光のれな子   作:あーばれすと

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9.9

 空は完全に夜の色に変わっていた。街の灯りが遠くで瞬き、風が少し強くなり、私の桃色のボブヘアを軽く乱す。

 

 琴紗月は隣で腕を組み、赤い瞳を夜空に向けていた。

 

 私たちはさっきの哲学の話から、自然と瀬名紫陽花の話題になっていた。

 

 コンクリートは冷たい。

 遠く喧騒が消え、夜の静けさが徐々に濃くなっていく。私は静かに、でもはっきりと口を開いた。

 

「紫陽花さんのこと……もっと深く見ると、精神的にかなり危ういところがあると思う」

 

 琴紗月は少し眉を寄せ、私を横目で見た。

 赤い瞳に、わずかな警戒の色が浮かぶ。

 

「危うい? どういう意味? 瀬名は優しく、人を癒してるイメージしかないけど……」

 

 私は夜風に髪をなびかせながら、ゆっくり言葉を紡いだ。

 

「紫陽花さんは、他者の感情を自分の感情として受け止めてしまう。自他の境界がほとんどないの。弟たちが不機嫌だと、『私がもっと優しくしてあげれば』って自分のせいだと思い込んで自分を責めて、叱る。友達が落ち込んでると、私の優しさが足りなかったって自分を責めて、慰める。そして、それらの解決を自己犠牲。それで疲弊してるのに、『もっと優しくなれるはず』って自分を追い詰める。これは、普通の優しさじゃない。極端な自己犠牲の構造でいつか崩壊するリスクが高い」

 

 琴紗月は小さく息を吐き、視線を落とした。

 

「確かに……瀬名は、いつも笑顔だけど、少し疲れてる時があるわよね。私も、時々気づく。でも、そこまで深刻だとは思ってなかったわ」

 

 私は頷き、言葉を続けた。

 

「彼女の精神の核は、『みんなが幸せなら、私も幸せ』っていう、完全な他者依存の幸福観が構築されている印象がある。自分の喜びを、他者の笑顔に完全に委ねてる。それ自体は美しいんだけど……他者の感情は予測不能で、変わりやすい。誰かが突然不機嫌になったり、離れたり、『紫陽花さんの優しさが要らなくなった』って感じたら、自らの価値が一瞬で揺らぐ。『私が優しくないから』『私が足りないから』って、自分を徹底的に否定し始める可能性が高い。最悪の場合、自己嫌悪が極端になって、うつ的な状態に陥ったり、自分を罰するような行動に出たりするリスクがある」

 

 私は自分のなかの知識を合成して、瀬名紫陽花の精神を分析する。

 

「境界がない人間は、他者の天候に晒されっぱなし。雨が降り続いたら、傘も差さずにずぶ濡れになる。それが、瀬名紫陽花の今の状態」

 

 琴紗月はフェンスに肘をかけ、静かに言った。

 

「そんなに危ないの? 瀬名は。いつもみんなを癒してるのに……壊れるなんて、想像したくないわ」

「癒してるからこそ、危ないんですよ。紫陽花さんは自分の感情を抑圧しすぎてる。怒りや疲れや、弱音をほとんど表に出さない。私にだけ、少し零すようになったけど……それでも、ストレスを限界まで溜め込む性質はそう簡単には変わらない」

 

 溜め込んだ感情は、いつか爆発するか、内側で自分を蝕む。紫陽花さんの優しさは、純粋で、深い。でも、それが彼女自身を削ってる。

 

『優しい自分』が価値のすべてになってるから、必要とされなくなった瞬間、自分を無価値だと感じてしまう。

 それが、一番怖いところだ。私は夜空を見上げる。

 

 彼女のストレスは優しさの源泉であり、同時に、最大の危険性。いつか、彼女の心が折れたら……周囲は『紫陽花がいないと困る』って言うだろうけど、本当は、紫陽花自身が一番困ってる。

 壊れる前に、誰かが自分と他人の境界を教えてあげなきゃいけない。

 

『自分の感情も、大切にしていい』

『自分を優先してもいい』って。

 

 紫陽花さんが、自分を大切にすることを、学べるまで。

 琴紗月は少し考えて、赤い瞳を私に向けた。

 

「……あなた、そうやって私たち見守ってるのね。瀬名の壊れやすさを、ちゃんと理解してる。それでいて、彼女の優しさを、ちゃんと認めている。私には真似できないわ」

 

 私は小さく頷いた。

 

「私がやらなくても、誰かがやる。でも私ができるなら、私がやったほうが良い。だから、他者を想える紫陽花さんの優しさは、本当に素晴らしいと思う。でも、だからこそ同時に、守らなきゃいけない。彼女が、自分を大切にすることを、学べるまで」

 

 風が再び吹き、二人の髪を軽く乱した。夜は、静かで、遠くの街の灯りが、ぼんやりと瞬いている。

 

 私たちは、しばらく黙って、それぞれの思いを胸に抱えながら、夜の訪れを待っていた。

 

