「なーんか、倉庫って感じがしないよねー。埃一つないし」
長瀞は人差し指でスッと棚をなぞり、指先を見て言った。
三池もそれを真似して呑気な様子でこう言った。
「こうも良いホテルだと倉庫もキレイなんだね……」
「なんでもいいけどよ、お目当てのもんは見つかったのか?」
「んーまだ」
長瀞は棚に書かれた番号を見ながら「このあたりのはずなんだけどな」とつぶやいた。
「ったく。カメラが欲しいなんて、急に言い出してからに」
「いいじゃん。瑞樹どうせ暇っしょ?」
「…………」
暇だが、悪いか?
不機嫌な面を晒して棚にもたれかかる。どうしてこんな面倒なことに巻き込まれてしまったのか……なぜ私がこいつに付き合わされているのか……。
頭の中でぐるぐる考えていると、いつの間にか長瀞と三池の二人は既に先に行っていた。向こうが呼んだ癖にお構いなしってか。鬱憤を抱えつつも私は二人の後をつけるように倉庫を進んで行った。
思えばサンドウィッチ作りのときから、こいつには振り回されっぱなしな気がした。
事の始まりは昼食を食べ終えた後のことである。庭園の芝生に寝転がり昼寝をしようと立ちあがったところで、長瀞に首根っこを掴まれたのである。猫じゃあるめえし、んな掴み方しなくったっていいのに、ずるずると私は長瀞に引っ張られた。こうなるとなにを言っても通じないので、私は不満を抱きつつ長瀞の話に付き合うことにした。
聞けばカメラを探しているのだという。なにに使うのか訊いても適当にはぐらかされるばかりだったが、とにかくカメラが必要なのだと言って聞かないのだ。
「とにかくカメラが必要なの! でこれから倉庫で探すんだけど、瑞樹にも手伝ってほしいの!」
こうなった長瀞の頑固さはすさまじい。以前もこれで昼食づくりに無理やり付き合わされたし、その後も風呂やらパジャマパーティーやら参加したくもねえ場所に参加させられたのだ。……改めて思うがパジャマパーティーはおかしいだろ。出会って二日だぞ。結局、萌上が暴れ出したので各自の部屋で寝ることになったが、特に問題が起きなければ長瀞の部屋で一晩泊まることになっていただろう。……こいつの距離の詰め方は異常で、私は苦手だった。
「ベルちゃんも呼ぼうと思ったんだけどねー。やっぱり忙しいみたいでさ。すっごく申し訳なさそうな顔で断るもんだから、逆に申し訳なくなっちゃった」
「呼ばなくていいって」
「そう? まー、なんか瑞樹、ベルちゃんのこと避けてるみたいだし。これで正解だったかも?」
「避けてるっつうか……」
ベルの顔を思い浮かべると、どうしてもアイツのことを──アンナのことを思い出す。それが嫌で、私はベルを避けていた。
「なにがあったのか知らないけど、私、力になるからね!」
「うぜえ」
「あはは……」
三池が気まずそうに笑った。
棚に目を通しながら、私はぼそりと呟いた。
「しっかしカメラねえ……電子生徒手帳に付いててもいい機能なんだがな」
ポケットに入れてある生徒手帳を取り出し眺める。ファミレスに置いてある注文用のタブレットの方が多機能なんじゃないかってくらい使えない。
「ねえねえこれさ、校則と時間と……それからマップが見られるくらいしか使い道がないよねー」
「あとは電子マネーかな? それも購買部でしか使えないみたいだけど、ね……」しゃがんで棚の下を探していた三池は、立ち上がるなり腰をいたわるようにして体の筋を伸ばしていた。「ただこの生徒手帳、機能が単純な分けっこう頑丈みたいだよ。防水防塵耐熱耐爆……宇宙空間でも耐えられるんだってさ」
「宇宙って……モノクマはなに想定してんだ?」
呆れてものも言えない。ようは構造が極めて単純ってことなんだろう。大雑把な仕組みだから、ちっとやそっとの衝撃じゃ壊れない。……ほとんど板みたいなもんだしなと納得してポケットにしまいこんだ。
「この倉庫ってほんとうにいろいろあるんだね。日用品はもちろん、雑貨や着替えに保存食まで……あ、額縁なんかもあるね」
「へえ、この棚は本当にいろいろ置いてあるね」
二人が興味深そうに眺めている棚にはいろんなものが並べてあった。この倉庫ではちょっと珍しい光景だった。というのも、置かれているものには棚ごとに規則性があったからだ。寝間着や普段着、浴衣やエプロンなどは衣類として一つの棚にまとめてあったし、乾麺や保存食、それから珍しいことに宇宙食なんかも食料品として一つの棚にまとめてあった。
だがこの棚はとにかく無秩序だ。再生機はないがカセットテープだけ置かれていたり、ストッキングや小石、ピアノ線に大量の五円玉、氷を作るための型など……例を挙げればキリがない。ジャンル分けできないものを雑に押し込んだ棚なのだろうか。
「本当にいろいろあるね。杖とかベルトとか写真立てとかさ」
ものを手に取りながら三池が言った。モノクマが用意したものだろうからどこか怪しい気もするが、具体的になにが危険かと問われると答えに悩む。意外とこの倉庫に危険なものは置いていないのだ。
というのもコロシアイを推奨しているくらいだから武器の一つや二つ置いてありそうなものだが、ナイフや斧、拳銃にクロスボウのような物騒なアイテムはまだ見かけていない。そういう殺しはモノクマの意図から反するのだろうか──あるいは、私が見つけていないだけでどこかに隠されているのか。
「このごちゃごちゃした棚の感じだとカメラも置いてありそうだけど……」
長瀞と三池は手分けしながら棚を隅から隅まで探す。奥まったところに手を伸ばすが、それでもお目当てのものは見つからないようだった。
「ねーえ、瑞樹も手伝ってよー」
「だりいよ。おめえらで勝手にやってろよ」
「そう言わないでさあ。夕食のデザート、私の分もあげるからさあ」
「萌上の作った料理なんざいらねえ!」
思わず身震いする。私は昨晩のパジャマパーティーでの一件以来、萌上の料理に対する不信感が一層増したのである。実はパジャマパーティーを中断することになったのは萌上が持ってきた夜食に媚薬が混ぜられてあったからなのだ。
やたら体温が上がり、火照りを感じ始めたところで本性を現したので、無理やり部屋から引きずり出してそのまま解散したのである。
朝食や夕食はなにもなかったもんだからすっかり油断していたが、あいつの本性はなにも変わっちゃいないのである。
と、そんな理由があって萌上を強く拒絶する私を見て、事情を知らない三池が不思議そうな顔をして訊いてきた。
「鷹城さんと萌上さんってなにかあるの?」
「あーまあー……ね? ゆがみん女の子大好きなんだけど、とくに瑞樹のこと気に入ってるみたいだから」
「気に入ってるって……私がなにしたってんだ」
思わず天を仰ぐ。そこに追い打ちをかけるようにして長瀞はこう言った。
「顔が好みなんじゃない? ほら瑞樹っていつも不機嫌そうな顔してるから、威圧的な雰囲気出ててご主人様~って感じがするのかも」
「うーん、威圧的っていうのは分かるけど、鷹城さんがご主人様って言うのは……」
「だよねー。ご主人様タイプなら断然倉敷さんがそうだろうし!」
(こいつら好き勝手言いやがって……)
苛立ちが湧き上がってくるものの、威圧的という表現には思い当たる節があって言い返せなかった。
私は人と関わるのが嫌なのだ。それが超高校級ともなればなおさらだった。私は超高校級に相応しくないのだから、彼らを見ているとまぶしくって、より自分が惨めに感じられた。だから希望ヶ峰でも人とは関わらないようにしていた。
「もし萌上さんの好みが威圧的なご主人様タイプなら、反対に優しくしてみるとか?」
「それか逆にご奉仕してみるとかどーかな! コスプレ用だけどメイド服なら倉庫にあるみたいだし」
「思い付きでとんでもねえこと考えるのな……」
コスプレなんざ死んでもごめんだ。いざとなったら全部燃やしてやらあ。
フンッ、と息巻いて二人のあとを着いて行く。するとあることに気付いた。
