光のれな子 作:あーばれすと
私の部屋。
紗月さんは部屋の隅に立ち、黒髪を背中に流したまま、赤い瞳で私を見ている。
「……紗月さん。今から、私、紫陽花さんは今何考えてるのかな」
紗月さんは小さく頷いた。
「……意味がないわ。本人にしか分からない。少なくとも想像や妄想で理解した気になるより、直接会って話した時の感覚を重要視するべきだと思うけど」
「そう、だよねぇ。そうなんだけどさ。少しブルー」
「甘織でもなるのね。そこはデータとして割り切るのが貴方でしょ」
「周りに引き摺られた。自分のメンタルが疲弊していると自覚してるだけマシかな。寝れば良いんだろうけど」
「なら寝なさい。私が最後まで見ていてあげる」
「ありがとう、愛している」
「そう。私は微妙よ。でも友達の義理は果たすわ」
私は頷き、目を閉じた。両手を膝の上に置き、ゆっくりと呼吸を整える。心拍を意識的に落とし、意識の端をぼやけさせる。
……紫陽花さん、今、どういう気持ちなんだろう。心の湖に、彼女の影がゆっくりと沈んでいく。ベージュの長いウェーブヘアが、水面に広がる波紋のように揺れ、黄色い瞳が、涙という雨粒を湛えて曇っている。
肩は細く震え、指先はスカートの裾を握りしめて、白く、痛々しく。
……先生に喜んでもらいたかった。みんなが『紫陽花なら大丈夫』って、優しい期待の花を差し出してくれた。なのに、【私/紫陽花】はその花を、うっかり踏みつけてしまった。
家族の影に埋もれて、お花の約束を、風に飛ばしてしまった。胸の奥に、黒い棘が刺さる。
罪悪感が、静かな毒のように広がっていく。棘は深く、深く、息をするたびに心臓を抉る。
……罪もない子が、あんな目に遭った。
ずぶ濡れの制服、髪を引っ張られる痛み、囲まれる孤独。すべて、【私/紫陽花】の忘却が撒いた種だ。
【私/紫陽花】のせいなのに……みんなは、【私/紫陽花】を庇う。
『紫陽花さんは悪くない』
『紫陽花さんは被害者』と、柔らかな羽根で【私/紫陽花】を包み込む。でも、その羽根は息苦しい。羽根の下で、【私/紫陽花】は息を詰まらせている。
【私/紫陽花】のミスを、みんなが隠そうとする。被害者の痛みを、【私/紫陽花】のせいだと認めたら、みんなの『優しい瀬名紫陽花』が崩れてしまうから。
……嫌われたくない。みんなに必要とされたい。優しい【私/紫陽花】でいなきゃ、誰も見てくれない。
……でも、本当は……もう、疲れた。
優しく笑う仮面が、重い。仮面の下の【私/紫陽花】は、泣きたい。叫びたい。
【私/紫陽花】が悪いって、叫びたい。でも、叫んだら……みんなの羽根が剥がれ、冷たい風が吹き込んでくる。
みんな離れていく。
『紫陽花さんらしくない』って、失望の目で見られる。涙が、瞼の裏に溜まる。
鉛の感情が、雪のように降り積もる。冷たく、静かに、重く。
……罪なき被害者の目が、恨んでいる。
『優しいだけの風見鶏』——あの言葉は、胸に突き刺さった棘より鋭い。
【私/紫陽花】は風見鶏だ。みんなの気持ちに合わせて、優しく揺れているだけ。本当の私は……何も決められない。
弱いだけ。
偽物だ。
体が震え始めた。
肩が前かがみになり、両手で顔を覆う。
嗚咽が喉から漏れ出す。小さな、切ない、鳥の鳴き声のような。
……【私/紫陽花】は偽物だ。みんなが思う『優しい瀬名紫陽花』は、偽物だ。でも、それを捨てられない。
捨てたら、何も残らない。みんなが好きになってくれるのは、『優しい瀬名紫陽花』だけ。
本当の【私/紫陽花】、ミスした【私/紫陽花】、弱い【私/紫陽花】、疲れた【私/紫陽花】を見たら……嫌われる。
呼吸が乱れ、胸が激しく上下する。涙が頰を伝い、膝に落ちる。膝が震え、ベッドが小さく軋む。
……傷つけた子に謝りたい。でも、謝ったら……みんなが『紫陽花さんは悪くない』って言うのを、否定しなきゃいけない。
……それが怖い。みんなの期待を裏切るのが、怖い。……私、みんなに嫌われたくない……でも、このままじゃ……被害者の痛みが、【私/紫陽花】のせいで残ったままになる。
胸が締め付けられ、息が苦しい。心臓が耳元で鳴り響く。涙が止まらず、膝がびしょ濡れになる。
……【私/紫陽花】は何もできない。優しいだけじゃ、何も変えられない……でも、優しくない私なんて……いらない。
みんなの羽根の下で、息ができない……でも、羽根を剥がしたら……私は、裸で、冷たい風に震えるだけ。
体が大きく前かがみになり、両手で頭を抱える。嗚咽が大きくなり、肩が激しく震える。
みんなの『優しさ』が、【私/紫陽花】の一番深く傷つけてる。逃げられない。優しいままでいなきゃいけない。……でも、もう……息が、できない……。
「起きなさい」
その瞬間、紗月さんの手が私の肩に強く置かれた。
「……甘織。息をして」