 紫陽花の笑顔が、頭の中に浮かぶ。

 あの黄色の瞳が、いつか、本当に安心して輝けるように。

 私は、静かに、そう願っていた。

 暮れの住宅街は、街灯が一つずつ灯り始め、橙色の光がアスファルトに細長い影を落としていた。

 

 風が冷たく、紗月さんの黒髪が肩を撫でるように揺れる。私は桃色のボブヘアを軽く指で払いながら、紗月さんの横を歩いていた。

 

 紗月さんは少し前を歩き、視線を地面に落としたまま、ぽつりと口を開いた。

 

「……最近読んだ本で、好きだったやつがある?」

「さっきしなかった? その話題?」

「うるさい、黙りなさい。それだと私がまるでそれしか話題ないみたいじゃない」

「ないと思いますけど。試しに他に話題デッキから、話題カードをドローしてくださいよ」

「ちっ。私のターン、ドロー。手札ゲームの話題を発動」

「おお、ゲーム。私はFPSゲームを中心にあらゆる媒体のゲームをやってますけど、紗月さんはどうです?」

「……スマホの無料ゲームを少し」

 

 声は低く、いつものように抑揚が少ない。でも、どこか熱を帯びている。

 

「特にアドベンチャーパートに力が入っているゲームとか」

「ああ……セイバーとかシールダーとか出てくる冠位探索するゲームとか」

「ええ、あれは良かったわ。あとは青い記録とか、人間の感情が揺れ動く作品。追い詰められた瞬間に出てくる、あるいは苦境に立たされながら諦めい人の煌めき。そういうのが好き」

 

 彼女は立ち止まり、赤い瞳で私を振り返った。夕陽の残光が瞳に映り、瞳のなかにあるルビーが燃えるように見えた。

 

「私は弱い人間が好きなんだと思う。完璧じゃない、脆い、でも諦めない姿。……王塚真唯みたいに、完璧を装える人じゃなくて、他人から見ても生き急いでいる必死に抗ってる人の方が、眩しく、感動する」

 

 私は小さく頷いた。紗月さんの言葉が、胸の奥に静かに響く。

 

「わかるよ。追い詰められた人間の本性が出てくる瞬間って、確かに美しいよね」

 

 私は歩みを緩め、紗月さんの隣に並び直す。

 

「気分を害してしまったらごめんなさいなんだけど、そういう作品に多い『追い詰められた人間の本性』って、結局、野蛮な部分が多いと思わない? 極限状態なんて、生き残るための本能が主導権を握ってるんだから、利己的で、残酷で、醜い本性が剥き出しになるのは、当たり前じゃない?」

 

 紗月さんは一瞬、目を細めた。赤い瞳が、私をじっと見つめる。

 

「……確かに、そうね」

 

 彼女は小さく息を吐き、同意を示した。声は静かだが、どこか納得した響きがある。

 

「極限状態で、理性が剥がれて、ただの動物みたいになる話、たくさんある。自分さえ生き残ればいいって、他人を蹴落とす。……それが『人間の本性』だって、敵はよく言うわ。本性と本能を同一視している場合が多い」

 

 紗月さんは視線を空に上げ、街灯の光が彼女の横顔を照らす。

 

「でも、私は……それに同意しつつも、違う煌めきも見たい」

 

 彼女の声が、少しだけ低くなる。

 

「同じ苦境に立たされた状況でも、生存本能じゃなくて、自分の意思や、他者への善性を失わない姿。……それが、尊いと思う」

 

 紗月さんは唇を軽く噛み、言葉を続ける。

 

「生き残るためじゃなくて、『人間でいたい』から諦めない。誰かを守るために、自分を犠牲にする。……そんな姿を見ると、胸が熱くなる。野蛮になるのが人類の本能だとしても、それを超えて抗おうとする意志が、ある意味で『人間の尊さ』なんじゃないかって」

 

 私は静かに頷いた。紗月さんの言葉が、私の内側に静かな波紋を広げる。

 

「紗月さんは、そういう煌めきを、自分の中に探してるんだね。作品を通して、自分の価値観を再確認する。本は自分との対話する為のツールというやつ」

 

 紗月さんは小さく笑った。珍しい、かすかな笑み。

 

「……探してる、のかしら。王塚真唯の隣にいる私なんて、ただの支え手で、野蛮にもなれないし、諦めもしない。ただ、淡々と耐えてるだけ。でも……いつか、空に輝く煌めきに手が届くかもって思う」

 

 彼女は視線を私に戻し、赤い瞳に街灯の光が映る。

 

「貴方は? そういう極限状態の人間、どう思う?」

 

 私は少し間を置いて、静かに答えた。

 

「紗月さんの気持ち凄くわかる。ああいうのは本当に素晴らしい。私も、極限状態で野蛮になるのは当たり前だと思う。でも……それを超える意志を見ると、やっぱり、尊いよね。心が少し動く」

 

 紗月さんは小さく息を吐き、歩き出した。

 

「……少し、動くんだ。甘織の心も」

 

 彼女の声は、風に溶けるように小さかった。でも、そこに、ほんのわずかな温かさがあった。二人は、暗くなり始めた道を、ゆっくりと並んで歩き続けた。足音が重なり、時折、風が二人の髪を優しく撫でる。言葉はもう少ない。でも、その沈黙は、決して冷たくなかった。