長瀞は指先で個室の鍵をくるくる回していたのだが、それが曲がっているように見えたのだ。気になって、「どうしたんだ、それ」と訊ねたところ、長瀞は気まずそうに笑いながらこう言った。
「ああこれ? 実は昨日、ポケットに入れたまま洗濯しちゃってさ。曲がっちゃったんだよねーアハハ」
「えっ、じゃあいま部屋って……」
「あんまり声を大きくして言えないんだけど、鍵かけられなくってさ……だからいま代わりになるものないかなーってカメラと一緒に探してるとこ」
「そっちのほうがカメラよりもよっぽど重要だろ……」
言うと、長瀞はごまかすように笑い声を発した。
まあ部屋にいるときは内側から鍵をかけられるから防犯は問題ないだろうけど、それでも部屋を空けている間は入り放題ってのがおっかない。替えの鍵くらいモノクマに言えば用意してもらえそうなもんだが。
「この話は置いといて、カメラを探そう! カメラを!」
長瀞は奥に進んで棚の裏側に回った。私と三池の二人は顔を見合わせて、その後を追った。
それからしばらく倉庫の中を探してもカメラは見つからなかった。生活用品や備品が主を占めているので、そもそもこの倉庫にカメラは置いていなさそうだと、三人とも薄々感づき始めていた。
「この棚にもカメラはなさそうだねー」
「……カメラなんてなんに使うんだよ」
「んー、ないしょ」
「内緒って……人に言えないような用途なら、私は部屋に戻る」
「まあ待ってよ」
長瀞は背を向けた私の肩を掴んで、そのまま前に回り込んできた。
じっと目を合わせ、なにがおかしいのか楽しそうに笑いながらこう言った。
「悪い使い道じゃないと思うんだけどな。あ、でも瑞樹は嫌がるかも」
「んだそれ」
「もうちょっと付き合ってよ。三時になったら昼寝に行っていいから」
「……ったく。三時までな、三時まで」
渋々そう言うと、長瀞は嬉しそうにそのまま腕に抱き着いてきた。鬱陶しくなって振りほどく。こいつといると疲れるなと、つい溜息がこぼれた。
意外なことに、カメラを見つけるまでそう時間はかからなかった。一言二言言葉を交わしているうちに目的の場所に行き着いた。
「おお! カメラだ~! たくさん置いてある!」
小一時間かけて辿り着いた倉庫奥の棚にはいくつかのカメラが並んで置いてあった。骨董品のようなデジカメやビデオカメラ、それからお高そうな大きいレンズが付いたカメラなど、バリエーション豊かで馴染みのないものばかりだった。
「あ! フィルムカメラとかあるんだ。スゴッ!」
「フィルムカメラ……? なんだそれ」
「瑞樹知らないの~? フィルムはフィルムだよ、デジタルじゃないの」
「説明になってねえ」
「あはは……ちょっと難しいよね。大雑把に言うとスマホがない時代の撮影方法ってことだよ」
三池は困り顔で頭をかいた。
「フィルムねえ……」
カメラの隣には小さな筒状のものがいくつか置いてあった。どうやらそれがフィルムらしい。それをカメラに装填してシャッターを押すことで写真が撮れる、という仕組みのようだ。
長瀞はそれぞれのカメラを手に取り、自撮りをするような仕草をして使用感を確かめていた。
「うーん、この高そうなカメラだと画質はいいんだろうけど……でも重たいし。サイズと使い勝手を考えるとデジカメが……でも動画も捨てがたい……」
散々迷った挙句、長瀞はようやく一つのカメラを選び取った。
「よし! これにする!」
「……それって例のフィルムカメラじゃん」
「うん! これがいい!」
長瀞はまるで宝物でも見つけたように目を輝かせ、心底大切そうに胸に抱えた。
なにが目的なのだろう。けっきょくそれは分からずじまいだったが、長瀞の様子を見ていると悪用するようなことはない気がした。
さてと。目的のものが見つかったわけだし、邪魔されないように個室に戻って昼寝をしようと背を向ける。
すると長瀞がまたもや私の首根っこを掴んで離さないのだった。
「は、離せよ! 目当てのもんは見つかったろ!?」
「うん、見つかった。手伝ってくれてありがとう瑞樹。三池もありがとう」
「だったらもう帰っていいだろ? 私はこれから個室に戻ってだな……」
ようやく手を放してくれたので長瀞の方を振り返る。すると長瀞はにっこりと笑ってフィルムカメラをこちらに向けていた。
そしてパシャリ、軽い音と共にまばゆいフラッシュが私を包んだ。
「うわっ、まぶしっ!」
「アハハ! ねえ、せっかくだし三人で写真撮ろーよ!」
「いいね、撮ろう撮ろう」
「勝手に決めんなって……あっ、ちょっ待てって!」
長瀞は私の肩に手をまわしてぎゅっと抱き寄せてきた。そのまままるで自撮りでもするみたいにカメラを構えだした。頬と頬をこすりつけるような密着度合い。確かに三人で写真に写ろうと思えばこれくらい近づかないといけないのかもしれないが……やっぱりこいつの距離感は苦手だ。
「セルフタイマーとかあればいいんだけど、ないっぽいし……ん、こんな感じかな」
無理やり顔を寄せたり、向きを変えてみたり。なにぶんカメラの画面でどのように映っているかが確認できない分、長瀞の感覚だよりで三人が画角に収まるよう四苦八苦した末、ようやくシャッターを切った。
狭い倉庫に響くシャッター音。真っ白なフラッシュが再度眼窩を焼いた。
「ん~ズレちゃったかも。……って、あ、これ撮った写真確認できないんだ」
カメラを見ながら長瀞は残念そうにつぶやいた。三池が思い出したように答えた。
「あー……すっかり忘れていたけれど、フィルムカメラって現像しなきゃいけないんだった」
「現像?」
「えーっと……フィルムに焼き付いた光を写真にする作業、かな?」
「よく分からないけど、その現像ってのをしないとどんな写真が撮れたか見られないってことだよね」
撮った写真が見られないと知った途端、長瀞は分かりやすく落ち込んでしまった。
だったらデジタルカメラで撮りなおせばいいだろうと口を開きかけたが、また撮りなおすのが面倒だから言葉を引っ込めた。
すると思案顔だった三池が控えめな声でこう提案をした。
「よければ僕が現像しようか」
「できるの!?」
「素人でよければだけど……昔グッズづくりの一環でやったことがあるから、道具が揃っていればなんとか……ちょっと待っててね」
三池は棚に置いてあるものを探りながらあれこれをカゴに入れ出した。なにかの薬品やら容器やら……それらがなにに用いられるものなのかまでは分からなかったが、三池の手つきに迷いはなかった。
「うん……これならなんとかなるかも。明日までにはどうにかしてみるよ」
「ほんと!?」
「超高校級の造形作家、はちょっと関係ないかもだけど……肩書に恥じぬよう頑張ってみるよ」
「ありがと!」
長瀞は飛んで跳ねるような声でそう言った。
「現像するためにはフィルムを預かる必要があるんだけど……」
三池がそう言うと、長瀞はカメラごと三池に手渡した。
「? もう写真撮らないの?」
「うん。もうやりたいことはできたから」
きっぱりした口調で言い切ると、長瀞は満面の笑みを三池と私の二人に向けた。私の不貞腐れた仏頂面よりも、こういう笑顔をカメラに写せばいいのにと思う。けれど長瀞はきっと違う考えを持っているんだろう。そこがこいつのすごいところで、私にはないと感じる部分でもあった。
「まったくさあ。オマエラってばヤル気ってもんがないよね、ヤル気がさ!」
四日目を迎えた朝。突如館内に鳴り響いたアナウンスによって、私たち十四人は庭園へと集められた。
庭園の真ん中に位置する噴水にはモノクマの姿があった。それは胸の前で腕組をして待ち構えていた。なにやらお怒りの様子で、目を赤く光らせているのが遠目でも分かった。
規則違反者でも出たのだろうか……たとえばモノを壊したり、立ち入り禁止区域に入ってしまったり、あるいはモノクマに襲い掛かったり。そうなると今度こそ罰が執行され死人が出てしまうのではないか……そんな不安が頭をよぎる。けれどモノクマによって発せられた言葉──私たちに当たり散らすようにヤル気を説く様──を見て不安な気持ちは払拭された。子供のような駄々で私たちを呼んだのかと開いた口が塞がらなかった。
