光のれな子 作:あーばれすと
夏休みまでもう少し、という時期の教室は、いつもより少しだけ緩んだ空気が流れていた。
窓から差し込む陽光が机の上を明るく照らし、黒板の端に残ったチョークの粉がふわふわと舞っている。
担任の先生が「お子さんが生まれるので、しばらく休職します」と告げた日から、数日が経っていた。教室の後ろでは、数人が集まって、お祝いのお花をどうするか話し合っていた。
王塚真唯は今日は欠席。自然と、瀬名紫陽花がその役割を引き受けていた。琴紗月は論外——クラスメイトとの距離が遠く、誰も彼女に声をかけようとはしなかった。
私は、互助を掲げる立場上「この程度で借りを作りたくない」という心理が働いて、早々に外された。
結果、貧乏くじを引いたのは紫陽花さんだった。私と友達だから、という理由も少なからずあったのだろう。
紫陽花さんは、みんなの視線を一身に受けながら、ベージュの長いウェーブヘアを指でいじっていた。
放課後、教室に残った紫陽花は机に肘をつき、ため息混じりに呟いた。
「お花か……どうしようかな。何を贈るのが良いんだろう。失礼のないようにしないと。どう思う、れなちゃん?」
私はスマホを弄りながら、軽く答えた。
「安い花束でいいんじゃないかな。生徒に高望みしてないでしょ。問題はお金かな」
紫陽花さんは目を丸くして、私を見た。黄色い瞳が少し不安げに揺れる。
「私が考えて、私が用意して、私がお金集めるの……大変かな。手伝ってもらえる?」
私は頷き、すでに調べていた情報をLINEで送った。画面には、安価で派手めの花束の写真。期日も近く、会社の信用度は不明だが、見栄えは悪くない。
「うん、いいよ。これで良いんじゃない?」
紫陽花さんはスマホを覗き込み、小さく頷いた。指先が画面を軽く撫でる。
「うーん、そこら辺は私もわからないから、ここで良いと思う。先生も、みんなも満足してくれると思う。ありがとう、教えてくれて」
私は「調べればすぐに分かるよ」と言おうとして、口を閉じた。
この考えは危険だ。自分が当たり前にできることは他人もできる、と思ってしまうと事故が起こる。何故ならば、私と貴方は違うのだから。
紫陽花さんが不思議そうに首を傾げた。
「れなちゃん?」
私は小さく笑って、誤魔化した。
「うにゃ。友達が多いと大変だね」
安易に面倒事を任されて。紫陽花は少し照れくさそうに笑った。頰が薄く赤らむ。
「はは。まぁ、ね。でも、これはこれで好きだから」
私は肩をすくめた。
「なら、いいか」
翌日、休職する先生にお祝いの花束を渡す日になった。朝のホームルームが終わった後、教室は少しざわついていた。先生が職員室に戻る前に、みんなで渡そうという流れになっていた。
紫陽花さんは花束を抱えて立つ役目だったのだが、顔色明らかに悪い。頰が青白く、黄色い瞳が虚ろに揺れている。
手が微かに震え、ふらふらと。
私はすぐに近づき、小声で聞いた。
「紫陽花さん、大丈夫。それとお花届いた?」
紫陽花さんはびくりと肩を震わせ、慌てて顔を上げた。
「え? あ……」
声が掠れ、言葉が続かない。瞳が泳ぎ、唇が震える。私はすぐに察した。花束は届いていない。いや、届くはずだったのに、何かが起きた。
「場所を変えよう」
私は紫陽花の手を引いて、教室から連れ出した。廊下を抜け、保健室へ向かう。保健医に事情を簡単に説明し、空いているベッドを確保してもらい、紫陽花を座らせた。
保健室の白いカーテンが風に揺れ、消毒液の匂いが静かに漂う。ベッドの端に座った紫陽花は、膝の上で手を握りしめ、俯いていた。肩が小さく上下し、息が乱れている。
「どうしよう。お花がない」
声が震え、涙がぽろりと膝に落ちる。花束を注文したはずが、期日を間違えたり、支払いを忘れたり、何かしらのミスで届いていないようだ。
「あー」
紫陽花さんの頭の中は、パニックでいっぱいだった。
