光のれな子 作:あーばれすと
先に9話と9.5話を投稿してしまいました。瀬名紫陽花との会話がある8.9話が挟まります。
本屋の奥まったコーナー、哲学書の棚の前に二人は立っていた。店内の照明は柔らかく暖色で、紙の匂いが静かに漂う。
周囲の喧騒は遠く、ページをめくる音だけが時折響く小さな世界。 紫陽花さんはそっと一冊の児童向け絵本を手に取り、表紙の優しいイラストを撫でながら微笑んだ。
「私、こういうの好きなんだ…⋯子供向けの絵本とか、問題集とか。シンプルで、心がほっとするの。弟たちに読み聞かせるときも、みんなで一緒に解くときも……なんか、安心するなぁ」
彼女の蜂蜜色の瞳が優しく細まる。
私は隣で頷き、自分の手にした分厚い哲学書の背表紙を軽く叩いた。
「わかるよ。私の方は……ライトノベルとか、ゲームのシナリオ集が一番好きかな。あと、哲学も結構読む」
紫陽花さんの目がきょとんと丸くなった。
本屋の奥まったコーナー、哲学書の棚の前で、れな子は一冊の古い思想家のエッセイ集を手に取り、ページをゆっくりめくりながら話し始めた。
照明の柔らかな光が桃色のボブヘアに優しく落ち、紫の瞳が普段より少し熱を帯びている。
紫陽花さんは隣で静かに耳を傾け、蜂蜜色の瞳を輝かせて私の横顔を見つめていた。
「……哲学って、最初は難しく感じるよね。でも、私にとってはすごく大事なものなんだ」
私は本の表紙を触りながら、穏やかだけど確かな声で続ける。
「哲学は『今に至るまでに、どんな議論があって、どんな思考があったのか』を、全部積み重ねて教えてくれるから。古代ギリシャの人が『人間とは何か』『世界はどうやってできてるのか』って悩み始めてから、何千年もかけて……いろんな人が意見をぶつけ合って、時には戦って、時には協力して、それで生まれた考え方が、今の私たちの常識や科学、倫理、全部に繋がってるんだよ」
紫陽花さんは息を呑んで、私の言葉を一つ一つ噛みしめるように頷く。
「たとえば、プラトンの『イデア論』。現実の世界は不完全で、影みたいなものだって言うんだけど……それが、現代の科学や数学の基礎になってる場合があったりする。量子力学とか、AIの倫理とか、全部あの頃の問いが根っこにある。アリストテレスの論理学も、今のコンピュータのプログラミングや法律の論理に直結してることがあるの」
私の声に、静かな熱がこもる。いつも冷静で、少し距離を置くような私が、こんなに言葉を重ねて語る姿に、紫陽花さんの胸が温かくなる(ように見えた)
「それに、哲学はただの過去の話じゃない。 今、私たちが毎日直面する問題――たとえば、『何が正しいことか』『幸せって何?』『AIに倫理はあるの?』――全部、古代から続いてる議論の延長線上にある。だから、哲学を読むと……『あ、私たちの今って、こんなに長い歴史の上に立ってるんだ』って実感できて、世界が少し広くなる気がする。孤独じゃなくなるっていうか……繋がってるって感じる」
紫陽花さんの瞳が、ぱっと明るくなった。
彼女はそっとれな子の袖を掴み、小さな声でつぶやく。
「……れなちゃん……今、すごく……熱いね。こんなに熱く語るれなちゃん、見れて……本当に嬉しい」
頰がぽっと赤くなり、照れくさそうに目を伏せる。
「私は哲学って難しくて、ちょっと取っ付きづらいと思ってた。でも、れなちゃんがこんなに好きなら……私も、もっと知りたくなっちゃった。れな子ちゃんの目が、キラキラしてるの……見てて、胸がドキドキする」
私は本を棚に戻し、紫陽花さんの方を向いて柔らかく微笑んだ。紫の瞳に、静かな喜びが浮かぶ。
「じゃあ、次は一緒に選ぼう。簡単な入門書からでいいよ。紫陽花さんのペースで、ゆっくり読んでいこう。一緒に考える時間、きっと楽しいよ」
紫陽花さんは頷き、れな子の袖を掴んだ指に、少し力を込めた。
「……うん。れなちゃんと一緒なら……何でも、楽しみになれる気がする。もっと、れなちゃんのこと……知りたい」