(誰も殺しなんかしねえよ)
飽き飽きした気持ちでモノクマの話を聞き流す。ボイスチェンジャー越しの声から感情を読み解くのは困難だが、いつもより早口な口調からは焦りや鬱憤が感じられるのだった。
「オマエラみたいな草食系動物は現実から逃げてばっかりでさ。自分の自由を勝ち取ってやろう、みたいな気概はないんだね。ダメダメだね」
「逃げるもなにも、俺たちに殺しなんて選択肢は元からない」
「それが逃げだって言ってんの」
モノクマは目つきを鋭くして春田を指さす。
「人を殺したくないからなにもしない。人を殺したくないから一生ここで暮らそう。それって余命八〇年を使ったゆるやかな自殺だと思わない? 現実から目を背けた逃げじゃない?」
「家へ帰る手段に、人を殺すなんて選択肢は最初から俺達にはない!」春田が一歩前に出て食い下がった。「お前の考える理想と、俺たちの現実とはまったく異なるものだ。殺しなんて、まずありえない」
春田は果敢に言葉を返す。モノクマはしばし口を閉ざした。
こういうとき真っ先に前へ出て言い返すのは春田のイメージだ。彼は人一倍正義感が強いらしいとこの数日で知った。そう思うきっかけがつい昨日あったばかりだった。
夕食時、食堂の隅でひとり食事をしていると春田が相席してきたのだ。希望ヶ峰学園ではクラスメイトだった縁もあり、クラスのことや学業のことを話しながら同じ飯を食べた。互いにクラスで顔を合わせる機会は皆無に近かったが、もっと早くに仲良くなっていればと思うくらいには気のいい奴だった。
そんな彼はこういうときこそ力を合わせて団結すべきだと考えているようだった。私なんかが力になれるとは思えないので放っておいてほしい気持ちこそあれど、彼の思想に強い反抗心はなかった。
そんな春田がモノクマに突っかかる。つい先日の爆発が脳裏をよぎるが──モノクマは両手を前に突き出して春田を抑えるようなジェスチャーを取った。
「まあそうカッカしないでよ。……けど、人殺しという選択肢はない、か。やっぱりそうなんだね、春田クンは良いこと言うよね」
モノクマは不敵に笑った。その笑みがいっそう不気味に思えたのは、やはりこいつの残虐な口元と目のせいだろうか。
それかモノクマの言葉に字面以上の深い意味が感じられたからだろうか。その不気味さの正体はすぐに明かされた。
「実は昨夜、夜なべして悩んだんだ。コロシアイをしない原因がボクにもあるんじゃないかってベッドの中で考えてたの」モノクマはぽつぽつと語りだした。「でね、ひとつ仮説があったんだけど、春田クンの言葉で確信に変わったよ! 人殺しが有力な選択肢になれば殺しが起きるんだよね! だったらやっぱりアレが足りてなかったよね! うっかりクマ~!」
そう言ってモノクマは後ろから封筒の束を取り出した。
「ちゃあんとオマエラのために動機を用意してあげたんだから」
モノクマは大振りな動きで封筒の束を空中へとばらまいた。その封筒は何の変哲もないように見える──だが以前の爆発を思い出してか、皆一瞬身構え、その場から一歩引いた。
私も例外じゃない。モノクマがわざわざ用意したならなにかあるはずだという嫌な予感があった。だが想像に反し派手な爆発も凄惨な殺戮も行われない。ただ封筒が宙に舞い、地面に落ちただけ。
石畳に散らばった封筒。そこには私たち十四人の名前がそれぞれ書かれてあった。私の名前が書かれた封筒もあったので恐る恐る拾い上げた。それほど厚みはない。
「ま、中を見てみてよ。せっかくオマエラのために用意してやったんだからさ」
さあさあと、モノクマは封を切るように急かす。この封筒にはなにかがある。けれどそれがなにかまでは掴みかねた。モノクマの言っていた動機という言葉がいまいちピンとこないまま私は封筒の封を切った。
中には写真が二枚入っていた。はじめの一枚には私が普段から身に着けている腕時計が映っていた。もう一枚には私がバイト代を貯めて買った真っ赤なアケコンが映っていた。アケコンにはいろんなステッカーが貼ってあるから、それが自分のものであると一目見て分かった。それぞれに白や黒の手足が写り込んでいるのを見るに、どうやら今はモノクマの手元にあるらしい。
(……腕時計、ねえなと思ったらモノクマのやつが持ってたのか)
店で買った三千円もしない安物の腕時計だ。モノクマに盗られていたのだと知っても、心は冷静なままだった。
しかしこれがいったいなんだというのだ。そう疑問に思っているとモノクマはご機嫌な様子で話し出した。
「独自のルートで手に入れたオマエラの情報、その中でもトップシークレットな重要機密を元に導き出したオマエラが”大切にしているモノ”の写真だよ。もしこれから二十四時間以内に殺人が起きなければ、その写真に写っているものを破壊するからね!」
「は、破壊……?」
「そうだよ、破壊だよ。スクラップでぺしゃんこ、焼却炉でこんがり、化学薬品でじゅわじゅわって具合にね!」
モノクマの破壊という文言に反応してどよめきが広がる。
ただ場の雰囲気に反して、私は破壊という言葉にそこまで強い動揺を感じなかった。
(むしろ捨てたんだ、私は)
真っ赤なアケコンが映る写真……それを握る手に力が入る。捨てたんだと、自分に強く言い聞かせた。そもそも使い道だってないじゃないか。アンナはもういないのだから。
こんなものが人を殺す動機になんてなるものか。ふと気になって私は周りの人たちの顔を見た。そこで私はハッと思い知らされることになる。
「ウソ! ありえない! なんでモノクマがこんな写真を……!」
「てめェ、なに考えてやがる……ッ!」
多くの者が動揺を露わにしている。顔を青くする者や、苦痛で眉を寄せる者、中には写真を持つ手がわなわなと震えている人だっていた。
(なにが、そんなに)
私の驚きと同時にモノクマが話し出した。
「うぷぷ、これでオマエラもちょっとは前向きになってくれるんじゃないかなあ。コロシアイにさ」
モノクマの呑気な声がへばりつくように耳に残った。
どよめきたつ周囲の反応は様々だが、多くの者は写真を見てうろたえていた。その取り乱し方は初日に起こったモノクマの自爆を凌ぐほどだった。
きっとみんな大切なものの写真を渡されたのだろう。例えばそれは昔から使ってきた道具だったり、大切な人からもらったアクセサリーだったり、それこそ私なんかには想像がつかないような──命に代えてでも守りたいなにかの写真なのかもしれない。
それを破壊する、とモノクマは言ったのである。破壊されないための方法と共に。
人を殺してまで守りたいなにか……超高校級と呼ばれるほどになにかを磨き上げた彼らになら、そんなものもあるのだろうか。
だからこそ、コロシアイという五文字の言葉が急激に現実味を帯びだした。
その異様な変化に全員が気付いたことだろう。これまで無視されてきた人殺しという選択肢が急激に浮上してきたような感覚だった。
モノクマは噴水の縁を歩きながら笑みを隠すそぶりで口元に手を当てた。切り裂かれたように吊り上がった口元は、その小さく丸い手では隠しきれていなかった。
「効果は想像以上だねえ。じゃ、また二十四時間後ね」
モノクマはニタニタと笑顔を浮かべたまま噴水の影に隠れてしまった。
モノクマがいなくなっても場の雰囲気は元に戻らなかった。むしろ悪い方へと進んで行った。モノクマに向けられていた意識は次第に互いへ向け合うようになり、その視線には疑いが含まれていた。
疑いの目で見つめ合う時間が続くと、次第に息苦しさを感じるようになった。もはや誰も互いを信用していないのではないかとさえ思えてしまうほどに、空気が張り詰めていた。
ああ、この数日で築かれた関係はモノクマの行動一つで脆くも崩れ去ってしまった。誰かが自分を殺すのではないのかという疑い、あるいは誰かを殺さねばという殺意……それぞれが思惑を持つことになり、それを探らんとする牽制が一種の膠着状態を生みだしている。
