光のれな子   作:あーばれすと

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 夏休みまでもう少しという時期の学校は、いつもより少しだけ緩んだ空気が流れていた。廊下の窓から差し込む陽光が床に長い影を落とし、遠くのグラウンドから野球部の掛け声がかすかに聞こえてくる。

 

 私と紫陽花さんは、ゆっくりと廊下を歩いていた。

 

 紫陽花さんのベージュの長いウェーブヘアが歩くたびに軽く揺れ、黄色い瞳が少し輝いている。紫陽花さんがふと口を開いた。

 

「れなちゃんに勧められた『推しの子』ってアニメ、凄く面白かったよ」

 

 私は微笑んだ。

 

「ホント? 良かった。ある意味でヘビィな話だから、紫陽花さんは苦手かなと思ったけど」

 

 紫陽花さんは頰を少し赤らめて、首を振った。

 

「確かにそうかも。でも、アイドルになりたいってお母さんの夢に突き進む姿は格好良かったな。ビジュアルならピンク髪のグラビアアイドルさんとかも好き」

 

 私はくすっと笑った。

 

「母親の夢を受け継ぐ……熱いよねぇ。そしてピンク髪? これは間接的な告白かな。ありがとう。こちらこそよろしくお願いします。幸せにします」

 

 紫陽花さんは顔を真っ赤にして、手をぶんぶん振った。

 

「ち、違うよ! そんな意味じゃ……!」

 

 私は肩をすくめて、軽く続けた。

 

「どちらかといえば、紗月さんが好む内容ではあるだろうね。人の感情をダイレクトに動かしつつ、家族を失う恐怖と復讐を狙いつつ社会の壁に対して頑張る主人公の姿は、胸を打つ」

 

 紫陽花さんは少し考えて、頷いた。

 

「うん、わかるかも……」

 

 私は話題を変えた。

 

「推しの子繋がりで、私は『汚い推しの子』とか言われている作品読んだけど、面白かった」

 

 紫陽花さんが目を丸くした。

 

「き、汚い推しの子? なんで?」

「設定的に似てる作品なんだよ。平成のアイドルブームで惨敗して30歳になった人生ガタガタの喪女達が頑張る話でさ。枕営業を深掘りしたり、コンプライアンスの変化についていけず、自分は仕事できると勘違いしたまま偉そうにして嫌われている過去の亡霊と呼ばれる人がいたり」

 

 紫陽花さんは少し顔を曇らせた。

 

「それは重い話だねぇ」

「純粋に漫画としての完成度も高くて。名セリフも多くてさ。『平成惨敗兵、されど百戦錬磨』とか、『欺瞞だ』に対して『違う、覚悟だ』とか、熱い」

 

 紫陽花さんはくすっと笑った。

 

「台詞回しがチビ達見てる少年漫画みたい。呪術で戦ったり、死神さんが戦ったりするやつみたいな」

「その傾向はあるね。あ、あと高校生のバイトくんを雇って働かせるシーンがあるんだけど、情熱があり有能で頑張り屋だから判断を見誤って過労で倒れちゃうんだよ」

 

 紫陽花さんは眉を寄せた。

 

「それは大人としてよろしくないね」

「そうそう。それで責任者の人がさ、『見誤った、ごめんなさい、と謝る』『仕事はチームでやってるし、あなたの仕事は引き継ぐが、君の評価と責任は残る』『大人と子供の線引きをして、一旦休ませたあと学生としての立場に戻す』っていう最高に格好良い人で……」

 

 その時、下の階から水の音が聞こえた。廊下の死角、階段の陰になるような暗い場所。視線を向けると、制服姿の女の子がずぶ濡れで立っていた。

 

 周りを複数の女子生徒に囲まれ、髪を引っ張られ、肩を押され、暴行を受けている。バケツの水が床に広がり、彼女の制服がびしょ濡れだ。

 

 私はそれを見て、怠い、と思った。関わりたくない。紫陽花さんとの楽しい会話と気分が台無しだった。しかし、いじめられた被害者として、傍観者に徹する選択肢は存在しない。何故なら人命に関わるからだ。

 

 紫陽花さんは現場を目視して、息を飲んだ。

 

「あれは!! だめっ!!」

「紫陽花さん、ちょっ——」

 

 紫陽花さんは駆け出した。私は追いかけたが、すぐに踵を返し、方向転換、職員室へ急いだ。

 

 先生を連れて現場へ戻る。階段の下、暗い死角。被害者の女の子は壁に背を押し付けられ、震えていた。

 紫陽花さんは彼女の前に立ち、加害者たちを睨みつけている。加害者たちは逃げずに残っていた。

 

 階段の下は、いつもより深く暗かった。蛍光灯のひとつが切れかけていて、薄い青白い光が点滅するたび、壁のひび割れがゆっくりと息をしているように見えた。

 

 空気は湿っていて、どこか古いコンクリートの匂いと、誰かが落とした飴の甘ったるい残り香が混じり合っていた。

 

 そこに、紫陽花さんは立っていた。背筋を伸ばし、両手を軽く握りしめて。

 彼女の前には、壁に背中を押しつけられたまま震える少女がいて、その周りを五、六人の影が取り囲んでいる。誰も動こうとしなかった。誰も、目を逸らそうとしなかった。

 

「貴方たち、何してるの……?」

 

 紫陽花さんの声は、最初は静かだった。まるで、夜の海に石を落としたときの、最初の小さな波紋のように。

 

「みんな、何をしたか、分かってるの……? どうしてこんな事を。そういうのは駄目だよ」

 

 一人の少年が、ゆっくりと顔を上げた。目が冷たく、光を反射して鈍く光った。

 

「どうして?」

 

 紫陽花さ?は一瞬、言葉を失った。喉が詰まったように、息が浅くなった。

 