二人はそのまま、棚の間をゆっくり歩き始めた。ページをめくる音と、小さなささやき声が、この静かなコーナーを、温かく満たしてちた。
私の情熱が、紫陽花さんの心に優しく灯りをともように。
◆
本屋を出た私達二人は、紙袋をそれぞれ片手にショッピングモールの自動ドアを抜けた。
夕方6時を少し回った頃、外はすでに深い藍色の空に変わり、街灯とビルの光ぽつぽつと灯り始めていた。
冷たい風が頰を撫で、吐く息が白くかすかに舞う。ショッピングモールの駐車場脇の歩道は、帰宅途中の人々でほどよい賑わいを見せているが、二人の間には静かな、心地よい余白があった。
紫陽花さんは買ったばかりの薄い哲学入門書の表紙を、指先でそっと撫でながら歩く。腰まで届くベージュのウェーブヘアが風に軽く揺れ、蜂蜜色の瞳が時折れな子の横顔を盗み見る。
彼女の足取りはいつもより少し軽く、さっきの本屋での会話が、心のどこかを温めているようだった。
「……ねえ、れなちゃん」
紫陽花さんが小さな声で切り出す。上目遣いにれな子を見上げ、頰をほんのり赤らめながら。
「どういう哲学が、一番好き? さっきの話、すごく面白くて……もっと知りたくなっちゃった」
私は足を少し緩め、桃色のボブヘアを風に任せて答えを考えるように空を見上げた。紫の瞳に、街灯の光が静かに映る。
「……ニーチェかな。特に『永劫回帰』と『超人思想』が、一番心に響く」
紫陽花さんから小さな驚きの声が漏れる。
「永劫回帰……? 確か同じ人生を、永遠に繰り返すってやつ……? なんか……すごく格好いいね。怖いけど、強い。『この人生を、もう一度繰り返してもいい』って思えるように生きる、みたいな……?」
私は小さく頷き、柔らかく笑った。
「そう。ニーチェは、『もしこの人生が永遠に繰り返されるなら、どう生きるか』って問いを投げかけてくる。それが、すごく残酷で、でも解放的なんだ。だからこそ、『超人』になれって言う。弱さを抱えたまま、自分で価値を創り出して、肯定して生きろって」
紫陽花さんは息を呑んで、私の言葉を一つ一つ噛しめるように聞いていた。彼女は私の洋服の裾を掴む。
「……あとは? 他にも好きな人、いる?」
「ソクラテスとか、アリストテレスとか。やっぱり有名どころはやっぱ強いよ。面白いし、意外と読みやすい部分もある。今なら本を一から読むのは無理でも、動画の解説から入ってもいいかも。YouTubeとかで、短いまとめ動画がいっぱいあるし」
私は少し興奮気味になっていること自覚していた。言葉が自然と速くなる。
「あ、でも気をつけてほしいのは、それで全部だと思わないでほしいんだ。解説動画は入り口でしかないから。ちゃんと、自分で考えて……自分の言葉で感じて……他人の解釈じゃなくて、自分だけの『これだ』を見つけていくのが、哲学の醍醐味だから」
そこで、私はふと口を閉じた。自分の声が少し大きくなっていたことに気づき、頰がほんのり赤くなる。紫の瞳を伏せて、髪を耳にかける仕草をする。
「……あ、ごめん。私、なんか……自分語りみたいになっちゃった」
恥ずかしそうに、私は小さく肩をすくめた。いつも冷静で、少し距離を置くような彼女が、こんなに照れた顔をするのは珍しい。紫陽花さんはくすくすと笑った。
小さな、でも心からの笑い声が、冷たい空気に優しく溶ける。
「ふふ……れなちゃん、可愛い」
紫陽花さんは立ち止まり、れな子の袖を軽く掴んだまま、顔を覗き込む。頰を赤らめながら、でもまっすぐに瞳を合わせて。
「そんな風に、熱く語って……途中で恥ずかしくなっちゃうれなちゃん、すごく好き。真唯ちゃんも、きっとこんなれなちゃん、見たことないよね」
その言葉に、紫陽花さんの胸に小さな優越感が広がったように見える。
王塚真唯が知らない、私の顔。
熱く語り、照れて赤くなる、素の私。
それを、今、自分だけが知っている。
それは、紫陽花さんの中で、どういう価値があるのだろうか?
