光のれな子   作:あーばれすと

28 / 35
20

 私の部屋。

 紗月さんは部屋の隅に立ち、黒髪を背中に流したまま、赤い瞳で私を見ている。

 

「……紗月さん。今から、私、紫陽花さんは今何考えてるのかな」

 

 紗月さんは小さく頷いた。

 

「……意味がないわ。本人にしか分からない。少なくとも想像や妄想で理解した気になるより、直接会って話した時の感覚を重要視するべきだと思うけど」

「そう、だよねぇ。そうなんだけどさ。少しブルー」

「甘織でもなるのね。そこはデータとして割り切るのが貴方でしょ」

「周りに引き摺られた。自分のメンタルが疲弊していると自覚してるだけマシかな。寝れば良いんだろうけど」

「なら寝なさい。私が最後まで見ていてあげる」

「ありがとう、愛している」

「そう。私は微妙よ。でも友達の義理は果たすわ」

 

 私は頷き、目を閉じた。両手を膝の上に置き、ゆっくりと呼吸を整える。心拍を意識的に落とし、意識の端をぼやけさせる。

 

 ……紫陽花さん、今、どういう気持ちなんだろう。心の湖に、彼女の影がゆっくりと沈んでいく。ベージュの長いウェーブヘアが、水面に広がる波紋のように揺れ、黄色い瞳が、涙という雨粒を湛えて曇っている。

 

 肩は細く震え、指先はスカートの裾を握りしめて、白く、痛々しく。

 

 ……先生に喜んでもらいたかった。みんなが『紫陽花なら大丈夫』って、優しい期待の花を差し出してくれた。なのに、【私/紫陽花】はその花を、うっかり踏みつけてしまった。

 

 家族の影に埋もれて、お花の約束を、風に飛ばしてしまった。胸の奥に、黒い棘が刺さる。

 

 罪悪感が、静かな毒のように広がっていく。棘は深く、深く、息をするたびに心臓を抉る。

 

 ……罪もない子が、あんな目に遭った。

 ずぶ濡れの制服、髪を引っ張られる痛み、囲まれる孤独。すべて、【私/紫陽花】の忘却が撒いた種だ。

 

 【私/紫陽花】のせいなのに……みんなは、【私/紫陽花】を庇う。

 

 『紫陽花さんは悪くない』

 『紫陽花さんは被害者』と、柔らかな羽根で【私/紫陽花】を包み込む。でも、その羽根は息苦しい。羽根の下で、【私/紫陽花】は息を詰まらせている。

 

 【私/紫陽花】のミスを、みんなが隠そうとする。被害者の痛みを、【私/紫陽花】のせいだと認めたら、みんなの『優しい瀬名紫陽花』が崩れてしまうから。

 

 ……嫌われたくない。みんなに必要とされたい。優しい【私/紫陽花】でいなきゃ、誰も見てくれない。

 

 ……でも、本当は……もう、疲れた。

 優しく笑う仮面が、重い。仮面の下の【私/紫陽花】は、泣きたい。叫びたい。

 

 【私/紫陽花】が悪いって、叫びたい。でも、叫んだら……みんなの羽根が剥がれ、冷たい風が吹き込んでくる。

 みんな離れていく。

 『紫陽花さんらしくない』って、失望の目で見られる。涙が、瞼の裏に溜まる。

 

 鉛の感情が、雪のように降り積もる。冷たく、静かに、重く。

 ……罪なき被害者の目が、恨んでいる。

 

 『優しいだけの風見鶏』——あの言葉は、胸に突き刺さった棘より鋭い。

 【私/紫陽花】は風見鶏だ。みんなの気持ちに合わせて、優しく揺れているだけ。本当の私は……何も決められない。

 弱いだけ。

 偽物だ。

 体が震え始めた。

 肩が前かがみになり、両手で顔を覆う。

 嗚咽が喉から漏れ出す。小さな、切ない、鳥の鳴き声のような。

 

 ……【私/紫陽花】は偽物だ。みんなが思う『優しい瀬名紫陽花』は、偽物だ。でも、それを捨てられない。

 捨てたら、何も残らない。みんなが好きになってくれるのは、『優しい瀬名紫陽花』だけ。

 本当の【私/紫陽花】、ミスした【私/紫陽花】、弱い【私/紫陽花】、疲れた【私/紫陽花】を見たら……嫌われる。

 

 呼吸が乱れ、胸が激しく上下する。涙が頰を伝い、膝に落ちる。膝が震え、ベッドが小さく軋む。

 

 ……傷つけた子に謝りたい。でも、謝ったら……みんなが『紫陽花さんは悪くない』って言うのを、否定しなきゃいけない。

 

 ……それが怖い。みんなの期待を裏切るのが、怖い。……私、みんなに嫌われたくない……でも、このままじゃ……被害者の痛みが、【私/紫陽花】のせいで残ったままになる。

 

 胸が締め付けられ、息が苦しい。心臓が耳元で鳴り響く。涙が止まらず、膝がびしょ濡れになる。

 ……【私/紫陽花】は何もできない。優しいだけじゃ、何も変えられない……でも、優しくない私なんて……いらない。

 みんなの羽根の下で、息ができない……でも、羽根を剥がしたら……私は、裸で、冷たい風に震えるだけ。

 