私は写真を握る手から力が抜ける心地がした。私はこんなもののために人の命をないがしろにはしない。けれどみんなはそうじゃない。大切なもののためになら人を殺す覚悟だって持つことができる。その差異が私という存在は偽物の超高校級なのだと告げているようだった。
だって「こんなもののために人殺しなんて」と思えるのは、私が腕時計やアケコンに真剣な思いを向けられていない証拠だった。私はこのアケコンが破壊されても、構わない。そう考える私はきっと超高校級には相応しくない。そう思うと、全身を脱力感が襲うのだ。
私の心には薄いベールがかかる感じがして、写真を見ても鈍い感情が湧いてくるのみだった。
そんなとき沈んだ気持ちを引き起こすような声が聞こえてきた。
「みなさん写真を見せ合いませんか?」
庭園全体に届く大きな声でベルが言った。
みんなの視線が彼女に集中する。それでも怯えることなく、むしろ語勢を強めてベルは訴えた。
「モノクマはこれを壊すと言いました。おそらくそれは……本当のことだと思います」ベルは胸にあてた手をぎゅっと強く握った。その手には写真が握られている。「失うことはとてもつらいことです。ですが、今あるものをみんなで確かめ合いましょう!」
ベルはその場にいる一人ひとりの目を見ながら、彼らの心へ呼びかけるように何度も繰り返して訴えた。その叫びは悲痛なほどだった。けれど彼らの心を動かすまでには至らなかった。
ずっと俯いていた日怠が、不意に背を向けた。
「ごめんベル。私、部屋に戻る……ちょっと今は、顔見れない」
「待ってください日怠さん……! お願いです」
「俺も……ちょい一人にしてくれ」
「米原さん! 待って、ねえ」
ひとり、またひとりと、彼らは言葉少なに庭園を去っていった。
ベルは彼らの名前を呼んだ。だがそれで彼らの足が止まることはなかった。場に揃ったみんなは空しくもバラバラになっていくのだった。ベルの声は、消え入るように小さくなっていった。
いたたまれない気持ちになって私もこの場を去ろうと思った。
ちらりとベルを見ると、目が合ってしまった。私は思わず目を逸らし、背を向け身を縮ませた。相変わらずコイツの顔には慣れない。
「鷹城さん……どうしましょう。みなさん、バラバラに……」
その顔で私に話しかけてこないでくれ。なんて言葉を返したらいいのか、分からなくなってしまうから。
私は息苦しいのを我慢しながら彼女に身体を向けた。それからツカツカと彼女の前まで歩み寄り、虚勢を張ってこう伝えた。
「私で良けりゃ、ほら」
乱雑な手つきで写真を差し出す。なんてことのない、ただの写真。だってのに、ベルは大切なものを包み込むみたいに優しく両手で受け取った。
「ありがとうございます……」
ベルは写真にそっと指を這わせる。手入れの行き届いたきれいな指だった──ロボットだから爪が伸びたり肌荒れしたりしないのだろう。まるで石膏像が動いているかのようだったが、その動きには不思議と人の暖かみを感じさせられた。
「腕時計と……もう一枚のこれは?」
「ゲームのコントローラー」
「それは……とてもゲーマーらしい品物ですね」
ベルは溢れそうな悲しみを堪えているように見えた。けれど隠すように無理してはにかむのが見ていられなかった。
アイツの顔でそんな表情をしないでくれ。私は耐えきれず顔をそむけてこう返した。
「世界大会にも持って行ったんだ。でも、もうどうだっていいんだ」
「どうして? 大切なものではないのですか」
ベルは不思議そうに首を傾げた。
私は一呼吸を置いて答えた。
「捨てたんだよ。……ほらよく見てみろよ、うっすら埃もかぶってるだろ」
「確かに……でも捨てたって、どうしてそんな」
私はうまく答えられなかった。これがベル以外に訊かれたなら意外とすんなり理由を話せたかもしれない。
けど、こいつを前にするとどうしてかアイツのことが思い浮かぶ。すると言葉が詰まってしまう。
私はままならない気持ちを抱えたまま頭髪を掻いた。
ふと、ベルが元々持っていた写真に目がいった。そこにはやたら豪華な装飾が施された十字の何かが映っていた。ベルの疑問に返す言葉が見つからない私は逃げるようにその写真へと話題を移した。
「なんだそれ。勲章か?」
「ええ、母国で働いていた際にいただいたものなのです。けれど、大切なのは名誉よりも今の自分の行動だと思います」
さきほどとは打って変わって静かな声色で言った。一瞬、ロボットには物欲がないのだろうと決め込んだが、それは違うと強く思った。なぜって、私は既にベルには人並の感情があると認めてしまっているからだ。だから彼女の言葉には含みがあるように感じられて、きっとこの勲章は大切なものであるに違いないと改めて認識した。
そんな大切なものでもベルはいらないと言う。それは私のくだららい戯言のいらないとはまったく意味の異なるものだろう。
「そうか……そりゃいい考えだ」
ベルは黙ったまま、私の言葉をかみしめるようにゆっくりと頷いた。
すると、まだ庭園に残っていた数人が私たちのそばまでやってきていた。そしてそのうちのひとり……倉敷がベルに声をかけた。
「ねえベルさん。私も加わっていいかしら?」
「! 倉敷さん……! ありがとうございます。ぜひ、倉敷さんの写真も見せてください」
倉敷は美しい所作で封筒から写真を取り出した。封筒を開封するマナーや礼儀があるとするなら、きっとこれが模範例だろうと思える動きだった。
彼女が差し出した写真には髪飾りが映っていた。倉敷は耳障りの良い落ち着いた声色でこう述べた。
「この髪飾りは祖母の形見なの。なくしてしまうのは惜しいけれど、でも大切なのはモノではなく思い出よね」
「ええ、わたしもそう思います。モノがなくなったとしても、お祖母様が倉敷さんに向けていた思いまでは消えないはずです」
「そうね。この勲章がなくなったとしても、貴女が成したことはきっと消えないわ」
倉敷はベルの手に己の手をそっと重ねた。そしてまっすぐ目を合わせ、思いを強く伝えているように見えた。ベルは言葉を受けて、感じ入るように写真を再度眺めた。
私はどうだろう。このアケコンがなくなったとして、私にはなにが残るのだろうか。それを上手く言葉にできないのは、なにもないからだろうか。
「僕もいいかな」
申し訳なさそうに眉を寄せて加わったのは三池だった。
「僕はただのストラップだったよ。一年位前に作ったやつでさ、お気に入りでいつも着けてたんだ……なくなるのは悲しいけど、でもまた作ればいいだけだからね」
三池が示した写真には赤とピンクの線があしらわれたキャラクターもののストラップが映っていた。既製品のような出来だが、超高校級の造形作家という肩書きがあると自作という話もすんなり受け入れられた。
「へえ、ラバーストラップか?」
「そうだよ、よく知ってるね。もしかして鷹城さんもこういうのに興味が?」
「まあ自作するほどじゃねえけど、くじ引きの景品で混じってるときがあるからさ」
「ああ、コンビニでやってるアレね。じゃあ本命はフィギュアなんだ」
「まあな。あれ思ったより出来がいいから驚きだわ。……つっても金ねえから、ほんとたまにだけど」
くじ引き。一回引くだけでちょっとよさげな昼飯食えるくらいの金額が吹っ飛んでいくから恐ろしい。本命のフィギュアを当てるとなると費用は馬鹿にならないだろう。
でも一発で当たるかもしれないという可能性と手が出せないわけではない価格設定が人気の秘訣なのだろう。
三池が嬉しそうに語らうのを聞いていると、不意に私と三池の間に割って入ってくる者がいた。
「んもう、みなさんだけでお話してずるいですよう。わたしも混ぜてください~!」
彼女は写真そっちのけで、というかさっきまでの緊張に満ちた時間を全く感じさせないいつも通りの様子で話し出した。
