土曜日の午後。
王塚真唯との蜜月から数日が経った頃、私は瀬名紫陽花さんをショッピングモールへ誘った。
「紫陽花さん、今日って暇? 遊びに行かない?」
返事はすぐだった。
「……うん!」
◇
ショッピングモールのエントランスには、冬の柔らかな陽光がガラス屋根を通して降り注いでいた。
約束より少し早く着いた私は、柱の陰にもたれながらスマートフォンを眺める。
通知はほとんど来ていない。あるとしてもゲーム仲間からの「今夜やる?」くらいだ。
それで十分だと思っている。
……そう思っているはずなのに、少しだけ胸の奥が寂しい。
私は昔から、大人数より一対一の関係を好む。騒がしい輪の中よりも、静かに誰かと話している時間のほうが落ち着く。
そんなことを考えていると、不意に視界の端でベージュ色の髪が揺れた。
「れなちゃん……!」
小走りで近づいてくる紫陽花さんだった。
腰まで届くウェーブヘアがふわりと揺れ、蜂蜜色の瞳が私を見つけた瞬間、ぱっと花が咲くように明るくなる。
「ごめんね、少し遅れちゃった!」
息を切らしながら、それでも嬉しそうに笑う姿に、思わず私も笑みを返してしまう。
「大丈夫。私も今来たところ」
本当は少し前から待っていた。でも、そんなことはどうでもいい。
「じゃあ、行こっか。今日はのんびり回ろう」
「うん!」
私は自然に紫陽花さんの手を取る。外を歩いてきたばかりなのか、その手は少し冷たかった。けれど、指先が触れ合った瞬間、ゆっくりと温もりが伝わってくる。
……この子の体温は、不思議と安心する。
そんなことを思いながら、二人で館内へ足を踏み入れた。
最初に向かったのは三階のアパレルフロアだった。
冬物セールの真っ最中らしく、店内には柔らかな色合いのニットやコートが並んでいる。
紫陽花さんはさっそく淡いラベンダー色のニットを手に取り、鏡の前へ向かった。
胸元にそっと当て、鏡越しに私を見る。
「……どうかな?」
その瞳には期待と不安が半分ずつ混ざっていた。
私は少し距離を置いて全身を眺める。
肩幅や袖丈。色味。全体の雰囲気。
少し考えてから頷いた。
「ラベンダーって優しい色だから、紫陽花さんの雰囲気によく合ってる。うん、すごく似合う」
紫陽花さんの肩が小さく揺れる。
「首元も少し開いてるから重く見えないし、鎖骨もきれいに見える」
私は微笑んだ。
「買っちゃえば?」
その一言で、紫陽花さんの頬がほんのり赤く染まる。
「れなちゃんがそう言ってくれるなら……」
彼女は照れくさそうに笑いながら、そのニットを胸に抱きしめた。その姿が可愛らしくて、胸の奥が少しくすぐったくなる。
私はこういう時間が好きだ。誰かが私の言葉で安心して、小さく笑ってくれる時間。
大きな出来事なんて何もない。それでも、この穏やかさが心地いい。
次に向かったのは一階の物産展だった。
焼き菓子の甘い香りとホットチョコレートの匂いが漂う会場を、二人でゆっくり歩く。
試食でもらったクッキーを半分ずつ分け合いながら商品を眺めていると、視線を感じた。
振り返る。
紫陽花さんが私を見ていた。
目が合うと慌てて逸らす。
「……どうしたの?」
「えっ、あ、その……」
少し恥ずかしそうに笑ってから、小さく呟いた。
「れなちゃんが誘ってくれて、本当に嬉しかったの」
「そう?」
「うん。こういう時間、ずっと憧れてたから。」
彼女は紙コップを両手で包み込む。
「可愛い女の子と一緒にお買い物したり、おしゃべりしたり……そういう普通の休日」
少し照れたように笑う。
「私、すごく好き」
私は自然と笑みがこぼれた。
「私も」
その一言に、紫陽花さんの瞳が嬉しそうに細くなる。
「紫陽花さんと一緒だと落ち着く。静かで、安心するんだ」
それは飾らない本音だった。
私は賑やかな集団が少し苦手だ。人が増えるほど、無意識に気を遣ってしまう。でも、紫陽花さんの隣では違う。
何かを演じる必要もない。場の空気を読む必要もない。ただ隣にいるだけで心が静かになる。
それがひどく染み渡るのだった。
夕方が近づき、私たちはコスメ売り場へ立ち寄った。
紫陽花さんは淡いピンク色のリップを試している。
「……これ、どうかな?」
鏡越しにこちらを見る。少し唇を尖らせたその仕草があまりにも無防備で、思わず見入ってしまった。
「うん。すごく可愛い」
紫陽花さんが目を丸くする。
