月曜日の朝。
冷たい空気が校門の前を流れていた。制服を整えながら私は昇降口へ向かう。
隣には紫陽花さん。
昨日までの休日とは違い、学校にはもう「みんなの瀬名紫陽花」が待っている。
「……緊張する?」
私が聞くと、彼女は困ったように笑った。
「うん」
小さく頷く。
「昨日はあんなに『やってみる』って思えたのに……学校が近づくと、急に怖くなってきちゃった」
「当然だよ。昨日決めたことは、十六年間続けてきた習慣を変えるってことだから」
紫陽花さんは少し驚いた顔をした。
「そんなに?」
「そんなに!」
私は笑う。
「一日で変われるなら、誰も苦労しない。」
彼女は少し安心したように笑った。
教室へ入る。
「紫陽花さん! おはよう!」
「ノート貸してくれてありがとー!」
「ねえ聞いて!」
次々と声が飛んでくる。
紫陽花さんは反射的に笑顔を作ろうとした。しかし体が強張っているのがわかった。
小さく息を吸って、トン、と背中を軽く叩く。
「……ごめんね。今日は少し用事があって。あとででもいい?」
教室が一瞬だけ静かになった。
紫陽花さんの足が震えている。
「え? もちろんいいよ?」
「無理しないでね」
あっさり終わった。
「……え?」
拍子抜けした様子だった。
誰も怒らない。
誰も失望しない。
その事実が、逆に信じられなかった。
昼休み。
今度は女子グループが揉めていた。
「だから、それ私じゃないって!」
「でも昨日そう言ったじゃん!」
いつもなら紫陽花さんは戸惑ったまま眺めるだけだった。そして終わった後で二人をフォローするような対応をしていた。
紫陽花さんは今まで全部、そうやってきた。でも昨日、最小限の介入でいい、と告げた。だからこそ、紫陽花さんは深呼吸して、言い争っている二人に近付く。
「二人とも」
優しく声をかけると、二人は振り返った。
「少し落ち着いて話した方がいいと思う。言った言わないのお話は難しいし、これからどうしたら良いか? を二人で考えたほうが良いと思う」
そこまで言って止まる。
終わり。
二人は不思議そうな顔をする。
「え?」
「……以上?」
紫陽花さんは頷く。
「うん。私はどっちが悪いか決められないから。でも、お互い話は聞くべきだと思うし、これから一緒に助け合うお話をしたほうがいいと思う」
そう言って席へ戻った。
二人は少し呆然としていた。
そのあと、二人だけで話し始めた。そして普通に仲直りしていた。
紫陽花さんは目を丸くしていたので、近くに寄る。
「…………」
「どうしたの? 紫陽花さん」
「私……いなくてもよかったんだなって。その事実は少し寂しくて、でも少しだけ安心した」
「そっか、そっかぁ。ままならないね」
「本当にそうだね」
紫陽花さん少し笑う。
私は頷いた。
「寂しいって当然だと思う」
「え?」
「役割を失う感覚だからさ。今まで紫陽花さんは、『必要とされること』で安心してた。だから。その役割を手放した瞬間、一時的に空っぽになる」
紫陽花さんは静かに聞いている。
「でも、その空白は悪いものじゃないと思う。そこに初めて、紫陽花さん自身が入れる」
彼女は少しだけ目を見開いた。
「私自身……」
「うん」
「今までそこには『みんな』しかいなかったから」
長い沈黙。
紫陽花さんはゆっくり笑う。
「不安で、すごく痛いけど、でもすごく大切ってわかる。不思議な感覚」
「脱臼を筋肉で治すみたいなものだからね」
「その例えはずるくない!?」
二人で笑う。
その笑いは昨日より自然だった。少しだけ瀬名紫陽花という少女は、自分のために生きる練習を始めて、一歩前に進んでいた。
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王塚真唯
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