私はベッドの前に膝を折り、紫陽花さんより視界を低くして、彼女の瞳を見上げるような姿勢になった。
桃色のボブヘアが肩に落ち、静かに言った。
「紫陽花さん。今、どういう考えや気持ちになっているか、教えてもらえるかな」
紫陽花さんは目を伏せ、唇を噛んだ。声が小さく、途切れ途切れになる。
「……先生に、喜んでもらいたかったのに……。みんなが『紫陽花さんなら大丈夫』って思ってくれてるのに……。私、頼りにされてるのに……忘れてた。どうしよう……私、だめだ……みんなに申し訳なくて……先生にも、みんなにも……」
彼女の肩が震え、涙が止まらない。指先がスカートの裾を強く握りしめ、白くなる。
「こんなことしたら全部消えちゃう。友達も、みんな。期待外れって。意味がないって。せっかくみんなで頑張って計画したのに」
瀬名紫陽花特有の過度な自責。
全ての責任を自分のせいだと決めつけて、そして破局的な思考へ導いてしまう。後者の方は自ら解決に動くことで相殺しているようだが、今は『詰み』だと感じているのだろう。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう」
保健室の空気は、消毒液と微かな汗の匂いが混じり合って重く淀んでいた。
紫陽花さんは私に抱きついてきた。両腕を渡さの背中に回し、制服の布地を指先で強く、強く掴む。爪が食い込むほどに。震える指が、背骨のラインをなぞるように這う。
顔を埋めた胸の谷間に、熱い吐息が何度も当たる。紫陽花さんの唇が、布越しにれな子の肌に触れそうで触れない距離で震えていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……私、だめで……壊しちゃって……もう、怖くて……」
言葉の合間に小さな嗚咽が漏れるたび、紫陽花の体がれな子に密着する。柔らかい胸が押し潰され、腰が無意識に擦り寄るように動く。
太ももがれな子の脚に絡みつくように寄り添い、熱を分け合う。彼女の髪がれな子の首筋をくすぐり、耳元で掠れた声が繰り返す。
「離さないで……ここにいて……私を、置いてかないで……」
その瞬間、私は自分の瞳が一瞬だけ細くなったのを感じた。
───熱い。紫陽花さんの体温が、服越しに、皮膚に、骨の髄まで染み込んでくる。震える指先が背中を掻きむしる感触。
耳朶を掠める湿った吐息。首筋に落ちる涙の滴が、ゆっくりと鎖骨のくぼみへ滑り落ちていく。
私の喉が、かすかに動いた。下腹部に、じわりと熱が広がる。普段は冷たく抑え込んでいる何かが、紫陽花さんのすがるような力に押されて、ゆっくりと解け始める。
「……紫陽花さん」
声がわずかに低く、掠れた。私は片手で紫陽花さんの後頭部を包み込み、強く抱き寄せた。もう片方の手は、ゆっくりと背中を滑り降り、腰のくびれを掴む。指が布地越しに肉を食い込ませるように力を込めた。
紫陽花さんが小さく「ひっ」と息を呑む。その反応が、れな子の奥で何かをさらに疼かせた。
「───もっと、強く縋っていい」
耳元で囁く声は、穏やかさを装いつつ、どこか獣じみた響きを帯びているのを自覚していた。
「私を、全部使って。泣いても、震えても、全部ここに預けて」
紫陽花さんの体がびくりと跳ね、ますます強く抱きついてくる。爪が背中に食い込み、痛みすら甘く感じる。
唇が、わずかに弧を描くのを抑えられない。誰も見ていないこの狭い空間で、紫陽花さんの怯えと熱が、私内に静かに、深く、火を灯し続けていた。
指をもう一度、ゆっくりと紫陽花さんの腰を撫で下ろす。
───まだ、もっと。まだ、もっと深く縋らせたい。まだ、もっと熱く震えさせたい。
駄目だな、これは欲だ。
私は大きく息を吸って、静かに、優しく手を伸ばし、紫陽花さんの震える手に自分の手を重ねた。
温かさが伝わる。