 体が大きく前かがみになり、両手で頭を抱える。嗚咽が大きくなり、肩が激しく震える。

 

 みんなの『優しさ』が、【私/紫陽花】の一番深く傷つけてる。逃げられない。優しいままでいなきゃいけない。……でも、もう……息が、できない……。

 

「起きなさい」

 

 その瞬間、紗月さんの手が私の肩に強く置かれた。

 

「……甘織。息をして」

 

 赤い瞳が、私をまっすぐ見つめている。声は低く、しかし確かだ。私はゆっくりと目を開けた。頰に涙の跡が残り、息が荒い。体がまだ震えている。膝が濡れ、両手が冷たい。

 

 胸の奥に、夢の痛みが、棘のように残っている。

 

「……ありがとう、紗月さん。魘されてた?」

 

 紗月さんは無言で頷き、私の隣に座った。彼女の手が、私の背中を軽く叩く。

 カーテンが揺れ、陽光が二人の影を長く伸ばす。私は深く息を吐き、静かに呟いた。

 

「……紫陽花さん、今……すごく、苦しいだろうなぁ。みんなの『優しさ』が、彼女を一番深く傷つけてる。誤解された自分を捨てられない。優しい自分の否定になるから」

 

 紗月さんは黙って、私の肩に手を置いた。

 

「……彼女は、自分を許せないと思うわ。周りが許させないでしょうし」

 

 私は頷き、涙を拭った。

 

「なら、私が罰を与えたら楽になるかな」

「甘織?」

「紫陽花さんは優しさで苦しんでいる。なら、反対に罰を与えて、それを乗り越えて赦すとすれば、きっと」

「罰を与え、罪を償い、そして赦す。甘織、いつから貴方は聖職者になったの?」

「冗談だよ、本気にしないで」

 

 私は大きく息を吐く。

 

「今日は付き合ってくれてありがとう。帰っても大丈夫だよ。ごめんね、付き合わせて」

「甘織……」

「心配しなくても、大丈夫。それよりも帰り道。暗くなって襲われて死にました、なんて嫌だよ」

「ストーカーに精肉機械でミンチにさせられたりね。しかもその後、幼馴染枠は体育館の事故で潰れたり」

「私に平行世界で異星起源種と戦えって?」

「ええ、ロボットに乗ってね。好きでしょ? ロボットと怪物の戦争」

「お断りです」

 

 軽口を叩いて、紗月さんは帰宅した。

 私はベットに座り込み、ぼーっとしていた。すると電話がかかってくる。

 紗月さんの忘れ物だろうか?

 

「って、紫陽花さん!? もしもし甘織です!」

『あ、れなちゃん? ごめんね、いきなり電話しちゃって』

「大丈夫だよ、どうしたの?」

『少し声が聞きたくて』

「そっかそっか。なら雑談でもする? 話題は……旅行に行くならどこがいいか、とか」

『ふふ、それも良いね。ねぇ、れなちゃん。私はれなちゃんに感謝しているんだ。もしこれが、私がもう……ちゃんと伝えられなくなる最後の機会だったら、って思うと、胸がすごく苦しくて。でも、だからこそ、ちゃんと伝えたい』

 

 なんだ?

 

『今まで、ずっと……私の弱いところも、みっともないところも、全部、受け止めてくれてありがとう。そして厳しく指摘してくれてありがとう。私が優しくないとダメって自分を縛って、笑顔の裏で息が詰まりそうだったときも、貴方は決して優しいって言わなくて。ただ静かに労って、そして優しさを否定する言葉を言ってくれ。その一言で、私は初めて……優しくなくても、ここにいてもいいのかなって、思えた』

 

 なんだ、この、嫌な感じ。首筋がゾワゾワして、お腹が痛くなる。吐き気を感じさせたヒリついた不安な感じ。

 

 

『弟たちにイラついて、自分が最低だって泣きそうになった夜も、誰にも言えなくて、ひとりで抱え込んでた気持ちを、貴方にだけ、ぽつぽつ零したら……普通のことだと穏やかに笑ってくれた。あの瞬間、私、すごく……救われた』

 

 この気配。知っている。追い詰められた人間特有の身辺整理。

 

 『自分が、嫌な気持ちを抱いても初めて許せた気がした。れなちゃんがいてくれたから、私は少しだけ、本当の自分でいられた。少しだけ、息ができた。少しだけ、自分を嫌いにならずにいられた。……本当に、本当に、ありがとう。れなちゃんに出会えてよかった。こんなに優しく、こんなに深く、見てもらえたこと……私の人生で、一番の大切な宝物。もし私が、もうここにいられなくなっても……れなさんのこと、ずっと、ずっと忘れない』

 

 待て、待て、待て、許さないぞ、許さないぞそんなこと。

 

『だから、どうか……これからも、誰かのそばで、そうやって静かに、でも確かに、その人をそのままでいいって、思わせてあげてください。大好きでした。本当にありがとう。出会ってくれてありがとう』

 

 私は大声で叫ぶ。

 

「待って!!!!!!!! 電話を切らないで!!」

『さようなら』

 

 通話は切れた。

 私は即座に家から出て、瀬名紫陽花の家へ向かった。

関わりが見たいヒロイン

  • 王塚真唯
  • 瀬名紫陽花
  • 琴紗月
  • 小柳香穂
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。