光のれな子   作:あーばれすと

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 朝の陽光が、ラブホテルの裏通りを優しく照らしていた。夏の空気はまだ少し湿り気を帯び、遠くの蝉の声が途切れ途切れに聞こえる。

 

 紫陽花さんと私は、手を繋いでゆっくりと駅に向かって歩いていた。彼女の洋服は昨夜のままで少し皺になり、ベージュの髪が肩に乱れて落ちている。

 

 黄色い瞳はまだ赤く腫れていたが、昨夜の虚ろさは少し薄れ、代わりに疲れと安堵が混じった柔らかな光が宿っていた。首の痣に目を逸らして歩く途中、小さな銀行で立ち止まり、私はATMからお金を下ろした。

 

 紫陽花さんは隣で黙って見守り、私が財布に札をしまうのを見届けてから、かすかに微笑んだ。

 

「……れなお姉ちゃん、ありがとう。……私、何も持ってなくて……」

「いいよ。最低限のものは買おう。着替えと、歯ブラシと……あと、飲み物くらい」

 

 ショッピングモールでTシャツとズボン、下着、歯ブラシ、ペットボトルのお茶を買った。

 

 紫陽花さんは袋を両手に抱え、私の隣を歩く。足取りはまだ少し頼りないが、昨夜の絶望的な重さは感じられなかった。

 

 駅に着くと、ホームの端に紗月さんが立っていた。黒髪が風に揺れ、赤い瞳が私たちを捉える。制服姿のまま、背筋を伸ばして待っている。

 

「遅かったわね、甘織。そして瀬名。何かいいことあった様子だけど」

 

 私は足を止め、紫陽花さんの手を軽く握りしめた。

 

「どうしてここに?」

 

 紗月さんは視線を私から紫陽花さんに移し、静かに言った。

 

「……甘織、黙ってなさい。私は瀬名に話があってここに来たのよ」

「……」

 

 私は紫陽花さんの手を強く握った。彼女の指がわずかに震えるのを感じた。紫陽花さんの精神がまだ不安定なことを知っているからこそ、紗月さんの正論が今、彼女を傷つけるかもしれないと思った。

 

「紗月さん。それは後では駄目かな」

「駄目ね。今だから間に合う話なのだから」「間に合う?」

 

 紗月さんは私を無視し、紫陽花さんに目を向けた。赤い瞳が静かに、しかし鋭く彼女を捉える。

 

「瀬名。貴方は何を願って生きているの?」

 

 紫陽花さんは目を伏せ、唇を噛んだ。声が小さく震える。

 

「ん、んん? 質問の意図がわからないな。えっと……」

 

 紗月さんは容赦なく続けた。

 

「自分の周りの人間にどうあってほしいか、という話よ。あるいはどういう人間と交流するか、という話。自分の役割やキャラクターではなく、他人に求めるもの」

 

 紫陽花さんはまだ理解できていないようだった。黄色い瞳が揺れ、困惑が顔に広がる。私は理解した。

 紗月さんは、紫陽花が『他人に与えたい影響』と『他人に求めるリターン』を聞いているのだ。

 紗月さんはさらに言葉を重ねた。

 

「王塚真唯なら支配と隷属。私なら少数精鋭と向上。甘織は互助と仕組み。そして、瀬名。貴方は?」

 

 紫陽花さんは沈黙した。指先が私の手を強く握り返す。紗月さんは静かに、しかし確信を持って言った。

 

「優しくて気遣いできる自責型の女の子。それはそれで良いと思うから文句はないわ。肝心なのは、他人に何を求めるか、ということ」

 

 紫陽花さんの息が止まった。彼女はゆっくりと顔を上げ、紗月さんを見た。紗月さんは視線を逸らさず、言葉を落とした。

 

「もう一度聞くわ。瀬名。瀬名紫陽花。優しくて気遣いできる自責する女の子。貴方は他人に何を求めるの?」

 