「……私だけが知ってる、れなちゃんの顔……嬉しいな。もっと、もっと知りたい」
思わず一瞬言葉に詰まり、でもすぐに柔らかく微笑んで、紫陽花の手に自分の手を重ねた。
指を絡めて、温かさを確かめるように。
「……ありがとう。紫陽花さんに、そう言ってもらえると……なんか、安心する。私も、もっと紫陽花さんのこと……知りたいよ」
二人は再び歩き出す。
冷たい風の中、買った本の入った紙袋が、かすかに擦れる音を立てる。街灯の下で、二人の影が長く伸び、寄り添うように重なっていた。
優しく瞬く。
この瞬間、二人の世界は、静かで、温かく、誰にも邪魔されないものだった。
「ねぇ、れなちゃん」
ベージュの長いウェーブヘアが肩に乱れ、黄色い瞳は疲れで曇り、頰に涙の跡が乾き始めている。制服のカーディガンをぎゅっと握りしめ、唇を震わせながら、ようやく声を絞り出した。
「……私が抱える暗い気持ちに対して、どういう風に考えてるの? れなちゃんは何を感じた?」
声は掠れ、ほとんど囁きに近かった。紫陽花さんは目を伏せ、答えを待つのが怖いように肩を縮めた。
私は隣に腰を下ろしたまま、桃色のボブヘアを軽く揺らし、紫の瞳で紫陽花さんを静かに見つめていた。
表情は穏やかで、いつもの優しい顔。でも、その視線は深く、冷静だった。
「自分のことを棚に上げて、偉そうに上から目線で言うね」
私は少しの間を置いて、静かに口を開いた。
「……一言でいうならば、優しさを捨てて、本物の疲れを吐き出すべきだと思った」
紫陽花さんの肩がびくりと震えた。
私は淡々と、しかしはっきりと続けた。
「学校でみんなの潤滑剤になって、家で弟たちの教育を優先して……優しい自分でいなきゃ、愛されないって、自分を縛り続けている」
紫陽花さんの瞳が揺れた。
「そう考えると、なるほど、大変だ。ストレスマックスな環境にいるんだ、紫陽花さんは」
私の声は優しいが、どこか冷たく響いているように感じる。感情の揺らぎはなく、ただ事実を並べるように。
「だけど、あえて言わせてもらうなら。私を更に棚上げにして、厚顔無恥にも言わせてもらうなら……そもそも誤解を解く努力をしないというのは、嘘をついているのと同じなんだよ。紫陽花さんは今、自分に対して嘘をついている。本当は疲れているのに、怒りが溜まっているのに、イラついているのに……それを隠して優しい紫陽花さんでいる」
それがどれだけストレスかわからないが。
「それは、紫陽花さん自身に対する誤解を放置していることだ。誤解を放置したら、もうそれは嘘なんだよ。良い嘘や適切な嘘はある。しかし許される嘘は、ない」
紫陽花さんの息が止まった。私は視線を逸らさず、言葉を重ねた。
「紫陽花さんが『優しくない自分を見せたら、みんな離れていく』と思っているのも、それは紫陽花さんが勝手に作った誤解だ。それを解く努力をしないで、ただ我慢して笑顔を貼り付けているなら……それは、自分が自分自身に嘘をつき続けているということになる」
紫陽花さんの指がカーディガンの袖を強く握りしめた。私の声は静かだが、鋭く刺さるようにする。
「自分を頑張っているけど辛くて苦しい不幸だけど仕方ない、と維持し続けることは怠慢だし、幸せになろうとしないことは卑怯だと思う。紫陽花さんは今、不幸な自分を優しいお姉ちゃんとして正当化してる。疲れてるのに我慢して、怒りを飲み込んで、笑顔で繋げて……それを頑張っているって思ってるんじゃないの? 世間では、そういうのを『何もしていない』って言うのかもしれないね」
現状に不満を持っているのに、改善せず不幸をのままでいるのは、何もしてない。