こいつは良くも悪くもいつも通りというか……。眉尻を下げ、つい溜息が出そうになるのを抑えて萌上の話を聞くことにした。一応は彼女も写真を見せてくれるようだったから。
「ええっとー……あ、これですね!」
萌上はそもそも写真を見てすらいなかったようで、どこからか取り出したペーパーナイフで封を切ると、素早く写真を取り出した。
そこには小さな赤褐色の瓶が写っており、中には不透明な色合いの液体が入っていた。
「これは……?」
三池が神妙な声色で尋ねる。
萌上は照れるような素振りでこう言った。
「夏のボーナスを注ぎ込んで作った媚薬ですう〜! これがあれば熊だってイチコロなんですからね!」
「は……?」
「やだなあ、んもう、鷹城さんったらなに想像してるんですかあ?」
萌上は恥じらう乙女のような仕草で下卑た視線を向けてきた。早くこの場からいなくなればいいのに。
「せっかくご主人様に使おうとしたところで、攫われてしまって、挙句なくしてしまっていたので落ち込んでいたのですが……まさかモノクマが持っていたとは思いませんでした!」
んなもんさっさと破壊しちまえ。
場に広がっていた沈痛な雰囲気は、萌上の登場により跡形もなく砕け散ったのである……。
当の萌上はさほど気に留めていない様子で、一人妄想に耽って舞い上がっていた。
その日の昼食は一人でとった。食堂の隅にある四人掛けの席に着き、倉庫にあった大昔のゲーム雑誌を捲りながら黙々とフォークを口に運ぶだけの時間を過ごした。希望ヶ峰学園にいたときから人との付き合いを避けていたので寂しいとかそういう気持ちは湧いてこなかった。ただ落ち着かないなと思った。
というのも動機発表後、食堂には片手で数えられるほどの僅かな人数しか集まらなかった。食器の触れ合う音がよそのテーブルから聞こえてくるが、人の声や息遣いは全くしなかった。一言で言うなら暗かった。いつもああだこうだと言い争ったり賑やかにしている連中がいないせいで、食堂は夜時間のように静まり返っているのだ。
その雰囲気が私には居心地悪く感じられるのだった。息苦しいと表現してもいい。一人は慣れっこだが、こういう重く沈んだ雰囲気はいつまでたっても慣れない。雑誌の内容も上手く頭に入ってこないし、せっかくの飯の味もこれじゃよく分からない。
そんなことを思いながら、私は萌上が作ったミートスパゲッティを啜りながら食堂を見渡した(萌上が作ったものは極力食べたくないが、余ると廃棄しなきゃいけないとかで無理やり皿に盛り付けられた)。
食堂にいるのはあのとき庭園で写真を見せ合った五人だけだった。そのうち萌上とベルは厨房に。残りの倉敷と三池はそれぞれ別のテーブルについていた。
強いて言うなら倉敷が食堂にいるのは珍しい光景であった。まあ今朝の雰囲気は異様であったし、一人でいようとは思えないのだろう。
視線を人から外すと、今度は食堂の壁に注意が行く。そこには巨大なモニターがかけられていた。以前は自然の風景や植物の映像が映し出されていたのだが、今は動機のタイムリミットが表示されていた。早く殺せ、でないとお前の大切なものを壊すぞと、まるで脅迫するようにジリジリと時間は減っていった。ホテル中の電子機器(むろん電子生徒手帳も)が全部こうなっているので、差し迫る制限時間が嫌でも目に入る。動機が意味をなしていない私でさえ急かされている気分になってしまうのだから、それこそ本当に追い詰められている人にとってはキリキリと心を締め付けられる心地なのではないだろうか。
あのとき庭園を去っていったみんなの表情を思い浮かべると、彼らが今どのような心境にあるのかとつい考えてしまう。大切なものなんてとっくに失ってしまった私には想像もつかないが、きっと悶え苦しんでいるのだろう。そんな彼らに私がしてやれることはない。その点、萌上やベルは立派だ。腹を空かしたやつがいつ来てもいいように、大きな鍋でスープを温め続けている。
その点、私なんかができることなんてたかが知れている。二人の力にはなれない。
幾度も逡巡した考えは、溜息となって口から吐き出された。想像以上に、私はショックを受けているらしい。それが自分でも意外だった。だって私は昔から孤立していたし、場の雰囲気に流されるような人間ではないと自分自身思っていた。なによりここにいるやつらは数日前に出会った他人で、ちょっと仲良くしたくらいで絆されるわけがないと思っていた。実際今でもそうだと思っている。
色々と考えた末、私はベルのやつが暗い顔をしているのが嫌なんだなと思い至った。あの顔に暗く影が落ちるのは気が気でないのだ。けれど私なんかが彼女のためにしてやれることはない。それをするのには私なんかよりもっとふさわしい人間がいるだろう。
暗い気持ちを晴らすように食事を進める。皿に残った肉とトマトソースをかき集め、フォークですくって口に運んだ。トマトの酸味がいつもより強く感じられた。幼い頃からの好みの味付けなのだが、この酸味が今はより悲しさを増長するのだった。
(辛いことは時間が解決してくれる、なんて言うけれど……二十四時間じゃあなあ)
昼食をすっかり平らげたものの、どうにも満足しきれない気持ちのまま私は一呼吸置いて天井を見上げた。
食堂に来ない人たちの気持ちを想像してみた。大切なものを捨てるか、それとも人を殺すか。多くの人は時間をかけて気持ちを整理し、大切なものを失ってもいいと思える理由を無理やりこじつけたり、代替案を探してみたり、あるいはキッパリと捨てる決断をして、ようやく前を向くのだろう。
その作業は、一人で行うか、あるいは親しき友人の付き添いがあって行われるものだろう。だが、それは二十四時間以内に行えるものだろうか。気持ちを整理しきれない状態で、タイムリミットに脅されて、人の気持ちはどうなってしまうのだろう。
……もし人を殺すのなら、今頃どうやって殺すか計画を立てているのだろうか。そうしたら私はどうすればいいのだろう。止めるべきなのだろうか。……私はなにもない空っぽな人間なのだ。人殺しを決断するほどに大切なものがある人間は、そんな空っぽな人間の言葉を聞いてくれるだろうか。
らしくもなく悩んでいたのだが、そんな心配はどうやら杞憂だったらしいと気づいたのは、昼食後に萌上から提供されたドリンクを飲んでいるときだった(気に食わないが、こいつの出す飲食物はどれもこれも美味い)。庭園から立ち去って行った者たちがちらほらと食堂に顔を出し始めたのだ。
はじめに食堂に姿を現したのは日怠だった。力なく現れた日怠を見つけ、ベルが厨房から飛び出し駆け寄った。心なしか目のあたりが赤くなっている日怠はバツが悪そうな顔でベルにこう言った。
「ベル、さっきは無視しちゃってごめん。気持ちの整理がつかなくって……でも、キッパリ諦めてきた。ベルの言う通り、いまあるものを大切にしようと思う」
日怠は憑き物が落ちたような微笑みで言った。いつもの気が強い彼女からは想像もつかないような気弱な声だった。ベルは日怠の手を力強く握りしめ、真剣なまなざしでこう語った。
「あのとき動揺してしまったのは、写真に写っていたものが日怠さんにとってとても大切なものだったからだと思います。それを諦めることはすごくつらいことだったでしょう。その決断ができた日怠さんはきっと強い方です」
「そう言ってくれると助かる……そうだ、ご飯、なにか作ろっか。ねえ、食べるでしょ?」
「はい! わたし日怠さんの料理とっても大好きですから、ぜひいただきます」
ベルは笑顔で日怠に応える。その笑顔はきっと誰が見ても安心を感じるだろういい笑顔だった。
(よく食うぜ……さっきも萌上の飯食ってたのに)
ベルと日怠の二人は得意料理の話をしながら厨房に入っていった。あれなら問題はないだろうと思った。
(なんつうか、心配して損した気分)
なんだ、笑えるじゃん。肩肘を張っていたのが馬鹿らしくなって、私は大きく口を開けてあくびをした。
