光のれな子   作:あーばれすと

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 夜の学校は、静寂に支配されていた。

 校舎の裏手、階段の下の死角。非常灯の薄青い光がコンクリートの床に冷たく落ち、濡れた水溜まりが黒く光っている。

 

 紫陽花さんは壁に背を預け、服の裾を汚したまま座り込んでいた。手には包丁が握られ、刃先が彼女の首筋に軽く触れている。

 

 ベージュの長い髪が乱れ、額に張り付き、黄色い瞳は虚ろで、涙の跡が頰を伝っていた。

 

 息は浅く、時折震える吐息が白く夜気に溶ける。彼女の指は包丁の柄を強く握りしめ、関節が白くなるほど力を込めている。

 

 膝が小さく震え、服の裾が水溜まりに浸かり、冷たい水が肌に染み込んでいた。私はゆっくり近づき、足音を立てないように立った。

 

 私の桃色のボブヘアが夜風に揺れ、紫の瞳で、静かに彼女を見下ろす。

 

 

「もう……いいよね」

 

 紫陽花さんは一人で、小さな、掠れた声。誰もいない空間に、独り言のように零れる。

 

「私がいなくなれば、みんな少しは楽になるよね……。弟たちだって、私がいなくても……きっと大丈夫。私が我慢しなくなったら、みんな困るって言うけど……本当は、私がいなくても回るんだよ。ただ、みんなが困るって勘違いしていると思ってるだけなんだ……」

 

 

 彼女の手には、家の台所から持ち出した小さな包丁。刃先が、震える指の間で微かに光る。

 紫陽花さんはそれを、自分の手首にそっと近づけた。冷たい金属の感触が、皮膚に触れるだけで、胸の奥がずしりと重くなる。

 

 

「……紫陽花さん」

 

 甘織れな子——私——は、息を切らしながら立っていた。制服のスカートが少し乱れ、髪も夜風に煽られて乱れている。でも、目は真っ直ぐに紫陽花さんだけを見ていた。

 紫陽花さんの瞳が、大きく見開かれる。

 

「れ、れなちゃん……? どうして……ここに……」

「探したんだよ。頑張った。いや皮肉過ぎるでしょ、そこで死ぬなんて」

 

 紫陽花さんは顔を上げ、掠れた声で答えた。声は乾いて、ほとんど息のように弱い。

 

「違う……これは……ただの、冗談で……」

 

 嘘が、すぐに崩れる。紫陽花さんの声は震え、涙がぽろぽろと零れ落ちる。

 

「ごめん……れなちゃん……見ないで……私、汚いよ……こんなの、見せたくなかった……」

 

 私は一歩近づき、ゆっくりとしゃがみ込んだ。紫陽花の震える肩に、そっと手を置く。紫陽花さんは言う。

 

「みんなに伝えるなら、これしかない、って私は思ったの。それにここへ来れるれなちゃんは凄いよ。流石だね」

「親友だからね」

「親友なんだ。いつの間に」

「嫌?」

「嫌じゃない。大親友」

 

 私は更に一歩近づき、彼女の前にしゃがんだ。包丁の刃がわずかに光る。彼女の瞳が、私を捉える。

 

 そこには、虚無と、諦めと、深い深い疲れが渦巻いていた。

 

「紫陽花さん、死ぬつもりなんだ」

「うん。伝えなきゃいけない。みんなに。あの子は何も悪くないって。私が全部悪いって」

「死ぬことで伝えるの、それは無駄で無謀な無意味だよ。だからやめたほうが良い」

「うん、かもしれない」

 

 私は静かに息を吐き、彼女の目を見つめた。

 

 正しさに意味はなく。

 善悪に意味はなく。

 好き嫌いに意味はなく。

 妄想だけが暴走していた。

 

「ただ私は暴走しているだけって、理解している。怒っている。何かに怒っている。でも何に起こればよいかわからない。だから私に怒ることにした」

「そっか。怒ってるんだ」

「うん。ギャルっぽくいうなら、マジで怠くて空気読めてない」

 

 私は小さく笑った。彼女の声は、普段の優しい響きとは違い、荒々しく、毒を帯びていた。

 

 ギャル瀬名は、唇を歪め、包丁を軽く回しながら吐き捨てる。

 