「え……?」

「どうしてその子を庇うの?  紫陽花さんに花を用意できなかった責任を押し付けたのに」

 

 その言葉が落ちた瞬間、紫陽花さんの顔から血の気が引いていった。頬が、まるで誰かに白い絵の具を塗られたように青ざめていく。彼女の瞳が揺れた。大きく、ゆっくりと。

 

 自分が間違えたこと。

 自分が忘れていたこと。

 家族のことで頭がいっぱいで、お花のことを後回しにしてしまったこと。

 それを、彼女は自分で認めていた。自分で、胸の奥に刻んでいた。なのに今、目の前で、それがまるでなかったことのように扱われている。

 

「違う……違うよ……」

 

 彼女の声は小さく、震えていた。

 

「あれは、私が……私がミスをしたんだよ。私が、家族の面倒を見てて……忙しくて……お花のこと、忘れちゃって……」

 

 言葉が途切れ途切れになる。喉の奥に何かが引っかかっているみたいに。彼女は自分の両手を、ぎゅっと握りしめた。爪が掌に食い込むほどに。

 

 自分が悪いのに。自分が原因なのに。どうして、みんなが自分を庇うのだろう。どうして、自分を被害者みたいに扱うのだろう。

 周りの空気が、急に変わった。

 

「なんて酷い……」

「そんな子、気にしちゃ駄目だよ、紫陽花さん」

「お花に関しては完全に紫陽花さんが被害者だよ」

「瀬名さんのこと、ずっと信じてるから」

「先生にお礼を言えたのって、紫陽花さんが勇気を出したからでしょ」

「無理しないで……本当に、無理しないで」

「紫陽花さんにこんなこと言わせるなんて、許せないよ」

 

 言葉が、次から次へと降り注いだ。誰もが同じ方向を向いていた。

 誰もが、同じ物語を信じていた。紫陽花はいつも優しくて、いつも誰かのために動いて、いつも笑顔でいてくれた。だから、彼女が間違えるはずがない。

 彼女が悪いはずがない。そう信じている。信じたくて、信じている。

 紫陽花さんは、ただ立ち尽くしていた。

 みんなの声が、耳の奥で反響する。温かいはずの言葉が、なぜか重い。重すぎて、胸が潰れそうになる。

 

「待って……違う……」

 

 彼女は小さく呟く。

 

「そうじゃない……私が……私が悪いのに……」

 

 呂律が回らない。言葉が、唇の端で崩れ落ちる。彼女の視界が、ぼやけ始めた。涙ではない。ただ、何かが曇っている。自分が悪いはずなのに、みんなが自分を庇う。自分が悪いはずなのに、みんなが自分を聖女のように扱う。

 自分が悪いはずなのに――。

 そのとき、壁に背中を押しつけていた少女が、震える声で叫んだ。

 

「一緒にお花を渡そうって……一緒に頑張ってたのに……!  失敗した責任、全部私のせいにされて……! 流石に、あんまりだよ!!」

 

 少女の声は、鋭かった。鋭すぎて、空気が裂けた。彼女の目は赤く腫れていて、頬にはまだ涙の跡が残っていた。なのに、その瞳は燃えていた。

 怒りと、悔しさと、ずっと溜め込んできた何かで。

 

「容姿も、頭脳も、人脈も……全部持ってる。いつでも誰かに庇ってもらえて……羨ましい。本当に、羨ましい。優しいだけの風見鶏が!!」

 

 その一言で、群衆の空気が一変した。まるで、誰かがスイッチを切り替えたように。

 温かかった視線が、冷たく尖った。

 言葉が、矢のように少女に向かって放たれた。

 

「何言ってんの?」

「自分が悪いのに、紫陽花さんのせいにするなんて最低」

「紫陽花さんがどれだけ我慢してたか、分かってるの?」

「被害者ぶってるけど、結局自分がサボったんでしょ」

「紫陽花さんを傷つけるなんて、ありえない」

「もう、黙っててよ」

 

 少女は、ただそこに立っていた。

 肩を震わせて、唇を噛んで。誰も彼女の言葉を、受け止めようとしなかった。誰も、彼女の痛みを、想像しようとしなかった。

 彼女は、ただの「悪い子」になった。

 紫陽花さんを傷つけた「悪い子」に。

 私は、階段の少し上の段に立ったまま、すべてを見ていた。

 小さく、息を吐いた。

 

「重いなぁ……」

 

 本当に、重かった。

 紫陽花さんの混乱。

 少女の絶望。

 そして、盲目的に紫陽花さんだけを擁護し続ける、群衆の優しさ。

 

 それは優しさだった。でも、同時に、残酷だった。誰もが、紫陽花を救おうとして、誰かを切り捨てていた。

 誰もが、正義の側に立っているつもりで、誰かを踏みつけていた。

 私は、ゆっくりと階段を降りた。

 

「はい、みんな。クールダウンしよう」

 

 声は静かだった。でも、届いた。

 

「ゲームでも、勝てない相手に勝つときは、寝るのが一番だからね」

 

 誰もが、少しだけ息をついた。少女は、誰かに肩を抱かれて医務室へ向かう。加害者たちは、先生に連れられて職員室へ。そして紫陽花は――私の隣に、立っていた。

 

 私は、彼女の手を握った。

 指は、氷のように冷たかった。細かく、震えていた。階段を上りながら、彼女は小さく呟いた。

 

 「……私が、悪いのに……」

 

 私は、何も答えなかった。ただ、握った手を、もう少し強く握り返した。

 空は、灰色に染まっていた。

 どこまでも、重い灰色だった。

 

 

関わりが見たいヒロイン

  • 王塚真唯
  • 瀬名紫陽花
  • 琴紗月
  • 小柳香穂
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