ピンと張っていた緊張の糸が緩んだので急に眠気もやって来た。私はそのまま食堂で昼寝をすることにした。
昼寝の最中、他のみんなも気持ちの整理をつけたのかチラホラと昼食を食べに来るようになった。人間いつだって腹が減るのである。気が付くといつもの食堂の雰囲気に戻っていた。
それぞれが持つ大切なものと別れを告げ、それがない未来を想像し、それでもきっとやっていけると考え抜き悩み抜き、晴れぬ気持ちをどうにか前に向かせる。二十四時間どころか、たった数時間で彼らは気持ちに折り合いをつけた。超高校級と呼ばれるほどに一つのことを極めた彼らだ。それだけのメンタリティがあるらしい。
もし誰も食堂へ来なかったとき、ベルにどんな声をかけてやればいいのか分からなかったが、それも要らぬ心配だった。
だが夕方になっても姿を現さなかった人物がいた。長瀞である。
私はすっかり安心しきって昼寝をしていたのだが、不意に肩を揺すられ声をかけられた。
「ねえ鷹城さん。今日、お昼以降に長瀞さんのこと見かけた?」
不安げな声で話しかけてきたのは三池だった。長瀞とは一緒にカメラを探しに行った縁があり、それもあってか人一倍心配しているらしかった。
「そーいや、あのうるさいのまだ見てねえな……」
私はところどころ跳ね返りのある癖毛を掻きむしり、あくびをしながら答える。
三池は落ち着きなく手首をさすった。三池が座っていたはずの机に目を向けると、コップの水が一時間前から全然減っていなかった。
「こういうこと言うのもなんだけど、なにかあったんじゃ……」
三池は私の耳元に口を寄せて小さな声で言った。薬品のような酸味のある匂いがかすかにして、私は思わず顔をしかめた。
「なにかって、んだよ」
「そりゃあさ、今朝あんなことがあったんだからさ……ねえ、一緒に様子見に行かない?」
「一人で行きゃいいじゃねえかよ」
面倒くさいと再び机に突っ伏す私の肩を控えめに揺さぶりながら、三池は繰り返す。
「ねえ頼むよ、この前一緒に写真を撮った仲でしょ? お願いだからさ」
「…………」
「一緒に来てくれるだけでいいから。話とかは、全部僕がするから」
「…………」
「~~ッ、じゃあ購買部のお菓子、僕持ちでカゴいっぱいに買ってあげるからっ」
「……ったく、アイツ何号室だ?」
「! ちょっと待ってね。マップに載ってるはずだから確認してみる」
そう言って三池は電子生徒手帳を取り出した。
私だって電子マネーが付与されてあるのだからお菓子ぐらい自分で買えばいいのだと言ったあとで気付いた。おごりという言葉に反射的に反応してしまった。
席を立ち顔を上げると三池はほっとしたような顔をしていた。
個室があるのは十六階であり、そこまで階段で登ると途方もない労力がかかるので、私と三池は迷いなくエレベーターに乗り込んだ。……階数を表示する液晶パネルにも制限時間が表示されてあった。ここまで徹底的にやるとは、モノクマは随分と今回の件に力を入れているらしい。
個室がある廊下へと出る。真っ赤なカーペットが落ち着いたライティングによって照らされ、部屋に至る道を真っ直ぐ示している。こうも赤いカーペットだと血が落ちていても分からないなと良くないことを考えた。
長瀞の部屋は私の部屋の二つ隣にあった。意外と近かったらしい。
「じゃあ、いくね」
三池は緊張した面持ちでチャイムを鳴らす。だが反応はない。
一分ほど扉の前で待つも音沙汰はなかった。再度チャイムを鳴らすが、それも甲斐なく反応は得られなかった。
「防音だっけ、じゃあ呼びかけても意味ないのか」
今度は強く扉をノックした。それでも応答はない。
本当に中にいるのか? そんな疑問が浮かぶ。案外、泣き疲れて眠っているだけかもしれない。
「眠るって、そんな……鷹城さんじゃあるまいし」
「人のことあれこれ言う暇あるんなら、長瀞をどうやって慰めるか考えとけよ」
そんな言葉を交わしていると、不意にカチャリと金属音が鳴った。聞き間違えでなければそれは扉の施錠が解除された音だった。
だが、いくら待てども長瀞が顔を覗かせる気配はない。
三池と顔を見合わせる。
「これって……入れってことかな」
私は黙って頷いた。
三池は木製のドアノブに手を伸ばし、ゆっくりと下げた。それはなんの抵抗もなく下まで降りた。確かに錠が空いているのだ。
「……長瀞さん。僕だよ、三池だよ」
三池は少し開いた扉の隙間から部屋の中へ呼びかけた。だが反応はなかった。
「入ってもいいかな? 僕、長瀞さんと話がしたいんだよ」
三池は声を出しながら恐る恐る部屋に入った。私も後を着いて行った。真っ直ぐ行くとリビングに辿り着いたが、そこにも長瀞の姿はなかった。
妙な雰囲気だった。内側から鍵が開いたのだから当然長瀞が中にいるはずなのに、姿はおろか、声さえも聞こえてこない。
部屋を見渡すと、机の上に写真が置いてあるのを見つけた。写真に写っているものは書類のようだったが、なんの書類かまでは分かりかねた。
この書類が長瀞の大切なものなのかと、意外性を感じていると、
「あああああ!!!」
絶叫と共に大きな物音が耳に入った。音は隣のベッドルームからだった。
見れば三池がいない。何事かと私は大急ぎで駆け付けた。
「ッ! 長瀞!」
扉を開けると、そこには分厚いハサミを持った長瀞と壁にもたれかかる三池の姿があった。なにがあったのかは分からないが、三池は壁で頭を打ったのか足元がおぼつかない様子だった。
私は反射的に長瀞へ突進した。胴に掴みかかり、そのまま奥にあるベッドへ押し倒そうとした。けれど長瀞は登山部である。やはり足腰の筋肉量が違う。運動不足の私なんか歯もたたない。逆にがっしりと胴へ組みつかれ、そのまま壁に打ち付けられた。その衝撃で肺の中の空気が空っぽになる。きっと三池も、このようにして壁に吹っ飛ばされたのだろうと思われた。
「カハッ、……ッ、やめろ! 長瀞! 人殺しは、ダメだ!」
がむしゃらに暴れるも、私の胴に組み付いた長瀞は離れようとしない。頭も下を向いていてどんな表情をしているのかさえ分からない。すると三池が頭を押さえながらおぼつかない足取りで寄って来て、長瀞の手に握られたハサミを無理やり引き抜こうとした。けれど力が上手く出せないのか、三池は苦戦していた。
私はやけになって長瀞に呼びかけた。
「誰もお前を傷つけたりしねえ! お前と話をしにきただけなんだよ! だから、やめろってば」
そう言った途端、胴へ回された腕にはさらにきつく力がこもった。
(息が……苦しい)
締め付ける力が強まるのと同時に、すすり泣く声が聞こえた。それは長瀞から発せられていた。
「ごめん……ごめぇん……もぉ、無理ぃ……」
長瀞はがくりと膝から崩れ落ち、ハサミを落とした。それからこちらを見上げてきた。真っ赤に腫れた涙袋、震える唇。私の胴に回した腕はそのままで、縋り付くような姿勢で大粒の涙をポロポロとこぼした。
初めて見る表情に私は戸惑いを隠せなかった。
「アタシもうだめだぁ……! やだよぉ……!」
長瀞は掠れた声で嘆き、それから私の腹にぐりぐりと顔面をこすりつけ、そしてわんわんと子供のように大声で泣きわめいた。感情はとめどなく溢れ、顔面から出る液体をすべて私の服にしみこませる勢いだった。
「おい、ちょっ、やめろって! きったねえ! おい!」
服が涙と鼻水でびっしょりになるころには長瀞も泣き止んだが、変わらず暗い表情をしていた。
それでも話ができるまでには回復したので、ずっと俯いている長瀞を無理やりリビングルームのソファにまで連れて行った。
そこには例の写真もあったから、詳しく事情を聞こうと思った。
「元気が出るようにって、萌上さんが暖かいスープを作ってくれたから、ゆっくり飲むと良いよ」
「……ありがと」
三池は魔法瓶を持参していたようで、カップにそそいだスープをそっと長瀞に手渡した。長瀞はそれを両手で受け取り、暖かみを感じるようにじっと手のひらで包み込んだ。コンソメとミルクの濃厚な香りが湯気に乗って伝わってくる。萌上お手製のスープは手元から長瀞を温めていった。