「紫陽花さんは、いつもみんなの期待に応えようとしてるよね。それが、紫陽花さんの優しさ。でも、忘れたこと自体は、悪いことじゃないよ。人間だもの。忘れることもある。忙しかったり、疲れてたり、他のことで頭がいっぱいだったり……それでいいんだよ」
紫陽花さんは私を見た。黄色い瞳が涙で濡れている。
「……でも、みんなが……先生が……」
「みんなは、紫陽花さんが完璧だと思ってる。優しくて、要領が良いから、王塚真唯のグループにいるから任せれば安心だと誤解している。でも、完璧じゃなくていいんだよ。私たちは友達だもの。忘れたって、間に合わなかったって、それで嫌いになったりしない。紫陽花さんが頑張って生きているのは、私が知っている」
「れ、なちゃん」
「私はこんな事で紫陽花さんを嫌いにならない。見捨てない。失望しない。だから、信じて動くべきだと、私は思う。花束らない。だけど。それに。たぶん」
安心させるように、言う。
「先生だって、生徒が一生懸命考えてくれた気持ちが嬉しいはずだよ。花束がなくても、心は届く」
紫陽花さんの唇が震え、涙がまた一筋落ちた。でも、息が少しずつ落ち着いていく。
「……れなちゃん……」
私は微笑み、紫陽花の頰をそっと拭った。
「今からでも遅くないよ。一緒に考えよう。そして一緒にやろう。先生に何を伝えたくて、何を贈りたかったのか。それを、紫陽花さんの言葉で伝えればいい。花束がなくても、手紙でも、言葉でも、気持ちは届くよ。紫陽花さんの優しさは、花束よりずっと強いから」
紫陽花さんはゆっくりと頷き、震えながらも息を整えた。黄色い瞳に、かすかな決意が戻る。
「……うん……ありがとう、れなちゃん。本当に……ありがとう」
私は立ち上がり、紫陽花さんの手を引いた。
「じゃあ、行こう。先生はまだ職員室にいるはずだよ。紫陽花さんの言葉で、お祝いしよう」
紫陽花さんは立ち上がり、涙の跡を袖で拭った。手はまだ少し震えていたが、私の手を握る力は、確かだった。
「……うん。一緒に、行こう」
二人は保健室を出て、廊下を歩き始めた。夏の陽光が窓から差し込み、二人の影を長く伸ばす。紫陽花さんの足取りはまだ少し頼りなかったが、横にいる私の存在が、彼女を静かに支えていた。
先生やクラスメイトにお花を用意することができなかったと謝罪して、その上で先生に感謝を伝えて、ハッピーエンドで終わった。
『紫陽花さんも忙しいし大変だよね。ああやって失敗を認めて謝ることできるし』
『うんうん、凄く良い子。お金もしっかり返してくれたし』
『甘織さんも凄いよね。紫陽花さんが泣いてるのを励まして、わざわざ一緒に罪を被るんだもん』
『ほんとにそう』
だけど、これは始まりだった。
私や紫陽花さん、紗月さん、真唯、クラスメイト、先生……いや、もっと大きな学校全体を巻き込んだ最悪の事件が起きる始発点。
『で、お花を渡そうって言うだけ言って、全部の面倒事を紫陽花さんに押し付けたの、誰だっけ? それって、無責任だし酷いよね』
『紫陽花さんは許すだろうけど、でも弁えさせるべきだよね、身の程ってやつをさ』
『犯人を探して、罰を与えないと、紫陽花さんも甘織さんも可哀想だ。見つけて、吊るそう』
『そうだ、そうしよう』
『探して、見つけて、罰を与えよう。身の程知らずに鉄槌を』
『あの優しい紫陽花さんを泣かせたやつに、報復を』
関わりが見たいヒロイン
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王塚真唯
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瀬名紫陽花
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琴紗月
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小柳香穂