私は家の中にある古びた掲示板の前で立ち止まった。
西日が差し込む廊下の片隅。画鋲の跡だらけのコルクボードには、何度も見たはずの紙が、少し端を丸めながらピンで留められている。けれど、今日の私には、それが少し違って見えた。
「リハビリプログラム表」
そこには曜日ごとに、たくさんの予定が整然と並んでいる。
『SST』『認知療法』『IMR』『健康教室』『茶話会』『語りの場』『リラクゼーション』『脳トレ』『ヨガ』『ものづくり活動』……。
一つひとつの文字を、私は心の中でなぞるように見つめた。
「……懐かしいな」
私は思わず、自嘲気味に、けれど愛おしそうに小さく笑ってしまう。あの頃の私は、この紙一枚を見るだけでも、心臓が口から飛び出しそうなほど怖かったのだ。
今日はどんなプログラムなんだろう? うまくついていけるかな。知らない人が隣に座ったら、私はどうすればいいんだろう。何か意見を求められたら、頭が真っ白になって、ちゃんとせなくなるかもしれない。
朝、玄関を出る前から、そんな不安ばかりが頭をぐるぐると駆け巡っていた。それでも、重い足を引きずるようにして、病院へ通っていた。ただ部屋に入り、椅子に座るだけで、一日の体力を使い果たしてしまうような日もあった。
プログラムの輪に入れず、ただ部屋の隅で、借りてきた猫のように小さくなって座っているだけの日もあった。
それでも、誰も私を責めなかった。
「怠けている」なんて、誰一人として怒らなかった。
「今日は、ここに足を運んで来られただけで十分ですよ。それだけで、今日の目標は花丸です」
張り詰めた私の心を見透かしたように、スタッフさんはそう言って優しく笑ってくれた。
あのとき、張り詰めていた糸がふっと切れて、涙がこぼれそうになったのを今でも鮮明に覚えている。
私は視線を少し下へ向ける。
『SST(ソーシャルスキルトレーニング)』
社会生活技能訓練。
人とどう話すか。
嫌なことを、角を立てずにどう断るか。
困ったときに、どうやって周りを頼るか。
普通の人なら自然と身につけているはずの「当たり前」のコミュニケーションを、私たちはここで、おままごとのように一つずつ練習した。
最初は、ロールプレイで声を出すことすら恥ずかしくてたまらなかった。何が正解なのか分からなくて、自分の番が来るたびに指先が冷たくなった。
でも。
私がどんなに的外れなことを言っても、誰も笑わなかった。言葉に詰まって、十秒以上も沈黙が流れても、誰も私を急かさなかった。
「焦らなくて大丈夫ですよ。一緒に、ちょうどいい伝え方を考えましょう」
そう言って、みんなが私の言葉を待ってくれた。
「……そうか」
私は小さく呟く。
「私はここで、生まれて初めて『理解される』ということを知ったんだ」
人は理解されると、張り詰めていた肩の力が抜けて安心する。安心すると、自分の言葉で話し始めることができる。話し始めると、自分でも気付かなかった心の奥底の気持ちが、少しずつ形になって見えてくる。
それは、心理学の本に書かれている小難しい理論じゃない。この場所で、私自身が身を以て体験した血の通った事実だった。だからこそ、今の私は、傷ついた誰かの話をじっと聞くことができる。
それは私が特別優しいからでも、特別な才能があるからでもない。あのとき、暗闇にいた私に誰かがしてくれたことを、今度は私が、目の前の人に返しているだけなのだ。
次に目に入ったのは、認知療法だった。
配られた白いワークシートを見つめながら、自分の歪んだ考え方を書き出していたあの日。
行き詰まる私に、当時の先生は穏やかな声でこう問いかけた。
「本当に、その考え方だけが真実でしょうか?」
ただ、それだけの一言だった。
私の極端な考えを否定するわけでもない。
「もっと前向きになりなさい」と説教するわけでもない。ただ、別の見方の余白を、机の横で一緒に探してくれるような、静かな問いかけ。
私は何度、その言葉に、息苦しい独りよがりの思考から救われただろう。世界は、白か黒かの二色だけでできているわけじゃない。
悪人だから悪いことをした。
善人だから正しいことをした。
人生は、そんなに簡単な二択のシーソーゲームではなかった。
怖かった人には、そうならざるを得なかった怖さの理由がある。
怒っている人には、その怒りの下に隠された傷つきや寂しさがある。
泣いている人には、言葉にできない悲しみの理由がある。理由を知れば、相手のしたことすべてを許せるわけじゃない。