赤い瞳が、私をまっすぐ見つめている。声は低く、しかし確かだ。私はゆっくりと目を開けた。頰に涙の跡が残り、息が荒い。体がまだ震えている。膝が濡れ、両手が冷たい。
胸の奥に、夢の痛みが、棘のように残っている。
「……ありがとう、紗月さん。魘されてた?」
紗月さんは無言で頷き、私の隣に座った。彼女の手が、私の背中を軽く叩く。
カーテンが揺れ、陽光が二人の影を長く伸ばす。私は深く息を吐き、静かに呟いた。
「……紫陽花さん、今……すごく、苦しいだろうなぁ。みんなの『優しさ』が、彼女を一番深く傷つけてる。誤解された自分を捨てられない。優しい自分の否定になるから」
紗月さんは黙って、私の肩に手を置いた。
「……彼女は、自分を許せないと思うわ。周りが許させないでしょうし」
私は頷き、涙を拭った。
「なら、私が罰を与えたら楽になるかな」
「甘織?」
「紫陽花さんは優しさで苦しんでいる。なら、反対に罰を与えて、それを乗り越えて赦すとすれば、きっと」
「罰を与え、罪を償い、そして赦す。甘織、いつから貴方は聖職者になったの?」
「冗談だよ、本気にしないで」
私は大きく息を吐く。
「今日は付き合ってくれてありがとう。帰っても大丈夫だよ。ごめんね、付き合わせて」
「甘織……」
「心配しなくても、大丈夫。それよりも帰り道。暗くなって襲われて死にました、なんて嫌だよ」
「ストーカーに精肉機械でミンチにさせられたりね。しかもその後、幼馴染枠は体育館の事故で潰れたり」
「私に平行世界で異星起源種と戦えって?」
「ええ、ロボットに乗ってね。好きでしょ? ロボットと怪物の戦争」
「お断りです」
軽口を叩いて、紗月さんは帰宅した。
私はベットに座り込み、ぼーっとしていた。すると電話がかかってくる。
紗月さんの忘れ物だろうか?
「って、紫陽花さん!? もしもし甘織です!」
『あ、れなちゃん? ごめんね、いきなり電話しちゃって』
「大丈夫だよ、どうしたの?」
『少し声が聞きたくて』
「そっかそっか。なら雑談でもする? 話題は……旅行に行くならどこがいいか、とか」
『ふふ、それも良いね。ねぇ、れなちゃん。私はれなちゃんに感謝しているんだ。もしこれが、私がもう……ちゃんと伝えられなくなる最後の機会だったら、って思うと、胸がすごく苦しくて。でも、だからこそ、ちゃんと伝えたい』
なんだ?
『今まで、ずっと……私の弱いところも、みっともないところも、全部、受け止めてくれてありがとう。そして厳しく指摘してくれてありがとう。私が優しくないとダメって自分を縛って、笑顔の裏で息が詰まりそうだったときも、貴方は決して優しいって言わなくて。ただ静かに労って、そして優しさを否定する言葉を言ってくれ。その一言で、私は初めて……優しくなくても、ここにいてもいいのかなって、思えた』
なんだ、この、嫌な感じ。首筋がゾワゾワして、お腹が痛くなる。吐き気を感じさせたヒリついた不安な感じ。
『弟たちにイラついて、自分が最低だって泣きそうになった夜も、誰にも言えなくて、ひとりで抱え込んでた気持ちを、貴方にだけ、ぽつぽつ零したら……普通のことだと穏やかに笑ってくれた。あの瞬間、私、すごく……救われた』
この気配。知っている。追い詰められた人間特有の身辺整理。
『自分が、嫌な気持ちを抱いても初めて許せた気がした。れなちゃんがいてくれたから、私は少しだけ、本当の自分でいられた。少しだけ、息ができた。少しだけ、自分を嫌いにならずにいられた。……本当に、本当に、ありがとう。れなちゃんに出会えてよかった。こんなに優しく、こんなに深く、見てもらえたこと……私の人生で、一番の大切な宝物。もし私が、もうここにいられなくなっても……れなさんのこと、ずっと、ずっと忘れない』
待て、待て、待て、許さないぞ、許さないぞそんなこと。
『だから、どうか……これからも、誰かのそばで、そうやって静かに、でも確かに、その人をそのままでいいって、思わせてあげてください。大好きでした。本当にありがとう。出会ってくれてありがとう』
私は大声で叫ぶ。
「待って!!!!!!!! 電話を切らないで!!」
『さようなら』
通話は切れた。
私は即座に家から出て、瀬名紫陽花の家へ向かった。
関わりが見たいヒロイン
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王塚真唯
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瀬名紫陽花
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琴紗月
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小柳香穂