよ」
「それはさすがに、岸辺さんとクァンシさんのバディの方が上かな。あの二人、世界規模で悪魔事件を回ってたらしいし」
マキマは、少し考えるようにしてから、続ける。
「でも、確かに佐原先輩は凄かったね。美人で、優しくて、いい匂いがして……胸も大きくて」
「マキマさん、もしかして酔ってますか?」
「酔ってないよ。私はただ事実を述べているだけ…。彼女は本当に柔らかかったんだ」
「……そうですか。まぁ、マキマさんがそう言うなら、そういうことにしておきますよ」
田中は最後のハイボールを飲み干し、伝票を手に取った。 「今日はごちそうさまです。……それと、いろいろ、ありがとうございました」
居酒屋を出ると、夜風が少しだけ冷たく感じられた。マキマは田中に見送られながら、一台のタクシーに乗り込む。
「それじゃあね、田中くん。……明日も仕事なんだから帰ったら夜更かしせずに早く寝るんだよ」
田中はマキマの言葉に苦笑いで返し、タクシーが角を曲がるまで見送っていた。
深夜の東京を走るタクシーの中、俺は流れる街灯の光を追うともなく眺めていた。
(……都会のネズミ、田舎のネズミ、か)
安全と引き換えに質素なパンを齧る田舎のネズミと、豪華な生活の代償として死の影に怯える都会のネズミ。一見すれば、それはゼロサムゲームの選択に見える。
だが、と俺は思う。
果たして都会のネズミに、「選択肢」などあったのだろうか。 彼らは選んだのではない。都会のネズミとして生きるしか、道がなかったのではないか。
ああ、そうだ。すべては因果のせいだ。俺という存在を形作る、この根源的な因果の。
支配と自由。俺と、あの「銃の悪魔」。
結局、俺がどれほど「マキマ」としての平穏な生を歩もうとしても、支配の悪魔という因果が常に俺の行く手を阻む。
けれど、支配の悪魔が誰よりもその孤独と重圧に苦しんできたのだから。……俺は、彼女の因果を一緒に背負わなければいけないと思う。
俺にできるだろうか。 確信はない。おそらくだが、支配の悪魔は、銃の悪魔に一度敗北をしている。
アキくんや姫野ちゃんの銃の悪魔への憎しみ。そのすべてを俺が引き受け、彼女と対峙する。もしその果てに、望んだ終わりの日が来るのだとしたらーー
(…………待って)
「……ねぇ、運転手さん。さっきの交差点、左じゃなかったかな」
マキマがふと思い出したように声をかける。しかし、運転手は答えない。 ただ、車内に流れるラジオのノイズだけが、ジリジリと耳障りに響いている。
「…運転手さん?」
「……あー、すみません。さっきの道、事故渋滞らしくて。無線で迂回しろって言われたんで、こっちの方が早いんですよ」
どこにでもいそうな、中年男の声。しかし車は次第に住宅街を抜け、街灯も疎らな倉庫街へと入り込んでいく。
キィ、と静かにブレーキ音が鳴った。
周囲に人影はない。遠くで鳴る消防車のサイレンだけが、暗闇に溶けていた。
「……どうされたんですか。ここは私の家ではありませんが」
「はー、声を変えて喋るのって疲れるねー」
鈴を転がすような、若く瑞々しい少女の声。
不意に、運転手が帽子を脱ぎ捨てた。 そこから溢れ出したのは、艶やかな紫色の髪。振り返ったのは、挑発的な笑みを浮かべた少女だった。少女の首には、リング状の金具のついたチョーカーが着けられている。
「久しぶり、支配、いや、今はマキマだっけ?」
マキマの金色の同心円状の瞳が、微かに揺れる。しかし、その瞳の光はすぐに引いていく。
「…誰ですか?」「…マジで言ってるの?」「はい…」
「……あっそ。私のことなんて所詮眼中になかったってことね。なんかムカつくー……。まぁいいや、本題」
少女は運転席の背もたれに腕を回し、身を乗り出した。
「党は、貴方の党にいた時の活躍、特にベルリン事件と、8月クーデターでの活躍を高く評価している。党は寛大にも貴方の罪を不問とし、再び党に仕える機会を与える用意がある。あ、断ってもいいよ。無理やり連れて行くだけだから」
「…無理やりって……言っておくけど、私それなりに強いと思うよ」
「それはどうだろうね」
少女は肩をすくめる。
「だってさ、マキマ。貴方、十一年前に自由の悪魔に負けてるじゃん。あの時チェンソーマンが割り込んでこなかったら、普通に死んでたでしょ?」
少女がくすっと笑う。
「その上さぁ、助けられたって勝手に勘違いして、ずーっと健気にストーカー。……案外かわいいとこ、あるよね」
マキマの瞳が、僅かに細まった。
「ねぇ知ってる? 今モスクワの若者はマクドナルドとロックミュージックが大好きなんだって。でもその3割は激しい競争の末にうつ病予備軍。自由って怖いね。……何が言いたいかというと、もう貴方の時代は終わったんだよ、支配」
マキマは小さく息を吐き、静かに口を開いた。
「……貴方は分からないだろうね。支配という形でしか人との接し方を知らなかったあの子にとって、チェンソーマンがどれだけ心の救いになったか……」
そう言いながらマキマはその手を虚空に伸ばした。そしてただ一言つぶやく。
「五百年」
――断ち割られる。
タクシーの車体、アスファルト、そして少女の四肢。
「……初めて使ったけど、すごい威力だね」
マキマは、真っ二つになったタクシーの残骸から悠然と降り立った。数メートル先に吹き飛ばされた少女は、信じられないものを見る目でマキマを仰ぎ見、吐血をしながら震えていた。
「う……そ、そんな……は、ず……」
「……安心して。公安には手足をくっつけられる者がいるから。死なせはしないよ」
先手必勝!