夕暮れ時の柔らかな光が、校裏の古い桜の木をオレンジ色に染めていた。
太い枝の上に並んで腰掛けた私たちは、およそ女子高生の放課後には似つかわしくない、奇妙な緊迫感の中にいた。
王塚真唯は、まるで眩しいものでも見るような、あるいは見たこともない異質な存在を観察するような目つきで私を見た。
「君の気持ちが分かるとは言わない。しかし……似たような気分になる時がある」
静かに紡がれた言葉に、私は驚きを通り越して妙な納得感を覚えていた。
「なるほど、聞きたい」
「珍しい返答だな。普通は驚くか、あるいは否定すると思うが」
「人間だし、あるでしょ。そういうことくらい」
私のぶっきらぼうな返しに、真唯は小さく目を見開いた後、自嘲気味に口元を綻ばせた。
「……そうだな。私も人間なんだ」
これは私への慰めか、あるいは共感のつもりなのだろうか。
どちらにせよ、王塚真唯が自らの内面、それも弱みに通じる心情を口にするのは極めて珍しいことだった。彼女は常に完璧を演じているし、自らの失態に対して些か過剰に落ち込む悪癖があるのを私は知っている。
彼女の落ち込みは、背負わされた社会的地位に起因する責任感や、「こうあるべき」という理想化された自分と現実とのギャップから生まれるのだろう。
理想と現実の擦り合わせなんて、それこそ国が運営する社会復帰施設で訓練でも受けていない限り、普通の高校生には不可能な芸当だ。あるいは定時制高校で、人生経験の豊富な年上のクラスメイトに揉まれでもすれば別だが……それだって極めて少数派のケースに違いない。
国家資格を持った学校の先生でさえ、「30を過ぎてようやく自分の青臭さを飲み込め、40を過ぎてやっと自分とうまく付き合えるようになる」なんて言っていたくらいなのだ。
それを、まだ10代の高校生でありながら、高い社会的立場から常に高すぎるハードルを飛び越え続けることを求められる彼女が、理想という名の呪いに取り憑かれるのは、仕方のないことだとも思えた。
「私は環境に恵まれている。それに見合う努力も重ねてきた。そこに疑いはない。……だから、みんなが私といて喜んでくれると、純粋に気分が嬉しいんだ」
「それは分かるよ。自分と一緒にいて周りが白けてると凹むしね。楽しんでいてくれると、自分に価値があるように思えるのは自然なことだし」
「ああ、その通りだ。だけど――」
真唯は一度言葉を切り、木々の隙間から見える空を仰いだ。
「だけど、急に寂しくなる時がある。『みんなは、本当の王塚真唯を見てくれているのだろうか?』と」
「本当の自分、か」
「思春期だね」と言いかけて、私は慌ててその言葉を胃の奥に飲み込んだ。
ライトノベルや純文学で使い古されたようなテーマだが、だからこそ普遍的で、世代を問わない不変の精神状態なのだろう。
「となると、現実は逆ってことだよね? 演じている、周囲に合わせているっていう感覚が強いのかな。周りの人間が求める『王塚真唯』を演じている自覚があるから、自分の本当の欲求や願いが無視されているような気持ちになる……とか?」
私がぽつりと分析を口にした瞬間、真唯は弾かれたように目を見開いた。口を半開きにして、全身で驚きを表現している。
どうしたお前。なんかいつにも増して余裕がないキャラになってるけど、それが素なの?