 ホームの風が、二人の髪を軽く揺らす。遠くで電車の接近音が聞こえ始める。

 それだけ言って、紗月さんは去っていった。

 

 

 電車は夏の朝の陽光を浴びながら、郊外の田園風景をゆっくりと抜けていく。

 窓の外に広がる緑の田んぼが、水面に映る空と一緒に流れ、遠くの山々が青く霞んでいる。

 

 車内は空いていて、私と紫陽花さんは並んで座っていた。彼女は窓側、私の隣。上に羽織った薄手のカーディガンを膝に置き、膝の上で手を重ねている。

 ベージュの髪はまだ少し湿り、昨夜の涙の跡が頰に薄く残っていた。黄色い瞳は穏やかだが、どこか遠くを見ているようだった。

 

 電車の揺れに合わせて、彼女の肩が小さく上下し、時折指先がカーディガンの裾をいじる。

 

 窓ガラスに映る二人の姿は、朝の光に照らされ、静かに揺れている。

 紫陽花さんが、ぽつりと口を開いた。声は小さく、しかし確かだった。窓ガラスに映る自分の顔を見て、目を伏せながら。

 

「……紗月さんは、何を伝えたかったのかな。れなお姉ちゃんはわかる?」

 

 私は彼女の横顔を見た。桃色のボブヘアが電車の揺れに軽く揺れる。窓の外の風景が、彼女の瞳に映り込む。緑の田んぼが、朝陽に照らされて鮮やかだ。

 

「分かるよ。なるほどって思ったし」

 

 紫陽花さんは首を傾げ、私を見上げた。黄色い瞳が少しだけ輝きを取り戻す。彼女は膝の上で手を軽く叩き、かすかな明るさが声に戻る。

 

「そうなんだ。れなお姉ちゃんは凄いね。教えてもらえる?」

 

 私は少し悩むふりをして、窓の外に視線を移した。田んぼの緑が、朝陽に照らされてキラキラと反射している。

 電車の揺れが心地よく、車輪の音がリズムを刻む。

 

「うーん。悩む」

 

 紫陽花さんは小さく笑い、膝の上で手を軽く叩いた。声に、かすかな明るさが戻る。

 

「れなお姉ちゃんが嫌なら別に良いんだよ?」

「そういうんじゃない。……ようは『苦しい時は訴えろ』『辛い時は助けを求めろ』『自分が悪いで問題を片付けるな』『優しいキャラクターを理由に耐えるのではなく、自分から問題の解決に動け』ってことかな」

 

 紫陽花さんは首を傾げ、黄色い瞳をぱちくりさせた。少し考えて、眉を寄せる。

 

「なる、ほど?」

 

 彼女はまだいまいち理解できていないようだった。眉を寄せ、指先でカーディガンの裾をいじりながら呟く。

 

「分からない。私はちゃんと言わなきゃいけない事は言っているつもりだけど……」

 

 私は彼女の手をそっと握り、静かに続けた。指先が温かく、彼女の震えが伝わってくる。

 

「言わなきゃいけないこと、ではなく、言いたいことを伝えろ、なんだろうね。事実ではなく気持ちを周りに伝える、ってことだと思う」

 

 紫陽花さんは目を丸くした。瞳が少しずつ、私に向き直る。

 

「気持ちを、伝える……」

「これは大人として立ち振舞を求められた弊害かな。紫陽花さんの気性からして、周りを優先するし、弟さんを叱る役割が与えられたなら、ちゃんとやろうとするだろうし」

「うん、確かに。チビ達に悪いことは駄目って言うし、友達には嫌な想いをしないように頑張ってきた」

「そこ、だよ。良くも悪くも大人の立ち回りなんだよ、それは。人との距離感を測り、衝突しないように調整する。弟さん達にルールを破る存在にはペナルティを与えて、導く責任を背負った」

 