長瀞は手元のカップに視線を落としたままこう言った。
「……さっきは、ごめん。ウチ、殺そうとして、それで」
息苦しそうに言葉を詰まらせながら、長瀞は言った。ベッドルームでの行動を思い返しているのか、頑なに下を俯いたままで、肩は小刻みに震えていた。
「まあ誰も死ななかったんだし、血も流れなかったんだ。だから気にしなくっていって。な?」
「そうだよ。ちょっとびっくりしたけど……でも実際は、僕が頭を打っちゃったのと、それから鷹城さんの服が汚れちゃったくらいだし」
三池は後頭部のあたりをさすりながら笑みを浮かべた。三池は長瀞に突き飛ばされて、壁に頭をぶつけたのだという。そのためかしばらく足元がふらついていたが、今はそれも落ち着いていた。
はじめ長瀞が三池を襲ったとき、ハサミで刺さずに突き飛ばしたのは躊躇いがあったからなのだろうか──どちらにせよ長瀞は誰かを殺めることも、血を流すこともなく、こうして隣に座っている。
誰も死ななかった。血も流れなかった。それでいいじゃないかと私と三池の二人は思っていた。けれど長瀞自身が己を強く咎めていた。ゴメンと謝罪の言葉を口にするが、じっと俯いたまま目線は合わそうとせず、弁明はおろか自分のことすら話そうとしない。言い訳をしないのが彼女なりの矜持なのかもしれなかった。
長瀞からなにか話してくれれば、少しくらいは力になれるかもしれないのに。そのとっかかりさえ私たち二人は掴むことができないでいた。
だから私と三池はほとほと困り果てた。どんな言葉であれば、今の彼女の心に届くのだろう。彼女の本音を引き出せるのだろう。
けれど人殺しという手段を選んでしまうほど追い詰められている長瀞にかけてやれる言葉なんて、私には見つからないのだ。
困り果てて、私は無意識にポケットをまさぐった。するとあるものを見つけた。
「……私は、こういう写真をもらったんだ」
ポケットから取り出した写真を、長瀞の写真の隣に置いた。大したものではないが、それでも頑張って、長瀞に伝えてみた。この真っ赤なアケコンで、たくさん練習して、たくさん試合をして、たくさんの出会いや経験があったことを。当時はすごく熱中していたのだということを。……もうやらなくなったという結末は伏せて、つたない言葉で伝えた。
三池も懐から写真を取り出し、作品に対する熱意や思いを語っていた。
長瀞はこくこくと頷いて私たちの話を聞いていた。話の合間にはスープを喉に流し込んでいた。
私たちの話が終わると同時にカップの中も空になった。三池がおかわりを入れようとすると、長瀞は「自分で入れる」と言って顔を上げた。それから落ち着いた声色で、彼女の動機であるなんらかの用紙の話を始めた。
「これはね、登頂証明書なの」
「登頂証明書?」
「うん。あなたはこの山を登頂しましたよ、って証明してくれる書類」
長瀞は写真の中の書類に指を添わせた。とても愛おしいものを撫でるような指の動きだった。
「世界にはね、標高八〇〇〇メートル以上の山が十四座あるの。未成年の女性が十四座すべてを無酸素単独で登頂した記録は過去にないの」長瀞はじっと写真を見つめている。「ウチね、いま、それに挑戦してて……いろんな人の力を借りたり、運に恵まれたり、とにかくいろいろあって、ようやくあと三つのところまで来れた」
あと三つ。そこまで至るのにどれだけの努力や苦労が必要なのだろう。ただゲームばかりしていた私には、世界の山頂から見える景色なんて想像もできなかった。
「いろんな人の、夢や、期待を、背負ってるのに。もう、ウチひとりだけのことじゃないのに……!」
それは叫びだった。長瀞の背中にある重荷が、彼女を押し潰そうとする音が聞こえてくるようだった。今だって、なにかの拍子で潰れてしまいそうだった。
だが、そんな重荷は捨てろだなんて、気安く言えるはずがない。それを背負えるからこそ彼女は特別なのだし、なにより彼女自身が背負いたがっている。ここ数日で感じたことだが、長瀞は人の事情なんて顧みず、あちこちへ連れまわすような我が儘で自己中心的なやつだった。それでも城田を気遣ったり、ひとりきりの私が輪になじめるよう根気強く話しかけてきたりと、優しく責任感のある人間なのである。そんな彼女が、その一身に背負った期待を捨てたがらないのは想像に難くない。
それが彼女の人に好かれるところなのだろう。けれど今は逆効果だった。彼女の人徳が、彼女自身の首を絞めているのだ。
「でも証明書ってさ、発行しているところが記録や控えを残しているんじゃないのかな」
思いついたように三池が言う。けれど長瀞は重苦しい動きで首を横に振った。
「ううん、つい先月、データベースが火事で焼失しちゃってね。だからいま再登録の申請中なんだけど、そのために送った証明書をなぜかモノクマが持ってて……」
長瀞は言葉を言い切る前に声を上ずらせた。
「それは……」
私は言葉を詰まらせた。長瀞の様子を見ていると、喉がきつく締めあげられるような心地がした。
明日の朝には、長瀞にとってなによりも大切な登頂証明書が灰燼となる。それが許せない。けれど私にはなにもできない。モノクマに歯向かうことも、長瀞の力になってやることもできない。その無力さがより私の心を締め付ける。
私以外の誰かがここにいたなら、彼女の気持ちを楽にしてあげるためにどのようなことをしたのだろう。その誰かは、少なくとも私なんかよりはずっと力になれただろう。
なにもできない私は、ただ長瀞の話に耳を傾けることにした。長瀞の口からは不安がうんと吐き出されて、そのうち登山にまつわる悲しい話や苦しかった思い出が語られるようになった。
そうなってくると、長瀞に合わせて三池がリズムよく相槌を打つようになった。そのうち長瀞は平時のような調子で思い出話に花を咲かせ、楽し気に肩を揺らすようになった。
(なんだ、いつもの長瀞だ。……あとは三池に任せてりゃ、なんとかなるべ)
もう大丈夫だと思った私は席を立った。服がいつまでもぐしょぐしょのままじゃ風邪を引くからと長瀞が気にしていたので、個室に戻って着替えることにしたのだ。ついでに洗濯もしようとコインランドリーに寄り、たっぷり時間をかけてふたたび長瀞の部屋に戻ってきた。
するとマシな顔色になった長瀞が三池と談笑していた。こちらに気付いた二人は、柔らかな笑顔で私を出迎えてくれた。
そして改まったように長瀞は背筋を伸ばしてこう言った。
「ありがと三池。それに瑞樹も。ウチ、ちょっと疲れてたのかも」
「かもな。夕食まで時間もあるし、ゆっくり休めよ」
私はベッドルームの床に落ちていたハサミを拾ってきた。どうやら部屋に置いてあった裁縫キットの裁ちばさみらしかった。
「これは私たちで捨ててくるから、お前はもう少しゆっくりしてろ」
「そうだね。スープもまだ残ってるし、ゆっくり飲んでよ。入れ物は後で食堂に持ってきてくれればいいから」
長瀞は膝上に置かれた両手の中のカップを一瞥し、こくこくと頷いた。
それを見て私はもう大丈夫だろうと安心した。そして彼女に背を向け部屋を出ようとしたところ、不意に呼び止められた。
「ねえ、瑞樹」長瀞は甘えるような声で言った。「さっきあんなことしちゃって、こんなこと言っても、どうしようもないと思うんだけど」
「なんだよ、早く言えよ」
長瀞は自身なさげに眉を下げ、視線を床に落とした。それから上目遣いでちらちらと私のほうを見上げて、小さく口を開いた。
「今晩一緒にいてくれない?」
「今晩って……はあ?」
「だって、怖いから」
長瀞はいじけたようにつぶやく。
「怖えなら、部屋にカギ閉めて、誰も入れなきゃいいだろ」
「でも……」
長瀞は悲しそうに目を伏せた。いつも元気そうな顔を見ているからか、こうもしおらしい態度を取られると動揺してしまう。
「……夜時間なったらまた来るわ」