「不幸なくらいで許されると思わないこと。紫陽花さんの優しい自分が壊れたらみんな離れたり、弟たちが困る、クラスがバラバラになる……そんな幻想に甘んじてるだけで、それは、紫陽花さんが自分の幸せを目指さない言い訳に過ぎない」
紫陽花さんの肩が震え始めた。涙が止まらず、膝に落ち続ける。
「ハッピーエンドを目指すべきだ。紫陽花さん自身が幸せになろうとしないのは、卑怯で卑劣。人生にやり直しはない。今この瞬間、紫陽花さん苦しみを我慢し続けて、心を壊したら、取り返しがつかない」
死んだらゼロだ。優しさは有料でコストを払いすぎて故障したら、それで終わり。過度な努力は非合理的だだし、努力は確かなコンセプトと量と質が両立させられる必要がある。
「みんなのためにって全ての責任を背負うのは、自分の主張をしないように作り上げたただの怠慢の裏返し」
私は少し身を乗り出し、紫陽花さんの目を見つめた。
「少しだけ、甘えを捨ててみよう。人々は一人で勝手に助かるわけじゃない。人々は助け合うことで生きている。一方的に頼られる関係を、私は好まない。だから、まずは私に甘えてほしい」
紫陽花の喉がごくりと鳴った。私はさらに続けた。
「紫陽花さんはみんなを助けている反面、自分を犠牲にしている。みんなの為に自分を切り貼りして他人に優しくしている。それは互助じゃなくて、一方的な依存関係を生んでいる。弟たちも、クラスメイトたちも、紫陽花さんに優しいお姉ちゃんを期待して頼りきりになっているなら……それは、紫陽花さんが許している誤解なんだ。なら、紫陽花さんの手で、紫陽花さんが終わらせないといけない。優しい自分でいないといけないという欺瞞のルールを」
紫陽花さんは顔を伏せ、嗚咽を堪えきれなくなった。小さな泣き声が響く。
私はゆっくり息を吐き、静かに口を開いた。
「都合の良いハッピーエンドなんて、デタラメだと思う。自分が優しければみんな幸せ。そして人柱になる瀬名紫陽花は無限の他者の苦しみを背負うことになる」
紫陽花さんはびくりと震えた。私は言葉を続ける。声は低く、淡々と、しかしはっきりと響く。
「あまりにも都合が良すぎる結末は、認められるわけがない。でも、紫陽花さんが自分で誤解を解き、自分で責任を取って終わらせたなら……そこに、本当の終わりと、新しい始まりがある。新しい自分のスタイルに挑戦できる。優しくない紫陽花さんを曝け出す余地が産まれ、そんな自分を肯定する心の余裕が生まれる」
紫陽花さんの瞳が揺れ、涙が一筋、頰を伝った。私は視線を逸らさず、言葉を重ねた。
「空気を読まない名探偵みたいに、紫陽花さんの嘘を指摘してみた。そして誤解を解くのは、今この瞬間からでいい。私に優しくない紫陽花さんを、見せてよ。私の知識とスキルを集めて、紫陽花さんの心を自由にする事ができる。私は紫陽花さんの感情処理や改善方法を全て教えるけど……そこで思考停止して良いわけではないからね、そこは注意点」
紫陽花さんの指がカーディガンの袖を強く握りしめた。息が浅くなり、喉が小さく鳴る。私は少し間を置いて、静かに続けた。
「ゼロを不足とは言わないように、紫陽花さんが何も持っていないように見えても……それは、標準的な基準に戻っただけだ。そこから、紫陽花さん自身で始めないといけない」
紫陽花さんの肩が落ち、膝に顔を埋めた。嗚咽が漏れそうになるのを、必死に堪えている。
「青春を終わらせて、自分の為に生きていいんだ」
私の声は、後の一言を落とすように静かになった。長い沈黙が包む。
紫陽花さんは顔を上げられず、ただ震えながら涙を流し続けた。れな子は動かず、ただ隣に座ったまま、紫陽花さんの背中を静かに見守っていた