「ちょー怠い。マジであり得ない。常識的に考えて頭おかしい。なんで本人の証言よりも雰囲気に流されて謎の祭りになるの。頭茹だってるんじゃねぇーの」

 

 私はくすくすと笑った。

 

「はは、それはテストに出てきたABCD包囲網のDにドイツって返答するくらい頭悪いよね。みんな愚か愚か」

「ちょーウケる。例えが長い上に分かり辛い。ふぶき」

 

 私の全力のボケに、彼女は吹雪を発動した。冷たい。凍った。こうかばつぐん。HPはゼロだ。悲しい。

 二人で同時に笑い出した。

 夜の学校に、乾いた笑い声が響く。

 包丁の刃が、笑いの振動でわずかに揺れる。笑いが収まり、私は静かに言った。

 

「死んだら駄目だよ。自分でしでかした事を放り出して、逃げるんだ」

 

 紫陽花さんの顔が苦痛に歪んだ。包丁を握る手が震える。彼女はゆっくりと首を振り、声が震えながらも、言葉を絞り出した。

 

「……死にたい。……ずっと、死にたいと思ってた」

 

 彼女の瞳が、私をまっすぐ捉える。そこには、深い深い闇が広がっていた。

 

「……みんなに優しくして、みんなを繋げて、みんなを笑顔にしたいって思ってた。でも、優しくすればするほど、みんなの期待が重くなって。私が悪い子になったら、みんなが失望すると思って、怒りを隠して、隠して、隠して……。でも、隠しきれなくなったら……こうなっちゃた。誰も傷つけるつもりはなかったのに」

 

 紫陽花さんは包丁を首に押し当て、刃が肌に食い込む。薄い血の線が浮かぶ。

 

「……私、生きてる意味がない。優しいだけの風見鶏で、みんなの期待に合わせて揺れてるだけ。……本当の私は、何もできない。弱いだけ。弱いだけ。……そんな私が、生きてていいわけない。全部、私が悪い」

 

 彼女の声が途切れ、嗚咽が漏れる。

 

「あの子が虐められてしまったのは、私せいなのに……みんなが私を庇うから、あの子が悪者になってる。……私が死ねば、みんなの『優しい紫陽花』は壊されて、人を傷つける痛みも、失敗したのは私だって、ちゃんと伝わる。……それで、みんなが正しくなる。それでちゃんとなるなら……それでいい」

 

 紫陽花さんの瞳が、虚ろに揺れる。涙が止まらず、頰を伝い、首筋の刃に落ちて赤く染まる。

 

「……私、疲れた。優しくするのも、みんなを繋げるのも、疲れた。いや、意味がなかった。あんな事を平然とするみんなに優しくする自分に戻れる自信がない。……死んだら、全部終わる。期待も、失望も、痛みも……全部、ゼロになる。未来を閉ざしたい」

 

 彼女は包丁を強く押し当て、息を詰まらせた。

 

「……れなちゃん……私、死にたい。……本当に、死にたいんだ。私は死で救われたい。でも、れなちゃん。れなちゃんとは話したい」

 

 私は静かに、彼女の目を見つめた。

 

「死にたいんだね」

「うん……」

「苦しいんだ」

「辛い」

「それなら、しょうがないね。わかった。紫陽花さんが死ぬなら、私も死ぬよ」

「……え?」

 

 紫陽花の顔が、凍りつく。黄色い瞳が、信じられないという色で私を捉える。

 

「一緒に天国に行こうか。紫陽花さんとは大親友だからね。一人ぼっちは寂しいだろうし。天国で語り明かそう。だから、もし紫陽花さんが死ぬって決めたなら……私も、すぐ後を追う。大丈夫。紫陽花さんは一人じゃない」

「は……? いや、いやいやいや!! それは違うよ!! れなちゃん!!」

 

  紫陽花さんは慌てて立ち上がり、よろめきながら私に近づく。両手で私の肩を掴み、必死に首を振る。

 

「だめだよ……! そんなの、絶対だめ!! れなちゃんは……れなちゃんは生きててほしいの! 私なんかより、ずっとずっと……大切なんだから!!」

「じゃあ、紫陽花さんも生きて」

 

 私は静かに、けれどはっきりと告げた。

 

「紫陽花さんが生きるなら、私も一緒に生きる。紫陽花さんが死んだら、私も死ぬ。どっちを選ぶ?」

 