でも、理由を知ろうともせず、ただ遠くから「あいつは悪い奴だ」と裁くよりは、ずっとその人の痛みに近づける。
私はそれを、このプログラムを通して、体温の通った知識として教わった。
『茶話会』
その文字を見た瞬間、当時の記憶が蘇って、私は思わず吹き出してしまった。
「ただお茶を飲んで、お菓子を食べて、他愛のない話をするだけなのに……あんなに緊張して、喉を通らなかったんだよね」
当時は、お茶を一杯飲むのすら、自分の作法が間違っていないかビクビクしていた。
でも、不思議だった。
たわいもない雑談の中で、
「今日は少し、風が冷たいですね」
「最近、夜はぐっすり眠れていますか?」
「お勧めの本とか、何かあります?」
「あ、そのハンカチ、すごく素敵な色ですね」
そんな、他人が聞けば何でもないような言葉を交わし合っているうちに、私のこわばった表情は少しずつ緩み、気付けば心から笑っていた。
人を理解する、人と繋がるということは、何も難しい哲学を語り合うことじゃない。
まずは、今日の天気を共有すること。
好きな飲み物を聞き合うこと。
目の前の人が困っていそうなら、「どうしました?」と声をかけること。
そういう、ささやかで、些細な日常の積み重ねこそが、人と人との間にある冷たい壁を溶かしていくのだ。
ふと、その隣にある『ものづくり活動』や『ヨガ』の文字も視界に入る。
言葉がうまくまとまらない日は、ただ無心で粘土をこねたり、色鉛筆を走らせたりした。呼吸を整えながら、自分の手足が今ここにある感覚を確かめた。
言葉に頼らない時間もまた、傷ついた私の心と体を、ゆっくりと現実に繋ぎ止めてくれていたのだと思う。
私は少しだけ目を閉じた。
まぶたの裏に、最近の自分の姿が浮かぶ。
最近の私は、どこか焦っていた。
「誰かを救わなければいけない」ということばかりを考えていた。苦しんでいる人の力になりたい、誰も孤独のまま見捨てたくない。
その想い自体に嘘はない。だけど、いつの間にか「救わなければ」という義務感や責任感が肥大化し、かつて自分が持っていた「ただ、その人を理解したい」という、純粋で、小さな、あたたかい初心の前に立ちはだかっていた気がする。
相手を救おうとするあまり、相手をコントロールしようとしていなかっただろうか。
私は深く息を吸い、肺いっぱいに冷たい空気を満たしてから、ゆっくりと吐き出した。プログラム表の最後には、小さく『振り返り』と書かれている。
そうだった。
毎日、一日の最後に私たちがやっていたことは、反省会ではなかった。
「今日は何ができた?」
「どんなことが少し難しかった?」
「じゃあ、次はどうしてみようか」
自分をダメだと責め立てる時間じゃない。
今日のがんばりを認め、明日へそっと一歩を繋げるための、温かい時間だった。
私は目を開け、静かに笑う。
「……ありがとう」
その言葉が、誰に向けたものなのか、自分でも判然としな い。あのとき、私の拙い一歩を笑わずに待ってくれたスタッフさんたちか。
同じ部屋で、不器用ながらも一緒に笑い合ってくれた利用者さんたちか。それとも、ボロボロになりながらも、諦めずにここまで歩いてきた、あの頃の私自身か。
きっと、そのすべてだ。
私はもう一度、プログラム表を見つめた。ここには、劇的な奇跡を起こすような、特別な魔法なんて一つも書かれていない。
どこにでもあるような、地味で、素朴なプログラムばかりだ。でも、その一つひとつが、傷ついた人間がもう一度、社会の中で「人と共に生きる」ための、愛おしい練習ステップだったのだ。
私はゆっくりと、愛着のある掲示板から一歩、足を踏み出した。
「私は、やっぱり人を理解したい」
すぐに都合の良い答えを出すためじゃない。
綺麗事で誰かを簡単に許すためでもない。
自分の正義を相手に押し付けて、自己満足に浸るためでもない。ただ、苦しみの中にいて、自分を見失いそうになっている誰かへ、そっと寄り添い、温かい手を伸ばせる人でいたいから。
あの冷たい冬の日に、私がこの場所で、そうしてもらったように。だから私は今日も、まず目の前の人を観察して、その声に耳を傾け、一緒に迷いながら考えていく。
それこそが、甘織れな子という不器用な人間が、泥の中から見つけ出した、一番最初の、そして一番大切な願いなのだから。
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