「そ、その通りだ。凄いな、れな子……! まさかこれだけの会話で私の心を読み取るとは。演じている感覚があり、自分が無視されている気がする。君には何か、特別な能力でもあるのではないか?」
「無いですけど」
国の優秀な人材が考え抜いた、至高のカリキュラムで勉強を教えていただいたお陰です。
「でも、そういう風に感じるのは理解できるよ」
「と、いうと?」
「常に完璧を目指す王塚真唯。弱音は吐かず、周囲の期待に応えて、誠実に真っ当に努力する。それが今の王塚真唯の、少なくとも学校での『キャラクター』でしょ?」
「ああ。恵まれた環境に見合う存在でなければならないからな」
彼女の生真面目な横顔を見ながら、私は確信していた。
これは典型的なパターンだ。
完璧主義。
これに尽きる。
完璧超人を目指すのは個人の自由だが、それには「ある程度、現実と折り合いをつけられる人間がやる」という絶対条件が必要だ。
特に「〜しなければならない」「〜するべきだ」という思考が染み付いている人間は、認知が歪みやすい。限界がくれば、真っ逆さまに墜落する。
真唯はスペックも社会的地位も高すぎる。だからこそ、完璧を目指す方向へと全力疾走してしまったのだろうが……いや、無理だって。現実は不条理と理不尽で満ちているのだから。
「私が、弱音を言うのがそんなに変だっただろうか? 失望したか?」
沈黙に耐えかねたのか、真唯が不安そうに上目遣いで覗き込んできた。
「いや? でも言葉は選ばないと傷つけるなーと思って考えてた。……うーん、まぁ、頑張りすぎですかね」
「が、頑張りすぎ?」
腑に落ちない、という顔で真唯が私の言葉を反芻する。
「納得いかない? 頑張りすぎって言葉に」
「そうだな。今までこうしてやってきたからこそ、それが過剰であるという感覚はない」
「そうだよね。それが自信に繋がっている部分もあるから難しいんだよね。――じゃあ逆に、頑張れなかった時のことを考えよう」
ここからは、理屈による発想の逆転だ。
「理屈で考えよう。まず、恵まれた王塚真唯は高い水準で物事を考えます。そしてそれを下回った時に激しく落ち込む。これは自覚あるでしょ? さっきもそうだったし。私のことを勘違いして、あやうく殺しかけた時にかなり凹んでたもんね」
過去の事実を容赦なく例に挙げると、真唯は一瞬で顔を青ざめさせ、「すまない……」とガックリとうなだれた。
「はい、ストップ。今落ち込んだね? この状態こそが、王塚真唯が自らに課した高水準のハードルを下回ったタイミングです」
私はうつむいた真唯の頬を、両手で挟み込んで強引に上を向かせた。
至近距離で、彼女の綺麗な瞳がパチパチと瞬く。視線は逸らさせない。
「そこで王塚真唯は『白黒思考』に陥る。ミスをする自分はダメな奴だ、という強い自己否定が発生して、自分の価値を自分で暴落させる。するとストレスや不安が強くなって、感情のコントロールが難しくなる」
真唯の柔らかい頬に手のひらの熱が伝わるのを感じながら、私は言葉を畳み掛けた。
「それこそが、さっき私に語った『弱音』や『寂しさ』の正体だと、この甘識れな子は愚考します。大元を辿れば、その高水準すぎる価値観が悪さをしているわけ。つまり、高い理想を維持しようと頑張りすぎた結果、失敗した時のダメージを自分で特大にしているんだよ」
頭の良い彼女なら、この理屈の意味を自分で噛み砕いてくれるはずだ。
正しいか正しくないか、専門的な心理学として通っているかなんて、この際どうでもいい。カウンセラーの領域は彼らに任せればいい。
私が今、ここで彼女に伝えたいのは、もっと泥臭くてシンプルなことだった。
私は大きく息を吸い込み、挟み込んでいた真唯の顔を解放して、叫ぶように告げた。
「王塚真唯は頑張っている! それはもう、めちゃくちゃ頑張ってる! 客観的に見て、ドン引きするくらい頑張ってる! だから、休め!!」
「っ……」
「最強無敵完璧超人の王塚真唯を一時的に辞めて、休憩してください! ずっと辞めろって言ってるんじゃない、適度にサボって、自分を労る時間を作ってくださいお願いします! じゃないとマジでメンタル壊すよ!? このままじゃ過労死確定!!」
ぜぇ、はぁ、と息を切らす私。
全力の魂の叫びをぶつけられ、真唯は呆然と私を見つめていたが――やがて、そっと自分の両手を、私の手に重ねてきた。
「なんだか……凄く嬉しいんだ」
「へ?」
「君の言う理屈や言葉は、深い知識のない私には、まだ曖昧にしか理解できていないかもしれない。だけど、それ以上に……君がそこまで私のことを慮ってくれたこと、言葉を尽くしてくれたことが、堪らなく嬉しいんだ」
真唯の表情から、いつもの「完璧な微笑み」が消えていた。代わりに浮かんでいたのは、年相応の、少し泣きそうな、けれど心底安心したような等身大の笑顔だった。
「そ、そっか。なら良かった。真唯とは友達だからね。友達のために全力を尽くせない人間にはなりたくないって思ってるから、想いが届いたなら嬉しいよ」
「ああ、嬉しい。とても、嬉しかったんだよ、れな子――」
感極まった真唯が、不意に私の身体をぎゅっと抱きしめてきた。
「うおっ!? ちょっと待って真唯、ここどこだと思って――」
みしり。
私たちは今、地上数メートルの桜の木の上にいる。真唯の体重とハグの勢いが加わり、座っていた枝が不穏な音を立ててしなった。
「落ちる落ちる! 離して真唯! 友情のハグで二人まとめて転落死はギャグにもならないから!!」
「あ、す、すまない……!」
感動的な空気は一瞬ではじけ飛び、私たちは必死にバランスを取りながら、冷や汗を流して太い幹にしがみつくのだった。
関わりが見たいヒロイン
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王塚真唯
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瀬名紫陽花
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琴紗月
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小柳香穂