「青春の終わりは、自分で決めるものだと思う。誰かが決めてくれるものじゃない。少しだけ、本当の自分を試してみよう。紫陽花さんの価値が優しさだけじゃなかった証拠を見つけて、作る。心が繋がっていれば十分。辛く苦しい記憶も、後悔する行動も、正しなくても繋がった状態で生きるんだ」
紫陽花さんは静かに息を吐き、最後に言葉を落とした。
「弟に今日は疲れてるから無理って言ってみる。クラスで誰かが不機嫌だったり、困っていても、一歩引いてみて、放置する。最初は痛いし苦しいだろうけど、それが本当の変化だ。リスクを冒して、自分を変える。紫陽花さんは、今のままだと壊れるのが見える。だから自分で立ち上がり、戦えるように。幸せになろうとする努力を、ちゃんと始めてほしいと思う」
長い沈黙が落ちた。紫陽花さんは顔を上げられず、ただ震えながら涙を流し続けた。私は動かず、ただ隣に座ったまま、紫陽花さんの背中を静かに見守っていた。
夜風が窓を軽く叩く音だけが響く。
私達の影は、重なり合うことなく、でも確かに近くにあり、夜の闇の中で静かに息づいていた。
「酷いことを言うね、れなちゃん」
「確かに、その通り。紫陽花さんの性質を解明した。そして紫陽花さんに対して分析の真似事をしてみた。たけど私はそこに評価を下さない」
良い悪い、正義と悪、好き嫌い、優劣。
そんなものはおよびではない。
貴方は貴方であるだけで素晴らしい。そしてそれを前提にどう生きたいか考えて、何を行動するかが大切になる。
「紫陽花さんはそういう人間だと仮定して、私は今の瀬名紫陽花を肯定する。心は共にある。一緒に苦難辛苦を乗り越えよう。私は瀬名紫陽花を見捨てない。紫陽花さんが自らを肯定できるように、一緒に今を歩むよ」
私は、紫陽花さんのことを真っ直ぐ見つめる。
「凄いなぁ。れなちゃんは」
「何が?」
「私の悪い部分を知っているのに、それを直視したうえで一緒に歩むって言ってくれること。すごいよ、本当に」
「そう言ってくれるのはありがたいけどさ」
私はく肩をすくめ、紫陽花さんの目を見据えた。
「私から見ての紫陽花さんはね、典型的な『過剰な共感依存で精神のバランスが崩壊する例そのもの』だよ。紫陽花さんは、精神のバランスを取ろうとして、自分を天秤の片方に、他人の苦痛を全部乗せちゃってる。弟たちも、クラスメイトも、の不機嫌も、全部『自分の優しさで調整しなきゃ』って、無意識に背負い込んでる」
繰り返しになるけどね、と私は続ける。紫陽花さんの肩がびくりと震えた。
私は言葉を続ける。口調は軽いが、目は一切笑っていない。
「でもさ、それって結局、紫陽花さんが『中立』を放棄してるってことなんだよね。紫陽花さんは『みんなが幸せになる方法』を必死に立ち回っているよね。だけど……残念ながら、そんな方法はないよ。誰かが得をすれば、誰かが損をする。それが世界のルール」
紫陽花さんの瞳が揺れ、唇を噛んだ。
「紫陽花さんの今のスタンスは、過剰介入型だ。調整じゃなくて、全部自分で背負って、みんなを『助けよう』としてる。でも、それじゃバランスは取れない。むしろ、紫陽花さん自身が崩壊して、結果的に周りも巻き込む。最悪のパターンだ容易に想像できる」
私は少し身を乗り出し、紫陽花の目をまっすぐ捉えた。
「だから、お勧めのスタンスは。『最小限の調整、中立宣言、主体性委譲』」
私は指を一本立てた。
「まず、最初に中立を宣言する。『私は味方でも敵でもない。ただ、状況を整えるだけ』ってね。紫陽花さんはもう『優しいお姉ちゃん』でいる必要はない。『潤滑剤』でも『天使』でもない。ただの観測者でいい」