 

 風が冷たく、紗月の黒髪が肩を撫でるように揺れる。私は桃色のボブヘアを軽く指で払いながら、彼女の少し前を歩く紗月の背中を見ていた。

 紗月さんは足を止め、振り返った。赤い瞳が街灯の光を映し、静かに私を捉える。

 

「……甘織って、世界をデータや現象として捉えて、スキルを意識的に行使する人間よね」

 

 彼女の声は低く、抑揚がほとんどない。いつものように、事実を淡々と並べる口調だ。

 

「私も同じタイプだと思う。感情を優先しない、理性的で、効率を重視する。でも……同じジャンルの私とは、あらゆるものが違う」

 

 紗月さん視線を逸らさず、私をまっすぐ見つめた。

 

「それは、何故かしら?」

 

私は小さく息を吐き、彼女の隣に並び直した。歩みを再開しながら、静かに答える。

 

「紗月さんは、そう思ってるんだね。私も、同じ疑問を抱いてるよ。同じように『感情を後回しにする』のに、紗月さんと私は全然違う」

 

 紗月さんは小さく頷き、言葉を待つように沈黙した。

 

「私の場合、世界は『データ』でしかない。失敗は学び、感情はノイズ、人間関係は影響圏の高品質維持のための最適化プロセス。すべてを『現象』として観測して、長期リターンを最大化するように動く」

 

 私は軽く肩をすくめた。

 

「だから、クラスでみんなの感情を翻訳したり、心理的安全性がある空間を構築したりするのは、ただの『スキル行使』。そこに『好き』とか『嫌い』とか『辛い』はほとんど入らない」

 

 紗月さんは視線を地面に落とし、ゆっくり歩きながら呟いた。

 

「……私の場合は『諦めない』が優先順位の一番上にある。王塚真唯に勝てない現実を、努力で埋めようとする。劣等感も、無力感も、全部燃料にしてる」

 

 彼女の声に、かすかな苦さが混じる。

 

「だから、私の理性的さは『耐えるための道具』なのかしら。感情を抑え込んで、鋼の意志を保つためのもの。……甘織は、違うわよね。甘織は、感情を抑え込むんじゃなくて、最初から『起動させない』」

 

 私は静かに頷いた。

 

「うん。違うんだと思う。私にとっては、感情を起動させるコストが高すぎる。起動したら、エネルギー漏れが起きる。判断が歪む。長期最適化が崩れる。だから、感情は『必要最小限』しか使わない。観測データとして処理するだけ」

 

 紗月さんは小さく息を吐き、赤い瞳を私に向けた。 

 

「……私のは、感情を『抑え込む』ための理性的さ。甘織のは、感情を『排除』するための理性的さ。……だから、同じように見えて、全然違う」 

 

 彼女は唇を軽く噛み、言葉を続ける。

 

「私は、感情を抑えても、どこかで『痛い』って感じてる。王塚真唯の隣にいることが、苦しくても『諦めない』って選択をしてる。でも、甘織は……痛みを感じないのね。『データ』として処理してるだけだから」

 

 私は少し間を置いて、静かに答えた。

 

「感じない、と言ったら嘘になるね。でも、感じても『データ』として記録するだけ。恥や後悔はほとんど湧かない。……それが、私の『最終形態』なんだと思う。戦わない自由を選んで、感情の波を最小限に抑えて、自分のルールだけで生きる」

 

 紗月さんは小さく笑った。珍しい、かすかな自嘲の笑み。 

 

「……羨ましいわね。甘織みたいに、感情を『起動させない』選択ができたら、私ももっと楽なのに。でも、私にはできない。感情を燃料にしないと、歩けない」

 

 私は視線を空に上げ、街灯の光が二人の影を長く伸ばすのを見た。

 

「でも、紗月さんは『人間らしく』見えるよ。私みたいに感情を排除しすぎると、みんなから『機械みたい』って言われる。……紗月さんは、抑え込んでる分だけ、まだ『人間の熱』がある」

 

 紗月さんは足を止め、私を振り返った。赤い瞳に、街灯の光が揺れる。

 

「……熱、か。……それが、私の弱さでもあるのでしょうね」

 

 彼女は小さく息を吐き、再び歩き出した。

 

「甘織と話してると、少しだけ……その違いが、自らの嫌いを知ることができて面白いわ」

 

 私は隣に並び、静かに頷いた。

 

「私も、紗月さんといると、少しだけ『感情を起動させてみる』価値があるかもって、思うことがある。こういう思想論議は好きだから」

 

 私達二人は、暗くなり始めた道を、ゆっくりと並んで歩き続けた。足音が重なり、時折、風が二人の髪を優しく撫でる。

 言葉はもう少ない。でも、その沈黙は、互いの違いを静かに認め合う、穏やかなものだった。

 

 

関わりが見たいヒロイン

  • 王塚真唯
  • 瀬名紫陽花
  • 琴紗月
  • 小柳香穂
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