「自然な色だから肌にも合ってるし、笑ったときの柔らかさがもっと引き立つ」
一拍置いて付け加える。
「……最高に紫陽花さんに似合っているよ」
その言葉だけで、彼女は耳まで真っ赤にしながら俯いてしまう。
「れなちゃんにそう言われると……なんだか信じちゃうな」
私は思わず苦笑する。
本当に素直な子だ。だからこそ、放っておけない。そんな穏やかな時間は、不意に声をかけられて終わりを迎えた。
「よぉ、甘織。瀬名」
振り向くと、クラスメイトの男子生徒が紙袋を片手に立っていた。
少し照れくさそうに笑っている。
「珍しい組み合わせだな」
「こんにちは」
軽く挨拶を返すと、私は彼の紙袋へ目を向けた。
「買い物?」
「ああ。彼女への誕生日プレゼント。」
彼は嬉しそうに紙袋を掲げる。
「アクセサリーなんだけど、めちゃくちゃ悩んだ」
「へぇ」
私は興味深そうに頷いた。
「どんなの選んだの?」
彼が袋を開こうとした、その時だった。
「……れなちゃん」
隣から小さな声が聞こえた。私はゆっくり振り返る。紫陽花さんは俯いたまま、スカートをぎゅっと握りしめていた。
その手が、小さく震えていることに気づいた。
「ごめん! ちょっと用事があるんだ! 話はまた学校で聞くね!」
そう言って、私達はその場から離れ、近くの本屋へ入った。そして本屋を出るころには、空はすっかり藍色へ変わっていた。
ショッピングモールの自動ドアを抜けると、冷たい冬の空気が頬を撫でる。街灯が一つ、また一つと灯り始め、人々は家路を急いでいる。
私たちは紙袋を片手に、ゆっくりと歩き始めた。紫陽花さんは、さっき買った哲学入門書を大事そうに抱えている。
その表紙を指先でそっと撫でながら、小さく笑った。
「……ねえ、れなちゃん」
「ん?」
「れなちゃんって、どういう哲学が一番好きなの?」
私は少しだけ空を見上げる。
「ニーチェかな」
「ニーチェ?」
「うん。特に『永劫回帰』と『超人思想』」
紫陽花さんは目を丸くした。
「永劫回帰って……確か人生を何度でも繰り返すっていう考え方だよね?」
「そう」
私は静かに頷く。
「もし、この人生を永遠に繰り返すことになったとしても、それでも『もう一度生きたい』って思える生き方をしよう、っていう問いなんだ」
「……すごいね」
紫陽花さんは息を呑んだ。
「怖い考え方だけど……なんだか強いね」
「残酷だけどね」
私は笑う。
「だからニーチェは『超人』を目指せと言った。他人に与えられた価値観じゃなく、自分自身で価値を作り出して生きろって」
紫陽花さんは私の話を真剣に聞いていた。
「他には?」
「ソクラテスとか、アリストテレスとか」
「名前だけは聞いたことあるけど難しそう」
「そうだねぇ」
私は少し身振りを交えながら話す。
「いきなり本を読むのは重いから、動画の解説から入るのも悪くないかな。でも、それだけで終わらないでほしい」
「どうして?」
「哲学って、人の答えを覚える学問じゃないから」
私は少し熱を帯びた声で続ける。
「他人の解釈を借りるだけじゃなく、自分で考えることが大切なんだよ。『私はどう思うか?』『私は何を信じる?』そこまで行って初めて、自分の哲学になるし、面白さに繋がる」
話している途中で、自分でも熱くなりすぎていることに気づく。
「あ……ごめん」
私は照れくさく笑った。
「オタク特有の早口で語りすぎちゃった」
「ふふ」
すると紫陽花さんは、小さく吹き出した。その笑顔は、昼間よりずっと柔らかかった。
「れなちゃんって、こういう話になると本当に楽しそう。」
私は少し恥ずかしくなる。
「そんな顔するんだね」
「え?」
「普段は落ち着いてるのに、こうやって夢中になって話すれなちゃん……すごく好き。大好き」
その一言に、不思議なくらい胸が温かくなった。
「真唯ちゃんも、こんなれなちゃんは知らないのかな」
その言葉には、小さな独占欲が混じっていた。
私だけが知っている顔。
私だけが見られた表情。
そんな小さな特別が、彼女にとっては嬉しかったのだろう。
私はその気持ちを否定しなかった。
「ありがとう」
そう言って、そっと彼女の手を握る。
「私も、紫陽花さんのことをもっと知りたい」
彼女は嬉しそうに微笑み、小さく頷いた。
冬の夜風が吹き抜ける。
二人の影が街灯の下で静かに重なっていた。少し歩いたところで、紫陽花さんが立ち止まった。