二本目の指。
「次に、被害者意識を否定する。弟がわがまま言ってきたら、『それは君の責任だよ』って突き放す。クラスで誰かが不機嫌でも、『それは君たちの問題だ』って一歩引く。甘やかさない。甘やかしたら、相手は成長しない。相手も自分もドロドロの共依存が発生する」
三本目の指。
「そして、最小限の介入だけ。情報提供したり、場を整えたり、選択肢を示したり……それだけ。最終的にどうするかは、相手に委ねる。成功しても失敗しても、紫陽花さんの責任じゃない。君はただ、バランスを崩さないように調整するだけの立場になる」
紫陽花さんの息が止まった。私は静かに息を吐き、最後に言葉を落とした。
「紫陽花さんがこのままだと、いつか本当に壊れるよ。壊れたら、紫陽花さんの優しさはゼロになる。みんなも困る。弟たちも、クラスも、誰も得しない。だから……今すぐ、自身を『中立凡庸のバランサーモード』に切り替える。感情を殺す必要はない。ただ、優先順位を変えるだけさ」
プラスもマイナスめ埋め合わせする。
「己の世界のバランスを維持するために、誰かが中立でいなきゃいけない。紫陽花さんがその役割を引き受けるなら……それは、きっと紫陽花さん自身の救いにもなる気がするんだ」
長い沈黙が落ちた。
表情は穏やかで、優しい顔。でも、その視線は深く、一切の甘さを排した冷静さがあった。
夜風が窓を軽く叩く音だけが響く。紫陽花さんの息が、少しずつ落ち着いていく。私は、ただそこにいた。
言葉を追加せず、急かさず、押しつけず。紫陽花さんが自分で立ち上がるのを、待つだけ。
終わりと始まりの狭間で、紫陽花さんの涙はまだ止まらない。でも、それはもう、一人で抱えるものではなかったのかもしれない。
紫陽花さんを静かに観察していた。表情は穏やかで、残るいつもの優しい顔。でも、その視線は深く、一切の甘さを排した冷静さがあった。紫陽花さんがようやく顔を上げ、掠れた声で呟いた。
「……れなちゃん、私……本当に、ありがとう。ちゃんと言ってくれて。ちゃんと厳しくしてくれて」
彼女は両手で顔を覆い、指の隙間から新しい涙がぽろりと落ちる。でも、今度の涙は違う。痛みではなく、解放されたような、温かなものだった。
私は静かに息を吐き、ゆっくりと口を開いた。声は低く、冗談めかした軽い語尾を少しだけ混ぜながらも、どこか冷徹な響きを帯びていた。
紫陽花さんは顔を伏せ、震えながらもゆっくりと頷いた。涙が膝に落ちるが、今度は静かに。
「……悪い子に、なってみる」
「一緒に不良になろう。一緒に怒られよう。一緒に平凡な人間になろう」
私は想いを込めて言う。
「一緒に足掻いて、みっともなく頑張って、一緒に死のう。大丈夫。怖くない。私は瀬名紫陽花のことが大好きだから、どんな悲しみや絶望があっても、私は手を離さない」
「れなちゃん、私のこと本当に好きなんだね」
「大好きだよ、紫陽花さん」
「私も、大好き。れなちゃん」
彼女はゆっくり立ち上がり、私のを手に取った。背筋はまだ震えていたが、目にはかすかな決意が宿っていた。
関わりが見たいヒロイン
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王塚真唯
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瀬名紫陽花
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琴紗月
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小柳香穂