「! ありがとう、瑞樹……ありがとう」
「じゃあ、また夜時間前になったらな」
そう言って、ようやく私たち二人は長瀞の部屋から出た。
個室で起きたこと──ハサミで襲われたこと──は他のみんなには言わないでおこうと、三池と話し合った。長瀞はひどく悲しみ落ち込んでいた。それは事実なのだから、余計なことを付け足して混乱や不和を招く必要はないだろう。
「それじゃあ僕は、夕飯まで食堂にいることにするよ」
「そうか。わたしは部屋で昼寝の続きするわ」
三池とは長瀞の部屋の前で別れた。
(しっかし、今晩一緒にねえ……面倒なこと請け負っちまったな。これで長瀞に殺されたら笑えねえよ)
さっき襲われたばかりなのに彼女の頼みを引き受けてしまったのはなぜだろう。心配だから、というのは要因の一つとしてある。けどそれ以上に面倒だという気持ちが私にはあったから、ただ心配なだけで彼女と一緒に寝てやろうという気になったわけではない。決め手になった気持ちが私にはよく分からなかった。
私はエレベーターの前で三池と分かれ、廊下を引き返して自分の個室に戻った。夕食まで眠ろうと思ったのだ。
布団に入るとぐっすり眠ってしまいそうだったので、リビングにあるソファに腰かけた。ゆったりとした曲線を持つ革張りのソファは、私の身体を包み込むような包容力があり、まるで浮いているような心地だった。ぼんやりした頭で今日のことを振り返っているうちに、いつの間にやら眠りの深みへと落ちていった。
目を醒ますととっくに夜時間は過ぎており、既に夜の十時過ぎだった。
「やべっ、長瀞んとこ行かなきゃ」
口元の涎を拭って飛び起きる。遅刻だ。なに言われるか分からねえ。夕食を食べ損ねたことよりも、今は長瀞にあれこれ言われることの方が恐ろしかった。
適当な寝間着をつかみ取り、大急ぎで長瀞の個室まで行き、チャイムを鳴らす。けれど反応はない。
(長瀞出ねえじゃん……もう寝たんかな……)
「おい、なにしてんだ?」
死角から声を掛けられ、反射的に身を震わせた。廊下にいたのは春田だった。風呂上りなのか髪がしっとりと濡れていた。彼は指先を器用に使ってルームキーをペン回しのようにクルクルと回転させていた。
「そういうお前こそなにしてんだよ」
「俺はシャワーを浴びに一度戻って来たんだ」
「一度戻ってきた? 個室で寝ないのか」
「……ああ、そうだ、お前は夕食の席にいなかったから知らないのか」春田は手遊びをやめ、ルームキーをしかと握り込む。「夕食時に三池のやつが派手に倒れたんだ。看病も兼ねて保健室に寝てもらっているんだが、保健室には鍵もかけられないから、俺と此乃咲と、あとベルが見張りやってるんだよ」
「三池が倒れた……?」
「ああ。食事前から体調は悪そうだったんだ。ずっとふらふらしてたし、頭痛も酷いみたいでな。いまはすっかり眠ってるよ」
(長瀞に襲われたとき思いっきり頭ぶつけてたし、それが原因みたいだな……)
あきれ顔で思案していると、春田は素っ気ない言い方でこう訊ねてきた。
「で、鷹城。お前は長瀞の部屋の前でなにしてんだよ」
「なにって……約束してたんだよ」
「約束?」
「ああ。今夜は長瀞と一緒に夜時間を過ごす予定だったんだが……どうやら先に寝ちまったみたいで、鍵がかかってんだよ」
私は長瀞の部屋のドアノブに手をかけるが、やはり鍵がかかっているようで下げることができなかった。
「明日の朝が、今からもう怖えよ。なに言われるか……」
「ふうん……」
春田はじっと扉を見つめた後、私の方に向き直ってこう言った。
「あまり深く込み入るつもりはないが、控えめにな」
「? ああ」
良からぬ誤解を招いた気がしたものの、それがなんなのかハッキリする前に、春田はエレベーターの方に向かっていった。
春田の背中を見送ったところで、ようやく自分が夕食を食べ損ねたことに気が回った。なので食べ物を倉庫まで漁りに行くことにした。倉庫には缶詰やカップ麺があった。給湯器も一緒に用意されていたので、それらを鞄に入れて自室まで戻り、さっそく湯を沸かした。深夜帯のカップ麺ほど美味いものはない。最近は美味い料理ばかり食べていたので、たまにはこういう塩分で舌が痺れそうなジャンクフードもいいものだとスープまで飲み干した。
腹を満たし、シャワーを浴びて、私はふかふかのベッドに飛び込んだ。さっきまで眠っていたのに、再度眠りに入るまでにそう時間はかからなかった。
……………………。
………………。
…………。
『オマエラおはようございます。朝です。今日はオマエラにとっていつもと違う一日になるでしょう。……うぷぷ』
不快な音声で目が醒めた。目覚ましのアラームが今は恋しい気分だった。
モニターに映し出された制限時間はもう一時間を切っていた。この表示がゼロになれば、私たちの大切なものは破壊される……けれど皆、その覚悟を決めたのだ。だからか不思議と焦りはなかった。
案外何事もなく終わりそうだと、私は大きく口を開けてあくびをし身支度を整えた。
食堂にはみんなが集まっていた。昨日の閑散とした食堂は暗く湿っぽく感じたが、今朝は明るく爽やかに感じられた。ただなにかが違う気がする。そんな違和感は萌上が持ってきた焼きたてのクロワッサンの匂いでかき消えた。
うーむ、サクサクした食感がたまらない。中にはハムやチーズといったおかずが入っていて、朝食にピッタリの食べ応えだった。
一つ二つぺろりと平らげたところで、ある人物が声をかけてきた。
「おはよう鷹城さん」
「ん、おはよう三池」
三池は後頭部に氷の入ったビニル袋をあてがっていた。ちょうど昨日、三池が手で押さえていた箇所だった。
「昨日倒れたんだって? まだ腫れてるのか」
「腫れはだいぶ収まったけど、立ち上がるとクラクラしちゃってさ……」
「ははっ、よっぽど強く壁に当たったんだな。まあ、あいつ見た目以上に力が強えし……」
そう、昨日、三池は突き飛ばされて……。
「長瀞は!?」
思わず立ち上がって叫んだ。眠気も覚めるような衝撃に、つい手元からクロワッサンがこぼれ落ちた。そうだ、この食堂には長瀞がいない。いつもうるさいアイツだけがいない。
加えて今朝のモノクマの少し変わったアナウンスを思い出した。朝になっても殺人が起きていないのだから、少しは焦りや憤りを見せてもいいはずなのに。それなのになぜかモノクマには余裕があるような……それどころか、嬉しそうな笑い声が入っていたのだ。
嫌な妄想が思い浮かぶ。血の気が引くような感覚とともに私は三池の顔を見上げた。
「長瀞のこと、今朝見たか」
三池は戸惑った表情を見せ、それから首を横に振った。
「ううん、見てない。昨夜は鷹城さんが一緒にいただろうから、まだ部屋にいるのか訊こうと思ったんだけど……」
それを聞いて私は有無を言わずに駆け出しエレベーターへ乗り込んだ。遅れて三池もすべりこんだ。私はそこで昨夜のことを話した。寝過ごしたために長瀞が先に寝てしまったこと、そのため鍵のかかった部屋に入ることができなかったこと、だから昨日は一緒に過ごしていないのだと。三池はようやく事態の深刻さに気付いたらしく、力強く氷袋を握りしめた。十六階まで上がっていく時間が、そのときばかりはとてつもなく長く感じられた。
エレベーターの扉が開くと同時に駆けだす。そして長瀞の部屋の前までやってきた。チャイムを鳴らすも応答はない。……昨日の夜は鍵がかかっていた。だから今もかかっているはずなのだ。私は恐る恐るドアノブに手を伸ばす……そして意外なほどあっさりとドアノブは下がった。
「鍵が、かかってない……」
「え!?」
三池の驚きとは正反対に、私は嫌なくらいに冷静だった。まだうまく状況を飲み込めていないのかもしれなかった。扉を開けると微かに鉄の混じった匂いが鼻腔を通った。
そのまままっすぐ廊下を進むと、長瀞の姿があった。
まるで眠っているみたいだった。その淡い色合いの寝間着を赤黒い血で染めて、長瀞はソファに身を預けていた。