さっきまでの穏やかな空気とは違う。その横顔には、言葉にできない迷いが浮かんでいた。
「……れなちゃん」
「うん」
彼女は制服の袖をぎゅっと握りしめる。
「私……さっき話したこと」
学校のこと。
弟たちのこと。
優しい自分を演じ続けていること。全部を話したあとでも、まだ聞きたいことがあるらしかった。
「れなちゃんは…あの話を聞いて、どう思った?」
私は少しだけ黙った。
軽い言葉では返したくなかった。
「少し厳しいことを言うね」
紫陽花さんは小さく頷いた。
「私はね、紫陽花さんは優しすぎるんじゃない。優しさだけで、自分を縛ってしまっているように見える」
紫陽花さんの肩が震えた。
私は続ける。
「本当は疲れてる。怒りもある。苦しい。なのに全部隠して笑う」
私は彼女の目を見る。
「その状態を続けることは、自分自身への嘘になる。誤解を解く努力をしないまま『私は大丈夫』って振る舞い続けるなら周囲だけじゃなく、自分まで騙すことになる」
私は責めているわけではない。だから声は穏やかであることに気をつけていた。
「そしてもう一つ」
私は静かに言う。
「紫陽花さんは『優しくない自分を見せたら嫌われる』と、そう思い込んでる」
「……うん」
「でも、それは本当にそうなのかな」
彼女は答えられない。
「私には見せてくれたよね。それで私は離れた?」
紫陽花さんは首を横に振る。
「嫌いになった?」
また首を振る。
「じゃあ」
私は柔らかく微笑んだ。
「少なくとも、その思いは絶対ではない」
彼女は小さく息を呑む。
「だから少しだけ試してほしい。」
私は提案する。
「今日は疲れた。今日は無理。今は助けられない」
その一言だけでもいい。
全部背負わなくていい。
「それは逃げじゃない。自分を守ることは正当な権利なんだよ」
紫陽花さんは涙を流しながら聞いていた。
私はさらに続ける。
「誰かを助け続ける人ほど、助けてもらう練習をしなきゃいけない。だから私に頼って。甘えて。弱音を吐いてほしい。私は聞くから」
紫陽花さんはとうとう嗚咽を漏らした。
「……ありがとう。ありがとうね、れなちゃん」
その声は震えていた。
「私……悪い子になってみる」
私は笑った。
「いいね。一緒に悪い子になろう。一緒に怒られよう。一緒に普通の人間になろう」
彼女は涙を拭きながら笑う。
「れなちゃんって、本当に変わってる」
「そう?」
「私の悪いところまで知って、それでも一緒に歩くって言うんだもん」
私は肩をすくめる。
「悪いところじゃないよ。そういう部分も含めて紫陽花さんっていう人間。良い悪いとか、正しい誤ちとかではない。私はそう思ってる」
長い沈黙が流れた。
夜風だけが静かに吹いている。やがて紫陽花さんは、小さく息を吐いた。
「弟に……今日は疲れてるから無理って言ってみる」
「うん」
「クラスでも、全部私が何とかしようとは思わない」
「うん」
「怖いけど……少しずつやってみる」
私は静かに頷いた。
「一緒に歩んで行こう。完璧じゃなくていい。少しずつ、自分を守る練習をしていこう」
紫陽花さんは涙を拭き、ゆっくりと立ち上がる。さっきまで震えていた足は、まだ少し頼りない。
それでも、一歩だけ前へ踏み出した。
「れなちゃん」
「なに?」
「私……れなちゃんのこと、大好き」
私は少し照れながら笑った。
「私も紫陽花さんが大好きだよ」
彼女は嬉しそうに笑う。その笑顔は、昼間の「みんなのための笑顔」ではない。ようやく、自分自身のために浮かべた笑顔だった。
夜の街を歩く私達の影は、重なりはしない。けれど、その距離はもう、最初よりずっと近かった。
誰かの期待に応えるためではなく。自分らしく生きるための一歩を踏み出した少女と、その隣を静かに歩く少女。
冬の夜風は冷たかった。
それでも二人の間には、確かな温もりが残っていた。
関わりが見たいヒロイン
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王塚真唯
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瀬名紫陽花
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琴紗月
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小柳香穂