 紫陽花の顔が、真っ青になる。驚愕が、恐怖に変わり、唇がわなわなと震える。

 

「そんな……卑怯だよ……! そんなの、卑怯すぎる……!」

 

「うん。卑怯だよ。甘織れな子は、卑怯者なんだ。だけど、紫陽花さんは、こんな卑怯な私を……嫌い?」

 

 紫陽花さんは、言葉を失う。ゆっくりと、膝から力が抜け、床に崩れ落ちた。両手で顔を覆い、嗚咽が漏れる。肩が、激しく震える。

 

「……敵わないな……れなちゃんには……」

 

 小さな、壊れそうな声。 私はそっと、紫陽花さんの背中に腕を回した。冷たい体温が、私の胸に伝わる。

 

「バトルは得意分野なんだ。ってことで、死ぬことはないよ……逃げよう、紫陽花さん。二人だけで、どこか遠くへ。旅行に行こう。駆け落ちって呼んでもいいよ。誰も知らない場所で、誰も何も言わない場所で……ただ、二人で、息ができる場所を探そう」

 

 紫陽花さんの嗚咽が、少しずつ小さくなる。

 彼女は顔を上げ、私を見た。涙でぐしゃぐしゃになった顔。でも、その瞳の奥に——かすかだが、確かに——光が戻り始めていた。

 

「……れなちゃんは……私を、置いて行かないんだね」

 

「置いてかない。紫陽花さんが、私を置いて行かない限り」

 

 紫陽花さんは、震える指で私の袖を掴んだ。冷たい指先が、でも、しっかりと力を込める。

 

「はーっ……救われた、かも」

 

小さな呟き。でも、その言葉には、今まで聞いたことのないような、柔らかな安堵が滲んでいた。

 

「私、ずっと……『いなくちゃいけない』って思ってた。みんなが笑ってるために、私が笑ってなきゃいけないって。私が我慢すれば、みんなが幸せだって。でも……疲れた。もう、優しい自分でいられないくらい、疲れた……」

 

 涙が、またぽろりと落ちる。でも、今度の涙は、違う。絶望の涙じゃなくて、やっと、誰かに本当の自分を見せられたような、

ほっとした涙だった。

 

「れなちゃんが……こんな私を、連れてってくれるなら……私、ちょっとだけ……生きてみてもいいかな……」

 

 私は頷き、紫陽花さんの手を強く握り返した。

 

「うん。一緒に、生きてみよう。二人で」

 

 紫陽花さんは、ゆっくり立ち上がった。まだ足元はふらついているけれど、私の手を離そうとはしなかった。

 非常灯の光の下で、二人の影が重なる。

 長く、けれど、しっかりと。

 

「……行こう、れなちゃん」

 

小さな、けれど確かな声。 私は微笑んで、彼女の手を引いた。

 

「うん。……行こう」

 

 私たちは、静かに学校を出て闇の中に、夜の波の音が聞こえる。

それは、まるで——新しい場所が、二人を待っているような、優しい音だった。

 紫陽花さんの希死念慮は、まだ完全に消えたわけではない。

 でも、今夜だけは。

 卑怯な私の、人質のような愛によって、深い闇の底から、ほんの少しだけ、引き上げられた。

 

 彼女の瞳に残る涙は、もうただの悲しみじゃなかった。そこには、救われた者の、かすかな——けれど確かに——希望の光が、灯り始めていた。

 

「あ、瀬名家の長女として、妹の紫陽花さんには罰を与えるから、恐怖しておいて」

「????????」

 

 私は瀬名紫陽花のお姉ちゃんになる!! 因みに同時に甘織家の長女でもある!!

 全力でお姉ちゃんを遂行する!!

 姉は妹の手本である。

 姉が道を誤ったのなら、妹はその道を避ければいい。

 姉が正道を歩んだのなら、妹は後をついてくればいい。 

 私には手本がない。何度も何度も間違える。それでも私の前を歩き続けなければならない。

 逆説的に、2家族の姉となった私は強くなるのだ。だから、妹達は私を指針としてできるだけ苦しまず、生きてほしい。

 妹達が歩く可能性のある道に、微かな灯火を残そう。

 

 

関わりが見たいヒロイン

  • 王塚真唯
  • 瀬名紫陽花
  • 琴紗月
  • 小柳香穂
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