 紫陽花さんは小さく息を吐き、目を伏せた。窓の外の田んぼが、彼女の瞳に映る。緑が揺れ、朝陽が水面にキラキラと反射する。

 

「……国で言うならば、三権分立全てをやらされているようなものだよね。……そりゃあ精神は歪むだろう。あるいは極端な自罰自責をする性格になるのも当然の流れだ。何故ならば、責任が全て集中するキャラクターを押し付けられてきたのだから」

 

 私は頷き、彼女の手を強く握った。彼女の指が、私の手を握り返す。温かさが伝わる。

 

「悪魔と遊べば悪魔になる。演じ続ければ、それは本当になる。俳優さんや声優さんでもよく言うでしょ? 役に入り込んで性格が変わる。みたいな話。進撃の巨人のエレン・イェーガーを演じた後で飲み会行くと、少し怖い、みたいなエピソードとかあるし」

 

 紫陽花さんは小さく笑った。涙の跡が残る頰に、かすかな笑みが浮かぶ。彼女は窓の外を見ながら、ゆっくりと言った。

 

「……そうかもね。……私、ずっと『優しいお姉ちゃん』を演じてきて……本当の私が、何なのか……わからなくなっちゃった。弟たちに叱る時も、友達を繋げる時も、いつも『優しい紫陽花』でいなきゃって……。でも、本当は……疲れてる時もある。怒りたい時もある。弱いって言いたい時もある。でも、それを言ったら……みんなが困ると思って、黙っちゃう。みんなが笑顔でいてほしいって気持ちも本当なんだけどな」

 

 彼女は膝の上で手を強く握りしめ、涙がまたぽたりと落ちた。カーディガンの袖で目を押さえ、肩が小さく上下する。

 

「……れなお姉ちゃんみたいに、自分の気持ちをちゃんと整理して、誰かを傷つけないように動けたら……どんなに楽だろうって、思っちゃう。……でも、私には……そんな強さがない。……だから、れなお姉ちゃんが羨ましいんだ」

 

 私は彼女の肩に頭を寄せ、静かに言った。

 

「……怖いのは、みんな一緒だよ。……でも、紫陽花さんは、その怖さを抱えたまま、優しくいようとしてる。それが、すごいんだ」

 

 紫陽花さんは私の肩に頭を預け、小さく頷いた。涙が私のTシャツに染みる。

 

「……れなお姉ちゃん……ありがとう。……今は、まだ、信じられないけど……少しだけ、頑張ってみる」

 

 電車は静かに走り続け、二人の影を朝の光に溶かしていった。窓の外に、海が近づいてくる。波の音が、遠くから聞こえ始めていた。

 

 紫陽花さんの震えは、まだ止まらない。でも、その震えの中に、かすかな——しかし確かな——決意が芽生えていた。彼女は、自分の「願い」を、少しずつ、言葉にしようとしていた。

 

 電車のリズムに合わせて、彼女の呼吸が少しずつ落ち着いていく。窓ガラスに映る二人の姿は、朝の光に照らされ、ゆっくりと遠くの海に向かって進んでいた。彼女の手が、私の手を強く握り返す。

 

 温かさが、確かだった。

 

「……れなお姉ちゃん……これから、どうしようか」

 

 私は微笑み、彼女の手を握り返した。

 

「……まずは、海を見よう。波の音を聞いて、ぼーっとして……それから、少しずつ、考えよう」

 

 紫陽花さんは小さく頷き、窓の外に視線を移した。朝陽が海面に反射し、キラキラと輝く。

 

「……うん。……海、見たい」

 

 電車は、ゆっくりと、しかし確実に、海辺の町へと近づいていった。二人の旅は、まだ始まったばかりだった。

 紫陽花さんの瞳に、朝の光が優しく映り、彼女の心に、かすかな希望の光が灯り始めていた。

 

 

関わりが見たいヒロイン

  • 王塚真唯
  • 瀬名紫陽花
  • 琴紗月
  • 小柳香穂
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